Startseite / 恋愛 / 後宮の鳥籠、朱き翼を隠して / 第五話 深まる秋、迫る影

Teilen

第五話 深まる秋、迫る影

last update Veröffentlichungsdatum: 02.07.2026 17:38:13

 夏の『千涼祭』での見事な神凪(かんなぎ)流剣舞を経て、朱璃(しゅり)は『貴人(きじん)』から一階級上の、**『嬪(ひん)』**の位へと昇格した。

 しかし、嬪に上がったからといって、独立した「自分の宮」が与えられるわけではない。龍蘭(りゅうらん)帝国の後宮制度において、嬪には九つの階級が存在するが、朱璃があてがわれたのはその一番下――いわば「九等嬪」という最も低い席だった。

​ だが、朱璃の身の回りには確かな変化が起きていた。

 主である麗華(レイファ)徳妃から、

 「そんな物置同然の最果ての離れに嬪の者を住まわせておくなど、我が延明宮(えんめいきゅう)の恥ですわ!」

 とツンとした態度で命じられ、徳妃の本宮のすぐ近くにある、手入れの行き届いた清潔な離宮へと引っ越しをすることになったのだ。

​「呼んだらすぐに来られるようにね」

という麗華の言葉通り、朱璃は変わらず雑用係として主のそば近くで仕えることになった。

​ 実際のところ、麗華徳妃が普段、朱璃にキツい態度を取りながらも、本当は彼女を大切に扱い、深く信頼していることを知っているのは、延明宮の古参の側近たちだけだった。

(本当は、皇帝陛下がお渡りになる時よりも、朱璃と話している時の方が嬉しそうなのよね……)

 側近たちは麗華のそんな可愛い秘密をそっと胸にしまいながら、朱璃の裏表のない誠実さと有能さを認め、家族のような強固な信頼関係を築いていた。

​ ――しかし、それを面白く思わない者が、同じ延明宮の中にいた。

​ 季節は移り変わり、暦でいう九月頃。都では、豊かな実りを祝う「秋の大祭」の準備が着々と始まっていた。

 後宮全体が再びバタバタと慌ただしさに包まれる中、朱璃が徳妃のそば近くに配置されたことに激しい嫉妬を燃やす者が現れた。

​ 同じ延明宮に所属する上位の妃、**金 宝蓮(ジン・ホウレン)修媛(しゅうえん)**である。

 王宮直属の巨大な商団の一人娘であり、潤沢な実家の財力を背景に、後宮の最高権力者である皇后にも目をかけられている女人だった。皇后の後ろ盾があるからこそ、格上の徳妃の宮に所属していながらも、普段から傲慢で偉そうな態度を崩さないのだ。

​「あら、これはこれは……」

 廊下ですれ違いざま、宝蓮修媛はわざとらしく扇で口元を隠し、取り巻きの侍女たちと共に憐れむような笑い声を漏らした。

​「あら、朱璃九等嬪様じゃありませんこと? せっかくお位が上がりましたのに、相変わらず徳妃様のパシリとして、泥にまみれて雑用をしていらっしゃるのね。お可哀想に。金商団の娘であるこの私なら、そんな惨めな扱い、一日だって耐えられませんわ」

​ 宝蓮修媛はねっとりとした視線で朱璃を見下すと、嫌がらせを兼ねた無理難題を押し付けてきた。

「秋の祭りの準備で人手を奪われて困っていますの。お前は元がしがない雑用係なのだから、この大量の絹織物の検品と、重い祭礼の飾り付けの力仕事を、今日中に一人ですべて終わらせておきなさい。他のお妃様の侍女を頼るなんて、甘えた真似は許しませんよ」

​ 他のお妃の侍女たちをわざわざ遠ざけた上で、一人に押し付けられた過酷な重労働。宝蓮修媛が勝ち誇った顔で去っていくのを見送りながら、朱璃は内心でふっと微笑んだ。

(好都合だ。一人きりで集中して身体を動かせるなら、これほど良い筋力トレーニングはない)

