LOGIN※ ※ ※ 土曜日。玲は約束の一時間前には、すでにあの公園に立っていた。 かつて幼い自分が、渚を置き去りにして待たせてしまった場所。あの日の身勝手な自分を責め立てるように、玲は何度も何度も、同じ景色を、同じ足元を確認せずにはいられなかった。(ここでいいはずだ。渚が言ったのは、間違いなくこの場所だ) 時間が進むにつれ、心臓の奥がじわじわと冷たい不安に侵食されていく。(本当に、渚は来るのだろうか) やはり来ないかもしれない――直前になって怖気づき、約束を白紙に戻してしまったのではないか。そんな最悪の想定が頭をよぎり、足元がぐらりと揺らぐ。 それでも、玲はその場を頑なに変えようとはしなかった。一歩たりとも動くつもりはなかった。 幼い頃は、自分が渚を待たせた。だから今度は、玲が待つ番だった。どれだけ長くても、たとえ陽が落ちようとも、彼女が来るまでここで待ち続ける。その決意だけが、玲の身体をその場に縫い留めていた。 約束の時間が近付いたその時、公園の入口近くに一台のタクシーが滑り込んできた。 人混みが苦手な渚がここまで来るための手段がそれだったのだと、玲は瞬時に理解した。 ドアが開き、車内から見覚えのある小さなシルエットが降りてくる。(……本当に、来た) 胸の奥から、堰を切ったような猛烈な感動が突き上げてくる。夢じゃない。自分に会うために、渚がここまで来てくれた。その事実だけで、玲の心は破裂しそうなほどの歓喜で満たされる。 しかし、ゆっくりとこちらへ歩いてくる彼女の表情を見た瞬間、玲の歓喜はすっと不安へと色を変えた。 見えてきた渚の顔には、かつてのはにかんだ微笑みは一切なかった。きつく結ばれた唇と、何かに耐えるような硬い眼差し。自分に何かを告げようとする、強い覚悟に満ちたその表情に、玲の背筋には再びあの冬の日のような冷たい戦慄が走った。 玲の前まで辿り着くと、渚はふっと笑顔を見せた。 けれど、それはあまりにもぎこちなく、引き攣ったような、無理やり作った笑顔なのだと玲は瞬時に悟ってしまう。「急に呼び出してご
その声が間違いなく渚だと理解した瞬間、玲は跳ね起きるようにしてベッドの上に身を起こした。背負ったままだった鞄が重く床へ転がり落ちたが、そんな音は一切耳に入らない。「渚?」 低く冷たかった玲の声は、一瞬で温度があるものへと変わった。「いきなり電話してごめんね」「どうしたの……?」 玲は声を震わせながら訊ねた。 会うのをやめようと言ったのは、渚のほうだった。なのになぜ今になって連絡をしてきたのか――深く考え込むよりも先に、彼女の声を二ヶ月ぶりに聞くことが出来た感動の方が戸惑いよりも大きかった。彼女の息遣いが伝わり、玲は喜びに胸を震わせる。「あのね……」 渚の声が途切れた。 玲の鼓膜に、渚が深呼吸を繰り返している音が届く。言葉を吐き出そうとしては、飲み込んでいるような気配がした。「今週の土曜日、会えないかな?」 予定なんて、あるはずがなかった。「玲に話したいことがあるの」 自分に話したいことがある――二ヶ月前の話の続きをするつもりなのだろうか。(俺を振った理由を聞かされるのか?) 心の傷を抉りにかかるのだろうか――そんな考えが駆け巡ったが、それは一瞬だった。「会えるよ」 玲はすぐに答えた。渚に会いたい理由は沢山ある。会えない理由なんてない。自分が何を言われるか、聞かされるのかという怖さよりも渚に一生会えない方が、不幸だった。「じゃあ、土曜日よろしくね」 玲の返事に、渚がホッと息を吐いた。「渚の学校に行くよ」「ううん。私が呼び出すから、私が玲のところまで行く」(渚が俺に会いに――……) 渚と再会してから初めてのことだ。 玲は女子寮まで迎えに行くつもりだった。彼女に会うために揺られる電車がどんなに満員だったとしても、一度も苦痛に感じたことはなかったから。(でも、電車は人が多いのに大丈夫かな) 初詣、映画館の人混みに青褪めていた渚が脳裏に浮かんだ。あのよ
