LOGINいつもご愛読いただきありがとございます。 7月中には第1.5章は完結する予定です。1.5章が終わりましたら、現代編に戻ります。今後ともよろしくお願いします。
※ 美容院を出る頃には、空は薄暗くなっていた。 鏡の中の自分が、まだ少し他人のように見えた。 美容院に来たのは、小学二年生以来だった。それからずっと、自分のはさみで切っていた。長くなったら切る。それで充分だと思っていた。 橘のパートナーはよく笑う人だった。渚が何も言わなくても察したのか、ずっと話しかけてくれた。怖くない、と気付いたのは、帰り際に扉を開けてもらった時だ。 橘を含めて、三人目だった。 なんとなく、それが嬉しかった。 渚は携帯を取り出す。『髪を切ったよ』 と打ち込んで、玲に送ろうとしたが指が止まった。 再会してから今日まで、玲には揃っていない髪しか見せていない。写真で美容院でセットした自分を見せるのは、なんとなく照れ臭かった。(玲には、出張から帰ってきてから見せよう) 代わりに、 『明日から出張頑張ってくるね』 とだけ送った。 すぐに既読が付く。『頑張って。気を付けて行ってきてね』 優しい返信。 それだけなのに、少し安心する。『お土産、買ってくるね』 すぐに既読が付いて、すぐに返信があった。『渚が無事に帰ってきてくれるだけで、俺は嬉しいよ』 キザっぽい言い方に、渚は思わず吹き出してしまった。 ※ ※ ※ 新幹線の窓から見える景色は、どこまでも澄み渡っていた。 玲と一緒に彼の実家に行くときは飛行機で、新幹線に乗ったのはもう随分前だ。 携帯を掲げ、流れる青空を切り取る。送信先は玲だ。 渚は窓の景色と一緒に、自分も写真を撮って玲に送った。セットした髪を玲に直接見せようとしていることをすっかり忘れてしまうくらい、子供のようにはしゃいでいた。 そんな渚を、隣に座る橘は、まるで幼い娘を見るかのように優しい目をしていた。 「彼氏さんによね」 隣から聞こえてきた橘の野太い声に、渚は少し照れたよう
※ ※ ※玲と同棲が決まってから、いつもと変わらない穏やかな日が続く。 ふとした時に、頭の片隅に小さなピアスがチラつくけれど……それ以外は平穏だ。何も、問題はない。 渚はクライアントにメールを送信してから、小さく息を吐いた。「相良ちゃん、明日その髪で行く気?」 肩越しに振り向くと、書類を持った橘が怪訝そうに渚を見ていた。 「え?」 渚は反射的に前髪を押さえた。 肩につかないくらいの短さ。 鏡を見るたび適当に切っているせいで、毛先はばらばらだった。「いや、別に変ってほどじゃないわよ? でも展示会でしょ。取引先も来るし、せっかくだから綺麗にしてきなさい」「美容院、苦手で……」 小さく言うと、橘は「あー」と納得したように頷いた。「じゃあ、私が紹介してあげる」 橘はそう言うと、スーツの内ポケットから名刺を一枚取り出して渚に手渡した。 受け取ったのは、名刺ではなく美容室のショップカードだった。「私のパートナーがこのお店で美容師をしてるのよ」「……パートナーさんが?」 面談の時に橘から見せてもらった写真を思い出す。 そこには、パートナーだという男性と肩を寄せ合って笑う橘が写っていた。「そ。付き合って十年くらい。見た目は優男だから、私よりも威圧感はないはずよ」 手渡されたショップカードを、渚はそっと指先でなぞった。 顔を寄せ合って笑う二人は、見ているこちらまで安心するような空気だった。 あんな風に誰かの隣にいることを、“当たり前”だと思える関係があるのだと、少し不思議に思う。(私たちも、付き合ってから十年が経つけど……) 同じ年月のはずなのに。 私と玲は、離れていた時間まで含めれば、もっと長いのに。
