LOGIN神凪の屋敷の庭に、いつものように深い朝霧が立ち込めている。
つい昨日まで、この庭には木剣と木剣がぶつかり合う乾いた音が響いていた。手のひらを痺れさせ、腕を軋ませながら、父の重い一撃を必死に受け止めていたあの時間は、もうない。
代わりに、今朝の静寂を破って重々しく響くのは、旅支度をすべて終えた馬車の車輪が、湿った土を噛む音だけだった。
玄関先には、両親が並んで立っている。
父は武家としての威厳を保つように背筋を厳しく伸ばしているが、その瞳は朱璃を直視できず、どこか遠くの空を向いていた。その隣で、母は顔を伏せ、着物の袖口で小さく目元を幾度も拭っている。
――家を、売る。
朱璃は喉の奥に込み上げる苦く、鉄のような味のする塊を強引に飲み込んだ。
倭国の小さな一地方に過ぎない神凪の家が、大陸の巨大な覇権国家である「龍蘭帝国」に逆らえるはずもない。自分一人があの大国へ行き、第三皇子リウ・タイランの妃として後宮に入れば、この国は、そして神凪の家は安泰なのだ。
頭ではわかっている。武家の娘として生まれた以上、それがどれだけ名誉なことかも、どれほど当然の義務であるかも。
「……朱璃。龍蘭帝国では、神凪の名を辱めるな」
父の言葉は、相変わらず突き放すような冷たい響きを持っていた。だが、その声の端が、ほんのわずかに震えていることを、朱璃の鋭い耳は聞き逃さなかった。
朱璃は深く、誰よりも深く、その場に平伏するように頭を下げた。
「……はい。父上。神凪の誇り、ひと時も忘れません」
顔を上げたその時、庭の隅の木陰から、小さな人影が弾かれたように飛び出してきた。弟の蒼真だ。まだ十五になったばかりのあどけなさが残る顔。しかし、次期当主としての重圧を背負おうと必死に、その細い足を踏ん張っている。
蒼真は周囲の目を盗んで、朱璃の手を引くと、慌てて馬車の陰へと連れて行った。誰にも聞こえないほど小さな声で、唇を激しく震わせる。
「姉さん……行かないでくれ。僕が、僕がもっと強ければ、こんなことにはならなかったのに……! 男に生まれただけで、全部僕が継いで、姉さんを犠牲にするなんて……っ」
朱璃は、溢れそうになる感情を殺し、弟の肩を両手で強く抱き寄せた。蒼真の身体は、まだ自分よりも少し華奢で、頼りない。
「馬鹿を言わないで、蒼真。お前は私とは違う。この家を背負う、誇り高き次期当主よ。私の分まで、この倭国を……神凪の地を守り抜いて」
「姉さん……」
「大丈夫。私なら、どこへ行ってもやっていけるわ。私の強さは、お前が一番よく知っているでしょう?」
そう言って不敵に笑ってみせるが、自分の声がどこか遠い他人のように響く。
その時、屋敷の奥から空気を切り裂くような、幼く高い泣き声が響いてきた。
「姉様ぁっ! お兄様、行かないでぇ!」
淡い桃色の着物を大きく翻しながら、末の妹の琴葉が雪崩れ込んでくる。侍女たちが「姫様、いけません!」と慌てて止めようとするが、朱璃はそれを片手で制して、泣きじゃくる妹を力いっぱい腕の中に抱きしめた。
柔らかな髪の匂い。生きている温かい体温。これが、明日からはもう、触れることすら許されない「故郷の光」になる。
「琴葉、いい子だから。……ほら、これをあげる」
朱璃は自分の長い黒髪に挿していた、木製の古びた櫛を抜き取り、妹の小さな手の中にそっと握らせた。それは、かつて朱璃が初めて剣の試合で勝った際、父から贈られた数少ない「娘としての品」だった。
「毎日、これで髪を梳かして。そうすれば、私がいつか必ず帰ってくるってわかるから」
優しい嘘をついた。
