Share

第6話

Author: 霧乃吟
征司の表情にはっきりとした変化はない。ただ、澪を見る目だけが少し冷たくなった。

彰人も蓮も、一瞬言葉を失った。

今の澪の言い方は、さすがにきつすぎるのではないか。征司の気を引くために、今度は強く出ることにしたのか。

しかも、公開で謝るって。

それでは謝罪どころか、わざと紗耶を貶めるつもりとしか思えない。

紗耶は顔をこわばらせ、まるで自分こそが傷つけられた被害者であるかのように唇を歪めた。

「澪さん、もう気は済んだ?」

紗耶のその言い方に、澪はむしろ感心した。

よくもそんな顔で、自分が被害者だと言わんばかりに振る舞えるものだ。

一度そう思い込んだ相手に対して、澪はもう説明も弁解もする気になれなかった。

自分が悪くないことを証明するために、これ以上言葉を尽くす気にはなれない。

この結婚は、もう終わる。

今さら彼らに分かってもらおうとしても、余計に傷つくだけだ。

澪はそれ以上何も言わず、その場を離れようとした。

征司のそばを通り過ぎようとしたとき、冷めた視線が彼女を捉えた。

征司は逃がす気がないように澪を見据え、唇を歪めた。

「今度はそういう手か」

澪は一瞬、何を言われたのか分からなかった。

「何のこと?」

征司は目を伏せるようにして、薄く笑った。

「さっきまであれだけ強く出たのに、今度はどうして言い返さないんだ?」

澪はようやく、征司の言いたいことを理解した。

悔しさと怒りが、一気に込み上げてきて、目の奥が熱くなった。

自分がどんな感情を見せても、征司にはすべて計算に見えるのだろう。

取り乱しても、崩れ落ちそうになっても、絶望して身を引こうとしても、彼の目には全部、気を引くための手段にしか映らない。

怒りで胸が張り裂けそうても、結局は「演技」と呼ばれるだけだ。

この場には、紗耶をかばう人間ばかりで、自分の言葉に耳を傾ける者などいない。

ここで言い争ったところで、自分がさらに傷つくだけだ。

それに、征司はきっと、自分がまた駄々をこねているだけだと思っている。

何を言っても、どう振る舞っても、彼が自分の言葉をまともに受け止めることはない。

ならば、これ以上言葉を尽くす意味などない。

澪は少しずつ落ち着きを取り戻した。争う気力も失せ、彼に合わせるように小さくうなずいた。

「分かった。じゃあ、どうぞお幸せに。これでいいの?」

澪はもう征司を見ようともせず、そのまま背を向けて歩き出した。

三か月。

あと三か月だけ耐えれば、この息苦しい結婚は完全に終わる。

征司はほんの数秒だけ澪の後ろ姿を見送ったが、すぐに興味を失ったように視線を外した。

征司は、澪の怒りを受け止めるつもりなどない。

何も言わず、何も応えず、しばらく相手にしない。そうすれば、いつものように澪のほうが折れると、彼は考えた。

七年の間、二人はずっとそうやってきたのだ。

それが、二人の暗黙のやり方だ。

――

澪は、さっきの出来事を伊織には話さなかった。

話せば伊織が黙っていないだろう。下手をすれば、本当に森宮家の人間に食ってかかるかもしれない。

澪は結局、ほとんど食事に手をつけられないまま伊織と別れ、その足でマンションへ戻って荷物の整理を続けた。

ひと通り片づけ終える頃には、もう九時近くになっていた。

そこで、恩師から預かった本を持ってきていないことに気づいた。

澪は髪をかき上げて、小さく息を吐いた。

たしか、あの本は征司と暮らしていた家の寝室の金庫にしまったままだ。

澪はすぐに上着を羽織り、車であの家へ向かった。

征司はもともと、めったに家へ帰らない。だから会うことはないはずだ。

澪は二階へ上がり、いつものように寝室の扉を開けた。

すると、そこにいるはずのない征司が見えた。

大きな窓の前に立っている征司の手にあるスマホには、ビデオ通話の画面が映っている。

