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last update Date de publication: 2025-12-30 10:13:10

「……これで落ちたか」

 隼人が低く呟いた。その声には怒りとは違う、どこか粘り気のある感情が混じっていた。

 彼はタオルを放り投げたが、小夜子の手は離さなかった。

「旦那様……?」

 隼人は、小夜子の左手を自分の顔の高さまで持ち上げた。じっと見つめる視線の先にあるのは、伯爵が口づけをした「甲」の部分だ。

「まだ、残っている気がする」

 彼はそう言うと、ゆっくりと顔を寄せた。小夜子の心臓がドクリと大きく跳ねた。逃げようとする小夜子の手を、隼人が強く握り締めて固定する。

「あ……」

 熱い唇が、押し当てられた。

 一度ではない。チュッ、という軽い音ではない。伯爵の唇が触れた場所を塗り潰すように、深く長く、吸い付くような口づけ。

 まるで消えない印を押すような、重たくて熱い感触だった。

「っ……!」

 小夜子は息を呑み

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  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   419

    「では、是非お願いします。次は夢の国の遊園地などいかがですか?」「夢の国ぃ? あそこ、理玖くらい小さい子じゃアトラクション乗れないだろ」 夢の国は東京近郊にある大型テーマパークで、大人が楽しむためのアトラクションが多数揃っている。「乗れるものもありますよ。情報収集はお任せください。最大限に効率化したアトラクション巡りをしましょう」 実加は再び笑った。「効率化って! 要は楽しめばいいんだ。あそこはキャラクターもいるし、パレードもある。歩いているだけで楽しいだろ」「いけません。入園するからには効率化を意識しないでどうするんですか。理玖くんが乗れるアトラクションに狙いを定めて、完璧なマニュアルを作ってみせます」「はいはい。よろしく頼むわ、センセイ」 いつもの軽口の応酬だ。 翔吾は眠る理玖の横顔を眺めながら、来たるべき当日のプランを考え始めた。◇ それから3週間後の休日のこと。 空には雲1つない冬晴れが広がっていた。 海からの冷たい風が吹き付ける埋立地に、その巨大なテーマパークは存在していた。 夢の国と称されるその場所は、エントランスをくぐった瞬間から、キャラメルポップコーンの甘い香りと、パレードの陽気な音色が空間を満たしている。 入場ゲートを抜けた実加と理玖は、目の前にそびえ立つ巨大な城を見て歓声を上げた。「すげえ! でっかいお城だな、理玖!」「おしろ!」 はしゃぐ親子を連れて、翔吾はワゴンの売店に立ち寄った。 実加には赤の水玉模様がついた黒耳のカチューシャを、自分用に魔法使いの帽子カチューシャを買った。「りくの! りくのは!?」 耳を生やした実加と翔吾を見て、理玖が飛び跳ねている。「耳カチューシャの子供用はないんですよ。だから君にはこれを」 翔吾はぬいぐるみ型のリュックサックを買って、理玖に背負わせてやった。「わあ!」 理玖

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     継母は翔吾を積極的にいじめたわけではなかったが、疎んでいた。 家族で出かける時は、翔吾だけ置いてけぼりになったものだ。 翔吾も自分の立場を自覚していたから、父と継母、異母弟妹を恨んだことはない。連れて行って欲しいと、ワガママを言ったこともない。 けれど寂しさだけはいつもあった。 居場所のない思いは常に彼を蝕んで、一人ぼっちでいることが多かった。(あの時の寂しさが……今はどこに行ってしまったんだろう) 長らく彼を苦しめた孤独が、いつの間にかすっかり消え去っている。 当時を思い出そうとしても、もう思い出せないほどに記憶が遠ざかっていた。 肩にかかる理玖の重みは温かく、隣を歩く実加の存在が心強い。 寂しさは彼らに追い出されて、今は優しさと温かさだけが彼の心を占めている。(僕は2人に救われたんだ) その思いは、すとんと心に落ちた。 心の中に温かな灯火が灯ったような気持ちだった。 それが嬉しくて、翔吾はそっと微笑んだ。◇「動物園、楽しかったな」 帰りの電車の中で、眠ってしまった理玖を抱きながら実加が笑った。「動物園なんぞガキの頃以来だったが、大人も案外楽しめるもんだ」「最近の動物園は展示に工夫をしていますからね。昔のようにただ檻の中に入れるだけではなく、できるだけ自然な姿を見せるようにしている」「あー、確かに。ヒョウのコーナーで木登り用の木があったのは面白かった。ヒョウは木登りが上手いわ」「理玖くんも夢中になっていましたね」 2人は顔を見合わせて笑う。「ありがとな、メガネ。付き合ってくれて」 実加が理玖の髪を撫でながら言う。「理玖も大喜びだった。肩車してもらったりさ。ウチだけじゃこんなに喜ばなかったはずだよ。お前のおかげだ」「い、いえ…

