LOGIN私、奥村紬(おくむら つむぎ)は、つねに自分には愛される価値がないと思い込む癖があった。9度目の恋に振られた時、幼なじみの佐久間悠(さくま ゆう)は、目を真っ赤にしてそんな私を抱きしめてくれた。 「お前はこんなにいい子なのに。見る目がないのはあいつらのほうだ」 「紬、俺のほうを見てくれないか?俺はあいつらとは違う。俺は俺にできる最高をすべてお前にあげるから」 付き合い始めてからの3年間、悠は本当にその言葉どおりにしてくれた。 彼のお金を使うことをためらう私に、夜中にこっそり、私のウィッシュリストにあった商品すべてを買ってくれた。 特別扱いされるたびに逃げ腰になる私に、彼は根気よく私と行列に並び、安い屋台料理を一緒に食べてくれた。 私が不安にならないよう、どんな些細なことも逐一知らせ、出張中でさえ四六時中ビデオ通話をつなぎたがった。 いつしか私は、今度こそ本当に愛されているのだと信じていた。 人混みの中に、海外から戻ったばかりの悠の想い人。 江本美月(えもと みづき)を見つけるまでは。 彼女は誇らしげに顎を上げ、大勢に囲まれて熱烈な歓迎を受けていた。 その姿は、黙り込み、おどおどしている私とはどう見ても対照的だった。 私はそっと服の裾を引き、人混みに紛れて身を隠そうとした。 けれど今度ばかりは、悠は私の手を取ることはなかった。 彼は彼女に顔を向け、安堵を隠しきれない声で、「やっぱり、お前と一緒にいると気持ちが安らぐよ。この3年間、俺がどれだけ息苦しかったか、知らないだろ」 「自信もなく、自己肯定感の低い人間と付き合うのは、疲れるし、つまらないんだ」 私はその場で凍りつき、心臓を強く鷲掴みにされたように息が詰まった。 この3年間の優しさは、甘い糖衣に包まれた猛毒にすぎなかったのだ。
View Moreそのとき、悠はようやく、紬が本気で関係を終わらせようとしているのだと実感した。自分にはやり直す余地すら残されていない。悠は家に残っていた自分の荷物をすべて箱に詰めた。けれど、そこにはもう紬の痕跡がなかった。彼女は何一つ残さず、きれいに悠のもとを去っていた。悠はまるでその場に取り残された子犬のように、未練を断ち切れずにいたが、どうすることもできなかった。3年間暮らした家を出たものの、どこへ行けばいいのかさえ分からなかった。当てもなく、人混みの中を歩き続けた。大きな喪失感にのみ込まれ、胸にぽっかり穴が開いたようだった。……次に悠と会ったのは、数日後の夕方だった。仕事を終えて会社から出ると、悠が正面玄関の前に立っていた。どれほど待っていたのか分からない。シャツの背中は汗で濡れ、長い間、日差しの下にいたのだろう。警備員が私に近づき、声をかけた。「この人、日陰に入ろうともしないで、ずっとここに立ってたんですよ。何を考えてるんだか……」私は悠に視線を向ける。目の下には濃い隈が浮かび、ひげも伸びている。以前の悠とは、まるで別人だった。私を見つけた途端、悠の顔が明るくなった。悠は急いで駆け寄り、私の手をつかもうとする。私は触れられる前に身を引いた。「紬、ずっと捜してた。今回は俺が悪かった。美月と2人きりで旅行に行くべきじゃなかった。本当にごめん」「もう喧嘩は終わりにしよう。な?」悠は今も、これをただの喧嘩だと思っている。それがたまらなくおかしかった。「美月の連絡先はブロックして削除した。もう二度と関わらないって約束する。だから、前みたいに戻ろう?」「紬はもともと傷つきやすいだろ。俺と別れて、お前に耐えられる男がほかに……」失言に気づいた悠は、途中で口をつぐんだ。「違う。そういう意味じゃなくて……」その言葉を聞いても、私の心は少しも揺れなかった。私は憔悴した彼の目をまっすぐ見つめ、一言一句はっきりと告げた。「今の言葉こそ、私が悠と別れた理由だよ」「悠は、自分がその気になって私をなだめれば、何もかもなかったことにできると思ってるんでしょ?」「悠は自分を買いかぶりすぎてる。心の底では、私があなたなしでは生きられないと思ってる」「あなたの愛は、いつも施しみたい
悠から電話がかかってきたとき、私は本社の会議中だった。1度着信を切っても、すぐにまたかかってくる。何度も続くため、私はスマホの電源を切った。ゆっくりと暗くなっていく画面を見つめながら、3年前のことを思い出した。あのころは、私の表情が少し曇らせるだけで、家へ帰ったあとに悠から何度も電話がかかってきた。私が出なくても、応じるまで悠はかけ続けた。1人で余計なことを考え、気落ちする時間を、悠は少しも与えなかった。あのころの悠は、本当に人を安心させるのがうまかった。自分には愛される価値がないと思い込み、9回も恋に破れた私でさえ、本当の愛と救いは存在すると信じられたほどだ。ただその愛は、手を伸ばした途端、消えてしまう幻のように、あまりにも短かった。会議が終わったあと、私は結局、悠からの電話に出た。電話の向こうでは、悠が長い間、何も言わなかった。聞こえてくるのは、重く乱れた呼吸だけ。このまま何も話さないのかと思ったそのとき、ようやく掠れた声が響いた。「母さんから、紬が結納式を中止にしたって聞いた。どういうことなんだ?」問い詰めるような口調を聞き、思わず笑いが漏れた。「延期するって私を脅したのは悠でしょ?だったら、いっそ全部取りやめようと思ったの。あのとき、ちゃんと伝えたよね?」「悠は何も言わずに、そのまま美月と北陵高原へ行った。