Share

第2話

Author: 青ノ序
綾が湊に初めてはっきりと要求を突きつけた。長い沈黙の後、暗闇の中から男の低い声が聞こえてきた。

「もう少し待ってくれ。足が治るまで」

綾の喉は渇き、夢うつつに呟いた。「こっちが動いても構わないわ」

もう5年も待った。これ以上、さらに5年も待てない。

湊は起き上がり、綾を後ろから抱きしめた。温かい吐息が首筋にかかる。

「綾、時間はまだある。俺たちの初めては、完璧なものにしたいんだ」

綾は力なく笑った。こうなることは分かっていた。

湊はずる賢い。その足の怪我は、自分にとって「免罪符」のようなものだった。

湊は、こう言えば自分は何もできないと分かっていた。

「海斗くんのことはどうするの?あの子をずっと隠し子にしておくつもり?」

綾は凪のことは好きではなかったが、子供に罪はない。

綾は8歳で両親を亡くし、親戚の家をたらい回しにされた半年間、冷たくあしらわれ、疎まれてきた。

その後、中野家の屋敷に引き取られ、和子に育てられたおかげで、何不自由ない生活を送ることができた。

それでも、両親に会いたいという気持ちは消えず、自分の家庭を持つことに憧れていた。

後ろから抱きしめていた腕が離れ、湊はゆっくりとベッドに横たわった。口は開かないままだ。

どろりとした闇が沼のように、二人を飲み込んでいく。

綾は身じろぎもせず言った。「湊、離婚しよう。そうすれば、あなたはちゃんとした家庭が手に入るわ」

湊でなければダメなわけではない。むしろ、心の奥底では、早く離れたいと叫んでいたのかもしれない。

湊のそばで完璧な妻を演じる自分は、結局、本当の自分ではなかった。

離婚しても、身内として和子への約束は果たし続けられる。

後ろから冷たい笑い声が聞こえ、部屋中に寒気が広がった。

「綾、お前ごときが俺の俺の人生をどうこうできると思うな。

覚えておけ。俺が欲しいのは、お前がいる家庭だけだ」

湊の口調は落ち着いていたが、綾は背筋が凍るのを感じた。

まるで暗闇の中から野獣が、独占欲むき出しの目で自分を所有物かのように見つめているみたいだった。

こんな湊は、知らない。

「湊!」

ドアの外から凪の焦った声が突然聞こえ、綾はびくりと体を震わせた。

凪の声を聞いて、嬉しいと思ったのは初めてだった。

「凪、どうした?」

湊の声はかすれていて、どこか甘く聞こえた。

凪は声を詰まらせながら言った。「なんでもないの。邪魔してごめんなさい」

ドアの外で足音が慌ただしく遠ざかっていく。湊は急いで車椅子に移った。

湊が廊下の反対側の部屋のドアを開けると、凪の腕の中で海斗が縮こまっていた。二人とも涙で顔を濡らしている。

「どうしたんだ?」

「海斗が悪夢を見て、ずっとパパって呼んでるの」

凪は顔をそむけ、湊を見ようとしなかった。

湊は凪の腕から海斗を抱き上げた。「海斗、おじさんが来たぞ」

「怪獣が追いかけてくるの。パパ助けてって叫んだけど、僕にはパパがいないんだ。うわーん……」

海斗は湊の服を掴み、悲しそうに泣いた。

「ごめんなさい。私、焦ってて、あなたが……その……」

凪は横を向き、湊をちらりと見た。その目には不満そうな色が浮かんでいた。

湊は思わず罪悪感を覚え、ふと口をついて囁いた。「凪、俺が触れた女は、お前だけだ」

凪の目に一瞬喜びが宿ったが、驚きの後には、悲しみだけが残った。

凪は顔を上げ、手で涙を拭うと、ふぅ、と息を吐いた。

