ログイン「もう二度と、自分の言葉と命を奪わせない——」 前世で顧客情報流出の罪を着せられ、悪意ある切り取りに追い詰められて命を絶った広報担当・橘日和。彼女が転生した水科凛花は、死の運命を持つ御曹司・天野透との婚約契約書を前に記憶を取り戻す。嘘と陰謀に満ちた名門家で、凛花は記録と証言を武器に真実へ迫る。傷を抱えた二人が、それでも生きる明日を選ぶ転生恋愛サスペンス。
もっと見る私はそれ以上彼を責めなかった。 カップを唇に近づけ、ゆっくりその錆びた鉄の匂いのする液体を口に含んだ。 舌の根を刺すような、強烈な苦味と薬品の味が、ハーブティーの甘さを突き破って広がる。 私は顔をしかめることなく、それをゴクリと喉へと飲み込んだ。 一口、また一口。 最後まで飲み干し、空になったカップをソーサーに戻す。 カチャリ、という音が、静寂の部屋に響いた。「……お下げいたします」 黒瀬は逃げるようにワゴンを手繰り寄せ、部屋を出て行った。 外側から鍵がかけられる音が聞こえる。 一人残された部屋。 五分もしないうちに、薬の効果が私の肉体を侵食し始めた。 指先から感覚が薄れ、まるで水の中に沈んでいくような、圧倒的な重さが全身にのしかかってくる。 視界の端が、ぼやけて白く濁り始めた。 クローゼットの壁に刻まれた、『10/25 あたまがしろい』という文字の意味を、私は今、自らの肉体で正確に理解していた。 思考の輪郭が、消しゴムでこすられたように曖昧になっていく。 自分が自分でなくなっていくという、本能的な恐怖。 怖い。 意識を手放せば、次に目覚めた時、私は本当に狂人のように喚き散らしているかもしれない。 私はソファから滑り落ちるように床に這いつくばり、カーディガンのポケットから革張りのメモ帳とボールペンを取り出した。 手が言うことを聞かない。 震える指先でページを開き、ペンを握る。 薬で濁っていく意識を、強引に、痛みを伴うほどの集中力で一点に集める。『日付不明 夜。黒瀬を通じて、吉見処方の薬を服用。錆びた鉄の匂い』 書き殴った文字は、ミミズが這ったようにひどく歪み、行をはみ出していた。『意識の混濁。千尋の証言通り。これが、二人目の花嫁を殺した手口』 視界がぐるぐると回り、胃の奥から強烈な吐き気がせり上がってくる。 けれど、私はペンを離さなかった。 過去の花嫁は、この部屋で、自分の意識が奪われていく絶望の中で
彼は私が否定した事実を無視し、バインダーに挟まれたカルテに、万年筆でスラスラと何かを書き込み始めた。 前世の会議室で、役員たちが私の言葉を切り捨てて「彼女が責任逃れをしている」と決めつけた時と、まったく同じ空気。 病名は、彼がこの部屋に入る前からすでに決定しているのだ。「心配はいりません。心を落ち着かせ、ゆっくり睡眠を取るためのお薬をお出ししておきます。……奥様も、あなたの回復を心から願っておいでですから」 吉見はそれだけを言い残し、診察らしい診察もせずに鞄を持って部屋を出て行った。 残されたのは、黒瀬と私だけ。「……」 黒瀬は一切表情を変えずに扉の前に立ち尽くしている。 彼の瞳の奥で、どれほどの葛藤と絶望が渦巻いているのか。私に逃げるように警告した彼が、結局は自らの手で私の部屋の鍵を閉め、主治医を呼び、過去の死者たちと同じレールの上に私を乗せる手伝いをしている。 午後七時。 無表情な見知らぬメイドが、夕食のワゴンを運んできた。 黒瀬がそれに同行している。 完璧な温度で提供された、彩り豊かなコース料理。 けれど、私の視線は、食後のハーブティーが注がれた、あの白い磁器のティーカップにだけ釘付けになっていた。 メイドが下がり、黒瀬が私の前のローテーブルに、そのカップを置いた。