LOGIN五十二歳の課長・柳川と、五十歳の事務員・細木。 職場で毎日顔を合わせながら、互いに嫌われていると思い込んでいた。 だが本当は——。 塩入りコーヒー、すれ違う好意、遅すぎる告白。 不器用な大人たちの、少し笑えてあたたかい恋愛物語。
View More総務課長の柳川圭介は、朝の執務室から細木貴子の後ろ姿を見るたび、感心していた。
五十歳になるというのに、背筋はまっすぐ伸び、余計な肉の付かないすらりとした体つき。支給された事務服はやや細身の仕立てだったが、細木が着ると不思議と上品に見える。腰の位置が高く、歩く姿にもだらしなさがない。髪はいつも後ろでひとつに結ばれ、白いシャツにはきちんとアイロンがかかっていた。 派手さはない。むしろ地味なくらいだ。 だが、その清潔感と整い方には、目を引くものがあった。 顔立ちは整っているのに、どこか眠たげで、少し疲れたようにも見える。伏し目がちな目元のせいか、ふとした瞬間に幸の薄そうな影が差すことがあった。だが、それがかえって落ち着いた色気のようにも見え、柳川には印象深かった。 柳川は、そういう“きちんとした人”に弱かった。 五十を過ぎてから、人を見る目が変わったのである。若い頃は結果だけを見ていた。数字を出す者、仕事の早い者、要領のいい者。だが今は違う。 書類の端を揃える指先。電話を切る声のやわらかさ。椅子を戻す音の静けさ。そういう些細なところに、その人の人柄は表れる。 そして総務課の事務員、細木貴子ほど、感じの良い人を柳川は知らなかった。 書類を受け取ると、ほのかに桃の香りがした。 「……良い匂いが…。」 思わず言うと、細木は白い手を少し引っ込めた。 「乾燥肌で……ハンドクリームなんです。すみません」 その手もまた、年齢を感じさせぬほどきれいだった。だが本人は見せびらかすでもなく、隠すように引く。控えめで、必要以上に飾らない。そういうところが細木らしかった。 社員旅行の土産も気が利いていた。若い女性には洒落た菓子、部長には地酒、柳川には温泉まんじゅうと旅先の地名入りキーホルダー。 「柳川さん、よく鍵を探していらっしゃるので」 よく見ているものだと柳川は感心した。人を観察し、さりげなく役に立つ物を選べる人なのだ。 細木は後輩たちにも慕われていた。 ある朝、珍しくいつも以上に眠そうな顔で出勤してきた。目の下にはうっすらと影があり、ただでさえ薄幸そうな雰囲気が二割増しになっていたので、柳川は少し心配になった。 給湯場で理由を知った。昨夜、若い事務員の恋愛相談に付き合っていたらしい。 「で、細木さん、なんて言ったんです?」 「食事には行っても、二十一時には帰宅しなさいって……」 「ええ? 相談内容と違いません?」 後輩たちは困ったように笑っていた。 だが柳川は、なるほどと思った。 浮かれすぎず、自分の生活を崩さないこと。そういう堅実さを伝えたかったのだろう。細木らしい助言だった。 細木は毎朝、誰より早く出勤する。 来客用テーブルを拭き、観葉植物に水をやり、始業時間にはすでにパソコンへ向かっている。仕事は速く、正確で、文句のつけようがない。 ――ただし。 少し天然だった。 その日、柳川が頼んでいた書類を細木は完璧に仕上げて持ってきた。ページ順も部数も揃い、綴じ位置まで正確だった。 「ありがとうございます」 そう言って受け取ろうとすると、細木は書類の横に、なぜか飴玉を一つ置いた。 「……これは?」 「ご褒美です」 「ご褒美?」 「難しい書類でしたので」 柳川は吹き出した。 作成したのは細木であり、自分は頼んだだけである。 「いや、頑張ったのは細木さんでしょう」 そう言うと、細木は少し考え込み、真顔でもう一つ飴玉を置いた。 「では、私にも」 柳川は声を立てて笑った。 細木はきょとんとした顔で、何がおかしいのかわからない様子だった。 仕事は完璧。気配りもできる。慎み深く、誰からも好かれる。 それなのに、ときどき信じられないほど天然。 柳川は、こういう人が職場にいてくれることをありがたいと思っていた。 最近、出勤時間が三十分早くなった。 