その動きで、キャミソールの肩ひもがするりと肩から滑り落ちた。

「湊、私がこの家に来たのは、あなたたちを引き裂くためじゃないわ」

湊は視線を落とした。腕の中の海斗はすでに寝息を立てている。

「安心しろ。お前たち親子に辛い思いはさせない」

「信じてるわ」

凪が海斗を抱き上げようとかがむと、ゆったりとしたネグリジェから、こぼれそうな胸元が露わになった。

「戻って。綾を待たせちゃ悪いわ」

湊の視線は海斗の小さな寝顔に注がれたままだった。「ああ、何かあったら呼んでくれ」

ところが、海斗の手は湊の服をしっかりと掴んでおり、少しでも触れるとうんうんと唸りだす。

「起こすわ」

「いや、いい」

湊は凪を止め、海斗を抱いたままベッドに横になった。

「俺が隣で寝る」

凪は困ったように言った。「でも海斗は、私の匂いがないと落ち着いて眠れないの」

湊は淡々と言った。「お前もここにいればいい」

「綾が誤解したらどうするの?」

「綾は物分かりがいいからな。きっと理解してくれるさ」

そう言うと、湊は楽しそうに目を細めた。

物分かりがいい。

湊がなかなか戻ってこないので様子を見に行こうか迷っていた綾も、その言葉を思い出していた。

小さい頃から、「物分かりがいい」というのは綾に貼り付けられたレッテルだった。中野家で会う人誰もが、綾をそう評価した。

居候のみなしごが物分かりよく振る舞わなければ、それはただの「恩知らず」になってしまうことを、みんなは知らない。

「物分かりのいい」綾は、今夜もそのレッテルを剥がすことはできなかった。

綾はドアを閉め、自分の小さな世界に閉じこもることを選んだ。

一晩中、夢を見た。両親が手招きする夢。和子が約束を破ったとなじる夢。湊と凪の結婚式に出席する夢。そして、深い青色の瞳の夢も……

朝、目が覚めると、頭が重かった。色々なことを詰め込みすぎたみたいだ。

ダイニングには湊が一人いるだけだった。凪親子はまだ起きていないようだ。

綾は湊の向かいに座り、黙って朝食を食べた。

湊がぬるま湯を差し出す。「昨日の夜は……」

「仕事を探しに行くわ」

綾は昨夜のことに触れたくなくて、考えていたことを口にした。

綾は大学を卒業してすぐに湊と結婚したので、働いた経験がない。

実際、常に世話をする必要があるのは、湊が家にいる時だけだ。

平日の昼間は、綾自身の時間だった。

そして何より、綾は離婚を諦めたわけではなかった。

もし凪がうまくやれば、湊の方から離婚を切り出してくるかもしれない。

環境を変えれば道は開ける。離婚できるかどうかは別として、この家にいて凪と張り合うつもりはなかった。

湊は一瞬きょとんとしたが、すぐに低い声で反対した。「だめだ」

何か歪んだ心理からか、湊は潜在意識で綾が自分の目の届かないところへ行くのを拒んでいた。

綾は引き下がらなかった。「じゃあ、あの親子に出て行ってもらって。凪たちのこと、見たくないの」

湊は眉をひそめた。「綾、今さら反抗期か?」

小さい頃から、綾が自分に逆らったことは一度もなかった。

綾はカトラリーを置き、口元を拭うと、まっすぐな瞳で湊を見上げた。

「湊、私のことも尊重してほしい」

綾の頑なな表情を見て、湊は仕方なく折れた。「分かった。うちの会社で役職を用意しよう」

綾は社会人経験がなく、性格も大人しい。それに人を疑うことを知らない。湊には、綾が職場でうまくやっていけるとは思えなかった。

少し痛い目に遭わせてやればいい。世間の厳しさを知れば、自然と戻ってくるだろう。

