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序章:002

last update 公開日: 2026-05-22 13:38:01

渚とばかり遊んでいたことをクラスメイトに囃し立てられ、思春期特有の照れ隠しから、好きじゃない、と否定した。それを証明するために渚との約束を連絡なしにすっぽかし、クラスメイト達と校庭でサッカーをして遊んだ。

その次の日からだ。渚が学校に登校しなくなったのは。

プリントを毎日届けても、渚の母親しか対応してくれず。

話したい、とお願いしても「風邪をうつすと悪いから」と門前払い。

二階の渚の部屋のカーテンは固く閉じたままだった。いつも玲が遊びに来ると必ず、あの窓から顔を見せてくれるのに。

渚を怒らせてしまった、と玲は思った。

体調が悪いのは本当かもしれない。でも、自分が家の外から渚を呼んでも返事さえしてくれないのは、連絡もせずに約束を破ったことに腹を立てているんだ。

玲はポストに手紙を毎日残した。

学校に登校してこなくなった前日、渚との約束の場所に行かずにサッカーに行ったことを必死に謝った。

それから、

『わんちゃんの子犬が産まれたよ。今度こそ、一緒に見に行こう』

『駄菓子屋に行こう』

『夏祭り、今年も一緒に行こう』

約束の場所と、時間も書いた。だけど、渚は来なかった。

(渚もあの時、こんな気持ちだったんだ)

約束をすっぽかしたことを後悔しない日はなかった。

手紙には、学校での出来事も事細かく書いた。渚が登校しても、知らないままで寂しくならないように。

だけど、一度も返事はなかった。

玲は諦めず、毎日欠かさず手紙を残したが、三ヶ月後に突然それは終わりを告げた。

相良の家の窓から見えていた、明るいピンクのカーテンが消え、二階の渚の部屋の花柄のカーテンも消えていた。

町中を探しても、見つからなかった。子供の足で行ける範囲なら、どこまでも行った。

担任に聞いても、両親に聞いても、誰も知らない。何も聞いていないと返ってくる。

空っぽになった旧相良家の前で玲は立ち尽くした。

(俺が約束を破らなければ……渚は俺の隣にずっといてくれたのに)

その日から、玲の世界は色をなくした。

抜け殻のように生きてきたある日――八年ぶりに渚と再会した。

――俺の唯一、俺の

失ったら、生きてはいけない俺の命。

愛しているから、傷つけない。

大事だから、傷つけない。

(でも、俺の本性を知れば、絶対に嫌われる)

俺の命を失ってしまう。

愛しているから、壊せない。

だから、壊さない。

だから、壊せない。

だから、

高い高層マンションの最上階。

玲はエレベーターを降りて、内廊下を見知った顔で進む。

灰色の絨毯が玲の足音を吸収し、この空間は音一つ拾わない。

ある扉の前で立ち止まり、カード―キーを当て玲は室内に入った。

玄関ホールの先にあるリビングに繋がるスリガラスから光が漏れている。玲は靴を脱ぎ捨て一直線に光に向かった。

玲がドアを開ける前に、ドアが開いた。肩より長い緩いパーマをかけている女が顔を出した。

女は玲を見て意外そうに目を丸くした。

「日曜に来るなんて、めずら」

「――な」と女の声を玲は遮った。

「ちゃんと、飲んでるよな?」

男の眼に光はなかった。

何を――とは、女は訊かなかった。ただ頷いた。

それを見ると否や、玲は女の腕を掴み、リビングに押しやる。そして女をリビングに押し倒した。

女から悲鳴が上がる。だが、玲は気にも止めず、女を感情がない目で見下ろしたままスラックスの前を寛げた。そして、起き上がろうとしている女の腰を掴んで自分に引き寄せると、頭を床に押し付け無理矢理四つん這いにした。

黒いパンツのクラッチを指で強引に端に寄せ、濡れていない女の孔に亀頭を押し付ける。女が「まだ濡れてない!」と叫んだが、玲は気にせず熟れていない蜜壺に一気に奥まで捻じ込んだ。