旅行は楽しかった?」悠の声には、焦りと苛立ちが入り混じっていた。「紬、いい加減にしてくれないか?美月とはただの友達だ。こんな些細なことで、俺たちの関係まで壊すつもりか?」私はスマホを強く握りしめ、赴任先の澄みきった青空を見上げた。どこまでも続く広い空。かつての私には、望むことすらできなかった広い世界が、今は目の前に広がっている。海外赴任への応募については、以前、悠にも話したことがある。けれど当時の私は、自分が悠のそばを離れられるとは思えなかったのだ。悠も、どうせ私が辞退すると思い込み、気に留めていなかった。私はずっと、誰かに愛されることで、自分の価値を確かめようとしていた。けれど、信じるたびに裏切られ、何度も傷ついて、ようやく気づいた。自分を支えられるのは自分しかない。自分の価値を証明するために、誰かの愛や承認を求め続ける必要などない。そ
悠と美月は、半月にわたる北陵高原への旅行を終え、ようやく帰ってきた。飛行機が着陸すると、美月は名残惜しそうに言った。「今度、また一緒に北陵高原へ行ってくれる?本当にきれいだったよね。次は何か月か滞在して、思う存分楽しみたいな」本当は、美月はまだ帰りたくなかった。それでも帰ってきたのは、悠が事前に帰りの便を予約し、結納式に間に合うよう日程を組んでいたからだ。美月は不満そうに唇を尖らせたが、ふと何かを思い出したように声を上げる。「そうだ。今夜、みんながバーでお帰りなさい会を開いてくれるって」悠は上の空で、ぼんやりした表情をしている。スマホを何度も操作し、紬とのトーク画面をじっと見つめている。旅行へ出てから半月も経つのに、紬からは1通もLINEが届いていなかった。まるで人間蒸発でもしたかのようだった。以前なら、毎日のように日常の出来事を送ってきた。面白かったことや嬉しかったことを伝え、時にはいつ帰ってくるのかと不満をこぼすこともあったのに。もともと紬は、人に甘えることができないタイプの人間だ。悠が時間をかけて距離を縮め、ようやく素直に甘えてくれるようになったのだ。今はとにかく、一刻も早く家へ帰って紬の様子を確かめたかった。このところ、紬を放っておいた自覚はちゃんとある。もし紬が素直に謝ってくるなら、今回のことはもう責めなくてもいいと思った。そう考えた悠は、美月に手を振った。「先に行っててくれ。少し用があるから、一度家に戻る」帰る途中、悠はわざわざ遠回りをした。向かったのは、いつも1時間以上並ばなければ買えない人気店だった。喧嘩のあとのご機嫌取りには、このケーキを渡すのが1番効果的だった。箱を目の前に置くだけで、紬はいつも大粒の涙を流した。そして悠が謝れば、最後には必ず許してくれた。紬の機嫌を取るのは大して難しくない。悠が自分から歩み寄り、ひと言謝れば、いつも受け入れてくれる。今回もきっと同じだ。悠が期待しながら家へ戻ると、中はがらんとしていた。誰もいない。玄関に並んだスリッパの位置さえ、旅行へ出発した日のままだった。テーブルには埃が積もり、半月の間、誰も暮らしていなかったことが分かる。紬は帰ってきていない。けれど、紬がこれほど長く出張したことは1度もない
悠のスマホの画面が明るくなった。確認しようとした瞬間、美月が不満そうに頬を膨らませた。「私と一緒にいるときくらい、ちゃんと集中してよ。旅行の計画、まだ半分しか決まってないんだから」その言葉を聞いた悠は、一瞬ぼんやりした。紬と付き合い始めたばかりのころも、彼女を安心させるため、一緒にいる間はほとんどスマホを見なかった。紬はいつも、「私は大丈夫だから、用事があるなら気にせず仕事をして」と言っていた。それでも悠は、紬が余計なことを考えないよう、自分からスマホの電源を切っていた。そして彼女を抱きしめ、こう言った。「これからは、紬がそばにいるとき、このスマホなんてただの鉄くずだ」あのころの紬は、そんな言葉だけで頬を真っ赤にしていた。けれど今、美月と北陵高原への旅行計画を立てている悠の心は、どこか上の空だ。自分でも無意識のうちに、テーブルの端に置かれたスマホへ視線が向かってしまう。すべての予定を決め終えるころには、外はすっかり暗くなっていた。そこでようやく、悠はスマホを手に取る。画面に表示されていたのは、紬が乗った便の離陸通知だった。今回の出張先が海外だと知り、悠は眉をひそめる。胸の奥に、説明のつかない不安がかすかに広がっていく。けれど、その理由は自分でも分からない。悠は、これまで紬と喧嘩したときのことを思い出した。口論になると、紬は決まって何も言わなくなる。1人で部屋にこもり、しばらく考えたあと、自分の悪かったところを見つけて謝ってくる。自分に自信のない人間は、問題が起きると、最初に自分を責めるものらしい。それを思い出すと、悠は少し安心した。今回もきっと同じだ。ただ、今回はいつもより少し意地を張り、海外まで行って気持ちを整理しているだけ。数日もすれば、おとなしく戻ってきて、自分に謝るだろう。悠は紬とのトーク画面を開いたが、途中で手を止めた。【無事に着いたか?】しばらく画面を見つめ、入力した文章をゆっくりと消していく。これ以上、紬を甘やかすべきではない。ここで自分から折れれば、次はもっとわがままになり、もっと理不尽なことを言い出すかもしれない。そう考え、悠はスマホの電源を切った。そして、旅行を楽しみにしている美月を連れ、夕食へ出かけた。……一方、海外へ到着