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   417

    「ライオン、おっきかったね!」 ライオンの前を離れても、理玖はしばらく興奮気味だった。「おう、ライオンはかっこよかったな。さあ次へ行くぞ。動物園は他にも色んな動物がいるからな」「うん!」 その後は広大な園内を歩き回り、キリン、象、ペンギンと順調に巡回した。 獣の獣脂の匂い、干し草の匂い、水槽の塩素の匂い。エリアごとに変わる匂いが、動物園らしいワクワク感を高めてくれる。「あっ、キリンさん。首、すっごいながい」「あっち見てみろよ。象がいる。でかなあ」「お鼻、ながーい」 理玖も鼻をすんすんと動かして、色々な匂いをかいでいる。次の動物を見ては目を輝かせていた。◇ そうして動物園を2時間も歩き回ると、理玖の歩みがとても遅くなった。 足がもつれて、実加のコートの裾を握りしめて立ち止まる。 眉をぎゅっと寄せて、アヒルのように口元を突き出している。 疲れて不機嫌な表情だったが、それすらも実加には愛おしく見えた。「だっこ……」「おっ、電池切れか。しょうがねえな、おいで」 実加が屈み込もうとした瞬間、翔吾がスッと間に割って入った。「僕が肩車します」「え? いや、ウチが抱っこするよ。重いし」「実加さんはすでに荷物を持っています。重量の分散と移動効率の観点から、これがベストです。ほら、理玖くん」 翔吾は理玖の脇に手を入れて持ち上げ、自分の肩にまたがらせた。 理玖の小さな手が、翔吾の髪を掴んだ。「たかーい!」 それまでの疲れが吹き飛んだように、理玖は瞳を輝かせている。「視座が上がれば、遠くの展示も見やすくなります」 翔吾は理玖の太ももをしっかりと支えて、実加の方へ向き直った。「ついでに、そのトートバッグも貸してください」 翔吾は実加の肩から、水筒や着替えが入って膨らんだキ

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   416

     けれど翔吾は歩み寄って実加の肩を軽く叩いた。「好きなだけ見せてあげればいいですよ。彼の知的好奇心を途中でやめさせる必要はありません」「でもよ、全部回りきれなくなるだろ。ライオン以外にもおもしれえ動物はいっぱいいるし」 実加としては、せっかく動物園に来たのだから、様々な生き物を理玖に見せてやりたいという親心だ。「全体の巡回率を下げても、特定の対象に対する深い観察時間を確保する方が、幼児の脳の発達には有益です。……それに見てください。あの個体は今、毛繕いの動作に入りました。ネコ科特有の舌の構造を観察する良い機会です」 翔吾は眼鏡を中指で押し上げ、ガラスの向こうの雄ライオンを指差した。「ライオンの舌には糸状乳頭という突起が密集しており、これがヤスリのような役割を果たして骨から肉を削ぎ落とします。現在行っている被毛の手入れにおいても、その構造が機能しているのがわかります。また、ライオンはネコ科ヒョウ亜科に分類され、群れであるプライドを形成する極めて特異な生態を……」 翔吾はスラスラと説明を続ける。動物園に行くと決めた日から、特にライオンは入念に調べてきたのだ。「はいはい、わかった! 長いわ! 理屈っぽいんだよ、お前は!」 実加が翔吾の背中をバシッと叩いた。 手袋越しでも、なかなかの衝撃が背中に響く。 が、翔吾は以前のようにつんのめったりしない。 実加に「鍛えろよ」と言われたのを気にして、こっそりと筋トレに励んでいたのだ。 その成果がしっかりと出て、翔吾は実加の力を受け流した。 実加は不思議そうに首を傾げた。「あれ? お前、体鍛えた? なんか急に体幹しっかりしてない?」「今はその話ではありません。……ライオンも理屈ではなく、生物学的な事実です」 翔吾は説明をさえぎられて、少しだけムッとした顔になった。 さらに言えば、実加のために体を鍛えていると知られるのは、照れくさくて仕方なかったからだ。 実加は翔吾の