静かな朝の職場で、細木が観葉植物に水をやる姿を見ると、今日も職場は大丈夫だと、なぜか安心できるのだった。柳川圭介は、バスの中で一人、頭を抱えていた。「……どうしてこうなった」小さく呟く。昨日のことを思い出す。石手寺。約束は果たせた。そこまでは、よかった。問題は――「……号泣だ……」深く息を吐く。あんなに泣いたのは、いつぶりだろう。しかも、人前で。それもよりによって……。細木貴子の前で。手を握られたまま、泣き続けていた。思い出すだけで、顔が上げられない。「はぁ……」ため息が漏れる。そのとき、社員たちがバスに乗り込んできた。「おはようございます」「昨日飲みすぎました……」「課長、どちらに?」返す余裕はない。視線を窓に逃がす。そこへ…「おはようございます」いつもより、少しだけ明るい声。細木だった。隣の席に、迷いなく座る。席は、いくらでも空いているのに。柳川は固まる。バスが動き出す。「さっき売店で買ってきたんですけど」細木が差し出したのは、小袋。「ごぼうチップです。食べます?」「……あとで」力のない返事。「そうですか」気にした様子もなく、細木は窓の外を見る。「あ、松山城ですよ」指をさす。「……知ってます」「住んでましたから」自分で言っておいて、また沈む。この温度差は何だ。横を見ることができない。細木は、そんな柳川を気にする様子もなく続ける。「また来たいですね」ふとこぼれた言葉。柳川は窓を見たまま、「……はい」とだけ返す。沈黙。耐えきれず、口を開く。「次は……他の場所も案内します」「任せてください」言った瞬間、視線が合う。逸らす。遅かった。細木が、くすっと笑う。「是非、お願いします」やわらかい声だった。やがてバスは空港に着く。降りたところで、細木のスマホが鳴った。「はい……ええ、大丈夫です」「夕方に迎えに行きますので」「母を、よろしくお願いします」通話を終える。日常に戻る音がした。柳川が言う。「……また、日常ですね」「そうですね」短いやり取り。柳川は、何気なく言った。「僕も、いずれ介護が必要になったら」「細木さんにお願いしようかな」言ってから、気づく。遅い。細木の動きが止まる。「……え」空気が、変わった。頭の中で、自分の言葉を反芻する。……やらかした。完全に、それだ。柳川は黙る。視線を逸らす。何も言えない。細木は、少しだけ俯いたあと、小さく笑った。「いいですよ」間を置いて、「柳川課長のケアは、私がします」顔は上げない。だが、
柳川の言葉が、途切れる。それ以上は、何も出てこなかった。沈黙が落ちる。細木は、しばらく顔を上げなかった。堀の水面を見たまま、何かを整理するように息を整える。やがて、細木が小さく口を開いた。「……ずるいですね」責める響きはない。反応しない柳川。ただ、下を向いたまま動かない。「そんな話をされたら」少しだけ、言葉を探す。「もう嫌いになれないじゃないですか」柳川の肩が、わずかに揺れる。細木は続ける。「優しさって、押しつけられると苦しい」ゆっくり、なぞるように言う。「……分かる気がします」一度、言葉を切ったが、「でも」その一言に、少しだけ力が入る。「それで全部、間違いになるとは思いません」柳川の指が、わずかに動く。「少なくとも私は」視線を上げる。「その優しさに、救われました」静かだった。飾りのない声だった。「必要なときに、必要なことを言ってくれたのは」「柳川さんです」細木は今まで二人の時間を思い出している。「必要なら駆けつける」「手を握ろうといつもグーパー、私を気遣ってくれてた。」「あの手紙は優しさが滲み出てました」「私は柳川さんの優しさの代償で大好きになりました」細木は、少しだけ息を吐く。「……だから」言葉を選ぶ。迷いながら、それでも選ぶ。「怖いなら、そのままでいいです」柳川の呼吸が、わずかに乱れる。「繰り返すかもしれないなら」「そのとき、私が言います」強くはない。でも、はっきりと。「ちゃんと、言います」沈黙。逃げない言葉だった。柳川は、顔を上げない。ただ…ぽたり、と音がした。膝の上に、雫が落ちる。一つ、また一つ。柳川は積を切った様に涙が溢れだす。止めようとしても、止まらない。細木は、ゆっくりと距離を詰め、そっと、柳川の手に触れた。固く握りしめられていた指を、少しずつほどく。柳川の抵抗はなかった。そのまま、包む様に。「……大丈夫です」小さく言う。誰に聞かせるでもなく。柳川は、声を出さなかった。ただ、肩だけが震えている。押し殺した呼吸が、わずかに漏れる。細木は何も言わない。手を離さない。それだけで、十分だと思った。道後の夜が、静かに二人を包んでいた。
