LOGIN武家の娘として、剣に生きることを願った主人公。しかし、政略結婚により、彼女は後宮という名の「鳥籠」へ送り込まれることとなる。 求められるのは爪を隠し、淑女として振る舞うこと。それは彼女にとって己を殺すことと同義だった。自らの名を捨て、ただの「駒」として生きることを強いられる日々。しかし、彼女は諦めていなかった。後宮の深淵で、男装の護衛として潜り込み、自由を掴み取るために。 これは美しき檻の中で、自らの翼を隠した1人の姫が、偽りの仮面を剥ぎ取り、真の自分を取り戻すまでを描いた戦いの物語。
View More龍蘭帝国の容赦ない夏の陽射しを遮るように、夜空へ無数の火が放たれる。 後宮の夏を彩る壮大な大祭『千涼祭(せんりょうさい)』。涼を競う名目のもと、きらびやかに飾り立てられた池の上の特設舞台では、今夜も各宮の妃たちが競うように華美な衣装をまとい、優美な大陸の舞を披露していた。 その宴の最中、いよいよ前座として、延明宮の代表たる朱璃の名が呼ばれる。 春の『桃源節』では、地味で退屈な落第姫だと嘲笑された。主である麗華(レイファ)徳妃からも、あからさまな二度目の公開処刑としてこの舞台に立たされた。誰もが「あの倭国の不器用な姫が、また無様な姿を晒すのだろう」と、冷ややかな、あるいは娯楽を期待するような視線を向けている。 だが、舞台に上がった朱璃の姿に、まず広間が小さくどよめいた。 まとい慣れた、くすんだ藍色の衣装ではない。動きやすさを重視して仕立て直させた、薄衣の装束。髪は高く結い上げられ、その手には――月光を冷たく反射する、一振りの真剣が握られていた。 後宮の宴において、刃物の持ち込みは本来許されない。しかし、倭国の武家が「神に捧げる儀礼」として用いる、刃を潰した儀式用の神剣という名目で、朱璃はこの場に剣を持ち込む許可を強引に勝ち取っていた。 ――トォン、と太鼓の音が響く。 その瞬間、朱璃の身体が爆発的な速度で動いた。 それは、春に踊った静かな神楽舞とは完全に一線を画すものだった。倭国の神事のステップをベースにしながらも、その身のこなしに融合されているのは、父から骨の髄まで叩き込まれた『神凪(かんなぎ)流剣舞』。 抜き放たれた白刃が、夜空に冷烈な弧を描く。 しなやかに跳躍したかと思えば、鋭い踏み込みと共に剣が風を「烈(れつ)」と引き裂き、飛び散る火花を両断するかのように激しく煌めいた。音もなく着地する足捌き、目にも留まらぬ速さで繰り出される突きと斬撃。流れるような一連の動作の裏には、一撃で人の首を刈り取れるような、圧倒的な体幹の強さと鋭い殺気が孕まれていた。 美しくも、あまりに恐ろしい、命を削り合う戦場さながらの剣舞。 刃が空気を切り裂く風切音だけが響く広間は、水を打ったように静まり返った。 演舞が終わり、朱璃が剣を美しく鞘へと収め、深く一礼して舞台を降りても、しばらくの間、誰も声を出すことができなかっ
大国の権威を誇示するような、圧倒的な朱色の城門。龍蘭帝国の後宮に足を踏み入れた朱璃(しゅり)を待っていたのは、息を巡らせる暇もないほどの混沌だった。 到着した時期は、ちょうど春の盛りの大祭『桃源節(とうげんせつ)』の直前。後宮全体がその準備で蜂の巣を突ついたような大騒ぎになっており、他国から来たばかりの、まだ寵愛も得ていない端くれの姫である朱璃など、誰もまともに相手をしてはくれない。あてがわれた宮の侍女たちとも、一言二言の挨拶を交わすのが精一杯という慌続きだった。 そして、何一つこの国の作法を教えられないまま、春の祭り当日を迎える。 絢爛豪華な大広間。金銀の装飾が施された衣装をまとい、妖艶で華やかな大陸の舞を披露する他国の姫たち。その姿に、玉座に座る皇帝や皇后、あるいは第三皇子リウ・タイランが退屈そうに視線を送っていた。 やがて朱璃の番が回ってくる。生家である神凪(かんなぎ)の地、倭国(わこく)の厳かな神事しか知らない朱璃は、心を込めて、静かで格式高い「神楽舞(かぐらまい)」を踊った。指先まで神経を尖らせた、神に捧げるための美しい舞。 しかし、この後宮が求めるのは「男の目を惑わせる色香」だ。静寂を重んじる朱璃の舞は、彼らにとって退屈極まりないものでしかなかった。 「まあ、陰気な舞。まるで死人を弔っているようですわ」 「せっかくの桃の節句が台無しね。倭国の野蛮な娘には、この国の華やかさは理解できないのかしら」 他国の姫たちの間で、容赦のない嘲笑が響く。玉座の皇帝や皇后は興味なさげに一瞥をくれただけで、すぐに視線を外した。こうして朱璃は、後宮に足を踏み入れた初日に「地味で退屈な、落第姫」という烙印を押されたのだった。 ――だが、嘲笑の嵐が吹き荒れる広間の中で、ただ一人、違う目をしている男がいた。 第三皇子、リウ・タイラン。 彼は頬杖を突いたまま、遠ざかる朱璃の背中をじっと見つめ、周囲の喧騒に消え入るような小声でボソッと呟いた。 「……なんと、華麗な舞なのだ。軸が一切ぶれていない。これが神に捧げるという、倭国の舞なのか」 その瞳には、退屈の代わりに、獲物を見つけたかのような深い興味の光が鈍く宿っていた。しかし、その呟きに気づく者は、まだ誰もいなかった。 ◇ 祭りが終わり、後宮が本来の静け