その相手は、紗耶だった。

夜になってもこうして顔を見ながら話しているらしい。まるで、付き合い始めたばかりの恋人同士のようだ。

征司は眉をひそめて澪を見た。

突然入ってきた彼女に向ける声は、冷たかった。

「ちゃんとノックしろよ」

澪は一瞬、言葉を失った。

妻として七年暮らしてきた寝室に入っただけなのに、今の征司にとっては、それさえ紗耶との時間を邪魔する行為らしい。

「出ていけ」

征司が冷たく言い放った。

まるで澪がわざと二人の会話を盗み聞きしに来たかのような言い方だ。

澪は胸の奥が冷たくなるのを感じた。

それ以上何も言わず、部屋の外へ退いて扉を閉めた。

夫が不倫相手とどれほど親しげに話しているのか、わざわざ聞いて自分を傷つける必要はない。

階下へ下りると、物音を聞きつけた家政婦の房江(ふさえ)が出てきた。澪の姿を見るなり、すぐに声をかけた。

「澪様、先ほど大奥様からお電話がありました」

澪は少し迷ってから、受話器を取った。

房江は、澪が夫に大切にされていないことを知っていて、それでも本邸の大奥様が澪をかわいがっていることも分かっている。

だから余計なことは聞かず、そのまま二階へ行った。

「澪?」

受話器の向こうから、穏やかな森宮美佐子(もりみや みさこ)の声が聞こえた。

澪は壁の時計に目をやった。

早く本を取って帰りたいが、美佐子からの電話を無視するわけにもいかない。

「おばあ様、まだお休みではなかったんですね」

美佐子は甘えるような口調で言った。

「私だってまだまだ元気よ。あなたがいつも持ってきてくれるお薬のおかげで、少しくらい夜更かししても平気」

澪が黙っていると、美佐子は穏やかな声のまま本題に入った。

「澪は医学に詳しいでしょう。自分の体のことも、もう少し大事にしなさい。今からきちんと体を整えておけば、赤ちゃんのことも考えやすくなるでしょう。

知っているでしょう、森宮家は男ばかり。かわいいひ孫娘がいたら、どんなにうれしいかしら。子どもがいれば夫婦仲も深まるものよ。征司も、本当は子どもが好きなの」

子どもの話は、この数年ずっと途切れたことがない。

玲衣の存在について、澪はこれまで一言も漏らしていない。

離婚を決めた今、なおさら話せるはずがない。

それに、たとえ離婚しなかったとしても、澪だけが体を整えてもどうにもならないだろう。

征司は夫婦の営みに関心の薄い男で、自分ひとりがどう努力したところで、どうにもならない。

それに、征司は昔、自分に子どもはできないと言っていたから、美佐子はその噂を知らないはずもない。

それでも、澪には体を整えろと言っている。

澪は、胸の奥が冷えていくのを感じた。

子どもができないことも、夫婦がうまくいかないことも、いつの間にか女の責任にされる。

努力して、我慢して、それでも足りなければ、さらに自分を責められる。

あまりにも理不尽だ。

澪はこの話題から逃げたくなった。

彼女は指先をぎゅっと握って、隠さずに告げた。

「おばあ様。私、征司と離婚するつもりです」

電話の向こうが急に静まり返った。

きっとひどく驚いているだろう。

しばらくして、美佐子はようやく冷たい声で言った。

「あなたがつらい思いをしてきたことは、分かっているつもりよ。征司は、昔から人の愛し方を知らない子なの。でも、少なくとも夫婦としての礼儀を守ってきたでしょう。澪、もう一度だけ考え直せないかしら」

「考え直すつもりはありません。もう決めました」

美佐子はしばらく黙り込んだ。

やがて深いため息をつくと、静かに言った。

「澪、森宮家はあなたにずいぶんつらい思いをさせてしまったわね。安心しなさい。離婚することになっても、あなたをそのまま放り出したりはしない。あなたに合うよい相手を、私が責任を持って探すわ」