「あ、っ!! いっ、たぁっああっ!」

女の口から悲鳴が上がった。

玲は気にせず、腰を前後に動かした。悲鳴が上がり続けるのも気にもせずに。

「濡らすことくらい、自分でできるだろ」

(渚には、絶対に見せない)

掴んだ髪を引っ張り、女の耳元で言い放つ。

「俺に濡らしてもらおうなんて、考えるな」

女はそれに従った。

キャミソールをたくし上げ、自分の右手で乳房を弄り乳首を摘まんだ。

左手は玲が入っている秘所へ伸ばす。その指で、恥核を捏ね繰り回した。

自分の躰を支えていた両手は床から離れたせいで、支えをなくし不安定に揺れる。女を支えているのは自分の髪と腰を掴んでいる玲の両手となかにある玲の楔だけ。

(渚のなかは、きつくて)

「緩いな。もっと、締めろよ」

(渚のなかは深くて)

「子宮が下りてきてるぞ。この淫乱」

(渚の声は可愛くて)

「あ゛あ゛ぁっ、ん゛ぁ゛あ゛ぁ゛っ!」

「きったねぇ、声」

玲は嘲笑わらった。

パンッ、パンッ、パンッ!!

「いぐっ、いぐっ、いぐっ……いぐっ!」

(渚はイク時、眉間に皺を寄せるんだ。それから、小さく啼くんだよ)

休む間もなく叩きつけられている中、女の声が悲鳴から濡れた雌の声を変貌を遂げていた。

(ああ……違う。本当はこんな声、聞きたくないんだよ)

「っ、あっ……、あーーーーっ、くそっ!」

悪態を吐きながら、玲は女の中に射精した。

玲が吐精したと同時に、女も果てた。背中を大きく反らし、天井を高く見上げる。

女と玲の目が合うも──同時に髪を離され、楔も抜かれてしまい支えを失った女は冷たい床に倒れた。

女の蜜口から流れる己の精液に混ざる愛液を見下ろしながら、玲が考えることはひとつだった。

(今日の渚……俺とのセックスが嫌になったりしてないかな?)

肩で息をして倒れ込んでいる女を無視して、玲は風呂場へと向かった。

シャワー音がして暫くして女――村上むらかみ 真央まおは身を起こした。

(私が本当はピル飲んでいなかったら、どうするのかしら)

そう思いながら、秘部から漏れる白濁液を見下ろした。

これが実を結び妊娠でもすれば、セフレという身から抜け出すことが出来て玲が手に入る――

「って、ことはないわね」

ハッ、と真央は乾いた笑みを浮かべた。

妊娠でもすれば、直接病院まで連れて行き、堕ろすのを見届けるくらいはする男だ。

本命に知られるのが怖いでしょうし)

セフレという身に落ち着いてから、十二年が経つ。

玲が来るのは決まって毎週木曜日。

(それと、本命と何かがあった時)

日曜日に突然現れたのは、渚と何かあったのだ。

渚のことになると情緒不安定になる男は、渚本人にはその気持ちを伝えない。渚に拒絶され、嫌われることを極端に恐れているためだ。

(訊けば解決することだって、あるでしょうに)

真央は気付いていても言わない。

何も言わない方が『理解あるセフレ』を演じられるのだから。

テーブルの上にあるティッシュで実を結ぶことはない精液と愛液を拭きとった。この一人残されたこの時間が……虚しくてしょうがない。

(本当は、名前を呼ばれたいのに)

叶わぬ夢だとは分かっている。だけど、真央は未だに可能性を捨てきれずにいた。

ティッシュを丸めてゴミ箱に放り投げ、真央はのろのろと立ち上がった。秘部にヒリッとした痛みに眉間に皺を寄せる。当然のごとく、この時間も一人。シャワーの音だけがまだ響いている。

痛む秘部に耐えながら冷蔵庫からペットボトルの水を二本取り出す。一本は玲のため。

戻ってきた玲に渡すも、当然のようにそれを受け取り見向きもされなかった。

タオルを頭にかけ無言でソファに座り、携帯を取り出す玲の横顔を真央は見つめた。彼の横顔の輪郭をなぞり睫を眺め、それから唇に辿り着く。冷たく閉ざされた唇は真央のために向けられたことは一度もなかった。

