素直になるまでは、まだ

素直になるまでは、まだ

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By:  森村征爾Updated just now
Language: Japanese
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五十二歳の課長・柳川と、五十歳の事務員・細木。 職場で毎日顔を合わせながら、互いに嫌われていると思い込んでいた。 だが本当は——。 塩入りコーヒー、すれ違う好意、遅すぎる告白。 不器用な大人たちの、少し笑えてあたたかい恋愛物語。

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Chapter 1

第1章 第一話 桃の香る気配

総務課長の柳川圭介は、朝の執務室から細木貴子の後ろ姿を見るたび、感心していた。

五十歳になるというのに、背筋はまっすぐ伸び、余計な肉の付かないすらりとした体つき。支給された事務服はやや細身の仕立てだったが、細木が着ると不思議と上品に見える。腰の位置が高く、歩く姿にもだらしなさがない。髪はいつも後ろでひとつに結ばれ、白いシャツにはきちんとアイロンがかかっていた。

派手さはない。むしろ地味なくらいだ。

だが、その清潔感と整い方には、目を引くものがあった。

顔立ちは整っているのに、どこか眠たげで、少し疲れたようにも見える。伏し目がちな目元のせいか、ふとした瞬間に幸の薄そうな影が差すことがあった。だが、それがかえって落ち着いた色気のようにも見え、柳川には印象深かった。

