Masuk保育園からずっと好きだった。 ただ、それだけだった。 宮原玲は誰にでも優しい。 怒らない。乱れない。嫌われない。 渚といるときは特に、壊れ物を扱うように丁寧に触れる。 でも本当は――閉じ込めたい。めちゃくちゃにしたい。自分以外の誰にも渡したくない。 その衝動を、玲はずっと別のところで発散してきた。 相良渚には過去がある。 男性が怖い。でも玲だけは怖くなかった。 事件が起きる前の、まだ綺麗だった頃の自分を知っている人だから。 同棲が決まった夜、渚は初めて打ち明ける。 怖くなくなりたい。玲のために、自分のために。 そして同棲初日、すべてが崩れた。 優しい彼と、動画の中の彼。 ――どっちが本物?
Lihat lebih banyak※ ※ ※ 渚は綾乃たちと居酒屋でどんな会話をしたか、玲に楽しそうに教えてくれた。 綾乃の婚約者は大学のサークルで知り合った二つ上の先輩だったということ、彼氏から振られて合コン三昧の友人のこと、それから仕事に生きると宣言した友人のこと――渚は、高校時代の思い出をなぞるように、懐かしむように語ってくれた。 ただ、出張先での詳しい話が渚から語られることはなかった。出張先で購入したお土産を彼女から受け取った時に「出張どうだった?」と訊くタイミングはあったのに、玲が訊くことを躊躇ったからだ。渚が仕事に生きがいを感じることは、悪くはないことなのに。渚が楽しそうに仕事の話を語ることだって、何も悪くない。暗く沈んでいた高校時代の渚を知ってるからこそ、本気でそう思える。渚が笑顔で喋っている姿を眺めるだけの時間は、至福の時だった。 しかし、その奥底に存在するもう一人の自分が叫んでいるのも事実だった。『俺以外を見るな』『俺以外と楽しく過ごすな』『俺の見ていないところで、幸せにならないでくれ』 その感情を押し殺し、幸せそうに微笑んでいる渚に向けて、玲もまた微笑んでいた。 見えない血の涙を流して。 その翌週の金曜日――昼休憩。 玲は社内の階段の踊り場へ向かうと、ジャケットの内ポケットから携帯を取り出し、迷わず渚の番号をタップした。『もしもし、玲?』 携帯越しに聞こえる渚の柔らかい声。それだけで、午前中の仕事の疲れが吹き飛ぶようだった。今日は金曜日。夜になれば渚が自分の家に来てくれる。そして、土曜日は渚とカーテンを買いに行くのだ。彼女が選んでくれたカーテンで窓を覆う――二人だけの空間が生まれる。「今、大丈夫? ご飯ちゃんと食べた?」『うん、食べたよ。玲は? 今夜、カウンセリング終わってから玲の家に行くから……』 そこまで言った時だった。 渚の背後から男の声が紛れ込んできた。『相良ちゃーん、休憩中にごめん! この資料チェックを至急頼んでいい?』『はーい、すぐ行きます!』 渚がごく自然に、明るい声で返答する。『ごめんね玲、ちょっと仕事頼まれちゃった。また夜ね』「あ……うん。待ってる――」 プチッ、と通話が切れる。 静まり返った階段の踊り場で、玲は手に持った携帯を握り締めたまま、呆然と固まっていた。(相良ちゃん……? なんでそんなに親しそうなん
お会計を済ませ、居酒屋の外へ出た。 女性客で賑わう店を後にし、玲が車を取りに駐車場へ向かっている間に、一人になった渚の手を綾乃はぎゅっと強く握り締めた。その瞳には、明らかな危惧の色が浮かんでいる。「何かあったらすぐ連絡するんだよ。絶対に、一人で抱え込まないでね」「なにもないよ!」 渚は満面の笑顔でそう答えて、玲の車に乗り込んだ。 玲は綾乃たちに運転席から頭を下げて、車を車道へ進めた。 遠ざかって行く二人を乗せた車を、綾乃は複雑な表情で見送ることしかできなかった。 ※ 渚を助手席に乗せ、玲は居酒屋の駐車場を出た。 車内には控えめに暖房が効いており、静かなエンジン音だけが夜の街に溶けていく。 新しく整えてもらった髪を、渚が褒めてほしそうにしているのが分かった。彼女は自分の髪を撫でながら、チラチラと見てくるのだから――。 ハンドルを握る手に力がこもった。渚の言葉を待っていたけれど、彼女はなかなか切り出せないでいるようだった。「いつ引っ越す?」 玲は髪のことに触れるつもりが、違う言葉を投げかけていた。 「えっ?」 唐突な問いかけに、渚は目を瞬かせた。「えっと……まだ自分の部屋の荷物もまとめてないし、新居の家具もこれから決めなきゃだし――」「家具は買った」「え……」「食器も二人分、もう揃えてある」 渚の言葉を遮るように告げると、彼女の瞼が微かに痙攣し、渚は目を伏せた。 「一緒に、選びたかったな……」 渚が、ぽつりと呟いた。 すると、玲は慌てたような口調で言った。「ごめん! 俺、先走って勝手に買っちゃった。渚と早く一緒に暮らしたくて……本当にごめんね」「ううん、どうして謝るの? 私がのろのろしてるから、玲が気を利かせて買ってくれたんでしょ? ……
※ 駅近くにある、オーガニック野菜と果物カクテルが人気の居酒屋の一角で、渚は高校時代からの友人たちとテーブルを囲んでいた。木目調の落ち着いた店内は女性客がその大半を占めており、どの席からも華やかで賑やかな笑い声が聞こえてくる。 左手の薬指に輝く指輪を恥ずかしそうに見せる綾乃を、全員が満面の笑顔で祝福した。「本当におめでとう、綾乃」 渚が心からの祝意を伝えると、綾乃は嬉しそうに目を細めたが、ふと渚の髪に目を留めた。「ありがと。……あ、渚、髪切った? すごい似合ってる。お洒落なカット」「えっ、あ、うん。ちょっと出張の時にね……」 少し照れくさそうに整った毛先を触る渚を見て、友人たちの一人が身を乗り出した。「このあと、二次会行かない? 近くに可愛いカフェあるんだよね」「行くー!」 みんなが口々に賛成するなか、渚だけが少し申し訳なさそうに手を振った。「あ。私はパスで……ごめんね」「えー、なんでよ渚」「玲が二十二時に迎えに来てくれることになってるの」「はあ? 高校生の門限じゃあるまいし!」 呆れたように声を上げた友人に、渚は困ったように、けれどどこか嬉しそうに微笑む。「玲が心配性なだけなの。それに……新しくセットしてもらったこの髪、早く玲に見せたいし」 ノロケ混じりの渚の言葉に、綾乃が少し真面目な顔をしてグラスを置いた。「渚は、最近彼氏とどう?」「相変わらずなの?」 他の子も乗っかるように訊ねてくる。そのトーンには、単なる恋バナとは違う、どこか探るような響きがあった。「相変わらず、って?」 首を傾げる渚に、友人が声を潜めた。「……高校の時みたいに、会社の前で待ち伏せしてたりしない?」「いつの話してるの」 渚はおかしくなったように笑った。
※ その頃、渚は出張先のホテルのラウンジで、少し冷めたハーブティーのカップを両手で包み込んでいた。 視線の先では、ガラス窓の向こうの夜景を背にして、橘が楽しげに甘い声で携帯に囁いている。「そう、無事に帰るわよ。……ええ、愛してるわ」 屈強な男が、恋する乙女のような顔で囁くのを見て、渚は少しだけ微笑んだ。 自分も玲に、今の充実を伝えたい。 ただ純粋に、一日の終わりに声を聴き合いたいから電話をしている――そんな関係が、渚にはとても眩しく、そして少しだけ羨ましく思えた。(私も、玲に今の気持ちを伝えたいな) 苦手だった美容院に行けたこと。知らない土地で、新しい仕事に挑戦できていること。 この充実感を分かち合いたくて、渚は携帯を開いた。『今日も頑張ったよ。