──玲の口元が緩やかに弧を描く。それを見て、彼が何を見ているのかすぐに悟った。

玲はポケットから携帯を取り出した。

通知が二件。

『家に着いたよ』

というメッセージとともに送られた、渚の自撮り写真。明るいオレンジ色の花柄のソファーカバーが写り込んでいた。

(今日も可愛い)

慈しみに満ちた目で渚の写真を見下ろした。

玲は渚が映る携帯画面を指でなぞった。

(今日も俺に写真を送ってくれた……俺のこと、嫌いになってなさそうだ)

「何考えてんの?」

「渚のこと」

(そう。俺は渚のことしか考えていない)

「泊まっていけば?」

玲がソファに座って携帯を眺めている姿に、長居すると考えた真央が訊ねた。玲は何も答えなかった。

ただ、玲が渚に言えなかった台詞をいとも簡単に言ってのけた真央に苛ついた。

重くなった空気の中、真央からは何も発せられない。玲は画面から目を離し、感情の篭っていない目で真央に視線をやった。

玲が口を開いた瞬間だった。

着信が鳴った。

画面に表示された名前を見た瞬間、玲はソファから立ち上がった。真央を見なかった。水のペットボトルも置いたままだった。

玲は携帯を握り締めたまま、部屋を飛び出した。

エレベーターのボタンを押したところで、渚からの着信が途絶えた。

「くそっ」と慌てながら、悪態を吐いた。

渚が自宅に帰ってから、玲に電話をしてくるなんて珍しいことだ。帰宅確認メッセージと写真以降は朝の「おはよう」のメッセージだけ。

エレベーターが到着して乗り込むとすぐ、渚に折り返し電話をかけた。自宅にいる筈の玲がセフレのマンションにいると知られてはならないのに、渚の声を聞くことが優先事項だった。

「あっ! 渚? ごめん、電話に出られなくて。どうした? 何かあった?」

『寝てたのに電話してごめんね』

すぐに謝ってしまう渚に、玲は苦しそうに眉間に皺を寄せた。

渚はいつも『自分のせい』と思ってしまう節がある。何一つ、悪くないのに。

「どうして謝るの? 俺は寝てないよ。ストレッチしてたんだ。携帯を脱衣所に置きっ放しにしてたから、出られなかっただけだよ」

嘘がぺらぺらと出てくる。だが、渚はそれを疑わなかった。

『だから息切れしてるんだね』

玲はもうエレベーターにはいなかった。自分の車に乗り込み、渚に聞こえないようにドアを閉めた。

「うん。渚の声を聞いたら落ち着いたよ」

電話の向こうでクスクスと耳に心地いい笑い声が届く。

「そうだ、電話。どうしたの?」

『……寝る前に、玲の声が聞きたかったの』

口元が緩むのを止められなかった。

(渚が俺を求めてくれている!)

その事実だけで、胸が熱くなる。

「声を録音して渚に送るよ」

(渚の声を録音したデータ、俺欲しいし)

『録音しちゃったら、口実に電話が出来なくなっちゃうでしょ』

(それは困る)

「それは困る」

 渚が笑っている。声をあげて、楽しそうに。

「渚、今寝るところ? 寝落ちするまで一緒に話そうよ」

『高校生みたい』

 玲は目を細め、渚が高校生時代を思い出した。彼女はショートヘアーだった。項が綺麗だと見る度に思っていた。何度、あの項を舐めたいと思ったか……。

 話をしていると、やがて渚の声が途切れていく。それが何回か繰り返して、いずれ小さな寝息が電話口から微かに漏れてきた。

 玲はその寝息に聞き入りながら、運転席のシートに深く沈めた。うっとりと、惚けた表情で。

「この寝息を一生、隣りで聞いていたい」

 純粋にそう願った。

 