澪は言葉に詰まった。

美佐子がそう言うとは思っていなかった。

まだ離婚もしていないのに、もう次の相手を探して補償しようとしているのか。

いくら何でも、気が早すぎる。

けれど、美佐子の言葉を聞いて、澪の胸は少し冷えた。

澪と征司の結婚がどれほど形だけのものなのか、皆分かっている。

皆、澪がどれほどつらい思いをしてきたか分かっている。

それでも、澪なら最後には折れると思っている。

だから、澪がどれほど傷ついても、見ないふりをしてきたのだろう。

けれど、もう違う。

もう終わりにする。

通話を切ると、澪は時間を確認した。

あれから十分ほど時間が経った。まだ夫である征司は、恋人との甘い時間を十分楽しんだだろうか。

澪はただ本を取って、早くここを出たいだけなのだ。

これ以上待っていられないと思い、二階へ上がろうとしたそのとき、玄関の扉が乱暴に開いた。

征司の叔母にあたる森宮千佳子(もりみや ちかこ)が大股で入ってきて、ひどく険しい顔で澪の前まで来ると、いきなり手を振り上げた。

千佳子の手が振り下ろされる直前、澪は反射的に半歩身を引いた。

そのおかげで直撃は避けられたものの、指先が頬をかすめた。

「パンッ」と乾いた音が響いて、澪の頬はじんと痺れた。

千佳子は澪を指さし、怒鳴りつけた。

「澪、嫉妬で頭がおかしくなったの?自分がうまくいかないからって、周りまで巻き込んで、恨みがましく騒ぎ立てて。そんなことをして何になるの」

不意に打たれた澪は、状況を飲み込めず、千佳子と言い争う余裕もなかった。

そのとき、階段のほうから足音がした。

振り返ると、征司がそこに立っていた。

いつの間に下りてきたのか、手にしたスマホの画面はまだ明るいままだ。

澪は、征司のスマホ画面に映る紗耶と目が合った。

頬を打たれたばかりの澪を見て、紗耶はほんの一瞬、笑った。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します   第100話

    澪は知之に目を向け、すぐにその意図を察した。澪が皆に問い詰められず、征司の正体を自ら口にして彼の怒りを買うこともないよう、知之は皆の質問をあえて征司本人へ向けたのだ。とはいえ、征司がどう答えるかまでは分からない。「そんなことまで、俺が気にする必要がありますか」男の冷淡な声には何の起伏もなく、その場にいる人々には、それぞれ異なる意味に受け取られた。K大の人々は顔を見合わせ、すぐに納得したようにうなずいた。「そりゃそうですね。森宮社長ほどの立場の方が、自分と関係のない人のことまで気にしているはずがないでしょう」しかし、澪には分かっている。征司は、澪との関係を認める気がないことをはっきり示した。そのうえで、澪が紗耶との関係を明かす前に、話の流れそのものを断ち切ったのだ。それに、征司自身が澪の夫なのだから、答える必要などないという意味もある。彼はいつだって抜かりなく言葉を選ぶ。征司がこの手の話に興味を示さないと察した人々は、それ以上踏み込まず、気まずさを繕うように話題を切り替えた。知之は痛ましげにそっと澪に視線を送った。ここまで惨めな裏切られ方をする妻も、そうはいないだろう。澪は思わず自嘲した。今になってようやく、征司がなぜ家族との年越しに自分を誘い、なぜ大金を出してこれほど大勢の人をここまで呼び寄せたのか、すべて分かった。彼はただ、紗耶と一緒に年越しをしたいのだ。片時も離れたくないからこそ、まずは澪を連れてこようとした。澪を盾にしておけば、美佐子も征司を責め立てられない。その陰で、紗耶とは人目を忍んで甘い時間を過ごすつもりなのだろう。結局、また征司に利用されたのだ。澪はうつむき、自分の手のひらを見つめた。そこには爪が深く食い込み、血がにじみそうなほど赤い痕が残っている。ここまで都合よく使える、離婚間近の妻も珍しいだろう。そう思うと、澪は自嘲するしかない。紗耶は知之へ向き直って話題を変えた。「榊社長。WAKANナビを開発されたフェイに、ぜひ一度お会いして、じっくりお話を伺いたいのです。ご紹介いただけませんか?」その名が出た途端、何人もの目が輝いた。「私も指導教員のもとで、WAKANナビのデータベースを研究したことがあるんです。内容があまりに充実していて、驚きました。フェイはどこまで携