海を渡れば、二度とこの神凪の門をくぐることはないだろう。
「琴葉を頼みました」
朱璃はすがりつく琴葉を優しく、しかし確実に引き剥がし、控えていた侍女へと託した。そして、一度も振り返ることなく、目の前に構えられた異国の馬車へと飛び乗った。
バタン、と重い扉が閉まる。
格子の隙間から見える倭国の瑞々しい景色が、車輪の動きと共に、音もなく遠ざかっていった。
◇
馬車の中で、朱璃は膝の上で拳を強く握り締めていた。
窓から見える景色は、見慣れた緑豊かな山々から、港を経て、海を渡り、次第に龍蘭帝国の広大で険しく、乾いた大地へと変貌していく。空気の匂いすら、倭国の木々の香りとは違い、土埃と、嗅ぎ慣れない濃厚な香料の匂いが混じり合っていた。
(僕は、本当に後宮に入るのか……)
誰もいない車内で、ふと、自分の中に潜む“僕”という言葉が顔を出す。
本当の自分は、剣を握り、泥にまみれて稽古したあの夕暮れに置いてきてしまった。故郷の匂いが、胸が締め付けられるほど恋しい。
(……いや。泣くな。国のため、家族のためなら。僕は……私は、どんな泥水でも飲んでやる)
朱璃はゆっくりと目を閉じ、心の中で幾度も自分に呪文をかけた。私は姫だ。私は、神凪の家を守るための、美しく従順な姫なのだ、と。
しかし、その覚悟は、旅の途中で合流した他国の姫たちとの「淑女教育」の場で、さらに残酷に削られることとなる。
龍蘭帝国の帝都へ向かう中継地の大広間。集められたのは、周辺の属国や同盟国から集められた、後宮入りの候補たる姫君たちだった。彼女たちはみな、絹のドレスをまとい、蝶のように華やかだった。その中で、武家育ちの朱璃の存在は、あまりにも異質だった。
「あら、あれが倭国の神凪の姫様?」
一人の姫が、細い指先で金色の扇を広げ、口元を隠してクスクスと笑った。彼女は南方の小国から来た、贅沢に育てられた姫だった。
「歩き方が少し、大股ではありませんこと? まるで市場を歩く兵卒のようですわ」
その言葉に、周囲の姫たちやその侍女たちが一斉に冷ややかな視線を朱璃に注ぐ。朱璃は背筋を伸ばしたまま、ただ静かに視線を落とした。
「……長旅の疲れで、不調法をいたしました」
形通りの謝罪を口にするが、彼女たちの嫌がらせはそれで収まるほど甘くはなかった。夕食の席、朱璃が箸を取った瞬間に、隣の席の姫がわざとらしく自分の長い袖を翻した。
「すり」と、朱璃の肘に鋭い衝撃が走る。
彼女の指の動きなら、その程度の細工は容易にかわせた。だが、ここで完璧な身のこなしを見せれば「やはり可愛げのない武人気質だ」とさらに目を付けられる。朱璃はあえてそのまま膳を受け止めたが、衝撃で汁物の椀がひっくり返り、朱璃の衣装の裾を赤黒く汚した。
「まあ! ごめんなさい。でも、お箸の持ち方も随分と武骨ですもの、手が滑ってしまわれたのかしら?」
「ふふ、武芸がお好きだなんて野蛮な噂を聞いたけれど、本当のようですわね。手のひらも硬くて荒れていらっしゃるし。後宮の舞には、もっとしなやかで柔らかい身体が必要なのに。そんな泥臭い身体で、タイラン殿下のお心を惹けると思っているのかしら」
クスクスと響く、鈴の鳴るような、しかし毒の混じった笑い声。
朱璃は表情ひとつ変えず、静かに膝をつくと、手元にあった布で黙々と床と衣装の汚れを拭き取った。
怒りではない。ただ、この狭い箱庭の女たちの間で、感情を爆発させることに何の意味もないと知っているだけだ。しかし、彼女たちにはそれが「言い返すこともできない、臆病で無能な落ちこぼれの姫」に見えたようだった。
