로그인※ ザーッというシャワーの音が、浴室に響いていた。 髪を洗い流していた真央は、ガラッと引き戸が開く音に驚いて振り向いた。 湯気の向こう、水滴越しに視線を上げる。そこに立っていたのは、スーツを着た玲だった。 ネクタイは微妙に緩み、前髪の隙間から覗く瞳は濁りきっていた。一切の光を失い、ただ底知れない狂気と絶望の鋭さだけを宿している。 声もかけず、突っ立ったまま、じっとこちらを見ている。(……何かあったわね) 金曜日の夜――本来ならあの「渚ちゃん」と甘い時間を過ごしているはずの日に、玲が真央の元を訪れるなんて今まで一度もなかった。 玲と渚の絆が、切れてしまいそうな予感が真央の胸に湧き起こった。 真央は何も言わなかった。 ただ口元を吊り上げると、玲に背を向け、流れ続けるシャワーの下で、壁に両手を突いた。自らお尻を突き出し、玲を迎え入れる体勢を取った。 背後で、カチャカチャと金属音が響く。 次の瞬間、服を着たままの玲がシャワーの熱い水の中へ踏み込み、真央の腰を乱暴に掴んだ。躊躇いもなく、後ろから深く突き刺される。「っ……ぁ……!」 背中を強い衝撃が襲い、熱い吐息が首筋に吹きかかった。 濡れたスーツの生地が肌に張りついて、不快感があった。それなのに、真央を貫く玲の体だけが、燃えるように熱く、真央の体を快感で埋め尽くしていく。 玲と渚が破滅に向かっているという予感のせいで、真央の体はすでに濡れていた。玲の硬く冷たい昂りを、抵抗もなく根元まで呑み込んでいく。 玲が真央に前戯なんてしたことは、最初から一度もなかった。 優しさも、愛撫も、言葉さえもない。あるのは自分勝手に欲望をぶつけてくる乱暴な侵入だけ。ただの性欲処理――それを望んだのは真央自身だが、それで良かった。(相良渚にはできないことを、私はできている。玲の本性を曝け出させているのは、他の誰でもない、この私なのだから) 玲が体を預けているのは私なのだという歪んだ優越感が、真央の頭の中を白く痺れさせていく。『玲は、私に戻ってくる』 昔、玲に告げたあの言葉は、ついに真実になる。 シャワーの水飛沫を浴びながら、玲が激しく腰を打ちつけ、奥を抉るように抽挿を繰り返す。 着衣のままの玲に背後から覆われ、真央は狂おしい嬌声をあげながら、もっと寄越せと言わんばかりに自らも腰を振り上げた。
※ ※ ※ 渚は綾乃たちと居酒屋でどんな会話をしたか、玲に楽しそうに教えてくれた。 綾乃の婚約者は大学のサークルで知り合った二つ上の先輩だったということ、彼氏から振られて合コン三昧の友人のこと、それから仕事に生きると宣言した友人のこと――渚は、高校時代の思い出をなぞるように、懐かしむように語ってくれた。 ただ、出張先での詳しい話が渚から語られることはなかった。出張先で購入したお土産を彼女から受け取った時に「出張どうだった?」と訊くタイミングはあったのに、玲が訊くことを躊躇ったからだ。渚が仕事に生きがいを感じることは、悪くはないことなのに。渚が楽しそうに仕事の話を語ることだって、何も悪くない。暗く沈んでいた高校時代の渚を知ってるからこそ、本気でそう思える。渚が笑顔で喋っている姿を眺めるだけの時間は、至福の時だった。 しかし、その奥底に存在するもう一人の自分が叫んでいるのも事実だった。『俺以外を見るな』『俺以外と楽しく過ごすな』『俺の見ていないところで、幸せにならないでくれ』 その感情を押し殺し、幸せそうに微笑んでいる渚に向けて、玲もまた微笑んでいた。 見えない血の涙を流して。 その翌週の金曜日――昼休憩。 玲は社内の階段の踊り場へ向かうと、ジャケットの内ポケットから携帯を取り出し、迷わず渚の番号をタップした。