  • 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します   第99話

    K大の人々は紗耶の姿を認めると、顔を輝かせて声をかけた。「紗耶先輩、全然大丈夫ですよ。今回のことだって、森宮社長が支援してくださったんですから」「そうですよ。先輩のおかげで、私たちがあんなに手厚い手当をいただけるんですから」「もう、森宮社長の奥様みたいなものですものね」征司は彼らにとって、資金を出してくれる後ろ盾そのものだ。ならば紗耶を「社長の奥様」と呼んでもおかしくないだろう。紗耶は口元に手を添えて笑った。目の奥に浮かんだ喜びは隠しようもない。「皆さん、そんな。水臭いこと言わないで」澪は椅子の背にもたれ、見ず知らずの他人のような顔で、皆に称賛されるこの不倫劇を眺めていた。何気なく目をやった先には、紗耶のそばで、彼女のためならどこまでも尽くし、あらゆることから守ろうとする征司がいる。彼の口元には微かな笑みが浮かんでおり、「奥様」という呼び名を否定する気配もない。一人の女を大切にする男は、あれほどまでに目を引くのだ。征司の妻として七年もそばにいながら、自分は透明人間も同然だというのに。生理痛で腹部がえぐられるように痛み、その痛みが全身の神経へとビリビリ伝わっていく。その痛みのせいで、彼女の頭はますます冴え渡った。澪は目を伏せ、瞳の奥の皮肉を隠した。「皆さん、今何のお話ですか?ずいぶん楽しそうですね」紗耶は澪に目も向けず、征司と並んで向かいの席に腰を下ろした。その一言で話題はまた澪へ戻った。K大の数人が笑いを浮かべて、意味ありげに言った。「ご存じないんでしょうけど。澪さんは昨夜、素敵な出会いがあったそうで、でもその相手がご主人らしいんです。今、どんな方なのか聞いていたところです」「そうそう。せっかくですからぜひ紹介していただきたいって。一緒に食事でもすれば、もっと賑やかになるじゃないですか」その言葉が落ちた瞬間、澪は向かいに座る男からの感情の読めない視線をはっきりと感じ取った。しかし、彼女はそちらを見なかった。自分から言いふらしたわけではない。自分が電話に出た時に、彼が勝手に人を間違えてイチャイチャしてきたのが原因なのだから。紗耶の笑みが少しずつ消え、その瞳に一瞬、怒りがにじんだ。澪が昨夜のことをあちこちで吹聴して回るとは予想していなかった。今、自分と征司こそが誰の目