※ 薄暗い廊下を進み、女から送られてきた部屋番号の前で立ち止まる。『着いた』 それだけを送信した。 ――数秒後。 カチャリ。 内側から重い鍵が外れる音がした。 ゆっくりとドアが開くと、生温い空気とともに女の香水の匂いが漂ってくる。薄暗い部屋の奥、ドアを引いた女――真央の眉が不機嫌そうに跳ね上がった。「待ちくたびれたんですけど」 そう言った女の横を素通りして奥に入ると、暗い照明に照らされたワインレッドのベッドカバーのベッドが鎮座していた。(安っぽいホテル……) 場所もよく調べずに、真央に待ち合わせ場所として呼び出したこのラブホテルは、渚と過ごした清潔な空間とは何から何まで違っていた。 壁紙の所々は薄汚れていて、エアコンからはカタカタと微かな機械音が周期的に響いている。「……なにそれ」 背後から追ってきた真央の声。 振り返ると、真央の冷ややかな視線が玲の首元――渚から贈られた手作りのマフラーに注がれていた。「宮原さんから貰ったの?」 真央がそのマフラーへと手を伸ばしてくる。 指先が生地に触れそうになった瞬間、玲は真央の手を払いのけた。「触るな」 低く突っ撥ねるような声。 払われた手首を宙で止めたまま、真央はゆっくりと顔を上げ、玲の瞳の奥を覗き込むように目を細めた。その唇の端が、歪んだ愉悦を孕んで冷たく上がる。「……ふーん。分かりやす」 真央は気に留める様子もなく一歩踏み込むと、玲を見上げた。 玲は真央の瞳を、感情がこもっていない目で無言で見下ろした。 ――何故、渚以外の女を視界に入れているのだろう。 数十分前までは、玲の視界は渚しか存在していなかったのに。 真央の手が玲の胸元に触れてくる。女の瞳は変わらず玲しか見ていない。 玲の視界には真央しか映り込んでいないのに、頭の中にいるのは渚のことばかり。
※「――お客さん、着きましたよ」 運転手の静かな声で、玲はハッと目を開けた。 自分の体が動いたことで肩の重みが消え、渚が目を擦りながらゆっくりと目を覚ます。 タクシーのメーターと時計に目をやると、心配していた時間にはまだ十分な余裕があった。「門限の二十二時、間に合ったよ」「……ん……」 まだ夢と現実の間にいるような、ポヤポヤとした眠たげな顔の渚。無防備なその姿が愛おしくてたまらない。「じゃあね、玲。今日は楽しかった」 渚が車を降り、タクシーのドアが半開きになる。そのまま行こうとする後ろ姿に、玲は思わず身を乗り出した。「渚っ」 呼び止められ、渚がくるりと振り返る。「ん?」「今年の初詣……も、一緒に行こう」 一瞬の静寂の後、渚はふわりと笑みをこぼした。「もちろん」 未来の約束を口にできたこと。 彼女が当たり前のように笑って受け入れてくれたこと。 今日という日を経て、彼女に拒絶されなかったのだという安心感が、玲の胸を温かく満たしていく。「今年はね……一緒に年越しそば食べよ?」 渚から差し出された言葉に、玲の瞳が大きく揺れた。「ああ……! もちろんっ」 渚から未来の約束を交わしてくれた――それがこんなに嬉しいなんて。 今日、渚を抱いてしまったことで、心のどこかでずっと怯えていたのだ。渚が自分を怖がってしまうんじゃないか、一線を越えたことで何かが壊れてしまうんじゃないかと。 けれど渚は、何も変わらない……ううん、以前よりもっと近く、柔らかい笑顔で、自分との未来を求めてくれている。 胸を締め付けていた不安が一気に吹き飛び、玲の心に温かく大きな安堵が広がっていく。もっと渚と一緒にいたい、もっと渚の家族や世界に踏み込んでいきたいという想いが溢れ出していた。「……ねえ、年越しそば、俺の実家に来ない? もし嫌なら無理にとは……」「ううん、行きたい。玲のお父さんとお母さんにも、会いたいな」 迷いのない返事に、玲の口元が自然と大きく綻んだ。渚は少しだけ頬を染めながら、上目遣いに玲を見つめる。「あのね……私の両親にも、会ってもらえる……?」 その言葉を聞いた瞬間、玲の胸がトクンと大きく跳ねた。(……それって、まるで結婚の挨拶みたいじゃないか) 愛おしさと照れくささで胸がいっぱいになり、玲はこれ以上ないほどの笑顔で深く頷いた。
