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第7話

作者: 青ノ序
凪の声で、綾は彼女と湊がいることに気がついた。湊は普段こういう場所には来ない。気に入った品があっても、秘書に代理で落札させていたからだ。

今夜ここにいるのは、きっと凪に付き添うためなのだろう。

湊は淡々と口を開いた。「あれは綾が気に入ったものだ。お前は別のものにしろ」

「『薔薇の心』のデザインは特別だわ。ジュエリー業界で働く私にとって、すごく勉強になるの。本当にこれが必要なのよ」

凪は湊の膝にそっと手を置き、お願いした。「綾には、もっと素敵なものを買ってあげようよ。ね?」

湊が答えるより先に、綾の凛とした声が後ろから響いた。

「6000万!」

凪はがっかりしたようにうつむいた。

「綾にとって『薔薇の心』はただの綺麗なブローチかもしれないけど、私にとっては芸術品なのよ。

湊、私が気に入ったものなら何でもくれるって言ったじゃない」

湊は椅子の背にもたれかかり、平然と言った。「落札しろ」

綾は宝石に興味がない。どうせ一時的な気まぐれだろう。もっと大きな宝石のものを買ってやれば済む話だ。

それに比べて凪は、宝石についてよく勉強しているし、将来はジュエリー業界で働こうとしている。

「6400万!」

凪の目に勝ち誇ったような光が宿り、札を上げる声も自然と弾んでいた。

「7000万!」

綾は冷静に札を上げ、値段を吊り上げた。

どうせ湊の口座から引き落とされる。これは夫婦の共有財産なのだから。

凪が夫婦の共有財産を使おうというのだから、自分がためらう必要なんてない。

「8000万!」

「9000万!」

……

二人は一歩も譲らず、競うように値段を吊り上げていった。

何度か値が吊り上がった後、綾は2億という高値を付けた。

「湊、綾はどうしても私から奪い取りたいみたいね」

凪は札を置き、まばゆく輝く「薔薇の心」を名残惜しそうに見つめた。

「あなたのお金を無駄にするのは嫌だわ。あのブローチに2億の価値なんてないもの。綾に譲ってあげよう」

湊は少し考えると、スタッフを呼び寄せ、何事か小声でささやいた。

オークショニアは合図を受け取ると、急いでハンマーを打ち下ろすのをやめた。

「まだ終わりではありません。さあ、他にはいらっしゃいませんか?」

綾は緊張しながら会場の様子をうかがっていた。このまま誰も声を上げなければ、母の形見を取り戻せる。

その時、スタッフが寄ってきて小声で言った。「奥様、中野社長から、奥様に口座の使用許可は出していない、と連絡がございました。

もし競売を続けられるのでしたら、別途保証金をお支払いいただく必要がございます」

その言葉に、綾の体はこわばった。持っていた札がだらりと下がり、握りしめた両手が痛むほどだった。

心臓が氷水に叩きつけられたかのようだった。無数の氷の棘が、胸の内側を突き刺す。

綾は無意識に、最前列に座る見慣れた背中を見た。しかし、湊は振り返りさえしなかった。

まるで頬をひっぱたかれたかのように、恥ずかしさで身の置き所がなかった。

凪親子が家に引っ越してきた時ですら、これほどの悲しみと絶望は感じなかった。

「わかりました。今すぐ保証金を支払います」

やっとの思いで声を絞り出す。喉に何かがつかえているみたいで、ひどい不快感だった。

「ただ、お手続きには少々お時間がかかります。もしその間に2億で入札される方がいらっしゃいましたら、恐らくは……」

「すぐに手続きをお願いします」

綾が椅子に手をついて立ち上がると、オークショニアの声が響いてきた。

「少々アクシデントがございまして、もし2億で入札してくださる方がいらっしゃれば、他にいらっしゃらない限り、その時点で『薔薇の心』を落札といたします」

「2億!」

凪が高々と札を掲げ、声高に叫んだ。

綾は足を止め、椅子の背に手を突いた。顔からは完全に血の気が引いていた。

もう、手に入らない。

自分の貯金は全部で4億ほどしかない。もし手続きが間に合ったとしても、湊が後ろについている凪には、到底太刀打ちできない。

無力感と怒りが胸の中で渦巻く。悔しさが喉につかえて、息をするのも苦しかった。

壇上にある、たまらなく愛おしいブローチを見つめていると、視界がだんだんぼやけていく。

まるで、あの頃の小さな女の子に戻ってしまったみたい。両親のものが次々となくなっていくのを、ただ見ていることしかできなかった、あの頃に。

「2億、ワン!他にはいらっしゃいませんか!