「吉見先生から処方された、お心を休めるためのお薬が入っております」 黒瀬の声は、ひどく掠れていた。「奥様からも、必ずすべてお飲みになるようにと、厳命されております」 最後の一文だけ、命令文のように硬かった。黒瀬自身に言い聞かせているようにも聞こえた。 湯気が、薄暗い部屋の空調の風に流されて、私の顔を撫でる。 カモミールの香りに混じって、鼻腔の奥をチリッと刺激する、異質な匂い。 錆びた鉄のような、苦い匂い。 ――お湯に溶かすと、少しだけ、錆びた鉄のような、苦い匂いがしました。 千尋の言葉が、脳裏に生々しく蘇る。 二人目の花嫁が飲まされ、夜中に廊下をうわ言を
透の「解雇」の通達に怯えていたはずの彼らが、今は壁際に張り付きながらも、私のことをチラチラと盗み見ている。 その視線には、明らかな「哀れみ」が混じっていた。 実家からも見放され、逃げ場を失って戻ってきた哀れな狂人。今の私はそういう役回りに押し込められようとしている。 私室の前に着く。 黒瀬が重いマホガニーの扉を開けた。 部屋の中は、私が出て行った時のままだった。いや、少し違う。 窓の分厚い遮光カーテンが半分ほど引かれ、部屋全体が薄暗く、ひどく閉塞感のある空間に作り変えられていた。「千尋さんは?」 私はいつも部屋で待機しているはずの専属侍女の姿がないことに気づき、黒瀬に問いかけた。 黒瀬の肩が、ほのかに強張る。「……千尋は体調不良のため、実家に休養に出しております」「休養?」「そのように伺っております。奥様からのご配慮でございます。本日から、凛花お嬢様のお身の回りのお世話は、別の者が担当いたします」 嘘だ。 昨夜、メイド長に呼び出された千尋が、体調不良で実家に帰るはずがない。 彼女は私に過去の死者の情報を漏らしたという理由で、屋敷の奥深く――美津子の手の届く場所で、厳しい「指導」という名の罰を受けているか、あるいはすでに解雇されて別の形で口封じをされている。 私の唯一の小さな味方が、排除されたのだ。「奥様は、凛花お嬢様が大変お疲れであるとご案じでございます」 黒瀬は私の目を避け、用意されたセリフを読み上げるように紡いだ。「しばらくの間、お部屋で安静になさるようにと。……お食事も、すべてこちらにお運びいたしますので、どうかお心の休まるまで、一歩も外へ出られませんよう」 安静。 丁寧な言い方をしているだけで、中身は監禁の宣告だった。 廊下へと繋がるマホガニーの扉が、ゆっくり閉ざされる。 カチャリ。 外側から、鍵のシリンダーが回る重い金属音が、部屋の中に反響した。 物理的な、ロック。 私は扉に駆け寄ってド
吹きすさぶ冬の風が、容赦なく私のコートをはためかせていた。 大通りの雑踏を抜け、なだらかな丘陵地帯へ続く私道へと足を踏み入れると、外界のノイズは少しずつ遠のき、代わりに冷たくなった静寂が足元から這い上がってきた。 コートのポケットには、引き裂かれた航空券の残骸。 そして内ポケットには、時限公開を起動させたスマートフォンと、事実の前後の流れをロックした革張りのメモ帳が、私の心臓の鼓動に合わせて静かに脈打っている。 四十八時間。 それが、私が私の名前でこの世界に存在できる、最後の猶予かもしれない。 やがて、黒く重厚なアイアンゲートが視界に現れた。 鉄格子の向こう側には、塵一つなく整備された白砂利のアプローチと、巨大な城塞のような天野本邸が、冬の空の下で威圧的にそびえ立っている。 門番の姿は見えない。だが、監視カメラの黒いレンズが私を捉えたのだろう。私が近づくと、門は微かなモーター音を響かせてゆっくり左右に開いた。 逃げ帰ったはずの小鳥が、自ら鳥籠に戻ってきた。 