LOGIN恩返しのため、中野綾(なかの あや)は初恋の人を捨て、足が不自由なはずの中野湊(なかの みなと)に嫁いだ。 結婚して5年。湊は綾の夫であり、幼い頃からの大切な人でもある。そして、彼女にとって、かけがえのない存在だった。 綾は湊の従順で物分かりのいい妻であり、車椅子の後ろから決して離れない影のような存在だった。 息子を連れて帰国した元婚約者を、どんなにえこひいきしようとも、綾が自分のもとを去ることはないと、湊は確信していた。 だが湊は知らなかった。綾の心には、もう恩義しか残っておらず、愛情はひとかけらもなかったことを。 しかし、真実が明らかになった日、綾はためらうことなく離婚協議書を突きつけた。それに湊は、ひどく慌てふためいた。 湊は目を真っ赤にし、狂ったように綾を離そうとしなかった。 綾は、しっかりと立つ湊の両足を見て、心の底から冷え切っていくのを感じた。 5年間も騙され、愛する人を失ったのだ。許すことなんて、絶対にできない。 かつてあれほど誇り高かった男は片膝をつき、充血した目で訴える。「綾、俺にはお前しかいないんだ」 綾は表情一つ変えず、湊を哀れに思う気持ちは、もうまったくなかった。 綾は愛する人の隣に立ち、まっすぐな瞳で言った。「でも私には、あなただけじゃないのよ、湊」 その人こそ、誰もがこぞって取り入ろうとする謎の大物。綾が少女だった頃の憧れであり、忘れられない初恋の人だった。 I国とのハーフであるその優雅な貴公子は、何も言わずに、ただ綾の指に破格のダイヤモンドの指輪をはめるだけだった。 彼は、この日を、丸5年も待ち続けていたのだ。 そう、これは本来、5年前に綾が手に入れるはずのものだった。
View More綾は淡々と話したが、部屋に戻ると、心も体も空っぽになったような脱力感に襲われた。ベッドに横になっても、どうしても眠れない。寝返りを繰り返しながら、胸のざわざわが収まらなかった。頭の中は、湊のことでいっぱいだった。大好きな兄が、こんな最期を迎えるはずではなかった。湊が追い詰められて飛び降りようとした時、綾の怒りは消え失せていた。そこにはただ、深い悲しみだけが残っていた。一緒に育ってきた仲だ。どんなにひどいことをされても、かつて自分のために命を懸けてくれた大切な家族なのだ。恨みきれず、かといって許すこともできない。その葛藤に、胸が締め付けられるように苦しかった。ドアが静かに開き、健吾が入ってきた。彼はごく自然に隣へ横になり、マットレスがかすかに沈む。健吾は少し気怠げな声で言った。「何を考えているんだ?」綾は健吾の体を軽く押したが、力が入らなかった。「どいてよ。あなたの家は下なんだから、戻って寝て」「眠らないよ。ただ隣にいたいだけだ」健吾は頭の後ろで手を組んだ。とてもお行儀の良い姿勢で、おどけたように言った。「ほら、両手はここにある。何もできないよ」綾は呆れたように健吾を見つめ、意地を張るようにベッドの端へと身を寄せた。「湊のことを考えていたの。彼は良くなるのかな?」そう言った瞬間、健吾の表情から優しさが消えた。その瞳は冷たく凍りついた。「綾、俺がどれだけ苦労してお前を救い出したと思っているんだ?俺のことは考えず、お前を苦しめた男のことばかり気にするなんてな」綾は寝返りを打って、静かに健吾を見つめた。健吾は不機嫌そうに口元を結んでいた。だが、その瞳には心配する気持ちが溢れていた。「ありがとう、健吾。私と子供たちのために、いろいろしてくれて」健吾はクスッと笑った。「口先だけでお礼を言うつもりか?」綾は布団を奪い取るように引き上げ、顔の下半分を隠した。布団からは、両目だけがのぞいていた。「ご飯をごちそうするって言ったのに、嫌がったのはそっちでしょ?」健吾はきょとんとした表情で綾を見た。布団から半分のぞく白い肌はうっすらと赤くなり、漆黒の瞳はまるで水が澄んでいるように潤んで美しかった。健吾はつばを飲み込み、少し声を落とした。「俺が何を望んでいるか、分かっているだろう?」綾の心臓は激しく跳