​ 朱璃がさっそく涼しい顔をして袖をまくろうとした、その時だった。

​「朱璃様っ! 一人でなさるなんていけません!」

「そうです! 私たちも手伝います!」

​ 物陰から、小鈴(シャオリン)と春蘭(シュンラン)が憤慨した様子でバタバタと駆け寄ってきたのだ。

「他のお妃様の侍女は頼るなと言われましたが、私たちは朱璃様の侍女ですもの、関係ありませんわ!」

「あんな底意地の悪い方の言うことなんて、気にする必要はありません。さあ、早く終わらせてしまいましょう!」

​ 息を巻いて重い飾り付けに手を伸ばす二人を見て、朱璃は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

「……ふふ、ありがとう。心強いわ。でも、重いものは私が持つから、二人は絹の検品をお願いね」

​ 三人の息の合った連携、そして朱璃の超人的な身体能力のおかげで、夕暮れ前にはすべての作業が完璧に片付いた。様子を見にきた宝蓮修媛が「な、何ですって……!?」

と悔しげに顔を歪めたのは言うまでもない。

​ その後、朱璃は本宮の麗華徳妃の部屋へとこっそり呼び出された。

 部屋に入ると、上座に座る麗華はフンと横を向いていたが、その口元は心なしか綻んでいるように見えた。

​「……朱璃。聞いたわよ。あの宝蓮修媛の小細工を、見事に跳ね返して出し抜いたんですって?」

​ 部屋の隅に控える徳妃の古参の侍女たちが、我がことのようにニコニコと嬉しそうな笑みを浮かべて朱璃を見つめている。朱璃が

「いえ、これも麗華徳妃様の手助けのおかげでございます」

と深く頭を下げると、侍女たちの視線に気づいた麗華は、ハッとしたように頬を赤く染めて扇をバチンと広げた。

​「な、何を見てるのよお前たち! ……言っておきますけれど朱璃、私の元にいるのなら、これくらいやって当然ですからね! 我が延明宮の人間が、あんな商人の娘ごときに舐められるなど、絶対に許しませんもの!」

​ 相変わらずのツンツンとした物言い。だが、その耳の裏まで真っ赤になっているのを見て、朱璃は内心で温かい微笑みを浮かべた。

(本当に……実はとても真っ直ぐで、可愛らしいお方だ)

​ そんな、秋の風が心地よく吹き抜ける、ある日の昼下がりのことだった。

​ 引っ越したばかりの新しい離宮の部屋で、朱璃がホッと一息ついていると、廊下から激しい足音が響いてきた。

​「朱璃様――っ!! しゅ、朱璃様っ!!」

​ 部屋の扉が勢いよく開き、小鈴が息を完全に切らせ、パニック状態で飛び込んできた。

「どうしたの小鈴、そんなに慌てて」

 朱璃がなだめるように声をかけるが、小鈴の顔は真っ青だった。

​「お、お客様です……! 外に、とても立派な身なりの御方がいらして……! その、朱璃様の嬪へのご昇格のお祝いの品をお持ちした、と仰っているのですが……!」

「お祝い? 一番下の嬪である私に?」

 朱璃が眉をひそめると、小鈴はさらに声を震わせて言葉を続けた。

​「それだけじゃありません……っ。その、お相手の『主(あるじ)』様が『今すぐ来るように』と仰せだそうで、朱璃様を今からご案内するために、外でお待ちされています……!」

​ 名も名乗らない不躾な相手からの、突然の呼び出し。

 普通の妃であれば、無礼だと怒るか、あるいは罠かと怯える場面だ。しかし、朱璃の脳裏には、あの夏の深夜、離れの裏庭に音もなく現れた『謎の男』の不敵な笑みが鮮明に蘇っていた。

​(ついに、来たか……)

​ 主が今すぐ来るように仰せである、という不穏な伝言。その「主」が一体何者であるのか、朱璃は直感的に察していた。あの「夜の男」を動かしている、後宮の、いや、この帝国の裏側を支配する何者かだ。