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  • 壊したいほど好きだから、   第2章:001

    ※ ※ ※玲と同棲が決まってから、いつもと変わらない穏やかな日が続く。 ふとした時に、頭の片隅に小さなピアスがチラつくけれど……それ以外は平穏だ。何も、問題はない。 渚はクライアントにメールを送信してから、小さく息を吐いた。「相良ちゃん、明日その髪で行く気?」 肩越しに振り向くと、書類を持った橘が怪訝そうに渚を見ていた。 「え?」 渚は反射的に前髪を押さえた。 肩につかないくらいの短さ。 鏡を見るたび適当に切っているせいで、毛先はばらばらだった。「いや、別に変ってほどじゃないわよ? でも展示会でしょ。取引先も来るし、せっかくだから綺麗にしてきなさい」「美容院、苦手で……」 小さく言うと、橘は「あー」と納得したように頷いた。「じゃあ、私が紹介してあげる」 橘はそう言うと、スーツの内ポケットから名刺を一枚取り出して渚に手渡した。 受け取ったのは、名刺ではなく美容室のショップカードだった。「私のパートナーがこのお店で美容師をしてるのよ」「……パートナーさんが?」 面談の時に橘から見せてもらった写真を思い出す。 そこには、パートナーだという男性と肩を寄せ合って笑う橘が写っていた。「そ。付き合って十年くらい。見た目は優男だから、私よりも威圧感はないはずよ」 手渡されたショップカードを、渚はそっと指先でなぞった。 顔を寄せ合って笑う二人は、見ているこちらまで安心するような空気だった。 あんな風に誰かの隣にいることを、“当たり前”だと思える関係があるのだと、少し不思議に思う。(私たちも、付き合ってから十年が経つけど……) 同じ年月のはずなのに。 私と玲は、離れていた時間まで含めれば、もっと長いのに。

  • 壊したいほど好きだから、   第1.5章:048

     ※ 薄暗い廊下を進み、女から送られてきた部屋番号の前で立ち止まる。『着いた』 それだけを送信した。 ――数秒後。 カチャリ。 内側から重い鍵が外れる音がした。 ゆっくりとドアが開くと、生温い空気とともに女の香水の匂いが漂ってくる。薄暗い部屋の奥、ドアを引いた女――真央の眉が不機嫌そうに跳ね上がった。「待ちくたびれたんですけど」 そう言った女の横を素通りして奥に入ると、暗い照明に照らされたワインレッドのベッドカバーのベッドが鎮座していた。(安っぽいホテル……) 場所もよく調べずに、真央に待ち合わせ場所として呼び出したこのラブホテルは、渚と過ごした清潔な空間とは何から何まで違っていた。 壁紙の所々は薄汚れていて、エアコンからはカタカタと微かな機械音が周期的に響いている。「……なにそれ」 背後から追ってきた真央の声。 振り返ると、真央の冷ややかな視線が玲の首元――渚から贈られた手作りのマフラーに注がれていた。「宮原さんから貰ったの?」 真央がそのマフラーへと手を伸ばしてくる。 指先が生地に触れそうになった瞬間、玲は真央の手を払いのけた。「触るな」 低く突っ撥ねるような声。 払われた手首を宙で止めたまま、真央はゆっくりと顔を上げ、玲の瞳の奥を覗き込むように目を細めた。その唇の端が、歪んだ愉悦を孕んで冷たく上がる。「……ふーん。分かりやす」 真央は気に留める様子もなく一歩踏み込むと、玲を見上げた。 玲は真央の瞳を、感情がこもっていない目で無言で見下ろした。 ――何故、渚以外の女を視界に入れているのだろう。 数十分前までは、玲の視界は渚しか存在していなかったのに。 真央の手が玲の胸元に触れてくる。女の瞳は変わらず玲しか見ていない。 玲の視界には真央しか映り込んでいないのに、頭の中にいるのは渚のことばかり。

