LOGIN婚約者の森下慎也(もりした しんや)がずっと想い続けている初恋の相手、桜井玲奈(さくらい れいな)。彼女と私――松下千代子(まつした ちよこ)は、建物の二階にある吹き抜けの階段から一緒に転落した。 優秀な外科医でもある慎也は、真っ先に玲奈のもとへ駆け寄った。 大量に出血して動けない私には目もくれず、「お前は救急車でも待っていろ」と冷たく言い捨てて。 命の灯火が消えゆく中、私は必死に手を伸ばし、彼の服の裾を掴んだ。 だが、慎也はその手を汚いものでも見るかのように振り払った。 「千代子、お前は本当に血も涙もないのか!玲奈が意識を失っているのが見えないのか?お前が彼女を突き落としたんだろ。あとで必ず、その責任は取らせてやるからな!」 ――でも、彼が私を責め立てる機会は、もう永遠にやってこない。 意識のない玲奈を大切そうに抱きかかえ、慎也が背を向けて立ち去った後。 私は、お腹に宿した彼の子とともに、冷たいアスファルトの上で孤独に息を引き取ったのだから。
View More穏やかな風が吹き、暖かな陽射しが部屋に差し込む、ある朝のことだった。開け放たれた窓の前に立っていた慎也は、ふと振り向くと、魂となって漂っている私のいる虚空を真っ直ぐに見つめ、ぽつりと呟いた。「千代子……会いたい。本当にお前に会いたいよ……」その言葉を最後に。彼は何の躊躇いもなく、窓から外へと身を投げた。十二階からの落下。一瞬にして、彼の命も、狂気も、取り返しのつかない後悔も、すべてが終わった。通報を受けて警察が駆けつけた時、アスファルトの上には、血の海の中で無残に変わり果てた彼の亡骸が横たわっているだけだった。彼が死んだことで、最愛の娘を奪われた私の父の心は、ようやくほんの少しだけ慰めを得ることができたようだった。しかしこの凄惨な結末は、すでに深い悲しみの底にいた慎也のご両親に、さらなる絶望という決定的な打撃を与えることになった。霊安室で息子の冷たい遺体にすがりつき、身を引き裂かれるように泣き崩れるご両親。そのあまりにも悲痛な姿を前に、私は透明な魂のまま、深く、深く頭を下げることしかできなかった。――来世では、私があなたたちの本当の娘に生まれ変わって、今度こそ、たっぷりと親孝行をさせてくださいね。おわり
慎也は私を失ったあの日から、まるで魂を抜かれた抜け殻のように生きていた。朝目が覚めると、彼が唯一することといえば、このマンションの部屋を整えることだけだ。私の服を一枚一枚丁寧に畳んでクローゼットにしまい、その後は何時間もその前に立ち尽くして、ぼんやりと中を見つめている。そして一日の大半の時間は、寝室のベッドに座り、私が残したあの手帳を擦り切れるほど何度も繰り返しめくることに費やされていた。ページを見つめながら、ふいに愛おしそうに笑い出したかと思えば、次の瞬間には顔を覆って泣き崩れる。夜になれば、その手帳と私のパジャマをきつく抱きしめ、着の身着のままベッドに丸まって眠りについた。そうして私の残り香に包まれていなければ、一時も心安らかに眠ることができないかのように。以前の彼は、家事などほとんどしたことがなかった。外科医としての激務を理由に、家のことはすべて私に任せきりだったからだ。それなのに今の彼は、取り憑かれたように雑巾を手に取り、家中を隅々まで磨き上げている。フローリングの床は、埃一つないほどピカピカに拭きあげられていた。ベランダにある私の鉢植えにも、毎日欠かさず水と肥料を与え、枯らさないように必死で世話をしている。私の日用品の数々を磨き終わると、彼はいつも虚空に向かって、一人でブツブツと呟くのだ。「千代子、見てくれ。ほら、ちゃんと綺麗に拭いたぞ。俺だって、やればこんなに家事ができるんだ。結婚したら、絶対に俺が千代子を幸せにするからな……」鏡に映る慎也の顔は、まともに寝食をとっていないせいで見る影もなくやつれ果てている。それなのに、口元だけはひどく幸せそうに微笑んでいて、あまりにも異様だった。今の私には、もはや彼を恨んで復讐したいという執着は微塵も残っていない。かといって、こんな姿になった彼に同情する気も湧かなかった。ただすっかり冷め切った心で、彼のことを『哀れな人だ』と見下ろしているだけだ。彼は狂気じみた妄想の世界に浸りきり、まともな食事すらとらなくなった。空腹を感じれば、戸棚の奥に残っていたカップ麺やスナック菓子を適当に胃に詰め込むだけ。やがてそれすらも尽きると、水道水だけで飢えを凌ぐようになった。自分自身は何も口にしないくせに、ある日彼はスーパーで大量の食材を買い込み、キッチンに立ち始めた。「そうだ、千代子の好きな豚の角煮