  • 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します   第98話

    征司がなぜ自分と同じベッドで眠れるのか――そんなことを考える余裕もなかった。ただただ頭に浮かんだ光景があまりにもおぞましく、澪は寝返りを打つなりゴミ箱へ向かって二、三回えずいた。征司と紗耶が何度も体を重ねてきたのだと思うだけで、澪は込み上げる吐き気を抑えきれない。バスルームを出てきた征司は、澪の姿を見て足を止めた。黒い瞳には何の感情も浮かばず、やがて視線を澪の腹部へ落とした。「妊娠でもしたのか」澪はまだ頬を火照らせたまま身を起こし、「違う」と答えた。まさか、あの二人が体を重ねる場面を思い浮かべて吐き気がした、などと言えるはずもない。征司は何も言わずに目を伏せ、袖口のエメラルドのカフスを留めながら言った。「検査の予約を入れとく」澪は返す言葉に詰まった。離婚の話をする前までは、二人だって夫婦としてベッドを共にしていたから、征司が疑うのも無理はない。「私も医者なんだから、心配はいらない」澪は征司の目をまっすぐ見て、安心させるように微笑んだ。「私たちに子どもができることはないから」だから、そんなことで征司が心配する必要はない。もちろん、彼が子どもを望んでいるのだなどとは思わなかった。征司が気にしているのは、澪に子どもができれば紗耶との仲にひびが入るかもしれない、そのことだけだ。澪がバスルームに入ると、征司はしばらく閉じた扉を見つめており、やがてコートを手に取ると、そのまま部屋を出ていった。眠り薬でも飲まされたのではないかと疑うほど、澪は夢ひとつ見ずに十時間以上も眠り込んでいた。ホテルには会議用の部屋が用意されている。澪は慌てて階下へ降り、会議室の扉を開けた。すでに集まっている数十人の視線が一斉に澪へ向いた。その視線には、好奇心とからかいが入り混じっている。知之までが意味ありげに目配せしてきたため、澪ははっとして芹奈のほうを見た。芹奈は好奇心を隠そうともせず、澪をじっと見つめている。「澪さん……会議まであと十分ありますが、その前に、少しだけ教えてください」「今朝の電話で、澪さんのことをベイビーって呼んでいたあの男、誰なんですか?」会議室にいる全員が、興味津々といった顔で澪を見た。昨日は皆一緒に到着したのに、澪は誰も連れていなかった。なのに翌朝には、誰かと同じベッドで一夜を過ごし

  • 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します   第97話

    征司は革張りのソファに腰を下ろし、絨毯の上に置かれた澪のスーツケースへ目をやった。「お前は何のために来たんだ」「研究センターの出張で」澪は唇をきゅっと結んだ。征司は目を上げ、うっすらと笑った。「仕事で来たんだろ。俺が仕組んだって、何を?」「……」澪は言葉に詰まった。澪は征司とほとんど言い争ったことがない。それでも、彼が本気で口を開くと厄介なことは知っている。必要なときほど、相手が返す言葉を失うようなことを平然と言ってのける男だ。そもそも、なぜ征司が自分を森宮家の人たちとともにここで新年を過ごさせることにこだわったのか、その意図すら分からない。二人はそもそも、いつも一緒にいなければならないほど仲が良かったわけでもないだろう。芝居にしても、やりすぎだ。「それで、どこ寝るの?」澪はここ数日、体調がよくなかった。生理痛のせいで、征司と言い合う気力もなく、思わずそう聞いてしまった。征司は手元のスマートフォンに目を落としてメッセージを返信している。口元にはかすかな笑みが浮かんでいる。ふっと力の抜けた眼差しを再び澪に向けると、ずいぶん余裕のある顔で言った。「どこで寝ると思う?」その問いは軽い調子で、どこか嘲るような響きを含んでいる。彼がスマホの向こうの相手と楽しげにやり取りしていることに、澪は嫌でも気づかされた。表向きの平静を装うことさえ、もう限界だった。とはいえ、彼女はどうしようもない。森宮家の人たちもおそらくもう来ている。それに、離婚のことを隠すと美佐子に約束しているから、逃げ場はどこにもない。「好きにすれば」澪はもう揉める気力もなかった。征司が今回の費用を全額負担した時点で、自分の逃げ道がすべて塞がれていたのは明らかなのだ。破格の手当が支給されるとなれば、皆が年末年始の出張を喜んで引き受けた。そうなれば、彼女が断れるはずもない。そしてひとたび森宮家の人々の目に触れる場所に身を置けば、自分の意志だけで勝手な振る舞いをすることは許されない。澪はスーツケースを引いて空いている寝室へ入り、寝間着を取り出すと、そのまま浴室へ向かった。すでに夜も更けている。明日は朝からチームの会議が控えており、早く休まなければならない。髪を半分ほど乾かしたところで、澪は眠気に耐えられ