2億、ツー!

2億……」

「2億2000万!」

一人の男が慌ただしく入ってきて、席に着く間もなく札を掲げ、高らかに声を上げた。

「誰がいくら出そうと、これを落札するまで、必ずそれより上の値を付けます」

会場中の視線がその男に集まり、ざわめきが広がった。

まさかこのブローチは、とてつもない価値のある骨董品だったのだろうか、と人々は訝しんだ。

もしそうでなければ、この状況は奇妙すぎる。

二人の女性が2億まで競り合っただけでも驚きなのに、まさか青天井で値を吊り上げる者まで現れるとは。

誰よりも驚いていたのは、綾だった。どうして裕也が「薔薇の心」を?

「見事な落札です!さあ、ほかにこの宝石に挑戦される方はいませんか?」

オークショニアの視線が凪に注がれる。しかし凪は落ち着き払っており、これ以上値を上げる気はないようだった。

湊は余裕の態度を崩さず言った。「凪、続けていいんだぞ」

凪はにっこり笑って湊を見つめた。「ううん、もういいの。湊の気持ちのほうが、『薔薇の心』よりもずっと大事だから」

あんなブローチに興味などなかった。綾と競り合うこと、それ自体が楽しかったのだ。

湊は何も言わず、凪の視線をそらすと、わずかに首をひねって後ろをうかがった。

綾は呆然と座り込んでいた。その顔は青白く、瞳には涙が溢れそうだった。

湊の胸が、きゅっと締め付けられた。言葉にできない痛みが走る。

「先に帰る。何か欲しいものがあれば、遠慮なく落札するといい」

前回、綾が泣くのを見たのは、和子が亡くなった時だった。

たかがブローチひとつが、そんなに大切なものなのか?

秘書が車椅子を押しにくると、凪も一緒に立ち上がった。

「残りの品物に興味ないから、一緒に帰ろう」

湊は答えなかった。綾のそばを通りかかる時、彼は車椅子を止めたが、綾の顔を見る勇気はなかった。

「他に気に入ったものがないか見ておけ。買ってやる。これで埋め合わせだ」

埋め合わせ、埋め合わせ。また埋め合わせ……

湊にとっては、この世のすべてがお金で解決できることらしい。

綾は、涙がこぼれないようにぐっと顔を上げ、息を深く吸い込んだ。

そして、嘲るような視線を湊に一度だけ向けると、何も言わずに大股で出口へと向かった。

かつては頼れる存在だった湊が、今では他の女と一緒になって、自分を傷つける剣になった。

あまりにも心が痛む。母の形見を失ったことと同じくらい、つらかった。

「湊は先に車に乗ってて。私は綾を慰めてくるから」

凪は出口で綾の腕を掴んだ。さっきまでの穏やかな態度は微塵もなく、その顔には冷たい挑発の色が浮かんでいる。瞳は勝ち誇ったように輝いていた。

「綾、何年経っても、ちっとも変わらないわね。

昔から私には勝てなかった。今も、それは変わらないわ」

綾は鼻で笑った。「そうね。昔からあなたは何でも私から奪いたがった。アクセサリーも、服も、つまらないガラクタまでね」

自分が気に入ったもの、湊が自分に買ってくれたものなら、何でも凪は横から奪っていった。

当時は凪が湊の婚約者だったから、事を荒立てたくなくて、綾はいつも譲ってあげていた。どうせ、なくても困らないものばかりだったから。

それに、凪に何かを奪われるたび、湊はもっと高価なものを埋め合わせにくれたから。

でも今回は違う。今回だけは、どうでもいいものなんかじゃなかった。

もし凪がわざと邪魔をしなければ、裕也が来る前に、「薔薇の心」を落札できていたはずなのに。

綾は憎々しげに凪を睨みつけ、唇の端を皮肉に吊り上げた。

「でもね、凪。奪い合いに夢中になるなんて、餌に群がる獣みたいなものよ」

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