玲奈が私を殺すために仕組んだ恐ろしい自作自演の全貌は、ついに白日の下に晒された。父が起こした裁判の末、法廷に立った玲奈には懲役二十年という重い実刑判決が言い渡された。傍聴席には、慎也の姿もあった。裁判が終わり、すべてが取り返しのつかない形で結末を迎えた後。慎也はまるで魂を抜かれた抜け殻のように、かつて私と一緒に暮らしていたマンションへと帰ってきた。二ヶ月前、彼と激しい口論になって以来、彼はずっとこの家に帰ってきていなかったのだ。ひどく虚ろな目で室内を見渡す彼を、魂となった私はただ複雑な思いで見つめていた。やがて彼は、発作でも起きたかのように狂ったように部屋中をひっくり返し始めた。クローゼットを開け放ち、私の服や持ち物を次々と床に引っ張り出していく。足の踏み場もないほど散らかった部屋の真ん中で、慎也は私の服を強く抱きしめ、崩れ落ちるように膝をついた。「千代子……お願いだ。お前はいつも、俺のわがままを許してくれたじゃないか……頼む……もう一度だけ俺を許して、戻ってきてくれよ……俺に、償わせてくれ……」彼は私の服に顔を埋め、子どものように泣きじゃくりながら、虚空に向かって叶わぬ許しを乞い続けていた。ふと、彼の視線が床に落ちたある物に引き寄せられた。本棚から転げ落ちていた、一冊の古い手帳だった。それは、私と彼が付き合い始めた頃から書き綴っていた、二人の交際日記だった。最初の頃のページには、一緒に見に行った映画の半券が綺麗に貼られ、彼と過ごした幸せな思い出がぎっしりと書き込まれていた。しかし、ページをめくるごとに、二人の記録は目に見えて減っていく。それは彼が徐々に冷たくなり、私と会う時間を削るようになっていったからだ。後半のページに残されていたのは、私ひとりの孤独な独白だけだった。慎也は震える手で、そのページをめくった。【今日も一人で病院に行って、点滴を四本も打ってきた。手の甲が真っ青に腫れて、すごく痛い。】【でも、こんなことで慎也に心配をかけたくない。彼が昇進したら、奮発してブランドの時計をプレゼントしよう。もっと彼を喜ばせたいな。】【今日は慎也のお母さんが胆嚢炎で入院した。痛がる姿を見るのは辛いけれど、明日の手術が無事に成功するようにずっと祈っていよう。】【夜、病室で泊まり込みの看病をしていたら、慎也のお母さんが私の頭を優しく撫でて
以前、玲奈の巧妙な嘘によって悪者に仕立て上げられた経験から、私はあの日の再会に備え、腕時計に小型の隠しカメラを仕込んでいた。そのおかげで、あの日二階の吹き抜けで交わされた会話から転落に至るまでのすべてが、映像として克明に記録されていたのだ。私が死んだ後、生前の足取りを調べていた父は、私が小型カメラを購入していた履歴に気づき、遺品の中からその腕時計を見つけ出した。そして専門業者に頼んでデータを復元し、あの日の隠された真実のすべてを知ったのだ。父は私の無念を晴らすため、復元した映像をスマホに転送して持ち歩いていた。足元に放り投げられたスマホを拾い上げ、慎也は震える指で再生ボタンを押した。腕時計のカメラという特殊なアングルのため、画面は少し揺れていたが、目の前に立っているのが玲奈であることは一目瞭然だった。映像の中の玲奈は、私がまだ何も口を開いていないうちから、突然悲劇のヒロインのように泣き出した。『千代子さん、私と慎也くんは本当に何もないんです!私から彼に連絡したことなんて一度もないわ。いつも、彼の方から私を呼び出すだけで……!あなたと慎也くんの揉め事は、お二人で解決してください。