柳川は、そういう“きちんとした人”に弱かった。

五十を過ぎてから、人を見る目が変わったのである。若い頃は結果だけを見ていた。数字を出す者、仕事の早い者、要領のいい者。だが今は違う。

書類の端を揃える指先。電話を切る声のやわらかさ。椅子を戻す音の静けさ。そういう些細なところに、その人の人柄は表れる。

そして総務課の事務員、細木貴子ほど、感じの良い人を柳川は知らなかった。

書類を受け取ると、ほのかに桃の香りがした。

「……良い匂いが…。」

思わず言うと、細木は白い手を少し引っ込めた。

「乾燥肌で……ハンドクリームなんです。すみません」

その手もまた、年齢を感じさせぬほどきれいだった。だが本人は見せびらかすでもなく、隠すように引く。控えめで、必要以上に飾らない。そういうところが細木らしかった。

社員旅行の土産も気が利いていた。若い女性には洒落た菓子、部長には地酒、柳川には温泉まんじゅうと旅先の地名入りキーホルダー。

「柳川さん、よく鍵を探していらっしゃるので」

よく見ているものだと柳川は感心した。人を観察し、さりげなく役に立つ物を選べる人なのだ。

細木は後輩たちにも慕われていた。

ある朝、珍しくいつも以上に眠そうな顔で出勤してきた。目の下にはうっすらと影があり、ただでさえ薄幸そうな雰囲気が二割増しになっていたので、柳川は少し心配になった。

給湯場で理由を知った。昨夜、若い事務員の恋愛相談に付き合っていたらしい。

「で、細木さん、なんて言ったんです?」

「食事には行っても、二十一時には帰宅しなさいって……」

「ええ? 相談内容と違いません?」

後輩たちは困ったように笑っていた。

だが柳川は、なるほどと思った。

浮かれすぎず、自分の生活を崩さないこと。そういう堅実さを伝えたかったのだろう。細木らしい助言だった。

細木は毎朝、誰より早く出勤する。

来客用テーブルを拭き、観葉植物に水をやり、始業時間にはすでにパソコンへ向かっている。仕事は速く、正確で、文句のつけようがない。

――ただし。

少し天然だった。

その日、柳川が頼んでいた書類を細木は完璧に仕上げて持ってきた。ページ順も部数も揃い、綴じ位置まで正確だった。

「ありがとうございます」

そう言って受け取ろうとすると、細木は書類の横に、なぜか飴玉を一つ置いた。

「……これは?」

「ご褒美です」

「ご褒美?」

「難しい書類でしたので」

柳川は吹き出した。

作成したのは細木であり、自分は頼んだだけである。

「いや、頑張ったのは細木さんでしょう」

そう言うと、細木は少し考え込み、真顔でもう一つ飴玉を置いた。

「では、私にも」

柳川は声を立てて笑った。

細木はきょとんとした顔で、何がおかしいのかわからない様子だった。

仕事は完璧。気配りもできる。慎み深く、誰からも好かれる。

それなのに、ときどき信じられないほど天然。

柳川は、こういう人が職場にいてくれることをありがたいと思っていた。

最近、出勤時間が三十分早くなった。

静かな朝の職場で、細木が観葉植物に水をやる姿を見ると、今日も職場は大丈夫だと、なぜか安心できるのだった。

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第1章 第一話 桃の香る気配
総務課長の柳川圭介は、朝の執務室から細木貴子の後ろ姿を見るたび、感心していた。 五十歳になるというのに、背筋はまっすぐ伸び、余計な肉の付かないすらりとした体つき。支給された事務服はやや細身の仕立てだったが、細木が着ると不思議と上品に見える。腰の位置が高く、歩く姿にもだらしなさがない。髪はいつも後ろでひとつに結ばれ、白いシャツにはきちんとアイロンがかかっていた。 派手さはない。むしろ地味なくらいだ。 だが、その清潔感と整い方には、目を引くものがあった。 顔立ちは整っているのに、どこか眠たげで、少し疲れたようにも見える。伏し目がちな目元のせいか、ふとした瞬間に幸の薄そうな影が差すことがあった。だが、それがかえって落ち着いた色気のようにも見え、柳川には印象深かった。 柳川は、そういう“きちんとした人”に弱かった。 五十を過ぎてから、人を見る目が変わったのである。若い頃は結果だけを見ていた。数字を出す者、仕事の早い者、要領のいい者。だが今は違う。 書類の端を揃える指先。電話を切る声のやわらかさ。椅子を戻す音の静けさ。そういう些細なところに、その人の人柄は表れる。 そして総務課の事務員、細木貴子ほど、感じの良い人を柳川は知らなかった。 書類を受け取ると、ほのかに桃の香りがした。 「……良い匂いが…。」 思わず言うと、細木は白い手を少し引っ込めた。 