※ ホテルを出て拾った帰りのタクシーの中、車内には静かな空間が広がっていた。 さっきまでの出来事が思い返され、お互いに顔を合わせるのが急に恥ずかしくなってしまい、二人とも言葉を発することができない。無言のまま、車窓の外を過ぎ去っていく街灯の光を眺めていた。 けれど――シートの上で、二人の手はしっかりと重なり合っていた。 指先を揃え、お互いの温もりを確かめ合うように繋がれた手。言葉はなくても、繋いだ手からは確かな愛おしさが伝わってくる。 玲が何気なく窓の外の夜景に目を向けていると、ふと右肩に小さな重みが加わった。 視線を落とすと、そこには玲の肩に頭を預け、スースーと規則正しい小さな寝息を立てている渚の姿があった。慣れない場所で勇気を振り絞り、緊張の糸が切れたのだろう。無防備で愛くるしいその寝顔を見つめ、玲の頬が自然と緩む。 (……可愛いな) 玲は渚を起こさないよう、静かに息を整えながら小さく微笑んだ。 今日という日を、俺は一生絶対に忘れない。 渚と、一つになれた日。 俺だけを信じて、俺を受け入れてくれた特別な日。 玲は渚を繋いでいない方の手で、ポケットからそっと携帯電話を取り出した。 そして画面を操作し、設定画面を開く。 暗証番号の変更画面で、新しい数字を静かに打ち込んだ。 『161224』 今日という奇跡の日付を刻み込んだ画面を閉じ、玲は再び携帯をポケットに戻した。 愛おしい彼女の頭をそっと支え直しながら、玲は渚を起こさないよう静かに体を寄せ、彼女の頭の上にそっと自分の頭を置いた。 (……幸せだな) じわじわと胸の奥を満たしていく温かな余韻に浸りながら、玲は静かに目を閉じる。 ふと、自分の髪からラブホテルのシャンプーの香りが漂っていることに気付いた。渚からも、同じ香りがしている。二人で同じ匂いを纏っているというだけで、嬉しかった。 (このまま、目が覚めなければいいのに……) どこか遠くへ行きたい。誰も俺たちを知らない場所へ。 二人きりで、静かにずっと過ごせたらどれほどいいだろう。 誰の目にも渚を映したくない。渚にも、俺だけを見ていてほしい。 ――ふっと、玲は目を開けた。 闇に包まれた車内で、思考の輪郭が歪み始めていく。 (どうすればいい?) 渚が俺以外の世界を知って
※ 渚の肌は、きめ細やかで吸い付くような肌触りだった。 洗い立てのふわふわなタオルのような……柔らかくて、いい香りがした。 震える彼女を壊してしまわないよう、玲は静かに、けれど熱を込めて腕の中に包み込んだ。 触れ合う肌から伝わってくるのは、自分への信頼と、ほんの少しの怖さ。その双方を受け止めるように、首筋や耳元に優しく唇を落としていく。「渚……怖くない?」「ううん……玲だから、大丈夫……っ」 消え入りそうな声で答える渚の瞳は潤んでいて、玲の表情を真っ直ぐに見つめていた。その健気で一途な眼差しが、玲の胸の奥にある熱をどこまでも、どこまでも募らせていく。 渚の体を抱くたび、その肌の柔らかさに、甘い香りに、玲の理性が溶けていくようだった。(……渚、渚……っ) 何度も心の中で名前を呼ぶ。 もっと触れていたい。 もっと自分だけを見てほしい。 この温もりを、誰にも渡したくない。 ――そんな想いが、止めどなく胸の奥から溢れてくる。 一瞬だけ。 渚が、俺なしではいられなくなればいいのに――。 その考えに、自分でも息を止めた。(違う――そんなことをしたら、渚に嫌われる) 渚のナカに入る寸前、玲は長い息を吐いた。 そして、ぎゅっ、と目を閉じる渚を見下ろした。