​ 朱璃の瞳の奥に、大人しいお妃様の仮面を引き剥がした、鋭い武人の光が宿る。

 しかし、取り乱す侍女たちの前では、すぐに普段通りの凛とした「私(わたくし)」の声音を作り直した。

​「春蘭、すぐに支度を。お客様を待たせるものではありません」

「は、はい……!」

​ 春蘭が慌てて朱璃の身形(みなり)を整える。衣服の乱れを直し、髪をきっちりと結い直すと、朱璃は深く息を吸い込み、離宮の重い扉を押し開けて外へと歩み出た。

​ 離宮の前に佇んでいたのは、仕立ての良い衣服をまとった、表情を一切崩さない一人の使いの者だった。周囲の警備兵すらも立ち入らぬ、張り詰めた空気を纏っている。

​ 朱璃はその使者の前に進み出ると、背筋を真っ直ぐに伸ばし、凛とした声で告げた。

​「お待たせいたしました」

​ 朱璃の言葉を受け、使者の男は表情を変えないまま、深々と一礼を返した。そして、目の前の静かな、しかし底知れない闇を孕んだ王宮の奥へと手を差し伸べる。

​「――では、ご案内いたします。我が主のもとへ」

​ 秋の乾いた風が、朱璃の長い黒髪を揺らす。

 昼の『嬪』としての穏やかな居場所から、ついに引き返せない裏の世界へ。朱璃はためらうことなく、謎の目的地へとその第一歩を踏み出した。

影山御影

新しい人物が登場しましたがこれからも増えていきますので皆さんのお気に入りのキャラやペアを作れるように尽力いたしますので引き続き応援よろしくお願い致します!

| Gefällt mir
Lies dieses Buch weiterhin kostenlos
Code scannen, um die App herunterzuladen

Aktuellstes Kapitel

  • 後宮の鳥籠、朱き翼を隠して   第十一話 華の下に轟く影

    昨晩の暗殺未遂事件による緊迫した空気のまま迎えた、収穫祭の翌日。  後宮の大庭園にて、女人たちが集めたキノコ狩りの成果に対する授与式が執り行われていた。 ​ 後宮は男子禁制の聖域。かしこまる者たちの中に一般的な男子の姿はなく、控えているのは後宮専属の宦官たちと侍女のみ。  正面の玉座には、後宮の絶対的な支配者として君臨する皇后殿下が座し、そのさらに奥――薄い絹の簾(すだれ)の向こう側には、皇帝陛下が静かに事の始末を見守っていた。 ​ 皇后殿下の手によって妃嬪(ひひん)たちへ順に労いの言葉と褒美が授けられる中、最も多くのキノコを収穫した者として名が呼ばれたのは――延明宮(えんめいきゅう)所属の『朱璃(しゅり)』であった。 ​ 朱璃がその場に膝をつくと、玉座の皇后が悠然とした、しかし冷ややかな声を響かせた。 ​「九等嬪・朱璃。そなたの知識は、倭国の姫の名に相応しく立派であった。よってそなたには、これを授ける。」 ​ 恭しく捧げ持たれたのは、後宮の厨房を管理する『御厨(みくりや)の技師資格』の札。一見すると誉れ高く見えて、実質は「姫の身分でありながら、厨房の下働きのと同等」と暗に侮辱する、皇后らしい冷酷な品であった。 ​「……ありがたき幸せにございます。」 ​ 朱璃が深く頭を下げると、その横に控えていた魏淑妃(ぎしゅくひ)が、扇子で口元を隠しながら甲高い笑い声を上げた。 ​「あら、さすが自然豊かなところで育った姫様だこと。皇后様の慈悲に感謝するのよ? ――ふふ、私からも、延明宮の主である鳳得妃(ほうとくひ)様の顔を立ててあげるために贈り物を渡すわ。ほらこれよ。」 ​ 淑妃の侍女が不気味な笑みを浮かべ、朱璃の前に差し出したのは、埃をかぶった正体不明の古びた木箱であった。中から何とも言えぬ嫌な気配が漂うそれを目にして、淑妃は目を細めて囁く。 ​「貴女なら使えるのではなくて? ……クスッ。」 ​ 得妃の名を引き合いに出しつつ、怪しげなガラクタを押し付ける露骨な嫌がらせ。周囲の妃たちが忍び笑いを漏らす中、朱璃は眉一つ動かさず、静かに拝礼した。 ​「……淑妃様のお心遣い、恐悦至極にございます。」 ​    * ​ 延明宮へ戻るや否や、爆発したのは鳳 麗華(レイファ)様であった。 ​「なによあの女たち! 皇后様まで朱