  • 壊したいほど好きだから、   第1.5章:047

     ※「――お客さん、着きましたよ」 運転手の静かな声で、玲はハッと目を開けた。 自分の体が動いたことで肩の重みが消え、渚が目を擦りながらゆっくりと目を覚ます。 タクシーのメーターと時計に目をやると、心配していた時間にはまだ十分な余裕があった。「門限の二十二時、間に合ったよ」「……ん……」 まだ夢と現実の間にいるような、ポヤポヤとした眠たげな顔の渚。無防備なその姿が愛おしくてたまらない。「じゃあね、玲。今日は楽しかった」 渚が車を降り、タクシーのドアが半開きになる。そのまま行こうとする後ろ姿に、玲は思わず身を乗り出した。「渚っ」 呼び止められ、渚がくるりと振り返る。「ん?」「今年の初詣……も、一緒に行こう」 一瞬の静寂の後、渚はふわりと笑みをこぼした。「もちろん」 未来の約束を口にできたこと。 彼女が当たり前のように笑って受け入れてくれたこと。 今日という日を経て、彼女に拒絶されなかったのだという安心感が、玲の胸を温かく満たしていく。「今年はね……一緒に年越しそば食べよ?」 渚から差し出された言葉に、玲の瞳が大きく揺れた。「ああ……! もちろんっ」 渚から未来の約束を交わしてくれた――それがこんなに嬉しいなんて。 今日、渚を抱いてしまったことで、心のどこかでずっと怯えていたのだ。渚が自分を怖がってしまうんじゃないか、一線を越えたことで何かが壊れてしまうんじゃないかと。 けれど渚は、何も変わらない……ううん、以前よりもっと近く、柔らかい笑顔で、自分との未来を求めてくれている。 胸を締め付けていた不安が一気に吹き飛び、玲の心に温かく大きな安堵が広がっていく。もっと渚と一緒にいたい、もっと渚の家族や世界に踏み込んでいきたいという想いが溢れ出していた。「……ねえ、年越しそば、俺の実家に来ない? もし嫌なら無理にとは……」「ううん、行きたい。玲のお父さんとお母さんにも、会いたいな」 迷いのない返事に、玲の口元が自然と大きく綻んだ。渚は少しだけ頬を染めながら、上目遣いに玲を見つめる。「あのね……私の両親にも、会ってもらえる……?」 その言葉を聞いた瞬間、玲の胸がトクンと大きく跳ねた。(……それって、まるで結婚の挨拶みたいじゃないか) 愛おしさと照れくささで胸がいっぱいになり、玲はこれ以上ないほどの笑顔で深く頷いた。

  • 壊したいほど好きだから、   第1.5章:046

     ※ ホテルを出て拾った帰りのタクシーの中、車内には静かな空間が広がっていた。  さっきまでの出来事が思い返され、お互いに顔を合わせるのが急に恥ずかしくなってしまい、二人とも言葉を発することができない。無言のまま、車窓の外を過ぎ去っていく街灯の光を眺めていた。  けれど――シートの上で、二人の手はしっかりと重なり合っていた。  指先を揃え、お互いの温もりを確かめ合うように繋がれた手。言葉はなくても、繋いだ手からは確かな愛おしさが伝わってくる。  玲が何気なく窓の外の夜景に目を向けていると、ふと右肩に小さな重みが加わった。  視線を落とすと、そこには玲の肩に頭を預け、スースーと規則正しい小さな寝息を立てている渚の姿があった。慣れない場所で勇気を振り絞り、緊張の糸が切れたのだろう。無防備で愛くるしいその寝顔を見つめ、玲の頬が自然と緩む。 (……可愛いな)  玲は渚を起こさないよう、静かに息を整えながら小さく微笑んだ。  今日という日を、俺は一生絶対に忘れない。  渚と、一つになれた日。  俺だけを信じて、俺を受け入れてくれた特別な日。  玲は渚を繋いでいない方の手で、ポケットからそっと携帯電話を取り出した。  そして画面を操作し、設定画面を開く。  暗証番号の変更画面で、新しい数字を静かに打ち込んだ。 『161224』  今日という奇跡の日付を刻み込んだ画面を閉じ、玲は再び携帯をポケットに戻した。  愛おしい彼女の頭をそっと支え直しながら、玲は渚を起こさないよう静かに体を寄せ、彼女の頭の上にそっと自分の頭を置いた。 (……幸せだな)  じわじわと胸の奥を満たしていく温かな余韻に浸りながら、玲は静かに目を閉じる。  ふと、自分の髪からラブホテルのシャンプーの香りが漂っていることに気付いた。渚からも、同じ香りがしている。二人で同じ匂いを纏っているというだけで、嬉しかった。 (このまま、目が覚めなければいいのに……)  どこか遠くへ行きたい。誰も俺たちを知らない場所へ。  二人きりで、静かにずっと過ごせたらどれほどいいだろう。  誰の目にも渚を映したくない。渚にも、俺だけを見ていてほしい。  ――ふっと、玲は目を開けた。  闇に包まれた車内で、思考の輪郭が歪み始めていく。 (どうすればいい?)  渚が俺以外の世界を知って