(俺は……嫌われたくない)「……いい?」 玲は彼女に確認をとった。 玲の声は、自分でも驚くほど低く、掠れていた。 その問いかけに、渚はぎゅっと閉じていた瞼をゆっくりと開いた。 渚は自分の小さな手で玲の腕をそっと掴むと、静かに、けれど迷いのない力強さで頷いた。「……きて」(――きて……) その言葉と眼差しが、玲の胸の奥に残っていた最後の迷いを優しく解していく。 壊さないように。傷つけないように。 渚が自ら開いてくれたその世界へと、玲は静かに、ゆっくりと身を沈めていった。「……んっ……っ」 渚の口から漏れた小さな吐息を、玲はすぐに自分の唇で優しく塞ぎ、受け止める。「……大丈夫?」 玲は動きを止め、渚の表情を確かめるように覗き込んだ。渚の痛みを、怖さを、一筋の雫さえも見逃したくなかった。「……うん……っ」 渚は浅く呼吸を整えながら、玲の背中に回した手にぎゅっと力を込める。微かに眉を顰めてはいるものの、そこにあるのは苦痛ではなく、玲を受け入れようとする健気さだった
※ドアをノックすると、「どうぞ」という低い声が返ってきた。一歩踏み出せば胸に圧がかかる。渚は息を浅くしたまま、ドアを開けた。橘 涼は書類から顔を上げた。 「相良さん、座って」 手で示された椅子に、渚は背筋を伸ばして腰を下ろした。渚は、目の前のガタイがいい男――橘の放つ威圧感に圧されていた。――やっぱり、苦手なタイプの男だった。背が高い。肩幅が広い。腕も太い。スーツの上からでも分かる体格の良さ。「楽にしていいから」と橘は手元の書類を捲った。(楽に……無理……)橘の声は近くで聞くと余計に低く、男らしさを感じさせるものだった。唯一の救
(あぁ……嫌だ。どうしよ……)職場のトイレで相良 渚は手洗い場の鏡の前から動けずにいた。鏡に映るのは、薄化粧を施した顔。肩にかかるくらいのミディアムストレート。丁寧に整えれば、綺麗に見える筈なのに、どこか少しだけ不揃いで、自分のために髪を整えることに、まだ慣れていない。 そんな渚の表情は両眉が情なく下がり、胸の前で指をずっと弄っている。 「どうしよ……」 一週間前、渚が働く化粧品会社に事業部長が海外本社から異動してきた。本社で実績を残し、日本支部も盛り上げるため、という理由での異動。 異動自体は珍しくない。渚が新卒で入社した時の事業部長は半年後に海外に転勤になったくらいだ。よくある
渚とばかり遊んでいたことをクラスメイトに囃し立てられ、思春期特有の照れ隠しから、好きじゃない、と否定した。それを証明するために渚との約束を連絡なしにすっぽかし、クラスメイト達と校庭でサッカーをして遊んだ。その次の日からだ。渚が学校に登校しなくなったのは。プリントを毎日届けても、渚の母親しか対応してくれず。話したい、とお願いしても「風邪をうつすと悪いから」と門前払い。二階の渚の部屋のカーテンは固く閉じたままだった。いつも玲が遊びに来ると必ず、あの窓から顔を見せてくれるのに。渚を怒らせてしまった、と玲は思った。体調が悪いのは本当かもしれない。でも、自分が家の外から渚を呼んでも返事さえ
「……え?」 顔を上げる。 思考が止まる。 「パートナーいるし、女性に何かする気はないから安心して」 あっさりと言われた。 あまりにも自然で、冗談にすら聞こえない。 暫くして、橘が携帯を取り出した。何かを操作して、それを渚の方に向けた。 画面には、二人の男性が並んで笑っている写真があった。 (二人とも、幸せそう……) いい写真だった。 「俺のパートナー。十年になる」 渚は、その写真をじっと見た。 「だから」と橘は言った。「怖がらなくていい」 渚はまだ写真を見ていた。 胸の中で何かがゆっくりと解けていくのを、渚は感じていた。 「それと」と橘が小声で、教