  • 後宮の鳥籠、朱き翼を隠して   第十話 王者の褒賞と昏き命

    ――太子殿下、襲撃。  その衝撃的な噂は、夜が明ける頃にはすでに王宮内を文字通り震撼させていた。当然、朱璃(しゅり)の住まう延明宮(えんめいきゅう)も例外ではない。 ​「朱璃様! 昨日、本当は何があったのですか!? 狩りが途中で中止になるなんて前代未聞です。」 「そうですよ朱璃様! 巷では太子殿下が暗殺されかけたなんて恐ろしい噂まで飛び交っていて……!」 ​ 翌朝、自室で身支度を整えていた朱璃は、春蘭(シュンラン)と小鈴(シャオリン)の二人から、文字通り詰め寄られていた。いつになく必死な形相の二人に、朱璃は困ったように微笑みながらも、兜の奥の「高 漣(ガオ・レン)」としての顔を崩さないよう、努めて冷静に言葉を返した。 ​「大丈夫よ、二人とも。色々あったけれど、太子殿下はかすり傷一つ負わずにご無事だから。私はただ、近衛として当然の務めを果たしただけ。」 「当然の務めって……朱璃様、また何か無茶をしたんじゃないですよね?」 ​ 少鈴が心配そうに疑わしげな目を向けるが、朱璃は 「さあ、どうかしら。」 と、はぐらかすようにお茶を濁した。表向きはまだ、一介の見習い近衛がたまたまその場に居合わせたことになっている。しかし、その「たまたま」がどれほどの神業であったかを知る者たちの間では、すでに別の嵐が巻き起こっていた。 ​    * ​ 同時刻、太子・劉 瑛良(エイラ)の住まう『清耀宮(せいようきゅう)』の一室。  次期皇帝の宮にふさわしい清廉で美しい佇まいとは裏腹に、そこには昨晩の襲撃についての事後処理に追われる、緊迫した空気が漂っていた。白鑾衛(はくらんえい)の趙 延峰(チャオ・エンフォン)隊長を伴った太子・瑛良の元へ、のっそりと、しかし強烈な覇気を纏った男が乗り込んできた。 ​ 第二皇子・劉 瑛凱(エイガイ)である。その背後には、いつもと変わらぬ涼しい顔をした梁 雲雀(ユンケ)が影のように従っていた。 ​「なんだアニキ、無事で何よりだ。――で、どうだった? 俺が直々に送り込んだ『お気に入り』は。ちゃんと役に立っただろ?」 ​ 瑛凱は部屋の椅子にどかりと腰掛け、兄の無傷な姿を見て不敵に笑った。  その言葉に、太子・瑛良は驚いたように目を丸くし、それから全てが合点がいったように苦笑を漏らした。 ​「……なるほど、そういうことか。趙隊長が『驍駿宮