  • 壊したいほど好きだから、   第1.5章:045

     ※ 渚の肌は、きめ細やかで吸い付くような肌触りだった。 洗い立てのふわふわなタオルのような……柔らかくて、いい香りがした。 震える彼女を壊してしまわないよう、玲は静かに、けれど熱を込めて腕の中に包み込んだ。 触れ合う肌から伝わってくるのは、自分への信頼と、ほんの少しの怖さ。その双方を受け止めるように、首筋や耳元に優しく唇を落としていく。「渚……怖くない?」「ううん……玲だから、大丈夫……っ」 消え入りそうな声で答える渚の瞳は潤んでいて、玲の表情を真っ直ぐに見つめていた。その健気で一途な眼差しが、玲の胸の奥にある熱をどこまでも、どこまでも募らせていく。 渚の体を抱くたび、その肌の柔らかさに、甘い香りに、玲の理性が溶けていくようだった。(……渚、渚……っ) 何度も心の中で名前を呼ぶ。 もっと触れていたい。 もっと自分だけを見てほしい。 この温もりを、誰にも渡したくない。 ――そんな想いが、止めどなく胸の奥から溢れてくる。 一瞬だけ。 渚が、俺なしではいられなくなればいいのに――。 その考えに、自分でも息を止めた。(違う――そんなことをしたら、渚に嫌われる) 渚のナカに入る寸前、玲は長い息を吐いた。 そして、ぎゅっ、と目を閉じる渚を見下ろした。(俺は……嫌われたくない)「……いい?」 玲は彼女に確認をとった。 玲の声は、自分でも驚くほど低く、掠れていた。 その問いかけに、渚はぎゅっと閉じていた瞼をゆっくりと開いた。 渚は自分の小さな手で玲の腕をそっと掴むと、静かに、けれど迷いのない力強さで頷いた。「……きて」(――きて……) その言葉と眼差しが、玲の胸の奥に残っていた最後の迷いを優しく解していく。 壊さないように。傷つけないように。 渚が自ら開いてくれたその世界へと、玲は静かに、ゆっくりと身を沈めていった。「……んっ……っ」 渚の口から漏れた小さな吐息を、玲はすぐに自分の唇で優しく塞ぎ、受け止める。「……大丈夫?」 玲は動きを止め、渚の表情を確かめるように覗き込んだ。渚の痛みを、怖さを、一筋の雫さえも見逃したくなかった。「……うん……っ」 渚は浅く呼吸を整えながら、玲の背中に回した手にぎゅっと力を込める。微かに眉を顰めてはいるものの、そこにあるのは苦痛ではなく、玲を受け入れようとする健気さだった

