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第2話

Author: 白川 露
龍司が病院に姿を現した。

そしてそのすぐ後ろには波の姿があった。

龍司は車椅子に座ってはいるものの、長年身に沁みついた名家の人間特有の気品は、少しも損なわれていない。

車椅子を押しながら、亜麻色のロングドレスに身を包む波の姿は柔らかく、か弱く見えた。

そんな二人は誰が見ても、理想のカップルだった。

「龍司……」

龍司の祖母は、孫の姿を見た途端、堰を切ったように泣き崩れた。

「見なさい、あなたが娶った嫁がどんな女か!おじいさまが亡くなったのに、彼女は一滴の涙も流さないのよ。こんな情のない女」

「おばあちゃん、そんな言い方は……」

龍司が遮る。

「今はまず、おじいちゃんを安らかに見送ることが最優先でしょ。真帆も、わざとじゃないから。責めるなら……」

龍司は言葉を切り、呆然と立ち尽くす真帆に視線を向けた。

わずかに腫れた左の頬には、くっきりと五本の指紋の跡が残っていた。

その様子に、ほんの一瞬、気づかれないほどの痛みが彼の瞳を掠めたが、次の瞬間、彼はいつものように「自分が悪い」という顔で言った。

「……俺が商談中にスマホを見なかったせいだ。真帆からの電話も、メッセージも見逃してしまった。おばあちゃん、どうしても怒りが収まらないなら、俺を殴ってくれ。おじいちゃんに申し訳ないことをしたのは、俺だ……」

その姿はあまりに誠実で、「妻を守る夫」そのものだった。

だが真帆は思った。

もし彼が何年も脚のケガを偽るようなことをしなければ、自分はこんな屈辱を受けずに済んだのではないか。

すべての元凶でありながら、彼はまるで救世主のように振る舞っている。

龍司の祖母は真帆を責め立てる一方で、血の繋がった孫の龍司を責めることはできず、ただ泣き続けるばかりだった。

その背にそっと手を添えたのは、波だった。

涙を浮かべたその横顔は、いっそう人の心を打つ。

「おばあさま……龍司の言うとおりです。おじいさまはもう旅立たれたのですから、これから鷹宮家を支えるのは、あなただけです。もしおばあさままで倒れてしまったら、おじいさまも、安心できません……」