嫌がらせは日ごとに陰湿さを増した。朝起きれば衣装に墨が飛び散っていたり、淑女としての歩き方を指導される際、わざと足元に簪(かんざし)を落とされたりした。
けれど、朱璃はすべてを無表情で耐え抜いた。掌の皮膚が割れ、血がにじむほど、自分の爪を肉に突き立てて、心の中の「獣」を抑え込んだ。
◇
やがて、旅の終着点である帝都の中心、巨大な朱色の門が目の前に現れた。
龍蘭帝国――後宮。
それは、数千人の美女が一生をかけて一人の皇帝、あるいは皇子の寵愛を奪い合う、絢爛豪華な人間たちの鳥籠。
到着した翌日、朱璃をはじめとする新入りの姫たちは、広大な宮殿の最奥へと通された。
そこに鎮座していたのは、帝国の頂点に立つ女性、皇后であった。
皇后は、年齢を感じさせない圧倒的な美貌を持ち、その身体には数え切れないほどの宝石と、本物の金糸で織られた龍と鳳凰の刺繍を纏っていた。彼女がただそこに座っているだけで、周囲の空気が重圧で押し潰されるかのような錯覚を覚える。
並べられた姫たちが一斉に床へ平伏する中、皇后の冷徹な、すべてを見透かすような瞳が、一人一人を品定めするように移動していった。その視線が朱璃の頭上で止まる。
「……倭国の、神凪の娘か」
地を這うような、低く静かな声が響いた。朱璃は額を床につけたまま、息を潜める。
「聞き及べば、故郷では男に混じって剣を振るっていたとか。龍蘭の後宮は、血を流す戦場ではない。男の真似事などという、醜い野蛮な悪癖は今この場で捨て去りなさい」
皇后の言葉は、朱璃のこれまでの人生そのものを根底から否定するものだった。周囲の姫たちが、小さく勝ち誇ったような息を漏らすのがわかる。
皇后は冷ややかに、しかし絶対的な命令を告げるように、全姫君たちに向けて言い放った。
「お前たちに求められるのは、ただ一つ。この後宮という大いなる庭の美しさを損なわぬ、従順な『花』であること。色香を競い、世継ぎを残すことだけが、お前たちの存在意義。牙を持つ獣など、この美しき檻には不要なのです」
牙を持つ獣は不要。
その言葉が、朱璃の胸の奥に冷たく突き刺さる。
――ここには、やはり「僕」の居場所など、ひとかけらもないのだ。
「……御意にございます。皇后陛下」
朱璃は声を押し殺し、完璧な後宮の礼をもって答えた。
◇
その夜。
新しく案内された、息が詰まるほど豪華な離宮の寝所で、朱璃は一人、窓の外に浮かぶ冷たい月を見上げていた。
昼間、女官たちによって着替えさせられた衣装は、きらびやかな宝石が重いほど散りばめられ、身体の自由を奪うようなデザインだった。頭には、首が折れそうなほど重たい金の冠が乗っている。
「……鬱陶しい」
朱璃は、誰もいないことを確認すると、その重い冠を乱暴に外して床へ投げ捨てた。絹の帯を解き、華美な上着を脱ぎ捨てて、下着同然の姿のままで姿見の前に立つ。
大きな鏡の中に映っているのは、青白い月光に照らされた、自分の姿だ。
顔立ちは確かに美しい「姫」のそれかもしれない。しかし、その肩の筋肉、刀を握り続けたことでできた指先の硬いタコ、そして何より、その瞳の奥にある光は、決して「従順な花」のものではなかった。
カチャリ、と遠くで離宮の重厚な扉に外から鍵がかけられる音が響いた。
夜の間、妃たちはこの部屋から一歩も出ることを許されない。ここはまさしく、美しい監獄だ。
朱璃は、床に転がった金の冠を冷たい目で見下ろした。昼間、自分を嘲笑った他国の姫たちの顔、そして自分を野蛮だと切り捨てた皇后の言葉が、脳裏をよぎる。
「……見ていなさい。あなたがたが私に強いるこの『姫の仮面』、私がこの手で、必ず剥ぎ取ってやる」