昼食を済ませると、健吾とマルスは子供たちを連れて遊園地へ向かった。綾とマーガレットはカフェの窓側の席に座り、お互いに近況を話し合った。斜めに差し込む陽だまりが心地よく、少しぼんやりしてしまう温かさだった。綾はカップの縁を指先でなぞりながら、たまらず口を開いた。「海斗くんは、どうして一緒にいるんですか?」マーガレットはコーヒーを一口すすると、綾が姿を消していた間に起こったことを、順を追って詳しく説明した。綾は話を聞きながら冷や汗を流した。健吾の行動は無謀すぎる。もし誠がやけになって通報していたら、健吾は誘拐罪に問われ、取り返しのつかない事態になっていただろう。喉の奥が締め付けられるように張り詰める中、綾は尋ねた。「誠さんは、今はどこにいますか?」マーガレットはカップを置いた。「誠さんと中野社長が綾さんを拉致して監禁していた確かな証拠が揃っていました。中野社長は病院から精神疾患の証明書が出たから罪を免れたけれど、誠さんはまた逮捕されたんです。前科があるから、今度はかなり重い判決になるでしょう」綾はカップを強く握りしめ、しばらく沈黙した。綾は、中野家の血筋に何か問題があるのではないかと思い始めていた。以前、和子から、湊の父親も偏屈で孤立しがちな人間だったと聞いたことがあったからだ。誠は湊をちゃんと医者に診せもせず、むしろ自分を拉致して監禁するようそそのかしたのだ。普通ではないとしか言いようがない。綾は視線を落とした。ただ海斗が、その父親や叔父のような人間にならず、母親にも似ないでほしいと祈るばかりだった。そして、もう一つ尋ねた。「海斗くんのこれからは、どうするつもりですか?」「海斗くんは田舎に戻って彼のひいおばあさんと暮らしたがっていたんですが」とマーガレットは言った。「でも、その方も高齢だし、田舎では通学にも苦労するでしょう。それで私とマルスで相談して、うちで引き取ることに決めたんです」綾は驚いた。「もう2人もお子さんがいるのに、さらに引き取って育てるなんて、本当に大丈夫でしょうか?」マーガレットは優しいながらも固い意志を宿した笑みを浮かべた。「海斗くんはうちの息子と仲が良いんです。うちで過ごしていた数日間も、娘の面倒をよく見てくれました。こんなに素直な子を、放っておくことなんてできません」綾はため息をつき、自
健吾はさりげなく綾の前に立った。広い背中で彼女の視線を遮ると、素っ気ない口調で言った。だが、その声には少しの嫉妬が滲んでいた。「もう行ったんだから、いつまでも見てるな」綾はふんと鼻を鳴らした。何も言い返さず、そのままお手洗いへ行って服を着替えた。服に頭を通すとき、綾はそっと目を閉じた。頭の中は、まだ船の揺れでぐるぐると回っていた。外に出てきたときには、綾はいつもの様子に戻っていた。「私たちも、家に帰ろう」健吾は綾を見つめ、「どっちの家に帰るんだ?」と聞いた。綾は少し戸惑い、顔を上げて彼を見た。「私の家は一つだけよ。あなたの家の、すぐ上の階にある家よ」綾はかがんで瑞希を抱き上げた。そして嬉しそうな声で言った。「さあ、家に帰ろうね」あまりにも現実感がなかった。陸を歩きながらも、まだ船の上にいて波に揺られているような、ふわふわとした感覚の中にいた。健吾は壮真を抱き上げて綾の後ろを歩いた。視線は、彼女の白い首すじに引き寄せられていた。