『もしもし、玲?』 携帯越しに聞こえる渚の柔らかい声。それだけで、午前中の仕事の疲れが吹き飛ぶようだった。今日は金曜日。夜になれば渚が自分の家に来てくれる。そして、土曜日は渚とカーテンを買いに行くのだ。彼女が選んでくれたカーテンで窓を覆う――二人だけの空間が生まれる。「今、大丈夫? ご飯ちゃんと食べた?」『うん、食べたよ。玲は? 今夜、カウンセリング終わってから玲の家に行くから……』 そこまで言った時だった。 渚の背後から男の声が紛れ込んできた。『相良ちゃーん、休憩中にごめん! この資料チェックを至急頼んでいい?』『はーい、すぐ行きます!』 渚がごく自然に、明るい声で返答する。『ごめんね玲、ちょっと仕事頼まれちゃった。また夜ね』「あ……うん。待ってる――」 プチッ、と通話が切れる。 静まり返った階段の踊り場で、玲は手に持った携帯を握り締めたまま、呆然と固まっていた。(相良ちゃん……? なんでそんなに親しそうなん
お会計を済ませ、居酒屋の外へ出た。 女性客で賑わう店を後にし、玲が車を取りに駐車場へ向かっている間に、一人になった渚の手を綾乃はぎゅっと強く握り締めた。その瞳には、明らかな危惧の色が浮かんでいる。「何かあったらすぐ連絡するんだよ。絶対に、一人で抱え込まないでね」「なにもないよ!」 渚は満面の笑顔でそう答えて、玲の車に乗り込んだ。 玲は綾乃たちに運転席から頭を下げて、車を車道へ進めた。 遠ざかって行く二人を乗せた車を、綾乃は複雑な表情で見送ることしかできなかった。 ※ 渚を助手席に乗せ、玲は居酒屋の駐車場を出た。 車内には控えめに暖房が効いており、静かなエンジン音だけが夜の街に溶けていく。 新しく整えてもらった髪を、渚が褒めてほしそうにしているのが分かった。彼女は自分の髪を撫でながら、チラチラと見てくるのだから――。 ハンドルを握る手に力がこもった。渚の言葉を待っていたけれど、彼女はなかなか切り出せないでいるようだった。「いつ引っ越す?」 玲は髪のことに触れるつもりが、違う言葉を投げかけていた。 「えっ?」 唐突な問いかけに、渚は目を瞬かせた。「えっと……まだ自分の部屋の荷物もまとめてないし、新居の家具もこれから決めなきゃだし――」「家具は買った」「え……」「食器も二人分、もう揃えてある」 渚の言葉を遮るように告げると、彼女の瞼が微かに痙攣し、渚は目を伏せた。 「一緒に、選びたかったな……」 渚が、ぽつりと呟いた。 すると、玲は慌てたような口調で言った。「ごめん! 俺、先走って勝手に買っちゃった。渚と早く一緒に暮らしたくて……本当にごめんね」「ううん、どうして謝るの? 私がのろのろしてるから、玲が気を利かせて買ってくれたんでしょ? ……
※ 駅近くにある、オーガニック野菜と果物カクテルが人気の居酒屋の一角で、渚は高校時代からの友人たちとテーブルを囲んでいた。木目調の落ち着いた店内は女性客がその大半を占めており、どの席からも華やかで賑やかな笑い声が聞こえてくる。 左手の薬指に輝く指輪を恥ずかしそうに見せる綾乃を、全員が満面の笑顔で祝福した。「本当におめでとう、綾乃」 渚が心からの祝意を伝えると、綾乃は嬉しそうに目を細めたが、ふと渚の髪に目を留めた。「ありがと。……あ、渚、髪切った? すごい似合ってる。お洒落なカット」「えっ、あ、うん。ちょっと出張の時にね……」 少し照れくさそうに整った毛先を触る渚を見て、友人たちの一人が身を乗り出した。「このあと、二次会行かない? 近くに可愛いカフェあるんだよね」「行くー!」 