闇夜に溶けるような低い声で呟き、朱璃は暗闇の向こうに広がる巨大な宮殿を睨みつけた。
私はここで、ただ美しく枯れていく花になるつもりはない。
この檻を、私の戦場に変えてみせる。
朱璃の瞳に、かつて倭国の夕暮れの庭で、父の重い一撃を睨み返していた頃のような、鋭く、そして決して折れない闘志の火が、静かに、しかし激しく灯っていた。
「――あの、瑛凱(エイガイ)殿下。私は弓の扱いにはあまり慣れていないのですが、そのような私が狩りのお供などしても宜しいのでしょうか?」 驍駿宮(ぎょうしゅんきゅう)の執房。差し出された偽の通行証を前に、朱璃(しゅり)は少し困ったように眉を下げて問いかけた。倭国(日本)にいた頃、一通りの武芸は叩き込まれたものの、大国である龍蘭(りゅうらん)帝国の本格的な狩猟に「見習い近衛」として同行するとなれば、勝手が違うかもしれないという、もっともな懸念だった。 しかし、それを聞いた第二皇子・劉 瑛凱は、一瞬の静寂のあと、椅子から転げ落ちんばかりに大笑いした。 「ははははは! 面白いことを言うお妃様だ! お前が弓は苦手だと?」 瑛凱は不敵な笑みを浮かべて立ち上がった。 「だが、武家の娘だ。それなりにはできるだろう。……おい雲雀(ユンケ)。そのへんの庭でお相手してやれ。高(ガオ)見習いの『不慣れ』がどの程度のもんか、俺に直接見せてみろ」 「いやあ、殿下も人使いが荒い。では高見習い、まずは僕が放つ矢を避けてみてください。そのあと、僕を目掛けて射返してくれればいいですからね」 そう言って、普段の典衛(てんえい)としての柔和な笑みを浮かべたのは、梁 雲雀だった。しかしその裏の顔は、裏の隠密組織を統括する『武衛典侍(ぶえいてんじ)』。彼もまた、朱璃の実力を測るためにその細い目を怪しく光らせていた。 夜の驍駿宮の庭。松明の灯りだけが揺れる静寂の中、朱璃は近衛の練習用の弓を手に、雲雀と対峙した。 雲雀が 「いきますよ」 と告げた瞬間――空気が爆ぜた。 雲雀が放った目にも留まらぬ速さの木矢を、朱璃は身体をわずかに捻るだけで完璧にかわし、同時に自身の弓を引き絞って矢を放つ。夜闇を切り裂くような鋭い風切り音が響き、雲雀の頬をかすめて背後の木々へと、寸分の狂いもなく突き刺さった。 「おっと、危ない……!」 雲雀は本気の目になり、さらに二の矢、三の矢を連続で放つが、朱璃はそれらすべてを最小限の動きで見切り、逆に雲雀の足元や肩口ギリギリを正確に射抜いていく。 「そこまで」 特等席で観戦していた瑛凱が、満足げに手を叩いた。 「素晴らしいな。お前の『不慣れ』は、俺の宮の並の近衛を数人まとめて撃ち抜けるレベルらしい。……これなら問題ね
驍駿宮(ぎょうしゅんきゅう)から戻った翌朝、朱璃(しゅり)は自身の離宮の奥の間へと、小鈴(シャオリン)と春蘭(シュンラン)の二人だけを呼び寄せた。他の女人や侍女たちを完全に下がらせ、部屋の扉をきっちりと閉める。 普段とは違う主のただならぬ雰囲気に、二人は緊張した面持ちで固まっていた。「二人によく聞いてほしいことがあります。――これから私は夜の間だけ、後宮を抜け出し、第二皇子・瑛凱(エイガイ)殿下の元で『高 漣(ガオ・レン)』という名の見習い近衛として働くことになりました」 その言葉が落ちた瞬間、小鈴は「ひゃぅっ!?」と短い悲鳴を上げて口を塞ぎ、昨晩の不穏な空気を肌で知っている春蘭は、驚きに目を見開いた。「な、何をおっしゃるのですか朱璃様……! バレたら死罪です、いえ、それどころか我が国との外交問題にも……!」「朱璃様のお体が心配ですっ!