神凪の屋敷の庭に、いつものように深い朝霧が立ち込めている。 つい昨日まで、この庭には木剣と木剣がぶつかり合う乾いた音が響いていた。手のひらを痺れさせ、腕を軋ませながら、父の重い一撃を必死に受け止めていたあの時間は、もうない。 代わりに、今朝の静寂を破って重々しく響くのは、旅支度をすべて終えた馬車の車輪が、湿った土を噛む音だけだった。 玄関先には、両親が並んで立っている。 父は武家としての威厳を保つように背筋を厳しく伸ばしているが、その瞳は朱璃を直視できず、どこか遠くの空を向いていた。その隣で、母は顔を伏せ、着物の袖口で小さく目元を幾度も拭っている。 ――家を、売る。 朱璃は喉の奥に込み上げる苦く、鉄のような味のする塊を強引に飲み込んだ。 倭国の小さな一地方に過ぎない神凪の家が、大陸の巨大な覇権国家である「龍蘭帝国」に逆らえるはずもない。自分一人があの大国へ行き、第三皇子リウ・タイランの妃として後宮に入れば、この国は、そして神凪の家は安泰なのだ。 頭ではわかっている。武家の娘として生まれた以上、それがどれだけ名誉なことかも、どれほど当然の義務であるかも。「……朱璃。龍蘭帝国では、神凪の名を辱めるな」 父の言葉は、相変わらず突き放すような冷たい響きを持っていた。だが、その声の端が、ほんのわずかに震えていることを、朱璃の鋭い耳は聞き逃さなかった。 朱璃は深く、誰よりも深く、その場に平伏するように頭を下げた。「……はい。父上。神凪の誇り、ひと時も忘れません」 顔を上げたその時、庭の隅の木陰から、小さな人影が弾かれたように飛び出してきた。弟の蒼真だ。まだ十五になったばかりのあどけなさが残る顔。しかし、次期当主としての重圧を背負おうと必死に、その細い足を踏ん張っている。 蒼真は周囲の目を盗んで、朱璃の手を引くと、慌てて馬車の陰へと連れて行った。誰にも聞こえないほど小さな声で、唇を激しく震わせる。「姉さん……行かないでくれ。僕が、僕がもっと強ければ、こんなことにはならなかったのに……! 男に生まれただけで、全部僕が継いで、姉さんを犠牲にするなんて……っ」 朱璃は、溢れそうになる感情を殺し、弟の肩を両手で強く抱き寄せた。蒼真の身体は、まだ自分よりも少し華奢で、頼りない。「馬鹿を言わないで、蒼真。お前は私とは違う。この家を背負う
夕暮れの庭に、乾いた音が響いた。 木剣と木剣がぶつかり合い、火花の代わりに鋭い衝撃が空気を震わせる。「甘い」 低い声と共に、主人公の握る木剣が弾かれた。 手のひらが痺れる。 だが主人公――朱璃(しゅり)は、すぐに体勢を立て直した。乱れた呼吸を整えながら、再び父へ踏み込む。 夕日に照らされた長い黒髪が背中で揺れた。 本当なら、切ってしまいたい。 もっと短く。 弟のように。 そんな考えを振り払うように、朱璃は木剣を振るう。 しかし父の一撃は重い。 受け止めた瞬間、腕が軋み、木剣が地へ落ちた。 乾いた音が庭へ響く。「……参りました」 膝をつきながらそう言うと、父は小さく息を吐いた。「動きは悪くない。だが力任せだ」「はい」「お前はもっと冷静に相手を見るべきだ」 そう言って父は木剣を下ろす。 厳しい人だ。 だが決して冷たいわけではない。 幼い頃から、父は朱璃へ剣を教えてきた。 倭国では、武家の娘も武を学ぶ。 家を守るため。 己を律するため。 だが、それはあくまで“娘として”だった。「兄上ーっ!」 庭へ駆け込んできた小さな影に、朱璃は目を瞬かせた。 淡い桃色の着物を翻しながら飛び込んできたのは、末の妹・琴葉だった。「兄上、また父上とお稽古してたの!?」「こら、琴葉」 朱璃は思わず笑う。「そんな勢いで走ると転ぶよ」「だって兄上のお稽古好きなんだもん!」 無邪気にそう言って、琴葉は朱璃の腕へ抱きつく。 その後ろから、侍女が困ったように頭を下げた。「申し訳ございません、姫様。琴葉様、“兄上”ではなく“姉上”ですよ、と何度も――」「えー」 琴葉は不満そうに頬を膨らませる。「でも兄上の方がかっこいいもん」 一瞬だけ、空気が止まった。 侍女が困ったように視線を下げる。 父も何も言わない。 朱璃は静かに笑った。「ありがとう、琴葉」 ただ、それだけ返す。 胸の奥が少しだけ温かくなる。 誰にも理解されないことがあっても、琴葉だけは、いつも自然に自分を見てくれる気がした。「姉さん」 不意に声がして、朱璃は振り返る。 廊下の向こうに立っていたのは弟の蒼真だった。 まだ十五になったばかりだが、既に父に似た鋭い目をしている。 次期当主として期待されている弟。 けれど朱璃は知ってい