  • 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します   第96話

    紗耶が澪を相手にしなかったからまだいい。もし紗耶が本気で騒いでいたら、彼女のネット上での影響力を考えれば、澪は世間から叩かれ、社会的に抹殺されるかもしれない。聡祐はたしかに澪に一目惚れしたことがあったのかもしれない。しかし、今は違う。もう、あの女に惑わされることはない。―澪はアカリ製薬に戻ると、研究室にこもって薬理分析に没頭した。余計な雑念を、すべて頭から締め出すために。K大との共同研究はすでに動き出しており、澪はチーム全体の方針を取りまとめる立場にある。創薬のプロセスからスケジュールの進行、開発におけるリスク管理、さらには臨床試験や申請手続きの調整に至るまで、すべてを把握しなければならない。それは彼女を忙殺するに十分な業務量で、征司に心を乱される暇などない。澪が森宮家と一緒に年越しすることを断ってから、征司から連絡は一度もなかった。それでも澪の心には、あの翡翠の帯留を取り戻したいという思いがずっとわだかまっている。年の瀬が迫り、多くの企業は少しずつ休みに入り始めている。澪は本来、隆一の家で年を越すつもりだったが、そこへ突然知之がやってきて声をかけてきた。「年末年始の出張、大丈夫か」澪は少し迷った。「何の出張?」「国内でも有数の生薬研究センターで、数日後に希少な生薬の競売がある。K大との共同研究に使いたい原料もいくつか出るらしい。品質もかなり期待できるから、現地で確認しておきたい」ちょうど大晦日から正月にかけての時期と重なった。澪は少し考えた。「私は構わないけど、ほかの人は大丈夫なの?」知之は皮肉っぽく口元を歪めた。「嫌がるわけないだろ?スポンサー様が本気を出したんだよ。飛行機もホテルも食事も、費用は全部征司持ち。そのうえ一人二百万円の特別手当まで出る。みんな二つ返事だったよ」澪はすぐに理解した。紗耶がK大で関わる最初のプロジェクトを、何としても滞りなく進めたいのだろう。本当に、紗耶のためなら惜しみなく動く男だ。澪は肩をすくめた。「それなら、こちらの開発予算が浮くから助かるわね」「ずいぶんと割り切っているんだね」知之はため息を漏らした。澪は冗談めかして言った。「割り切れなかったら、今ごろ森宮グループ本社の屋上から飛んでるわ。ついでに株価も落としてやるところ

  • 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します   第95話

    美術館には人々が行き交い、賑わっている。征司は帯留を買い取ると、そのまま下へ降りていった。澪は何も考えずに彼を追いかけた。「征司、待って」澪はヒールの音を響かせながら足早に追ったが、それでも征司の歩調にはなかなか追いつけなかった。征司は出口のところで足を止めて振り返った。すでに彼の前には車が停まっており、健太が降りてきてドアを開けた。紗耶の姿が見当たらないのを確認すると、澪はなりふり構っていられなくなり、彼の深みのある瞳をじっと見つめて言った。「あの帯留は朝比奈家のものよ。おばあちゃんの嫁入り道具だった」「そうか。それで?」征司の声には何の揺らぎもない。澪の祖母の嫁入り道具を紗耶に渡すことに、彼は何の問題も感じていない。そのあまりにも当然のような態度が澪の胸を深く刺した。彼女は感情のままに言い返したくなるが、征司の冷たい目を見た瞬間、そんなことをしても無駄だと分かった。「ほかのものなら何でもいい。紗耶のためにどれだけ高価なものを贈ろうと、私には関係ない。でも、朝比奈家のものだけは無理なの」澪は深く息を吸い、少しでも声を落ち着かせようとした。「征司、今まであなたに何かを頼んだことなんてないでしょ。今回だけは……」征司に強く出ても意味がない。自分を愛していない男の前で泣こうが脅そうが、望みが通るはずもない。征司もまた、澪がこれほどまでに必死な姿を見せるのは滅多にないことだ。彼女の手は体の横に下りている。彼女の体の脇に垂らされた手は、無意識のうちに自分の指の腹に爪を食い込ませ、そこだけ血の気が引いたように白くなっている。あれは彼女が緊張した時や、感情が激しく揺れ動く時に出る癖だ。征司は澪の表情を見つめたまま、ゆっくりと言った。「それは紗耶が決めることだ。もう贈ったものだからな」澪は一瞬で全身の力が抜けていくのを感じ、喉の奥から体の芯まで一気に冷えていくような感覚に襲われた。つまり、紗耶に頭を下げろということか。我が家のものを取り戻すために、紗耶の気まぐれにすがれというのか。澪には、目の前の征司がひどく遠い人間のように見えた。昔は、二人でちゃんとやっていこうと話したこともあって、征司が気遣ってくれたことも確かにあった。いったい何が、彼をここまで変えてしまっ