展示会、すごく勉強になった』 文字を入力し、送信する。 すぐに既読が付いた。 『ホテルのご飯美味しかった。写真撮ったから送るね』 メッセージと共に写真を送信。 画面の「既読」マークは一瞬でつき、弾かれたように矢継ぎ早の返信が画面を埋め尽くした。『どこにいるの?』『誰と食べたの?』『一人?』「……、」 渚は胸の奥に、小さな違和感——微かな圧迫感を覚えた。 けれど、渚はすぐに小さく頭を振って、その不穏な感覚を脳内から打ち消した。 (私のことが、心配なんだ) 渚は「橘さんと食べたよ」とは打たず、「上司と食べて、今はもう部屋だよ」とだけ返した。 事実を送り、渚はそっと画面を伏せた。 ※ ※ ※ 土曜日の夕方、無事に二泊三日の出張を終えた渚は、安心できる自宅に戻ってきて、小さく深く息を吐き出した。身体には心地よい疲労感が残っている。 今回の出張は、渚にとって挑戦の連続だっ
※ 玲が渚と初めてセックスしたのは、高校三年生のクリスマスイヴだった。 渚が手編みのマフラーをくれた。「重いよね、ごめんね」と謝った渚に、強く首を振った。渚は知らない。玲にとって、渚から貰えるなら何でも嬉しいことを。 (あのマフラーは今でも使っている) 解れるたびに渚が手直しをしてくれる。冬になると、渚に毎日抱きしめられているような気分になる。 (あのデートも、セックスも、全部覚えてる) ――こんな、安っぽいホテルではなかったのは確かだ。 消毒液の匂いが混じったラブホテルの室内。 「ほら、ちゃんと力抜いて」 優しく言っている筈なのに、声は低く、逃げ道を塞ぐ響きを持っていた
「どうぞ」 無害そうな笑みを浮かべ、隣りを促すと女は恐る恐る玲の隣りに座った。 Barの高い椅子も不慣れなのか何度も座り直す。その度にスカートが捲れそうになり、慌てて手で押さえていた。 ようやく、思ったように座った彼女はマスターに「同じのを下さい」と伝えた。度が強いウイスキーだということを玲は教えなかった。 ――案の定、二杯で酔ってしまっていた。 「わたし、今日が二十歳のたんじょうび、なんれす」 「おめでとう」 心のこもらない言葉を、グラスで隠す。 女は愚痴を喋り続けている。 玲はそれを聞き流しながら、別のことを思い出していた。 (あの時) ――怖かった、と震える声で
※ ※ ※ 別に渚を疑っている訳じゃない。 社会人にでもなれば、残業は増えるものだ。 ここ最近になって、残業が増えたのは事業部長が変わったから、と言うのも納得は出来る。 だが――相手は海外から赴任してきた人物だ。 そんな人間が日本の悪しき風習である残業を部下にさせるだろうか。しかも、決まって毎週金曜日。金曜は渚に手料理を振る舞って、その後は配信ドラマや映画を観て、ベッドに入るという流れが今では夕食の時間が遅れ、ドラマと映画を見る時間が削られてしまっていた。 「橘部長がね、アメリカ本社のパーティで」 (橘) 「橘部長が、アメリカのカフェで」 (橘) 「橘部長が、今日の会議
「してないよ」 すぐに返ってきた。でも一瞬の間があった。 渚は何も言わなかった。 「……何か、あった?」 不安そうに訊ねた玲に、「なんでもない」と答えて首を振る。そして、玲の胸に顔を埋めた。 髪を撫でる手が、また動き始める。 (してる) 渚には分かった。 玲が渚のペースに合わせていること。怖がらせないように、壊さないように、触れていること。 それが嬉しくないわけじゃない。 でも。 (玲に、ずっと我慢させてる) 渚のせいで。渚が怖がるから。渚が、普通じゃないから。 玲は優しい。 怖がれば止まってくれる。 無理をさせない。 急かさない。 渚が泣きそうになれば、