「ご飯を外で食べてから帰ろう。山下さんに手間を取らせるのも悪い」綾は気軽に答えた。「いいわね。うちの近くのモールのレストランにしよう」健吾は「うち」という言葉を聞いて、口元を綻ばせた。モールへ向かう車の中で、健吾はバックミラーを何度も確認した。綾が本当に隣にいるか確かめるためだった。バックミラーの中で、綾は窓の外を眺めていた。差し込む日差しに照らされ、その頬の産毛がキラキラと光っていた。綾は健吾の視線に気づいて振り返った。ミラー越しに青い瞳と視線が合うと、注意を促した。「健吾、私も子供たちも乗っているのよ。運転に集中して」「仰せのままに」健吾は笑みを浮かべたまま、前を向いた。温かな太陽の光が街を包んでいた。空気には、蜂蜜を溶かしたような淡い黄金色の光が満ちている。車が地下駐車場へ入ると、久しぶりの外出に子供たちが興奮し始めた。チャイルドシートの上で足をばたつかせ、早く遊び場に行きたいと大はしゃぎだ。健吾は笑って子供たちをからかった。「おじいちゃんが、家の中に遊び場を作ってくれただろう?」綾は言った。「家だと二人だけで寂しいのよ。外にはお友達がたくさんいるし、みんなと遊ぶのが大好きなの」健吾は一人ずつ車から降ろした。「まずはお昼ご飯を食べよう。終わったら、
「颯太さんにはこのところ、本当に色々助けられた。綾はちゃんとお礼を言わないとな」健吾はそっけなくそう言うと、子供たちに手招きした。「ママのところに行こうか」明里はそれを見て、口元を緩めてクスリと笑った。顔では気にしないフリをしていても、本当は綾が颯太とこれ以上一緒にいるのが嫌で仕方ないのだ。「綾によろしく伝えてね。私は先に会社へ行くから。数日はしっかり休んで、焦って仕事に戻らなくていいって言ってね」健吾は頷くと、かがんで子供たちを抱き上げ、階段を上っていった。病室の外に着くと、少し開いたドアから、綾が颯太と楽しそうに話しているのが見えた。二人は颯太の新しい研究について話していた。親しげな様子で、話が尽きないようだった。健吾はゴクリと唾を飲み込むと、子供たちを下ろして肩を叩いた。「ほら、ママのところに行っておいで」壮真と瑞希は走ってベッドの横まで行くと、競い合うように話し始めた。「ママ、さっきすべり台で遊んだの。ちっとも怖くなかったよ!」瑞希は小さな胸を張り、得意そうにした。壮真が告げ口した。「ママ、さっき瑞希が僕のことを押したんだよ」瑞希は慌てて、顔を真っ赤にした。「押してないよ、背中を叩いてあげてたんだよ!」壮真も一歩も譲らない。「いや、絶対に押したよ!」仲良くしていたのに、急に喧嘩が始まってしまった。綾は困ったように笑い、喧嘩が終わるのを辛抱強く待ってから言った。「こちらは颯太さんよ。ご挨拶しなさい」二人は一緒に颯太を見ると、おとなしく言った。「颯太さん、こんにちは」手元にあるものを探したが、颯太はスマホ以外何も持っていなかった。彼は照れくさそうに頭を掻き、耳を赤くした。「今日は急いで来たからプレゼントを忘れちゃったんだ。次に来るときに持ってきてあげるね」瑞希は恥ずかしそうに綾の腕に顔をうずめた。半分だけ顔を出して、黒い瞳でそっと見つめ、耳元で囁いた。「ママ、颯太さんかっこいい」耳の良い壮真が、大声で報告した。「颯太さん、瑞希がかっこいいって言ってるよ!」瑞希は慌てて綾の腕の中に顔を隠し、もう見ようとはしなかった。颯太は褒められて顔を赤くし、照れくさそうに笑った。健吾は時計を見ると、ちょうどいいタイミングで声をかけた。「綾、今日退院するのか?」綾は頷いた。「うん、
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