※ ※ ※ 玲は自宅に帰り、まっすぐ自分の部屋へと向かった。 肩に食い込んでいた鞄を下ろす元気すら湧かず、制服のまま、ベッドの端に力なく腰を下ろす。重たい身体を丸めるようにして視線を落とすと、その先に、あの勉強机が嫌でも視界に入った。 そこには、あの日から一ミリも動かされることなく、静かに佇む渚から貰ったチョコレートの小さな紙袋があった。(渚……) 紙袋を受け取ったあの日、繋いだ手を思い出す。 玲は膝の上に置いた自分の両手を見つめた。 何をしていても、結局はあの場所に、あの瞬間に引き戻されてしまう。 あの時、確かに繋がっていた掌。今は驚くほど冷え切っていて、いくら指を握り締めても、温かい渚の体温が戻ってくることは二度となかった。 玲は鞄を下ろさないまま、重い身体ごとベッドへと倒れ込んだ。 仰向けのまま天井を見上げ、すぐに、逃げるように両手で顔を覆い隠す。(渚に会いたい……) その渇望だけが、濁流のように胸の奥で渦巻いていた。 暗闇を強引に作り出すように、顔を覆う玲の手の隙間から入り込む冷たい空気だけが、玲の頬を静かに撫でていく。 ――ピロン。 その静寂を切り裂くように、制服のポケットの中で、携帯のメッセージ受信音が短く鳴り響いた。 けれど、玲は顔を覆った手を微動だにさせず、携帯を取り出そうともしなかった。どうせクラスメイトからの他愛のない連絡だろう。今の玲にとって、渚以外からの言葉はすべて無価値な雑音でしかなかった。 画面を確認する気にすらなれず、玲はただ、深い泥のような思考に沈んでいく。(告白なんて、しなきゃよかったんだ……) 来週に迫ったゴールデンウィークだって、当然のように渚と会って、どこかへ出かけていただろう。手を繋いで映画を観たり、あるいは夢にまで見た狭いカラオケボックスで二人きりの時間を過ごしたりしていたかもしれない。 ぽっかりと空いてしまった大型連休の予定。何をして時間を潰せばいいのか、今の玲には全く思いつかな
※ ※ ※ 三年生に進級し、周りのクラスメイトたちの空気は一変した。 誰もが「受験」や「就職」といった現実的な未来を意識し始め、進路説明会の資料を睨みつけ、休み時間には参考書を片手に未来の選択肢を話し合う。教室の空気はにわかに熱を帯び、全員が必死に前を向いて進み始めようとしていた。 玲だけはその波に乗ることが出来なかった――というよりも、何もしていなかった。 玲は机に頬杖をついたまま、窓の景色を眺める。グラウンドで生徒たちがじゃれ合い、楽しそうに笑い声を上げていた。(あーやって……渚と笑い合うことは二度とないのか……)『私たち、会うのやめよう』 そう呟いた渚の顔を、玲はなぜか思い出せなかった。脳がショックを和らげようと防衛反応でも働かせているのか、いくら記憶を遡ろうとしても、彼女が最後に見せた拒絶の表情には分厚い霧がかかっている。代わりに、いつも思い出すのは、彼女が直前に見せていた、あのマフラーに顔を埋めたはにかんだ笑顔ばかりだった。(告白なんてしなきゃ、ホワイトデーのお返しを渡せたのにな) 最初はお揃いの、あるいは彼女の白い肌によく映えるアクセサリーを買おうとした。けれど、付き合ってもいない幼馴染からのそんな贈り物はあまりにも重すぎるだろうと寸前になって思い直した。結局、お洒落な洋菓子店でクッキーを購入した。 