「いらないよ。もう面接の約束があるから」

綾は湊の会社で働く気などなかった。湊から離れようとしているのであって、彼の元へ向かっているのではない。

湊は自分を気にかけているように見えるが、凪親子を手放せない時点で、彼の選択はもう決まっていた。

ガチャン。

湊は不満げにフォークを皿に投げつけた。綾はそれを無視し、ヒールを鳴らして家を出ていった。

湊のご機嫌取りは、今や凪の役目だ。

湊は眉間を揉み、秘書に電話をかけた。

「各社に連絡しろ。綾を雇うな、と」

Continue to read this book for free
Scan code to download App
Comments (1)
goodnovel comment avatar
kozakura hime
ここにもクズ野郎が 夫婦の家に堂々と元婚約を入れて挙げ句の果てに 一緒寝るなんて夫して最低 子供だって本当に旦那の子供か分からない
VIEW ALL COMMENTS

Latest chapter

  • 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった   第721話

    きらびやかに飾られた会場では、多くのゲストたちがグラスを手に楽しげに談笑していた。数人の外国人ビジネスマンが綾の作った新製品に熱心な様子で、彼女の周りに集まっては探るように質問をぶつけている。綾は慌てず堂々と受け答えをしており、その姿には会場を完全に自分の空気に変えるだけの自信が溢れていた。そのすぐ側で、健吾は控えていた。話しかけてくる相手を軽くあしらいながらも、視線を終始、綾から離さなかった。綾はお酒に弱かった。だから健吾は、綾が無理にお酒を飲まされるのではないかと気が気でなかったのだ。パーティーの前半が終わり、会場にゆっくりとした心地よい音楽が響き渡った。それを合図に、ゲストたちはパートナーの手を取って、ダンスフロアへ進み始めた。ようやく周囲の人間が引いたタイミングで、健吾は立ち上がって綾へ恭しく手を差し出した。「綾、俺と一曲踊ってくれないか?」綾は小さく微笑み、自分の手を健吾の手のひらに預けた。指先が触れ合った瞬間、健吾は力を込めて引き寄せた。「喜んで」二人は軽やかにダンスフロアへと踏み出した。健吾は綾の細い腰をぐっと引き寄せて、自分の胸へと抱き寄せる。少し離れた休憩用のブースで、ソフィアはグラスを小さく傾けながら、お似合いのカップルを澄んだ青い瞳で見つめていた。近づいてダンスに誘ってくる他の男性たちを、素っ気なく首を振ってすべて追い払った。そこへ、よく見ると見覚えのある一人の男性がやってきた。彼は紳士的な様子で、ソフィアに向かって片手を差し出した。「ソフィアさん、一曲踊りませんか?」ソフィアは片方の眉を持ち上げて、面白そうに相手の姿を頭からつま先まで品定めするように見つめた。「あなたのこと、知っています。綾さんに気がある男性の一人でしょう。私をダンスに誘うなんて、私に妨害されないためでしょうか?」その口調には刺があり、目には探るような光が潜んでいた。颯太はクスッと笑い、素直な目で見つめた。「ソフィアさん、そんなに自分に自信がないのですか?」颯太はソフィアのグラスを奪うと脇に置いた。そして、ぬくもりのある手で、拒む余地なく彼女の体を強引に引いて、立たせた。「単純にソフィアさんの魅力に惹かれて、もっとよく知りたいと思ったのかもしれませんよ」ソフィアは逆らわずフロアへと入っていった。音