柳川は、細木の肩からゆっくりと手を離した。 「……少し、歩きましょうか」 返事を待たずに手を取る。 道後公園まで、ほとんど会話はなかった。 堀の水面が、夜の光を揺らしている。 ベンチに並んで座るが、少しだけ距離がある。 しばらく、沈黙のまま座っている二人。 やがて柳川が口を開いた。 「……結婚していたことがあります」 細木は顔を上げない。 細木はただ、小さくうなずく。 「一年も、続きませんでした」 短い言葉。 それ以上は続かない。 「大学の頃からの付き合いで」 「気が合って……そのまま」 言葉は淡々としている。 「家のことは、分けていました」 一度、間が空く。 「……でも」 視線が、堀の水面に落ちる。 「気づいたら、ほとんど自分でやっていました」 小さく息を吐く。 「喜ぶかと思って……」 少しだけ間。 「それで、うまくいくと思っていました」 細木は何も言わない。 「……違いましたが」 その一言だけ、わずかに重い。 沈黙。 遠くの笑い声が、逆に静けさを強くする。 柳川は続ける。 「子どもの頃、両親が離婚して」 唐突だった。 「しばらく、松山に預けられていました」 視線は上がらない。 「先程の石手寺の祖母宅です」 細木の肩が、ほんの少しだけ動く。 「祖母と伯母が面倒見てくれてました」 「……優しい人たちで」 言葉が、ゆっくりになる。 「帰る場所があるって、こういうことかと思っていました」 少しだけ間が空く。 「だから」 言いかけて、止まる。 その続きを飲み込む。 代わりに、別の言葉を選ぶ。 「ある日、言われました」 声は、静かだった。 「優しさって、押しつけられると苦しいの」 夜に、その言葉だけが残る。 細木の指先が、わずかに動く。 「……意味が、分かりませんでした」 柳川は続ける。 「今も、完全には分かっていないと思います」 正直な声だった。 「ただ」 少しだけ息を吸う。 「また繰り返すのかと怖くて…。」 初めて、細木の方を見る。 すぐに視線を逸らす。 「……怖いんです」 小さい。 「また、気づかないうちに」 「相手を、苦しめてしまうんじゃないかと」 それ以上は言わない。 静寂が落ちる。 柳川は、下を向いたまま。 顔は見えない。
夕食を終えたあと、道後温泉に入った。 湯上がりのまま、浴衣で外へ出る。 商店街はまだ明るく、人も多い。 今回の参加者は十五名ほど。 顔なじみばかりで、気を遣うこともない。 賑やかな時間のはずだった。 細木は、うまく笑えなかった。 さっきのことが、頭から離れない。 聞くべきではなかった。 待てばよかった。 自分から話してくれるまで。 たった一言が、重く残っている。 夕食の味も、覚えていない。 一人で歩く。 下駄の音が、やけに響く。 行き先も決めずに進んで、気づけば時計台の前にいた。 「細木さん」 名前を呼ばれて、振り返る。 柳川が立っていた。 浴衣姿で、少しだけ息が上がっている。 「皆さんは、飲みに行かれました」 歩いてくる。 下駄の音が近づく。 「僕は飲めませんので……細木さんを探していました」 その言葉で、胸の奥が揺れる。 言わなければ。 謝らなければ。 あの質問のこと。 でも、言葉が出てこない。 口を開いてまた閉じた。 何も言えない。 涙が落ちた。 自分でも驚くくらい、あっさりと。 止まらない。 どうして泣いているのか、自分でもよく分からない。 ただ、止まらない。 柳川は、何も言わなかった。 一歩だけ近づく。 少しだけためらってから、 細木を抱き寄せた。 強くもなく、弱くもない。 ただ、離さないだけの力で。 人通りはある。 視線もある。 それでも柳川は離さなかった。 細木も、何も言えないまま。 そのまま、しばらく動けなかった。