それは今も、玲の勉強机の引き出しの奥で、静かに眠っている。「渡せる保障もないのにな」 窓ガラスに映る自分の生気のない顔を見つめながら、玲はぽつりと自嘲した。 賞味期限なんて、とうに切れているかもしれない。 けれど、それをゴミ箱に投げ捨てることさえ、今の玲には彼女との繋がりを自ら完全に断ち切ってしまうような気がして、どうしてもできなかった。 それは、渚から貰ったあのチョコレートも同じだった。 あの日、彼女が緊張しながら手渡してくれた小さな紙袋。中に入っているチョコレートは、箱すら開けられることなく、今も自宅の勉強机の上にぽつんと置かれたままだ。 本当なら、嬉しそうに食べる自分の姿を
一度言葉にしてしまえば、あとは勢いよく言葉を紡ぐことができた。「俺の彼女になってください。これから先もずっと、渚と一緒にいたい」 玲の瞳は、渚を映し込んでいたからこそ――彼女に訪れた微小な変化が、誰よりも痛いほどに分かってしまった。 渚の顔が、まるで酷い痛みに耐えるかのように苦しそうに歪んでいく。その唇は、血の気が失せて白く染まるまで強く噛み締められた。 喉が小さく震え、マフラーに埋まった唇が僅かに開いて、ひゅっと冷たい息が漏れ出る。 この口から紡がれるであろう次の言葉を、聞きたくない、絶対に聞いては駄目だと脳が拒絶を叫ぶ。 だが、その拒否の言葉を玲は絞り出すことができなかった。「ごめんね」 無情にも、静かな声が冬の空気を震わせた。「玲とは付き合えない」 渚が目の前にいるはずなのに、歪んだ視界の中で上手く捉えることが出来ずにいた。「私たち、会うのやめよう」 世界が反転するような衝撃のなかで、玲が強く握り締めていたはずの渚の手が、ゆっくりと離れようとする。 離したくない。絶対に離してなるものか。 そう強く願って、指先に力を込めたはずだった。それなのに、どうしてか自分の身体ではないように全く力が入らず、渚の華奢な手は、玲の指の間から驚くほど簡単に、するりと離れていってしまった。 気付けば、玲は一人だった。辺りは暗く、外灯が心細く彼の足元を照らしている。 渚の手を握っていた指先は、体温が失われたかのように冷たく、渚からもらったチョコレートだけが唯一、玲を今世に繋ぎ止めていた。(これで、終わりなのか……?)「本当に?」 掠れた呟きが、冷え切った暗闇に虚しく溶けていく。 来年もチョコを渡すと言ってくれた、その口で、「会うのをやめよう」と告げられた。そんな残酷な矛盾が、どうしても現実のものとして受け入れられない。 あそこで告白しなければ、来年の今日、また渚からチョコを貰っていたはずの未来を、自分は自らの手で粉々に壊してしまった。渚も俺と同じ気持ちだという慢心さえ抱かなければ、彼女の
「あのね、玲」 彼女の頬は、冬の寒さのせいか、赤く染まっている。 その上、渚の目は力が入りすぎていて、緊張しているように見えた。「どうしたの……?」 声が上擦らないよう、玲は平常心を保つ――彼女が何を言い出すつもりなのだろうか、と思わず身構えた。「実は……渡したいものがあって」 渚は少し震える手で自分のバッグを開けると、奥から小さな、丁寧にラッピングされた紙袋を取り出した。それを、まるで壊れ物を扱うようにして、玲の前に両手で差し出す。「はい。……これ」「これは……?」 予期せぬ贈り物に、玲が目を丸くして受け取る。手渡された紙袋を覗き込んだ瞬間、玲の脳裏にある日付が閃いた。「今日、バレンタインだから」 渚がはにかむように言った。 バレンタイン――学校では女子たちからそれなりに声をかけられるイベントだったが、自分の家と、学校と、渚のいる場所だけを行き来していた今の玲にとって、そんな季節行事は完全に意識の外に弾き飛ばされていた。