  • 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった   第720話

    東都の黒崎病院の最上階にある病室で、湊はソファにもたれ、じっとテレビを見つめていた。画面には、科学賞の授賞式が生中継されていた。見慣れた姿の綾がステージへ進み、落ち着いた様子でトロフィーを受け取る。スポットライトに照らされた姿は、現実とは思えないほど眩しかった。胸に鋭い痛みが走り、湊は思わず息をのんだ。これほど美しく輝く綾を、自分は危うく壊してしまうところだったのだ。目から涙が静かにこぼれ落ちて、綾の姿がだんだんとにじんでいく。綾を拉致して監禁した記憶も、同じようにぼんやりとしていた。少しずつ、細かいことを忘れていっている。達也は、カウンセリングのおかげだと言っていた。それでも綾の顔を見るだけで、どうしても胸が締め付けられる。達也がドアを開けて入ってきたとき、湊は顔を覆って泣いていた。達也は震える湊の肩越しに、テレビの画面に目を向けた。綾はトロフィーを持ち、健吾の隣の席に戻った。二人は顔を寄せ合い、親しげに笑い合っている。まるで周囲が目に入らない様子だった。達也は歩み寄ると、リモコンを手にしてテレビの電源を切った。「カウンセラーから、刺激の強い情報には触れないように言われていただろ?」達也はティッシュを箱から取り出して手渡した。湊は顔を上げ、そのティッシュを受け取って涙を拭った。「俺のトラウマは綾なんだ。避けて通るより、ちゃんと向き合いたい。痛いと感じるのは怖くない。恐ろしいのは、心まで麻痺してしまうことなんだ」痛みすら感じなくなったら、死んでいるのと同じだから。達也は持ってきた薬を置いた。湊が自分自身を傷つけないよう、薬は毎回決まった分量だけ渡している。達也はすでに院長を辞め、多くの仕事を整理していた。そのため、こうして病室に通う時間はたっぷりあった。達也はこれまでに、間接的あるいは直接的に綾をたくさん傷つけてきた。湊の世話は、今の達也にとって唯一の罪滅ぼしなのだ。湊は薬を手に取り、冷たい水で流し込んだ。喉を通る水の冷たさが胸に広がるけれど、消えない心の痛みを抑えることはできない。「いつまで、ここに入院しなければならないんだ?」達也は湊の隣に座り、穏やかに笑った。「焦らなくていいよ。俺がずっと一緒にいるから」湊は眉間にシワを寄せた。「兄さんは俺のせいで警察に捕まった

  • 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった   第719話

    だけど次の瞬間、綾の顔から笑みがさっと消えた。颯太の隣には、ソフィアが座っていた。ソフィアは視線に気づくと、人懐っこく手を振ってきた。「綾さん、おめでとうございます」綾は表情を引き締め、小さくうなずいた。「ありがとうございます」ソフィアは湊の味方をして動いていた人だ。だから、あまりいい印象は持っていなかった。颯太が綾に笑顔を見せた。「綾さん、もし急いで国内に帰らないなら、青木社長と3人で食事でもどうかな?」健吾は顔を向け、そっけない視線を向けた。声のトーンも低かった。「また今度にしましょう」綾は颯太にオッケーのサインを出した。授賞式の後はパーティーがあるだけで、明日からは特に予定がないのだ。壮真と瑞希を連れての旅行はめったにない機会だ。綾と健吾は、子供たちと一緒に観光してから帰る予定だった。まもなく授賞式が始まった。司会者がE国語で綾の名前を読み上げると、彼女はすっと立ち上がった。黒いスーツが、スマートな体つきを際立たせている。舞台に上がる綾の足取りは、とても堂々としていた。笑顔でトロフィーを受け取り、正面を向く。そして、流暢なE国語で落ち着いて感謝のスピーチを述べた。さっきまでの緊張が嘘のように、舞台に立った瞬間、その不安はすっかり消え去っていた。頭の中を満たしていたのは、研ぎ澄まされた集中力と揺るぎない自信だけだった。綾にはふと、昔フェンシングの大会に出たときの感覚が蘇ってきた。今、綾はきらびやかなライトの向こう側に、思わず健吾の姿を探していた。高校で出会ってから今日まで、二人は本当にいろんな壁を一緒に乗り越えてきた。みじめなときも、栄光を手にしたときも、健吾はいつも隣にいてくれた。客席に座る健吾は、舞台の綾と視線を重ねた。その顔には優しい笑みが浮かんでおり、瞳の奥には真っ直ぐな誇らしさと愛が溢れていた。初めて綾にフェンシングを教えたとき、彼女は動きがぎこちなくて、なかなか上達しなかった。同じ基本動作の練習で、何度も尻もちをついていた。それでも、どれほど傷だらけになっても、最後にはいつも歯を食いしばって立ち上がった。そうして剣を強く握り直し、また突っ込んでいったのだ。そんな綾がこうして今日の結果を手にしたことは、健吾にとって全く予想外のことではなかった。心から綾の受賞を喜び、その