  • 後宮の鳥籠、朱き翼を隠して   第九話 闇を裂く鏑矢

    「――敵襲ッ!! 太子殿下をお守りせよ!!」 ​ 渓谷に響き渡った悲鳴と同時に、夜闇の奥から無数の黒い矢が牙を剥いた。それと同時に、草むらから黒装束の集団が抜刀して躍り出てくる。狙いはただ一人、白馬の上の太子・劉 瑛良(エイラ)だ。 「防陣を組め! 太子殿下の前に出ろ!」  白鑾衛(はくらんえい)の趙 延峰(チャオ・エンフォン)隊長が怒号を上げるが、乱入してきた刺客の剣部隊に応戦するため、近衛たちの防壁はどうしても左右に分散せざるを得なかった。 ​ その隙を突くように、二の矢、三の矢の豪雨が太子の無防備な頭上へと降り注ぐ。近衛たちが一瞬の動揺に身をすくませる中、警護陣 of 末席にいた『高 漣(ガオ・レン)』  ――朱璃(しゅり)の身体は、思考よりも先に動いていた。 ​ 地を蹴り、弾かれた弾丸のように太子の前へと割り込む。  ザシュッ、ギィンッ! と、夜闇の中で火花が散った。朱璃は腰の刀を極限の速さで引き抜き、衣服をかすめるほどの精密さで、太子へと殺到する矢を次々と叩き落としていく。 ​ だが、敵の狙いは矢だけではなかった。 ​(――後ろ!?) ​ 朱璃の武人としての鋭敏な五感が、太子の真後ろから迫る尋常ならざる殺気を捉えた。一人の刺客が、他の近衛たちの目を盗んで完全に太子の死角へと回り込み、その背中に向けて鋭い突きを放とうとしていたのだ。 ​ 上空からは未だに矢の雨が降り注いでいる。矢を捌きながら、背後の敵も止めなければならない。 ​「太子殿下、その場から動かないでください!!」 ​ 朱璃は鋭い叫び声を上げると同時に、太子の馬の腹を掠めるようにしてその背後へと跳んだ。  キィィィィィンッ!!!  渓谷に、鼓膜を震わせるような激しい金属音が響き渡る。朱璃の放った一撃が、太子の背中に届く寸前で刺客の刃を力任せに弾き返したのだ。 ​ そのまま二の太刀、三の太刀と激しい火花が散る。朱璃は近衛刀一本で迫り来る刃を受け流すが、刀身から伝わる重い衝撃に、わずかに眉をひそめた。 ​(……この男、強い。ただの捨て駒の刺客じゃない。完全に人を殺し慣れている手練れだわ……!) ​ 朱璃の猛攻を受けながらも、刺客は不気味なほど冷静に刃を返してくる。朱璃は乱れる風の音の中に、再び上空から迫る風切り音を聞いた。さらに弓矢

  • 後宮の鳥籠、朱き翼を隠して   第八話 収穫祭の咆哮

    「――あの、瑛凱(エイガイ)殿下。私は弓の扱いにはあまり慣れていないのですが、そのような私が狩りのお供などしても宜しいのでしょうか?」 ​ 驍駿宮(ぎょうしゅんきゅう)の執房。差し出された偽の通行証を前に、朱璃(しゅり)は少し困ったように眉を下げて問いかけた。倭国(日本)にいた頃、一通りの武芸は叩き込まれたものの、大国である龍蘭(りゅうらん)帝国の本格的な狩猟に「見習い近衛」として同行するとなれば、勝手が違うかもしれないという、もっともな懸念だった。 ​ しかし、それを聞いた第二皇子・劉 瑛凱は、一瞬の静寂のあと、椅子から転げ落ちんばかりに大笑いした。 ​「ははははは! 面白いことを言うお妃様だ! お前が弓は苦手だと?」 ​ 瑛凱は不敵な笑みを浮かべて立ち上がった。 「だが、武家の娘だ。それなりにはできるだろう。……おい雲雀(ユンケ)。そのへんの庭でお相手してやれ。高(ガオ)見習いの『不慣れ』がどの程度のもんか、俺に直接見せてみろ」 ​「いやあ、殿下も人使いが荒い。では高見習い、まずは僕が放つ矢を避けてみてください。そのあと、僕を目掛けて射返してくれればいいですからね」 ​ そう言って、普段の典衛(てんえい)としての柔和な笑みを浮かべたのは、梁 雲雀だった。しかしその裏の顔は、裏の隠密組織を統括する『武衛典侍(ぶえいてんじ)』。彼もまた、朱璃の実力を測るためにその細い目を怪しく光らせていた。 ​ 夜の驍駿宮の庭。松明の灯りだけが揺れる静寂の中、朱璃は近衛の練習用の弓を手に、雲雀と対峙した。  雲雀が  「いきますよ」 と告げた瞬間――空気が爆ぜた。 ​ 雲雀が放った目にも留まらぬ速さの木矢を、朱璃は身体をわずかに捻るだけで完璧にかわし、同時に自身の弓を引き絞って矢を放つ。夜闇を切り裂くような鋭い風切り音が響き、雲雀の頬をかすめて背後の木々へと、寸分の狂いもなく突き刺さった。 ​「おっと、危ない……!」 ​ 雲雀は本気の目になり、さらに二の矢、三の矢を連続で放つが、朱璃はそれらすべてを最小限の動きで見切り、逆に雲雀の足元や肩口ギリギリを正確に射抜いていく。 ​「そこまで」 ​ 特等席で観戦していた瑛凱が、満足げに手を叩いた。 「素晴らしいな。お前の『不慣れ』は、俺の宮の並の近衛を数人まとめて撃ち抜ける