「玲、甘い物好きだから……どうかなって」 どこの誰から貰ったものか覚えていないチョコレートよりも、今、こうして自分の手の中にある小さな紙袋の重みを玲は一生忘れることはないだろう。胸に沸き起こる歓喜を、どのように言葉に表したらいいのか、玲は持ち合わせていなかった。 喜びを噛み締め、紙袋を覗いたまま言葉を発しないでいると、渚から「ごめんね」と微かな声をかけられて、玲はハッと顔を上げた。 どうして謝られたのか不思議に思って彼女を見ると、渚はひどく不安そうな目をして、マフラーに口元を埋めている。「私のお小遣いで買える範囲だから、たいした物じゃなくて……」「そんなことない!」 玲は渚の声を遮って、全力で彼女の言葉を否定した。「すっごく嬉しい! こんなに嬉しいことは初めてだ!」 その言葉に目を丸くした渚の手を、玲は思わずぎゅっと握
※ドアをノックすると、「どうぞ」という低い声が返ってきた。一歩踏み出せば胸に圧がかかる。渚は息を浅くしたまま、ドアを開けた。橘 涼は書類から顔を上げた。 「相良さん、座って」 手で示された椅子に、渚は背筋を伸ばして腰を下ろした。渚は、目の前のガタイがいい男――橘の放つ威圧感に圧されていた。――やっぱり、苦手なタイプの男だった。背が高い。肩幅が広い。腕も太い。スーツの上からでも分かる体格の良さ。「楽にしていいから」と橘は手元の書類を捲った。(楽に……無理……)橘の声は近くで聞くと余計に低く、男らしさを感じさせるものだった。唯一の救
(あぁ……嫌だ。どうしよ……)職場のトイレで相良 渚は手洗い場の鏡の前から動けずにいた。鏡に映るのは、薄化粧を施した顔。肩にかかるくらいのミディアムストレート。丁寧に整えれば、綺麗に見える筈なのに、どこか少しだけ不揃いで、自分のために髪を整えることに、まだ慣れていない。 そんな渚の表情は両眉が情なく下がり、胸の前で指をずっと弄っている。 「どうしよ……」 一週間前、渚が働く化粧品会社に事業部長が海外本社から異動してきた。本社で実績を残し、日本支部も盛り上げるため、という理由での異動。 異動自体は珍しくない。渚が新卒で入社した時の事業部長は半年後に海外に転勤になったくらいだ。よくある
渚とばかり遊んでいたことをクラスメイトに囃し立てられ、思春期特有の照れ隠しから、好きじゃない、と否定した。それを証明するために渚との約束を連絡なしにすっぽかし、クラスメイト達と校庭でサッカーをして遊んだ。その次の日からだ。渚が学校に登校しなくなったのは。プリントを毎日届けても、渚の母親しか対応してくれず。話したい、とお願いしても「風邪をうつすと悪いから」と門前払い。二階の渚の部屋のカーテンは固く閉じたままだった。いつも玲が遊びに来ると必ず、あの窓から顔を見せてくれるのに。渚を怒らせてしまった、と玲は思った。体調が悪いのは本当かもしれない。でも、自分が家の外から渚を呼んでも返事さえ
滑らかな肌、掌に吸い付く肌触り。 躰の線を指先で撫でれば、小刻みに震え、甘い吐息を漏らす愛しい人。 宮原玲はフェザータッチから徐々に手の動きを大胆にしていき、大きな掌で、薄い腹に触れた。 その手に驚いたのか、玲の下にいる相良渚の腰が跳ねた。 玲は渚の反応にすぐに手を止めた。 両眉を八の字に下げて、彼女を心配そうに見下ろす。渚は頬を赤く染め、瞳が潤んでいた。 「ごめん、驚かせた。大丈夫?」 答えの代わりに、渚は玲の背中に手を回した。遠慮がちに触れるだけ――爪を立ててくれても良いのに。血が出るほど、消えない痕を残