  • 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった   第718話

    この年は、綾が国際的な科学賞を受賞した。綾の名前はいろんな専門誌やニュースに載るようになった。海外の授賞式へ向かう飛行機の中で、綾は目を閉じて休んでいた。健吾はマーガレットと一緒に、子供たちの面倒を見ていた。綾は一人で行くつもりで、家族を連れて行くなんて考えてもいなかった。けれど健吾が、こんな特別な瞬間は家族全員で見届けるべきだと強く主張した。健吾と自分、そして子供たちはまだ本当の家族とは言えなかった。しかし彼が人懐っこく、根気強く説得してきたので、綾も折れるしかなかった。壮真と瑞希にとって、これが初めての飛行機だった。二人は窓にしがみつき、目を丸くして外を眺めていた。何を見ても珍しいらしく、楽しそうにおしゃべりを続けている。壮真が外の大きな雲を指さした。「瑞希、あの雲、綿あめみたいだよ」瑞希は甘えた声で言い返した。「私は、おじいちゃんのお家にいるウサギちゃんに見える」壮真は納得いかない様子だった。「耳がないから、ウサギちゃんじゃないよ」それでも瑞希は譲らなかった。「だって、ウサギちゃんみたいに白くて丸いんだもん」またケンカが始まりそうになったのを見て、健吾は慌てて手を伸ばし、くっつきそうな二人の頭を引き離した。「綿あめにも見えるし、ウサギちゃんにも見えるね。二人ともすごいね」綾は思わず微笑んだ。子供の面倒を見るたびに、小競り合いが始まらないかハラハラしなければいけないのだから、健吾も大変だ。子供同士の喧嘩なんて大したことではないと、綾は思っていた。どうせ最後には仲直りするものだ。けれど、健吾はとにかく娘に甘い。壮真は力も強いので、瑞希が痛い思いをしないかと本気で心配しているのだ。綾がそっと目を開けると、やはり健吾の手が瑞希の頭の後ろに添えられていた。飛行機がD国に着いた時には、もう夜だった。一行は主催側があらかじめ用意してくれたホテルに入った。この授賞式には、科学界の人たちだけでなく、多くの財界の重鎮たちも集まっていた。健吾にも本来は個別の予定があった。けれど面倒な付き合いを嫌った彼は、結局、綾のパシリになっていた。翌日、マーガレットはホテルで子供たちの面倒を見ることになり、健吾と綾が二人で授賞式へ向かった。スタッフも二人の関係を察しているようで、席は隣同士に用意されていた。そのため、二人