  • 壊したいほど好きだから、   第1.5章:044

     渚の身体が小さく跳ねた。玲は彼女の華奢な肩にそっと手を置き、自分の中で膨れ上がる欲求を押し殺し、真摯な声で告げた。「俺は、今日じゃなくてもいい」 ここに来るまで、どれほど彼女を求めていたか分からない。渚が「いい」と言ってくれた歓喜で頭がおかしくなりそうだった。けれど、彼女のトラウマを置き去りにしてまで進めるわけにはいかなかった。 渚のペースを守り切ること――それだけは、玲が何よりも大切にしてきた誓いだった。(渚に嫌われたくない――)「渚が少しでも不安なら、今からフロントに連絡して鍵を開けてもらうし、タクシーで寮まで送る。……渚の気持ちが一番大事だから」 玲は真っ直ぐに渚の答えを待った。 渚は一瞬驚いたように目を見開いていたが、すぐにその瞳に熱いものが滲んだ。 渚は視線を逸らさなかった。怯えて身を縮ませることもなく、玲のシャツの胸元を小さな手でキュッと握り締めた。「……ううん」 消え入りそうな声ではなく、しっかりと玲を見つめて告げた。「帰らない。……私、玲と一緒にいたい」「そっか」 その一言とともに、玲の胸の奥で張り詰めていた緊張が、ふうっと温かく解けていった。 視線が重なり、どちらからともなく照れくさそうに笑いがこぼれる。さっきまでの張り詰めた雰囲気が嘘のように、柔らかく優しい空気が二人の間を満たしていく。「……キス、していい?」 静かに訊ねると、渚はクスクスと嬉しそうに眉を下げた。「さっきはいきなりしたのに」「渚だって、いきなりだったじゃん」 玲が可笑しそうに返すと、渚は「ふふ」と小さく笑ってから、ゆっくりと両手を広げた。「……はい」 受け止める準備ができたというように、真っ直ぐ玲を見つめる渚。 玲は誘われるまま、その華奢な身体を優しく抱き締めた。 渚の腕が玲の背中に回り、ぎゅっと力を込めて抱き返してくる。腕の中に伝わる

  • 壊したいほど好きだから、   第1章:004

    「してないよ」 すぐに返ってきた。でも一瞬の間があった。 渚は何も言わなかった。 「……何か、あった?」 不安そうに訊ねた玲に、「なんでもない」と答えて首を振る。そして、玲の胸に顔を埋めた。 髪を撫でる手が、また動き始める。 (してる) 渚には分かった。 玲が渚のペースに合わせていること。怖がらせないように、壊さないように、触れていること。 それが嬉しくないわけじゃない。 でも。 (玲に、ずっと我慢させてる) 渚のせいで。渚が怖がるから。渚が、普通じゃないから。 玲は優しい。 怖がれば止まってくれる。 無理をさせない。 急かさない。 渚が泣きそうになれば、

  • 壊したいほど好きだから、   第1章:003

    「……え?」 顔を上げる。 思考が止まる。 「パートナーいるし、女性に何かする気はないから安心して」 あっさりと言われた。 あまりにも自然で、冗談にすら聞こえない。 暫くして、橘が携帯を取り出した。何かを操作して、それを渚の方に向けた。 画面には、二人の男性が並んで笑っている写真があった。 (二人とも、幸せそう……) いい写真だった。 「俺のパートナー。十年になる」 渚は、その写真をじっと見た。 「だから」と橘は言った。「怖がらなくていい」 渚はまだ写真を見ていた。 胸の中で何かがゆっくりと解けていくのを、渚は感じていた。 「それと」と橘が小声で、教

  • 壊したいほど好きだから、   第1章:002

    ※ドアをノックすると、「どうぞ」という低い声が返ってきた。一歩踏み出せば胸に圧がかかる。渚は息を浅くしたまま、ドアを開けた。橘 涼は書類から顔を上げた。 「相良さん、座って」 手で示された椅子に、渚は背筋を伸ばして腰を下ろした。渚は、目の前のガタイがいい男――橘の放つ威圧感に圧されていた。――やっぱり、苦手なタイプの男だった。背が高い。肩幅が広い。腕も太い。スーツの上からでも分かる体格の良さ。「楽にしていいから」と橘は手元の書類を捲った。(楽に……無理……)橘の声は近くで聞くと余計に低く、男らしさを感じさせるものだった。唯一の救

  • 壊したいほど好きだから、   第1章:001

    (あぁ……嫌だ。どうしよ……)職場のトイレで相良 渚は手洗い場の鏡の前から動けずにいた。鏡に映るのは、薄化粧を施した顔。肩にかかるくらいのミディアムストレート。丁寧に整えれば、綺麗に見える筈なのに、どこか少しだけ不揃いで、自分のために髪を整えることに、まだ慣れていない。 そんな渚の表情は両眉が情なく下がり、胸の前で指をずっと弄っている。 「どうしよ……」 一週間前、渚が働く化粧品会社に事業部長が海外本社から異動してきた。本社で実績を残し、日本支部も盛り上げるため、という理由での異動。 異動自体は珍しくない。渚が新卒で入社した時の事業部長は半年後に海外に転勤になったくらいだ。よくある

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