「乾燥肌で……ハンドクリームなんです。すみません」 その手もまた、年齢を感じさせぬほどきれいだった。だが本人は見せびらかすでもなく、隠すように引く。控えめで、必要以上に飾らない。そういうところが細木らしかった。 社員旅行の土産も気が利いていた。若い女性には洒落た菓子、部長には地酒、柳川には温泉まんじゅうと旅先の地名入りキーホルダー。 「柳川さん、よく鍵を探していらっしゃるので」 よく見ているものだと柳川は感心した。人を観察し、さりげなく役に立つ物を選べる人なのだ。 細木は後輩たちにも慕われていた。 ある朝、珍しくいつも以上に眠そうな顔で出勤してきた。目の下にはうっすらと影があり、ただでさえ薄幸そうな雰囲気が二割増しになっていたので、柳川は少し心配になった。 給湯場で理由を知った。昨夜、若い事務員の恋愛相談に付き合っていたらしい。 「で、細木さん、なんて
last updateLast Updated : 2026-07-20
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第二話 塩は一つまみ
ある日の昼休み、細木貴子は自席で弁当の包みを静かに広げていた。 小ぶりの二段弁当だった。玉子焼き、ひじきの煮物、鮭の切り身、彩り程度の青菜。派手さはないが、いかにも細木らしい、きちんとした中身だった。 柳川圭介は給湯室で自分の茶を淹れながら、ふと思い立った。 ついでに、もう一つ紙コップへ茶を注ぐ。 執務室へ戻り、細木の机にそっと置いた。 「どうぞ」 細木は箸を持ったまま固まった。 「……え」 「お昼のお供に」 細木はしばらく紙コップと柳川の顔を見比べ、それからみるみる頬を赤くした。 「男の方に……お茶を淹れていただいたの、初めてです……」 柳川は思わず言葉に詰まった。 独身とは聞いている。だが、これまでいったいどんな男性と関わってきたのか、少し心配になる発言だった。 細木は真っ赤な顔のまま、慌てて弁当を食べ始めた。 「ありがとうございます……いただきます……」 小さな声で礼を言いながら、玉子焼きを頬張る姿は、いつもの落ち着いた細木とは違い、妙に初々しかった。柳川は、その年齢不相応な照れ方に、少し可愛らしさを感じてしまった。 夕方。 一日の仕事が一段落したころ、細木が紙コップを両手で持って柳川の机へやって来た。 「お昼のお礼です」 差し出されたのはコーヒーだった。 「ありがとうございます」 一口飲んで、柳川は少し驚いた。ブラックだった。砂糖もミルクも入っていない。 「……私がブラック好きなの、ご存じでしたか」 細木は少しだけ笑った。 「いつも、そうでしたので」 よく見ているものだと、柳川は感心した。 一口飲むと違和感が口に拡がった。 少し塩気がある。 柳川は考えた。 ――汗をかく季節だから、塩分補給まで気遣ってくれたのか。 「細木さん」 「はい」 「お気遣い、ありがとうございます」 彼女が淹れてくれたコーヒーは塩気のある気遣いのこもったコーヒーだった。
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第三話 細木貴子の憂鬱
私は細木貴子。大学を卒業してすぐ、今の会社に事務職として入社した。気づけば勤続二十八年。年齢は五十歳になった。恋愛はいくつか経験した。だが結婚まで至った相手はいない。縁がなかったとも言えるし、ひとりでも十分に生きていけたとも言える。身軽な人生だと、自分では思っている。そんな私に、最近ひとつ悩みがある。上司の柳川圭介だ。総務課長。五十二歳。見た目は温厚そうだが、油断ならない男である。なにかと私に仕事を回してくる。資料の取りまとめ、会議用の部数分け、来客名簿の修正、細かい雑務。若い女性事務員にはあまり頼まないところを見ると、嫌われたくないのだろう。その点、私はどう思われてもいい相手なのだ。柳川の良い点は付箋紙に書いてある文字が美しいだけ、ただそれだけ。先日、頼まれた書類を手渡した際のこと。柳川は受け取った紙を鼻先で止め、眉を動かした。「……いい匂いがしますね」私は即座に理解した。ハンドクリームだ。乾燥対策で使っている桃の香りのものが、紙に移ったのだろう。なんという細かい男だ。書類の内容ではなく匂いを指摘するとは。嫌味としか思えない。余程、私のことが気に入らないのだ。そこで社内旅行の際、私は静かな反撃に出た。柳川はブラックコーヒーが好みだ。甘い菓子はそこまで好きではない。だからこそ、あえて温泉まんじゅうを選び、さらに旅館売店で売っていた地名入りキーホルダーを添えた。中年男性に最も似合わぬ土産である。「ありがとうございます」柳川はそう言ったが、表情は微妙に引きつっていた。