美津子はきっと、モニター越しにそれを見て、甘く冷たい嘲笑を浮かべているに違いない。 白砂利を踏む。 ジャリ、ジャリという乾燥した音が、無音の空間に不気味に響く。 巨大な玄関の車寄せに辿り着き、重厚な両開き扉の前に立つより早く、扉が内側から開かれた。 そこには、漆黒のスーツを着こなした執事、黒瀬が立っていた。 彼の色の薄い瞳が、私を捉える。 いつもなら一ミリの感情も表に出さないその顔に、ほんの一瞬、明確な驚愕と、深い絶望の色が走ったのを私は見た。「……なぜ」 黒瀬の口から、低く、かすれた声が漏れる。「なぜ、お戻りになられたのですか。凛花お嬢様」 彼は私が合意書にサインし、水科家へ向かうハイヤーに乗ったのを見送った。そして透から、私がそのまま海外へ飛ぶ手はずになっていることも聞いていたはずだ。 彼ら二人が、自分たちを犠牲にしてでも私をこの狂った家から逃がそうとしていたのに。私が自分から死地へ戻ってきたことが、彼には信じられなかったのだ
カチリ、と。 万年筆のキャップが閉まる硬い金属音が、耳の奥で反響を繰り返していた。 水科凛花(みずしな・りんか)としての呼吸を整えようと、ゆっくりと肺に空気を送り込む。 だが、冷たく管理された天野家の執務室の空気は、吸い込めば吸い込むほど、別の記憶の匂いを喉の奥へ引きずり出してきた。 古いコピー機が吐き出す排熱。 トナーの焦げた匂い。 そして、誰にも言葉が届かなくなった、あの会議室の後の、乾ききったオフィスの空気。 万年筆をデスクに置いても、指先の震えは止まらなかった。 頭に残った橘日和(たちばな・ひより)としての記憶が、終わりのない悪夢のように、再び生々しい輪郭を結び始め
正しい時系列を、前後関係を残そうとしただけなのに。 視線を泳がせ、斜め向かいに座る紗耶を見た。 彼女なら、わかってくれる。 あのチャットのやり取りの全貌を、彼女は知っているはずだ。「紗耶……」 すがるような思いで、微かに声を絞り出す。 だが。 ゆっくりと顔を上げた紗耶の瞳には、同情も、申し訳なさもなかった。 あるのは、怯えた小動物のような震え。「私……知りません」 震える声が、会議室の静寂に落ちた。「日和さんが……橘さんが、勝手にやったことです。私は、ただ、確認をお願いしただけで……こんな隠蔽工作みたいなこと、知りませんでした」 頭の中が白くなる。 紗耶の目から、
◇ カチャ、ターン。 エンターキーを叩く、乾燥したプラスチックの音。 古いコピー機が吐き出す排熱と、トナーの焦げたような微かな匂い。 喉の奥には、紙コップの底で冷え切った、安物のインスタントコーヒーの酸味がこびりついている。 モニターの青白い光が、顔の輪郭を冷たく照らし出していた。 橘日和。二十九歳。 中堅企業の広報担当。それが、数年前まで自分に割り当てられていた名前と肩書きだった。 画面に並ぶのは、無数のタイムスタンプと、社内チャットのログ。 『限定公開前の顧客リスト、誤送信されてるっぽいんですけど』 『え、マジ?』 『やばい、すぐ上に上げないと』
鼻の奥に、かすかなインクの匂いが残っていた。 手の中の金属製の万年筆は冷たく、指先に重い。 視線の先には、クリーム色をした分厚い上質紙。 その最上部に、逃げ場を塞ぐような活字が印字されている。 『婚約契約書』 黒光りする無垢材のデスクは、よく磨かれていて、触れれば指先まで冷えそうだった。空調の微かな音だけが、広い部屋の静けさに沈んでいる。 息をすることさえ、この整いすぎた空間では場違いに思えた。 万年筆の軸を、無意識に指の腹で転がす。 握るたびに、手のひらの熱が少しずつ奪われていく。その重みは、これから背負うものの重さそのものだった。 署名欄の片側には、す