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   415:冬のおでかけ

     冷たい北風が、枯れ葉をコンクリートの歩道を転がしていく。 秋から冬への過渡期特有の、乾いて独特の匂いのする冷気だ。 いつの間にか秋は終わりに差し掛かって、冬になろうとしていた。 翔吾は襟元を合わせて、歩幅を調整しながら隣を歩く実加と理玖を見た。 今日は3人で動物園へと来ていた。「実加さん、理玖くん。寒くないですか?」「ああ、大丈夫だ。しっかり着込んできたからな」「へーき! ライオン、みるの」 休日の動物園は、ダウンジャケットや厚手のコートを着込んだ家族連れでごった返している。 本日の動物園行きは、理玖がテレビの動物番組でライオンの狩りの映像を見て、「らいおんにあいたい!」と叫んだのが発端だった。 実加が「おし、じゃあ休みの日に動物園に行こうか」と言い、たまたまその場にいた翔吾も、「じゃあ僕も付き合いますよ。動物の生態観察も興味深いですし」と同行を決めたのだ。 翔吾のアパートでの勉強会以来、こうして休日に3人で外出する機会が増加している。 翔吾にとって、休日は疲労回復と次週のタスク整理に充てるべき時間だ。 彼は大学の勉学とホテル『サンクチュアリ』での仕事を掛け持ちしている。 大学は1年の休学の遅れを取り戻したかったし、サンクチュアリの仕事はシステムに関わる重要な部分を受け持っている。 けれど理玖の「しょーご、いっしょにいこ?」という舌足らずな要望と、実加の「行こうぜ」という一言は、いかなる論理的スケジュールよりも優先順位が高かった。 動物園の中をしばらく歩いていくと、やがてライオンの展示建物にたどり着いた。 人気の動物だけあり、長い列ができている。 理玖たちは列に並んで、ライオンが見える場所を楽しみに待った。 客を飽きさせない工夫として、列待ちの間にライオンの生態を紹介するパネルが目に入るようになっている。(良い工夫だ) 翔吾は1つ頷いて、混雑時のサンクチュアリでこうした仕組みを応用できないか考えを巡らせた。 そうしているうち

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   414

     実加は得意げに笑うと、自分のハンバーグを口に運んだ。 理玖もソースで口の周りを汚しながら、フォークで一生懸命に食べている。「しょーご、おいしーね!」「ええ。とても美味しいです」 翔吾は理玖の口元をティッシュで拭き取りながら、短く答えた。 食事の途中、実加がフライパンの残りのソースを小皿に移そうと立ち上がった。 彼女はフライパンを揺すりながら、ふと振り返った。 その顔には、何の飾り気もない、屈託のない笑顔が浮かんでいた。「なんかさ」 実加の言葉が、部屋の空気に溶け込むように落ちる。「こうしていると、ウチら、家族みたいだよな」 ドクン、と。 翔吾の胸の奥で、心臓が大きく跳ね上がった。 予想だにしない言葉の被弾だった。 翔吾は思考が完全に停止して、脳内の回路がショートしたかのような感覚に陥る。 全身の血流が急激に加速し、耳の裏がカッと熱くなった。「な……っ」 翔吾は言葉に詰まり、箸を持ったまま固まった。 呼吸が浅くなり、空気がうまく肺に入ってこない。「ん? どうした? ハンバーグ熱かったか?」 実加はフライパンを持ったまま、不思議そうに小首を傾げる。 彼女の言葉に他意はない。ただ目の前の光景をそのまま口にしただけの、無自覚な一言だ。(分かっている。分かっているけど……!)「い、いえ。その……」 翔吾は慌てて視線をそらし、中指で眼鏡を何度も押し上げた。レンズの奥で動揺を隠しきれず、瞬きの回数が増えてしまう。 冷静さを取り戻そうと、必死に論理的な思考を呼び起こそうとした。 けれど視界の端に映る実加のエプロン姿と、目の前でハンバーグを頬張る理玖の姿が、その思考を容赦なく打ち砕いていく。(家族みたい、だって……? 彼女は、自分の発言がどれほどの破壊力を持っているか、

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