胸がすっとした。やはり人は、やられたらやり返すべきである。――そして事件は起きた。昼休み。私は自席で弁当を広げていた。煮物、卵焼き、鮭。いつもの内容だ。そこへ柳川が紙コップを差し出してきた。「どうぞ」中には湯気の立つお茶。私は凍りついた。……異物入りか?そこまで私を嫌っていたのか。じわじわ追い詰めるタイプなのか。頭に血が上り、顔が熱くなるのがわかった。だがここで怒鳴っては相手の思うつぼである。私は社会人として理性を保った。「ありがとうございます……いただきます」そして続けた。「男性から、お茶を淹れていただくのは……はじめてです」これは半分本当で半分牽制だった。あなたの行動は異常です、と遠回しに伝えたつもりだった。柳川はなぜか少し照れたような顔をして去っていった。意味がわからない。私は紙コップを持って給湯室へ
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第四話 静かなる鬩ぎ合い
昼休みの一件以来、細木貴子は柳川圭介という男がますますわからなくなっていた。異物入りと疑って捨てたお茶。塩入りの報復コーヒー。普通の神経なら、どこかで気づく。だが柳川は平然としていた。むしろ以前より機嫌がいい。朝、廊下ですれ違えば、「おはようございます、細木さん」以前より一音高い声で挨拶してくる。会議資料を頼むときも、「細木さんなら安心です」などと言う。白々しい。絶対に何か企んでいる。細木は警戒を強めた。その週の金曜、総務課に新しい複合機が搬入された。最新式で、印刷速度も速く、タッチパネル式。業者の説明会が開かれ、社員たちがぞろぞろ集まる。柳川も腕を組んで見ていた。「便利になりましたねえ」若手社員が感心すると、柳川はうなずいた。「だが機械は使う人次第です」いかにも管理職らしいことを言う。細木は少し離れた場所から、その横顔を見ていた。こういう、もっともらしいことを言うところが油断ならない。説明会が終わり、皆が散ったあと、細木は一人で試し印刷をしていた。すると背後から声がした。「使い方、難しいですか?」柳川だった。「いえ、別に」「私も触ってみたいんですが、こういう機械は苦手で」嘘だ。この男が苦手な顔をして近づき、仕事を押し付ける作戦だと細木は読んだ。「ここを押して、部数を選ぶだけです」事務的に説明する。「なるほど……では、二十部お願いします」やっぱり来た。細木は無言でボタンを押した。機械が唸りを上げ、紙が吐き出される。だが途中で、ガガガ、と異音がして止まった。紙詰まりだった。「失礼しました」柳川が前に出た。「こういう時は、慌てず」慣れた手つきで側面パネルを開ける。細木は目を細めた。苦手とは何だったのか。柳川は紙を抜こうとして、指を挟んだ。「痛っ」「あら」思わず声が出た。柳川は顔をしかめながら笑った。「……見栄を張りました」その一言が妙に正直で、細木は少し拍子抜けした。「機械は得意だと思われたくて?」「細木さんの前で、格好悪いところを見せたくなくて」細木の手が止まった。意味がわからない。「私の前で?」「はい」柳川はあっさり答えた。「細木さんには、できる上司と思われたいので」細木はしばらく黙った。この男は、時々こういう冗談を真顔で言う。性質が悪い。「……紙、取れましたよ」そう言って詰まった紙を引き抜き、柳川へ渡した。柳川は受け取って笑った。「助かりました。やはり細木さんがい
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第五話 言葉にならない距離
互いの誤解が解けてから一週間。職場の空気は、以前より少しだけやわらかくなった。柳川圭介は、細木貴子と目が合っても不自然に逸らさなくなった。細木も、必要以上に警戒した顔をしなくなった。だが、そこから先に進まない。柳川には重大な課題があった。――食事に誘いたい。それが言えない。この歳にもなって、たったそれだけの一言が喉を通らないのである。朝、細木が机を拭いている姿を見る。今だろうか。「細木さん、このあと……」そこまで考えて、いや朝から食事の話は重い、と引っ込める。昼、弁当を食べる細木を見る。今なら自然かもしれない。「細木さん、今度お昼でも……」いや、職場の昼休みに“今度お昼でも”は曖昧すぎる。却下。夕方、細木が退勤の準備をしている。今しかない。「細木さん、もしご都合が……」電話が鳴った。柳川は受話器を取りながら、人生とはこういうものかと思った。その日の帰り道、柳川は駅のホームで深く反省した。営業部の若手ならもっと軽やかに誘うのだろう。「今度ご飯でもどうですか」それだけだ。なぜ自分にはできない。管理職として百人の前で挨拶はできる。