みんなが口々に賛成するなか、渚だけが少し申し訳なさそうに手を振った。「あ。私はパスで……ごめんね」「えー、なんでよ渚」「玲が二十二時に迎えに来てくれることになってるの」「はあ? 高校生の門限じゃあるまいし!」 呆れたように声を上げた友人に、渚は困ったように、けれどどこか嬉しそうに微笑む。「玲が心配性なだけなの。それに……新しくセットしてもらったこの髪、早く玲に見せたいし」 ノロケ混じりの渚の言葉に、綾乃が少し真面目な顔をしてグラスを置いた。「渚は、最近彼氏とどう?」「相変わらずなの?」 他の子も乗っかるように訊ねてくる。そのトーンには、単なる恋バナとは違う、どこか探るような響きがあった。「相変わらず、って?」 首を傾げる渚に、友人が声を潜めた。「……高校の時みたいに、会社の前で待ち伏せしてたりしない?」「いつの話してるの」 渚はおかしくなったように笑った。
※ その頃、渚は出張先のホテルのラウンジで、少し冷めたハーブティーのカップを両手で包み込んでいた。 視線の先では、ガラス窓の向こうの夜景を背にして、橘が楽しげに甘い声で携帯に囁いている。「そう、無事に帰るわよ。……ええ、愛してるわ」 屈強な男が、恋する乙女のような顔で囁くのを見て、渚は少しだけ微笑んだ。 自分も玲に、今の充実を伝えたい。 ただ純粋に、一日の終わりに声を聴き合いたいから電話をしている――そんな関係が、渚にはとても眩しく、そして少しだけ羨ましく思えた。(私も、玲に今の気持ちを伝えたいな) 苦手だった美容院に行けたこと。知らない土地で、新しい仕事に挑戦できていること。 この充実感を分かち合いたくて、渚は携帯を開いた。『今日も頑張ったよ。展示会、すごく勉強になった』 文字を入力し、送信する。 すぐに既読が付いた。 『ホテルのご飯美味しかった。写真撮ったから送るね』 メッセージと共に写真を送信。 画面の「既読」マークは一瞬でつき、弾かれたように矢継ぎ早の返信が画面を埋め尽くした。『どこにいるの?』『誰と食べたの?』『一人?』「……、」 渚は胸の奥に、小さな違和感——微かな圧迫感を覚えた。 けれど、渚はすぐに小さく頭を振って、その不穏な感覚を脳内から打ち消した。 (私のことが、心配なんだ) 渚は「橘さんと食べたよ」とは打たず、「上司と食べて、今はもう部屋だよ」とだけ返した。 事実を送り、渚はそっと画面を伏せた。 ※ ※ ※ 土曜日の夕方、無事に二泊三日の出張を終えた渚は、安心できる自宅に戻ってきて、小さく深く息を吐き出した。身体には心地よい疲労感が残っている。 今回の出張は、渚にとって挑戦の連続だっ
※ 残された寝室で、真央は天井を見つめながら、かつて自分が口にした言葉を思い出していた。『私、玲の性欲処理になる』 その言葉を、真央はこれまでに二度、玲に告げている。 一度目は、中学一年生の時。彼に告白して、無残に振られた直後。 そして二度目は――玲が、渚と付き合い始めてすぐ後だ。 真央は最初から確信していた。玲が抱える歪んだ破壊性を、あの相良渚が受け止めきれるはずがない、と。 渚の身に大昔に何が起きたのか、真央は知っていた。大人は子供の耳に入らないよう細心の注意を払って隠していたようだから、当然、玲はその事件の全貌を知らないままだった。けれど、真央の親は違った。家庭の歪みのなかで、その噂は真央の耳へと筒抜けになっていたのだ。 渚は壊れ物みたいだった。 玲は、そんな彼女を壊さないよう必死に息を潜めている。 でも、それで玲が満たされるはずがない。 だからこそ、二度目の『性欲処理になる』を告げたのだ。 そのとき、玲は激しい嫌悪感を露わにして真央を拒絶した。