  • 後宮の鳥籠、朱き翼を隠して   第七話 二つの顔、交差する思惑

    驍駿宮(ぎょうしゅんきゅう)から戻った翌朝、朱璃(しゅり)は自身の離宮の奥の間へと、小鈴(シャオリン)と春蘭(シュンラン)の二人だけを呼び寄せた。他の女人や侍女たちを完全に下がらせ、部屋の扉をきっちりと閉める。 普段とは違う主のただならぬ雰囲気に、二人は緊張した面持ちで固まっていた。​「二人によく聞いてほしいことがあります。――これから私は夜の間だけ、後宮を抜け出し、第二皇子・瑛凱(エイガイ)殿下の元で『高 漣(ガオ・レン)』という名の見習い近衛として働くことになりました」​ その言葉が落ちた瞬間、小鈴は「ひゃぅっ!?」と短い悲鳴を上げて口を塞ぎ、昨晩の不穏な空気を肌で知っている春蘭は、驚きに目を見開いた。​「な、何をおっしゃるのですか朱璃様……! バレたら死罪です、いえ、それどころか我が国との外交問題にも……!」「朱璃様のお体が心配ですっ!夜までそんな男たちに混ざって戦うなんて、もしお怪我をされたらどうしたらいいんでしょう……!」​ 口々に不安と心配を募らせる二人に、朱璃は優しく両手を差し伸べ、その手をそっと握りしめた。​「心配をかけてごめんなさい。でもね、私はやっぱり、ただの飾り物として鳥籠の中にいるだけの人生は嫌なの。これは私の意志よ。……後宮で、そしてこれから始まるであろう激動の中で生き残るために、私にはこの力が必要なの。お願い、二人の協力が必要不可欠なのよ」​ 真っ直ぐな朱璃の瞳。その強い覚悟に射抜かれ、小鈴と春蘭は互いに顔を見合わせた。やがて、二人は涙をグッと堪え、同時に深く頭を下げた。​「……朱璃様がそこまでお決めになられたのでしたら、私たちはどこまでもお供いたします」「夜間のアリバイは、私たちが命に代えてもお守りします。朱璃様のお心のままに……!」​ こうして、朱璃の超過酷な二重生活の幕が切って落とされた。​ それからの日々は、目まぐるしいほどの忙しさだった。 昼間は、麗華徳妃に頻繁に本宮へと呼び出され