私を巻き込まないで……!』一方的にまくしたてる玲奈のあまりの白々しさに、映像の中の私は呆れて思わず失笑を漏らした。すると次の瞬間、彼女が唐突に悲鳴を上げたのだ。『きゃあっ!千代子さん、どうして私をぶつの!?』――映像には、玲奈が「自らの手で」自分の頬を思い切り平手打ちする瞬間が、バッチリと映り込んでいた。その後、彼女はさらに泣き声を大きくした。『痛いっ……!千代子さん、どうして私を蹴るの!?』過去の経験から、彼女がまた自作自演を始めるだろうと予測していた私は、冷ややかな声でこう言い放った。『玲奈さん、その苦肉の策が毎回通用すると思わないことね』私が慌てふためくと思っていたのだろう。予想外に冷静な私の態度に、玲奈は一瞬戸惑い、やがて明らかな苛立ちを見せた。『……そう?じゃあ、こういう苦肉の策ならどうかしら?』彼女はそう言い終えると、壁に掛かった時計をちらりと確認した。慎也がやってくる時間を計算したのだろう。そして、彼女は口角を吊り上げて不気味な笑みを浮かべると、突然私の腕を力任せに掴み、階段の方へと私を引きずり込んだ。彼女が揉み合いの末に「私に突き落
息を引き取った瞬間、その光景はとても凄惨だった。全身が骨折し、折れた肋骨が子宮を突き破った。引き裂かれた傷口からは血が噴き出した。流れた血は病床を真っ赤に染め上げた。その現場はあまりにも悲惨で、医者や看護師たちは顔を覆って吐き気を堪えられなかったほどだった。あまりにも無念だったのだろう。私の魂はさまよい続けていた。茫然と自分の体を見た。突然、ふいに懐かしい声が届いた。私はその声の方へ無意識に足が動いた。やはり、森下慎也だった。緊急手術室で、彼は急いで手術着に着替えて桜井玲奈に優しく励ましていた。「玲奈、大丈夫ですよ。しっかりして、すぐに手術をします!」その顔は見たことがない
森下は私が救急車で同じ病院に運ばれたことを知っていた。でも今、彼はただ桜井のために私の部屋に来た。彼が病室を出たとき、遺体を乗せた担架が目の前をちょうど通り過ぎた。そう、私は知っていた。白い布に覆われているけれど、その担架に載せられている遺体は私の体だ。その体の左手には結婚指輪をはいていた。それは八年前、森下が私にプロポーズした時にくれたものだった。そのときから、その指輪を一度も外したことはなかった。だから、私は、彼がこの指輪を覚えていたことを信じていた。魂は彼のそばを漂い、大きな声で言った。「森下、それは私です!」森下は私と赤ちゃんが死んだことを知ったら、後悔するか、それとも
死亡が確認された後、病院はお父さんに連絡を取った。彼はわたしの唯一の家族だった。だが、お父さんの目に入ったのは私の冷たい体だ。お父さんは泣き崩れていた。看護師に支えられながら、お父さんは森下に電話をかけた。しかし、十数回もかけたが、すべて拒まれた。その後、ついに繋がらなくなった。森下がお父さんの番号を着信拒否に設定したからだ。同時に、隣の部屋で森下森下は桜井の手を握り、優しく話した。「目が覚めてくれて本当に良かったです。僕、玲奈のことをずっと心配しています」桜井は顔面蒼白で、力なくぐったりとしていた。彼女が自ら階段から身を投じたことを知っているのは私だけだ。大粒の涙を瞳に
また同じ言い方、しかも自分のお父さんから、森下も慌ててしまった。その声は耳を劈くほどの大音量で、桜井もただならぬ様子に気が付いた。「もしかして松下さんが本当にけがをしましたか。病院に行ってみましょう」森下は何とか平静を装って答えた。「父さん、冗談でしょ。松下はそんなこと……」力を抜いた森下の父が「今すぐ病院に来い!」と言って、電話を切った。それを聞いて森下も頭が真っ白になった。桜井は彼にそっと声をかけた。「とにかく、一度行ってみましょう。多分、怪我をしただけ、きっとそうです」「何と言っても、慎也の両親も松下さんのことを本当に好きです。だからきっと、彼女を助けたいと思って、そう
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