  • 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します   第3話

    澪と征司の結婚生活は、最初からうまくいかなかった。征司はほとんど家に帰らなかった。夫婦の営みも、月に二度あれば多いほうで、普段の会話などなおさらない。結婚して一年が過ぎる頃、征司はA国の支社へ赴任することになった。森宮家の実権を少しずつ握るための重要な基盤となるものだそうだ。征司がA国へ出発する前の日の夜、接待で酔った彼は、初めてその晩だけ避妊しなかった。あの夜の征司は、まるで別人のようだった。彼はひどく酔っていて、相手が誰かも分からなかった。普段のように自分を律する余裕もない様子で、歯止めが利かないほど激しかった。征司が出国して二か月ほど経った頃、澪は自分が妊

  • 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します   第2話

    若い看護師ははっと口をつぐみ、気まずそうな顔をした。まさか澪が、夫の弱みをあんなに平然と口にするとは思わなかったのだ。けれど同時に、それは本当なのだろうとも思った。そうでなければ、結婚して七年も経つのに子供がいないなんて、どう考えてもおかしい。そのせいで、彼女の澪を見る目にはさらに同情が増した。澪は、本当の理由までは口にしなかった。征司は最初から澪との間に子供を持つつもりなどない。結婚した最初の夜、彼は氷のように冷めた声で、澪にこう告げた。「仕事が忙しい。子供のことまで考える余裕はないし、持つつもりもない。だから、期待するな。相談しようとしても無駄だ」あの頃

  • 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します   第1話

    結婚して七年。朝比奈澪(あさひな みお)は夫の森宮征司(もりみや せいじ)に知られずに、ひそかに娘を産み育ててきた。娘の穂積玲衣(ほづみ れい)は今年五歳になるが、征司はその存在さえ知らない。父親になる機会を、澪が最初から与えなかったからだ。夜勤の休憩に入ると、澪は隣のS県でひっそり育てている娘から届いたボイスメッセージを再生した。「ねえママ、私、なんでパパに会ったことないの?私のパパって、もう死んじゃったの?」まだ舌足らずな、甘えた声が流れてくる。澪は一瞬、本気で考えた。生きてはいる。でも、父親としては死んだも同然だった。最近、玲衣は少しずつ自分なりの考えを持つよ

  • 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します   第5話

    そばにいる征司の友人、佐伯蓮(さえき れん)も笑いながら口を挟んだ。「ほんとだ。何、その顔。ずいぶん機嫌悪そうじゃん」彰人は席に着くと、向かいに座る紗耶をちらりと見た。紗耶はいつも通り落ち着いていて、彼らとの距離の取り方も心得ている。振る舞いにも隙がなく、人としても申し分ない。それなのに、澪は陰であんなふうに彼女を悪く言っているのだ。「さっき下で誰を見たと思う?澪だ」それを聞いても、征司の表情は少しも変わらなかった。冷ややかに整った顔に感情はなく、テーブルに置いた指先で、気のないように軽く卓を叩いている。妻である澪のことなど、まるで興味がないようだ。紗耶は彰

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status