会議で厳しい指摘もできる。だが細木貴子一人に食事を誘う言葉だけが出てこない。情けなかった。一方、細木貴子もまた、静かに限界へ近づいていた。あれだけ互いの気持ちを確認したような空気になって、なぜ誘わないのか。普通、次の流れは食事ではないのか。昼休み、若い事務員の真鍋に言われた。「細木さん、柳川さん絶対ご飯誘うタイミング探してますよ」「そうかしら」「わかりやすすぎます。細木さんが席立つたび見てますもん」細木は味噌汁の蓋を閉めた。見ているなら来ればいい。そう思う自分に驚いた。誘われ待ちとは何事か。だが自分から誘うのも違う気がする。ここまで来たら、あちらが言うべきである。細木には細木なりの意地があった。その日も夕方。柳川は書類を持って細木の机へ行った。「この数字、確認お願いできますか」「はい」受け取る指先が触れそうになり、柳川は妙に緊張した。今だ。今言え。「あと……」「はい?」細木が顔を上げる。落ち着いた目元。少し疲れて見えるのに、今日はどこか機嫌が良さそうだ。柳川の心臓が跳ねた。「……今日は、雨みたいですね」言ってしまった。細木は三秒黙った。「そうですね」それだけだった。柳川は自席に戻り、机に額をぶつけたくなった。細木は無表情で数字を確認しながら、内心
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第六話 雨の名前
食事に行った夜から、総務課の空気は妙に整いすぎていた。柳川圭介は、細木貴子と必要以上に目を合わせなくなった。朝はきちんと挨拶する。「おはようございます、細木さん」だがそれだけだった。以前なら、資料の受け渡しの際に一言二言あった。観葉植物の葉が増えましたね、とか、今日は暑いですね、とか、実に中身の薄い会話ではあるが、確かに会話だった。今はない。書類は机の端に置かれ、確認事項は付箋で届く。――承知しました。柳川文字までよそよそしい。柳川なりに考えた末の判断だった。あの夜、細木は「考えさせてほしい」と言った。つまり即答できない、あるいは断りたいということだろう。そこへ上司の自分が以前のように親しげに接すれば、職場で気を遣わせてしまう。周囲に妙な憶測も生むかもしれない。部下との距離感は守らねばならない。五十二歳にもなって感情を職場へ持ち込むわけにはいかない。そう思えば思うほど、柳川は自然に振る舞えなくなった。一方、細木貴子もまた、静かに傷ついていた。あの夜、返事を濁したのは断るためではない。母の介護があった。足が悪く、通院も増えている。帰宅時間も読めない日がある。誰かと付き合うなら、自分一人の都合では決められなかった。だから少し考えたかった。事情をきちんと話し、迷惑をかけるかもしれないと伝えたうえで、それでもと言ってくれるか知りたかった。それなのに翌週から柳川は、見事なくらい距離を置き始めた。机に来ない。雑談しない。視線も合わない。なるほど、と細木は思った。やはり重かったのだ。五十歳の女が、母親の世話まで抱えている。面倒な条件だらけである。少し考えたいなどと言われれば、嫌にもなるだろう。細木は静かにペンを置いた。――嫌われた。その結論は、思いのほか胸に響いた。昼休み。若い事務員の真鍋が、細木の前に腰を下ろした。「細木さん、なんかありました?」「何が」「柳川さん、最近しょんぼりしてます」「そうかしら」「細木さんも元気ないです」「気のせいです」真鍋はじっと見た。「喧嘩したんですか」「していません」「付き合ってもいないのに?」細木は味噌汁をこぼしかけた。「何を言うの」「いや、そういう空気だったので」若い人間は遠慮がない。だが時々、核心を突く。その頃、柳川は営業部の同期に肩を叩かれていた。「柳川、お前最近どうした」「何がです」「書類見る顔が夕食食べ損ねた子供みたいだぞ」返す言葉も思
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第七話 好きという未定義
細木貴子は、朝、目が覚めるなり、――もう一度、きちんと話そう。天井を見つめたまま、大きく息を吐く。あの夜、自分は何をしていたのだろう。考えさせてほしい、とだけ言って、肝心なことを何ひとつ伝えていない。母の介護があること。生活に制約があること。すぐに身軽にはなれないこと。それは説明できる。だが、それだけではない。布団の中で細木は眉を寄せた。では、自分の気持ちはどうなのか。そこが一番、曖昧なままだった。柳川圭介といると安心する。話すと楽しい。職場で姿を見かけると、なぜかほっとする。最近は機嫌が悪いと気になり、元気そうだと嬉しい。昼休みにいないと落ち着かない。朝、挨拶がないと一日が始まらない気がする。避けられている今は、胸の奥がずっと重い。