  • 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった   第717話

    箱を開けると、サファイアが散りばめられたティアラが静かに収められていた。深く澄んだ青い輝きは、見るからに高級なものだった。その横にはお守りも置かれていた。表には「平安」の二文字が刻まれている。手に取ると、人肌のようなぬくもりがあり、心地よい手触りだった。健吾は子供たちをベッドに寝かせると、部屋を出た。その視線が箱の中身に留まった瞬間、贈り主が誰なのかを悟った。綾はメッセージカードを箱にしまい、静かに蓋を閉めた。大切に箱を片付けると、綾はソファに腰を下ろし、様々な感情が入り混じる胸の内でじっと耐えていた。湊はどうしているだろうか?自分の姿を見せることで彼の病状が悪化するのを恐れ、湊に会いに行く勇気が出ないのだ。健吾は綾の隣に腰掛け、そっとその手を握りしめた。「過去を乗り越えなきゃいけないのは、中野だけじゃない。綾もだよ。あいつは綾が思うより強いから、心配しないでいい」綾が健吾の優しい青い目を見つめ返すと、張り詰めていた心の緊張が次第に和らいでいくのを感じた。そして、笑顔で頷き、健吾の手のひらをきゅっと握り返した。辛い過去を早く忘れるために、綾は育児以外の時間はすべて仕事に没頭することにした。次々と新製品を生み出していく時間は、心を癒やす最高の特効薬となった。綾は社会に出て以来、研究室だけが心から安らげる場所だった。会社の規模はますます大きくなり、経営基盤は日ごとに強固になっていった。明里の望んだ通り、Pobuは急速に実力を伸ばし、雅也の会社を上回った。その日の明里は、子供のように大喜びで綾に抱きつき、泣き笑いを繰り返していた。「綾、仕事を軌道に乗せるほうが、恋愛なんかより何倍もスリルがあるわ!」明里は興奮で声を震わせながら言った。「ようやく成功を目指す面白さを知ったの。今は夜寝る時だって男の人じゃなくて、会社の発展ばかり考えてるわ」熱の入った明里はさらに目を輝かせた。「ユズちゃんも幼稚園で自慢げに、『ママはかっこいい社長さんなんだよ』って言っているみたい。昔のように恋愛第一の私のままだったら、あの子に見せられるものなんてなかったはず。でも今は会社を率いる立場になって、背中で示せるものがあるって実感してるの」綾は優しく涙を拭って言った。「あなたがどんな生き方をしていようと、私たちの誇りであり

  • 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった   第716話

    綾が青木家に着いて間もなく、明里がユズちゃんと両親を連れてやってきた。壮真と瑞希は、ユズちゃんを見た瞬間に目を輝かせ、すぐにあちこち付いて回るようになった。ユズちゃんが行くところなら、どこへでも付いていき、片時も離れようとしない。ユズちゃんは二人より一つ年上というだけだったが、しっかり姉らしさを見せていた。いつも二人を気遣って面倒を見て、喧嘩した時には真面目な顔で審判役も買って出た。二人はユズちゃんの言うことを絶対に聞き、どっちの勝ちと決められても素直に従っていた。明里はほほ笑みながらプレゼントを差し出した。「これ、つまらないものだけど、子供たちの代わりに受け取ってちょうだい」綾が受け取って開けてみると、それはなんと二通の不動産の権利書だった。綾は顔を上げ、驚きでぽかんとした。「こんなの、高価すぎるわ」明里は気にする様子もなく手を振った。「一番の親友の子供だもん。綾たちの家は何でもあるし、贈れるのは不動産くらいよ。大きくなったら住むなり売るなり、子供たちの好きにさせて」明里はとてもあっさりと、まるでただの小さなお祝い金を渡すかのように言った。明里のこういう性格を、綾はよく知っていた。本当に相手のためになることはするが、回りくどいやり方は嫌う人だ。綾はその温かい気持ちを受け取り、優しく笑った。「じゃあ、子供たちの代わりに、お礼を言うね。ありがとう」明里は不意に綾を横へと引っ張り、声を潜めて聞いた。「健吾のおじいさんとお父さんは、子供たちに何を贈ってくれたの?」綾はきょとんとして、首を振った。「分からないわ。まだ何ももらってないし、そんなの重要じゃないもの」綾は本当にそんなことを気にしていなかった。子供たちは何不自由なく暮らしているし、自分一人の力だけでも十分に豊かで安定した暮らしをさせてあげられる。しかし明里はもどかしそうな顔をして、焦ったように言った。「重要に決まってるじゃない?あちらの家が進んで誕生日会を開くってことは、もう跡継ぎとして認めてる証拠よ。相応の贈り物があってもいいはずよ」明里が自分のために必死になってくれているのは分かっていたが、綾はこんなことに神経を使いたくなかった。彼女はそっと明里の手の甲を叩き、話を逸らした。「もういいから。健吾がケーキを用意してくれたの。食べに行って」明里

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status