けれど、真央は動じなかった。彼の瞳の奥にある、いつか決壊するであろう暗い衝動を見つめながら、ただ静かに微笑んだ。『待ってるから』 そう言い残した真央の予言は、残酷なほど正確に的中した。 玲は戻ってきたのだ。忘れもしない、あのクリスマスの夜。 渚との甘いデートを終えたその足で、あろうことか、渚から貰ったばかりのマフラーを首に巻いたまま、光のない目で真央の前に現れた。 シャワーの音を聞きながら、真央は唇の端を僅かに吊り上げる。 玲がどんなに渚を求め、どんなに遠くへ行こうと、彼がその怪物のような本性を曝け出せる場所は、世界でただ一つ、この部屋の、自分の上だけなのだから。 もともと、二人の間の暗黙のルールは「木曜日の夜」だけだった。 それなのに、最近の玲はその境界線を自ら壊し始めていた。 最近、玲がこの部屋を訪れる頻度が明らかに増えていた。 木曜日以外に、外回りを装って、あるいは飢えた獣のような目
「してないよ」 すぐに返ってきた。でも一瞬の間があった。 渚は何も言わなかった。 「……何か、あった?」 不安そうに訊ねた玲に、「なんでもない」と答えて首を振る。そして、玲の胸に顔を埋めた。 髪を撫でる手が、また動き始める。 (してる) 渚には分かった。 玲が渚のペースに合わせていること。怖がらせないように、壊さないように、触れていること。 それが嬉しくないわけじゃない。 でも。 (玲に、ずっと我慢させてる) 渚のせいで。渚が怖がるから。渚が、普通じゃないから。 玲は優しい。 怖がれば止まってくれる。 無理をさせない。 急かさない。 渚が泣きそうになれば、
「……え?」 顔を上げる。 思考が止まる。 「パートナーいるし、女性に何かする気はないから安心して」 あっさりと言われた。 あまりにも自然で、冗談にすら聞こえない。 暫くして、橘が携帯を取り出した。何かを操作して、それを渚の方に向けた。 画面には、二人の男性が並んで笑っている写真があった。 (二人とも、幸せそう……) いい写真だった。 「俺のパートナー。十年になる」 渚は、その写真をじっと見た。 「だから」と橘は言った。「怖がらなくていい」 渚はまだ写真を見ていた。 胸の中で何かがゆっくりと解けていくのを、渚は感じていた。 「それと」と橘が小声で、教
※ドアをノックすると、「どうぞ」という低い声が返ってきた。一歩踏み出せば胸に圧がかかる。渚は息を浅くしたまま、ドアを開けた。橘 涼は書類から顔を上げた。 「相良さん、座って」 手で示された椅子に、渚は背筋を伸ばして腰を下ろした。渚は、目の前のガタイがいい男――橘の放つ威圧感に圧されていた。――やっぱり、苦手なタイプの男だった。背が高い。肩幅が広い。腕も太い。スーツの上からでも分かる体格の良さ。「楽にしていいから」と橘は手元の書類を捲った。(楽に……無理……)橘の声は近くで聞くと余計に低く、男らしさを感じさせるものだった。唯一の救
(あぁ……嫌だ。どうしよ……)職場のトイレで相良 渚は手洗い場の鏡の前から動けずにいた。鏡に映るのは、薄化粧を施した顔。肩にかかるくらいのミディアムストレート。丁寧に整えれば、綺麗に見える筈なのに、どこか少しだけ不揃いで、自分のために髪を整えることに、まだ慣れていない。 そんな渚の表情は両眉が情なく下がり、胸の前で指をずっと弄っている。 「どうしよ……」 一週間前、渚が働く化粧品会社に事業部長が海外本社から異動してきた。本社で実績を残し、日本支部も盛り上げるため、という理由での異動。 異動自体は珍しくない。渚が新卒で入社した時の事業部長は半年後に海外に転勤になったくらいだ。よくある