細木はそこで、はたと止まった。……これは。好意がある、などという生ぬるい話ではない。寝ても覚めても柳川のことばかり考えている。昨夜も、寝る前に思い出した。今朝も起きてすぐ思い出した。出勤したらどんな顔をすればいいだろうと、もう気にしている。細木は枕に顔を押しつけた。「……私……柳川課長が好き……」声に出した瞬間、全身が熱くなった。細木は慌てて布団を頭までかぶった。誰も聞いていないのに、しばらく出てこられなかった。同じ頃。柳川圭介もまた、朝の布団の中で天井を見ていた。そして、深いため息をついた。あの食事会以来、毎日が妙に空虚だった。出勤しても張り合いがない。朝の職場が静かすぎる。観葉植物の葉が増えても感動がない。細木貴子と話せないだけで、こんなにも職場は味気なくなるのかと、自分でも驚いていた。以前から特別だったのだと思う。細木が出勤すると安心した。机を整える姿を見ると、一日が始まる気がした。書類を渡されるだけで機嫌が良くなった。桃の香りのハンドクリームに心が乱されたこともある。あの人は、最初から特別だった。今さら理解したところで遅い。柳川は目を閉じた。だが、あの夜。「少し、考えさせていただけますか」あれは、断りの婉曲表現だったのだろう。大人の女性らしい、気遣いある言葉だった。無理に追いかけてはいけない。職場でも普通でいるべきだ。そう思って距離を取った。その結果、自分だけが日に日に沈んでいる。情けなかった。柳川は顔に腕を乗せた。「……好きだったんだな」口に出すと、胸がずきりと痛んだ。柳川もまた、静かに布団を頭まで被った。
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第八話 伝達ツール
柳川圭介は、子どものようだと自分で思っていた。諦めきれない気持ちが、胸の奥でずっと燻っている。細木貴子と、以前のように話したい。いや、以前以上の関係になりたい。だが、どう動けばいいのかわからない。もう一度食事に誘う。それはしつこい男と思われないか。部下に対して立場を利用したと受け取られないか。社内で使っている連絡ツールで個人的に話しかけるなど、なおさらだ。どれも今の時代では、慎重であるべきことばかりだった。朝の通勤ラッシュの電車に揺られながら、柳川は考えては首を振る。繰り返し、繰り返し。一方、細木貴子は会社の近くに母と暮らしていた。朝食を用意し、母をデイサービスへ送り出し、玄関先で見送ってから歩いて出勤する。その道すがら、今朝の自分を思い出していた。布団の中で、柳川課長が好きだと口に出してしまったこと。思い出すだけで顔が熱くなる。だが、状況は何ひとつ変わっていない。以前、自分が食事に誘ったように、――私から、また話があります。返事を伝えたいんです。そう言えば済む話だ。その先のことを想像し、細木はまた俯いた。歩きながら赤くなるとは思わなかった。細木が会社へ着くなり観葉植物に水をやる。だがその朝は様子が違った。役員や上役たちが、落ち着かない足取りで次々と出社してくる。なんだろう?総務部の前にも人が集まり、ざわめいている。何かあったのだろうか。細木が扉を開けようとした瞬間、勢いよく駆け込んできた男とぶつかりそうになった。柳川の同期、営業部の長谷川だった。顔色が悪い。「細木さん!」「はい」「柳川が……今朝、事故に巻き込まれた」細木はしばらく意味がわからなかった。「……え?」「病院に運ばれた。今から行く。細木さんも来るか?」細木は返事もできぬまま、気づけばタクシーの後部座席にいた。病院へ着くまでの記憶が曖昧だった。受付、廊下、白い壁、消毒液の匂い。医師の説明が遠くから聞こえる。通勤途中、横断歩道でバイクと接触。転倒し、後頭部を強く打った。脳内出血。現在、緊急手術は終えたが意識は戻っていない。予断を許さない状態だ。細木は椅子に座ったまま、膝の上の手を見ていた。何も理解できない。ただ、柳川が目を開けていない。それだけが、胸の奥へ鈍く沈んでいった。しばらくして警察官が現れた。「お身内の方はまだ到着されていませんので、お預かりいただけますか」財布、スマートフォン、家の鍵、そしてブリー
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第九話 想いを伝えれない