波は、鷹宮家の養女だった。

その養親が亡くなった後は、ずっと龍司の祖母のもとで育てられ、誰よりも可愛がられてきた。

六年前、波が留学のために海外へ行くと決まった夜、龍司の祖母が一晩中泣き明かした、という話もある。

龍司の祖母は慈しむように波を見つめ、次の瞬間、真帆へ鋭い視線を向けた。

「出ていきなさい!夫もご先祖さまも祟る疫病神め!さっさと鷹宮家から消えなさい!」

罵声は止まらなかった。

さすがに聞きかねたのか、龍司は車椅子を操作し、真帆をエレベーター前まで送った。

魂が抜けたような彼女の横顔を見て、彼の胸には言葉にできない感情が渦巻いた。

「……顔、まだ痛むか?見せて」

彼が手を伸ばした瞬間、真帆は反射的に身を引いた。

龍司は一瞬動きを止めたが、深く考えはしなかった。

ただ、祖父を亡くした悲しみと、理不尽な仕打ちに傷ついているのだろうと、都合よく解釈した。

「おばあちゃんも、あれは少し言い過ぎた。でも、今はまだ悲しみの中に暮れているんだ。だから……気にしないでくれ。

家に戻ったら、使用人に氷を用意してもらって顔を冷やすといい。おばあちゃんのことは……俺から改めて話しておく。心配するな」

「……龍司」

真帆は、かすれた声で呼び止め、視線を彼の膝元へ落とした。

「あなたの脚……」

「ん?俺の脚がどうした?」

彼も彼女の視線を追い、病棟に響く泣き声の中で、何かを察したように微笑んだ。

「大丈夫だ。無理はしていないし、これ以上悪くなることもない」

そう言って、彼は何も明かそうとしなかった。

真帆は、複雑で失望した目で彼を見つめ、ちょうど到着したエレベーターに足を踏み入れた。

扉が閉じるその瞬間、それは、彼と過ごした五年間との決別のようにも思えた。

病院を出た真帆は、タクシーで別荘へ戻った。

ドアを開けた瞬間、真正面から水が飛んできた。

思わず目を閉じた彼女の耳に、子どもの甲高い笑い声が響いた。

「ははは!悪者をやっつけたぞ!僕はヒーローだ!」

「奥さま!」

使用人の小林和恵(こばやし かずえ)が悲鳴を上げ、慌ててキッチンから駆け寄ってくる。

「大丈夫ですか?ほら、早く拭いてください!」

水を拭い、目を開けると、水鉄砲を構えた四、五歳ほどの男の子が立っていた。

見覚えがあった。

江口湊(えぐち みなと)、波の息子だ。

かつて真帆が、波の離婚裁判を担当していた頃、何度も顔を合わせていた。

その頃の彼は、人懐っこく「真帆お姉さん」と甘えるように自分を呼んでいた。

裁判が終わって、まだ一か月余りで、あのおとなしかった少年は、すっかり小悪魔に変わっていた。

真帆が問いただす前に、和恵が慌てて説明した。

「あの……旦那さまが……お葬式のことで手が回らないからと、しばらくこちらでお預かりするようにと……」

「ちがうもん!」湊が胸を張って言い放った。

「龍司パパが言ったんだ!僕が住みたいなら、ずっとここに住んでいいって!」

「ちょ、ちょっと坊ちゃん!」

和恵は顔色を変え、慌てて彼の口を塞ごうとしたが、力を入れるわけにもいかず、額に汗を浮かべていた。

「旦那様は、あなたのお母さまのいとこで……パパじゃなくて、おじさんと……」

湊は容赦なく和恵の手に噛みつき、大きな目で睨みつけた。

「ママが言ったんだ!龍司パパは、本当のいとこじゃないって!龍司パパが、そう呼べって言ったんだ!」

真帆は、その光景を静かに見つめていた。

説明しようとして言葉に詰まっている和恵の様子が、どこか滑稽にすら見えた。

もしあの一言がなければ、もし自分が龍司の偽りをこの目で見ていなければ、きっとまた信じていたのだろう。

だが今は違う。

長年、法曹の世界に身を置いてきた真帆は知っている。

嘘という幕が剥がれ落ちたとき、その下にあるのは、目を背けたくなるほど醜い真実。

彼女は話題を変えた。

「……もう苺にエサはあげた?」

和恵は一瞬きょとんとし、すぐに家で飼っているビション・フリーゼのことだと気づく。

「あ、はい。もうあげました。今はペットルームで遊んでいます」

真帆は軽く頷き、何も言わずに寝室へ向かった。

龍司の祖父の死は突然だったが、星嶺市屈指の名家である鷹宮家の葬儀が、簡素で済むはずもなかった。

一週間にわたり、本邸には弔問客が絶えなかった。

ただ一人、真帆だけが、本邸に足を踏み入れる資格もなかった。

龍司は「おばあちゃんの怒りがまだ収まっていないから」と言い、彼女が本邸へ行くことを止めた。

「葬儀の段取りはすべて彼と波が引き受けるから、真帆は家で湊の世話をしていればいい」と。

一見、彼女を気遣う言葉のようでいて、実際には彼女を鷹宮家から静かに排除していく行為だった。

思い返せば、これまでもそうだった。

鷹宮家の集まりには、龍司はいつも何かしら理由をつけ、真帆を欠席させてきた。

愚かだったのは、自分だ。

あの温和で知的な仮面に、これほど長い間騙され続けていたのだから。

それでも、もう構わない。

ただ一つだけ心残りがあるとすれば、生前優しくしてくれた龍司の祖父に、最後のお別れすらできなかったことだ。

葬儀が終わっても、龍司は戻ってこなかった。

だが家は決して静かではなく、一階では、毎日どたばたと騒がしい音が響き、湊は猿のように飛び回っていた。

頭が痛くなるほどだったが、真帆は干渉しなかった。

彼女には、もっと重要なことがあったのだ。

夕暮れ時、真帆は電話の着信音で目を覚ました。

龍司からだと思い、寝ぼけたまま電話を取ると、聞こえてきたのは北川知恵(きたがわちえ)の声だった。

「真帆、あなたが調べてほしいって言ってた波のことだけど、少し分かったわ」

知恵は大学時代の先輩で、現在は法律事務所のパートナーで、真帆は長年、彼女のもとで働いてきた。

「前から分かっていた情報に加えてね、彼女は当時、海外の学校に合格していたわけじゃないことが分かった。実際には鷹宮家当主がお金とコネを使って、留学という形にしたらしいの」

資料をめくる音が、受話器越しに響く。

「それに、出国前の記録が不自然なほど少ない。意図的に消されたみたい」

「彼女の元同級生の話では、在学中から素行が良くなかったらしいわ。龍司と関係があったなんて噂も……はっきりしたことは分からないけど、家の名誉のために海外へ飛ばされた可能性は高いわね」

少し間を置いて、知恵は続けて言った。

「真帆……あなた、もしかして、波と彼の関係を疑ってる?」

長年弁護士をやってきた彼女の直感は的確だった。

真帆は隠さなかった。

「……あなたは、どう思う?」

知恵は黙り込み、やがて、声を低くして言った。

「……それなら、これからどうするつもり?」

「私が一番得意なこと、忘れた?」

「あなたの得意分野なんて、それはもちろん、訴……」

そこで言葉を止め、知恵は息を呑んだ。

「……離婚、するつもり?」

真帆は答えなかったが、それが答えだった。

長年一緒に仕事をしてきた知恵でも、さすがに急だと感じたのか、慎重に言った。

「真帆……それ、六年も前の話でしょう?

決定的な証拠もないのに、感情で動くのは……」

「感情的になったんじゃない」

真帆の声は、驚くほど静かだった。

「知恵……龍司は、波の子どもに自分のことをパパと呼ばせてるの」

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