  • 後宮の鳥籠、朱き翼を隠して   第六話 仮面の下の覇気

    使者の男に導かれ、朱璃(しゅり)は延明宮の勝手知ったる華やかな回廊を離れ、王宮のさらに奥深くへと歩みを進めていた。  後宮を区切る重厚な門をくぐり、政治の表舞台である外廷エリアへ。その一角にある、成人した皇子たちが居を構える宮殿の一つ――第二皇子、劉 瑛凱(リウ・エイガイ)の住まう『驍駿宮(ぎょうしゅんきゅう)』が、今回の目的地だった。 ​ お付きの侍女として連れてきた春蘭(しゅんらん)は、あまりの厳重な警備と張り詰めた空気に、生きた心地がしない様子で朱璃の斜め後ろを付いてきている。 ​ やがて、驍駿宮の奥深くにある、一見すると何の変哲もない、しかし周囲に人の気配が一切ない不気味な一室の前へと辿り着いた。 ​「瑛凱皇子殿下。朱璃様をお連れいたしました」 ​ 使者の男が扉に向かって低く声をかける。  一瞬の静寂の後、奥から響いたのは、どこか気だるげで、それでいて不思議と耳に残る低音だった。 ​「――入れ」 ​ 朱璃は一度、後ろの春蘭を振り返った。怯える彼女を安心させるように小さく頷いて見せると、「ここで待っていなさい」 と静かに告げる。そして、引き締まった表情のまま、一人で部屋の扉を押し開けた。 ​「失礼いたします。第二皇子、瑛凱様に拝謁いたします」 ​ 入室するなり、朱璃はお妃様としての完璧な所作で膝を突き、深々と頭を下げた。  龍蘭(りゅうらん)帝国の第二皇子、劉 瑛凱。国民から「優しく賢いお兄ちゃん」として絶大に慕われている太子・劉 瑛良(リウ・エイラ)のすぐ下の弟であり、世間では「身の程をわきまえない、やんちゃでちゃらついた皇子」と噂されている人物だ。 ​「面を上げよ。そこに楽に座れ」 ​ 投げやりな声に促され、朱璃は静かに顔を上げた。  視線の先、豪華な椅子に浅く腰掛け、だらしなく片足をひじ掛けにかけながら、退屈そうに金の扇を弄んでいる若き皇子の姿があった。整った容姿にはどこか不真面目な笑みが浮かんでおり、噂通りのちゃらけた風情に見える。 ​ ――しかし、朱璃の「武人の目」は騙せなかった。 ​(……見事な構えだわ)  朱璃は内心で息を呑んだ。  だらしなく座っている

  • 後宮の鳥籠、朱き翼を隠して   第二話 別れの朝、茨の道

    神凪の屋敷の庭に、いつものように深い朝霧が立ち込めている。 つい昨日まで、この庭には木剣と木剣がぶつかり合う乾いた音が響いていた。手のひらを痺れさせ、腕を軋ませながら、父の重い一撃を必死に受け止めていたあの時間は、もうない。 代わりに、今朝の静寂を破って重々しく響くのは、旅支度をすべて終えた馬車の車輪が、湿った土を噛む音だけだった。​ 玄関先には、両親が並んで立っている。 父は武家としての威厳を保つように背筋を厳しく伸ばしているが、その瞳は朱璃を直視できず、どこか遠くの空を向いていた。その隣で、母は顔を伏せ、着物の袖口で小さく目元を幾度も拭っている。​ ――家を、売る。​ 朱璃は

  • 後宮の鳥籠、朱き翼を隠して   第一話 姫の帳、自由の楔

    夕暮れの庭に、乾いた音が響いた。 木剣と木剣がぶつかり合い、火花の代わりに鋭い衝撃が空気を震わせる。「甘い」 低い声と共に、主人公の握る木剣が弾かれた。 手のひらが痺れる。 だが主人公――朱璃(しゅり)は、すぐに体勢を立て直した。乱れた呼吸を整えながら、再び父へ踏み込む。 夕日に照らされた長い黒髪が背中で揺れた。 本当なら、切ってしまいたい。 もっと短く。  弟のように。 そんな考えを振り払うように、朱璃は木剣を振るう。 しかし父の一撃は重い。 受け止めた瞬間、腕が軋み、木剣が地へ落ちた。 乾いた音が庭へ響く。「……参りました」 膝をつきながらそう言うと、父は

Weitere Kapitel
Entdecke und lies gute Romane kostenlos
Kostenloser Zugriff auf zahlreiche Romane in der GoodNovel-App. Lade deine Lieblingsbücher herunter und lies jederzeit und überall.
Bücher in der App kostenlos lesen
CODE SCANNEN, UM IN DER APP ZU LESEN
DMCA.com Protection Status