細木貴子は、毎週末になると柳川の入院する病院へ通っていた。あの事故の日から、柳川圭介の意識は戻らないままだ。柳川の母も高齢で、一日中付き添うのは難しい。病院側も感染対策で面会時間を制限しており、午前は母親、午後は細木が付き添う形がいつの間にか決まっていた。事故から、三週間が過ぎていた。午後の病室は静かだった。カーテン越しの薄い日差し。壁掛け時計の秒針。一定の間隔で鳴る医療機器の電子音。廊下を行き交う看護師たちの足音だけが、ときおり現実を思い出させた。細木は椅子に腰を下ろし、鞄から一通の手紙を取り出した。何度も読んだ、柳川からの手紙だった。紙の端は少し柔らかくなり、折り目も薄れている。それでも読むたびに、胸の奥のどこかが痛んだ。読み終えて顔を上げる。目の前には眠ったままの柳川がいる。頬は事故の頃より痩せ、手の甲には点滴の針が刺さっていた。いつも職場で見ていた、少し頼りなくて、でもきちんとした上司の面影が、静かにそこにあった。細木は小さく息を吐いた。「柳川さん、お手紙ありがとうございました」返事はない。「筆圧が強いんですね。下の紙にまで跡がついていました」細木は便箋を撫でる。「うちの父も、そういう字を書く人でした」少し笑って、柳川を見る。「あ……でも、柳川さんの字は、はらいが綺麗です。昔、書道でもされていたんですか?」静かな病室に、自分の声だけが落ちていく。「また食事に誘ってくださるんですよね?」細木は俯いた。「……待っていたんですよ」唇が震えた。「でも柳川さん、誘い方が下手なんですもの」涙が一粒、手紙に落ちた。「私なら、ぱっと誘って、ぱっと伝えてしまいます。出来なかったけど…。」そこで言葉が途切れる。細木は両手で手紙を握りしめた。「柳川さん」声がかすれる。「私は、あなたをお慕いしています」時計の針だけが進む。「できることなら、これから先も、ずっと一緒に過ごしたいです」涙が止まらなかった。返答はない、でも…「先に言ってしまいましたね」泣き笑いのような顔で続ける。「でも私も、もう若くありませんから」少し間を置いて、「……あ、柳川さんも同じですよ…。」自分で言って、自分で泣いた。病室にはまた、秒針と機械音だけが戻る。細木は顔を伏せたまま、震える声で言った。「私、おばあちゃんになってしまいますよ」肩が揺れる。「それでも……返事は、聞いてくださいますか?」子どものように、声をあ
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第2章 第一話 欲しい言葉
柳川が事故を起こしてから、半年が経った。リハビリは順調だった。医師からも、予定通りだと言われている。体は戻ってきている。ただ、一つだけ思うようにいかないものがあった。細木貴子との距離だ。半年前。「少し、考えさせてください」そう言われたとき、柳川は勝手に終わったと思った。だが違った。理由は、母親の介護だった。話を聞いたとき、胸の奥に溜まっていたものが一気に抜けた。振られたわけじゃなかった。それよりも、細木が抱える負担を軽くしたいと思った。頭で考えるより先に、口が動いていた。「いつでも連絡ください。男手が必要なら、駆けつけます」言ってから、少し間を置いて、「……お付き合い、お願いします」と付け足した。細木は、少しだけ考えてからうなずいた。それが、始まりだった。休日に出かけることは、ほとんどない。細木は家を空けられない。それでも、仕事終わりに食事へ行く時間があった。たった一時間でも、柳川には十分だった。くだらない話をする。どうでもいいことを聞く。「モンステラは好きですか」「葉の形が好きです」「僕は好きではないです。」「何故、訊いたの…。」そんな会話でも、ちゃんと返してくれる。それだけで、満たされる。ただ、一つだけ引っかかる。細木からは、何も聞かれない。仕事のことも、過去のことも。「課長って、休日何してるんですか」そういう質問が、一度もない。気にしていないのか。興味がないのか。考えると、少しだけ気分が沈む。…まあ、いつものことか。柳川は、胸の奥に押し込める。一方で、細木は細木で悩んでいた。半年前、自分は全部話した。母親のこと。介護のこと。簡単じゃない現実。内心では思っていた。重いと思われたらどうしよう、と。最悪、距離を取られても仕方ないと。だが柳川は違った。「介護に男手が必要なら、いつでも呼んでください」その一言で、思考が止まった。好きだとか、付き合いたいとか。そういう言葉ではなかった。もっと現実的で、今の自分に必要な言葉だった。頭がクラクラきた。あの瞬間、この人は特別になると分かった。それでも、私は踏み込めない。柳川のことを、もっと知りたいと思っている。だが聞けない。独身で、一人暮らし。それは聞いている。だが、それ以前は。結婚歴は。子どもは。そこに触れることが、どこか怖い。若い事務員の真鍋に言われた言葉が、頭に残っている。「根掘り葉掘り聞く女、嫌われますよ」冗談半分の言葉
last updateLast Updated : 2026-07-21
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