夜までそんな男たちに混ざって戦うなんて、もしお怪我をされたらどうしたらいいんでしょう……!」 口々に不安と心配を募らせる二人に、朱璃は優しく両手を差し伸べ、その手をそっと握りしめた。「心配をかけてごめんなさい。でもね、私はやっぱり、ただの飾り物として鳥籠の中にいるだけの人生は嫌なの。これは私の意志よ。……後宮で、そしてこれから始まるであろう激動の中で生き残るために、私にはこの力が必要なの。お願い、二人の協力が必要不可欠なのよ」 真っ直ぐな朱璃の瞳。その強い覚悟に射抜かれ、小鈴と春蘭は互いに顔を見合わせた。やがて、二人は涙をグッと堪え、同時に深く頭を下げた。「……朱璃様がそこまでお決めになられたのでしたら、私たちはどこまでもお供いたします」「夜間のアリバイは、私たちが命に代えてもお守りします。朱璃様のお心のままに……!」 こうして、朱璃の超過酷な二重生活の幕が切って落とされた。 それからの日々は、目まぐるしいほどの忙しさだった。 昼間は、麗華徳妃に頻繁に本宮へと呼び出され
使者の男に導かれ、朱璃(しゅり)は延明宮の勝手知ったる華やかな回廊を離れ、王宮のさらに奥深くへと歩みを進めていた。 後宮を区切る重厚な門をくぐり、政治の表舞台である外廷エリアへ。その一角にある、成人した皇子たちが居を構える宮殿の一つ――第二皇子、劉 瑛凱(リウ・エイガイ)の住まう『驍駿宮(ぎょうしゅんきゅう)』が、今回の目的地だった。 お付きの侍女として連れてきた春蘭(しゅんらん)は、あまりの厳重な警備と張り詰めた空気に、生きた心地がしない様子で朱璃の斜め後ろを付いてきている。 やがて、驍駿宮の奥深くにある、一見すると何の変哲もない、しかし周囲に人の気配が一切ない不気味な一室の前へと辿り着いた。 「瑛凱皇子殿下。朱璃様をお連れいたしました」 使者の男が扉に向かって低く声をかける。 一瞬の静寂の後、奥から響いたのは、どこか気だるげで、それでいて不思議と耳に残る低音だった。 「――入れ」 朱璃は一度、後ろの春蘭を振り返った。怯える彼女を安心させるように小さく頷いて見せると、「ここで待っていなさい」 と静かに告げる。そして、引き締まった表情のまま、一人で部屋の扉を押し開けた。 「失礼いたします。第二皇子、瑛凱様に拝謁いたします」 入室するなり、朱璃はお妃様としての完璧な所作で膝を突き、深々と頭を下げた。 龍蘭(りゅうらん)帝国の第二皇子、劉 瑛凱。国民から「優しく賢いお兄ちゃん」として絶大に慕われている太子・劉 瑛良(リウ・エイラ)のすぐ下の弟であり、世間では「身の程をわきまえない、やんちゃでちゃらついた皇子」と噂されている人物だ。 「面を上げよ。そこに楽に座れ」 投げやりな声に促され、朱璃は静かに顔を上げた。 視線の先、豪華な椅子に浅く腰掛け、だらしなく片足をひじ掛けにかけながら、退屈そうに金の扇を弄んでいる若き皇子の姿があった。整った容姿にはどこか不真面目な笑みが浮かんでおり、噂通りのちゃらけた風情に見える。 ――しかし、朱璃の「武人の目」は騙せなかった。 (……見事な構えだわ) 朱璃は内心で息を呑んだ。 だらしなく座っている
夏の『千涼祭』での見事な神凪(かんなぎ)流剣舞を経て、朱璃(しゅり)は『貴人(きじん)』から一階級上の、**『嬪(ひん)』**の位へと昇格した。 しかし、嬪に上がったからといって、独立した「自分の宮」が与えられるわけではない。龍蘭(りゅうらん)帝国の後宮制度において、嬪には九つの階級が存在するが、朱璃があてがわれたのはその一番下――いわば「九等嬪」という最も低い席だった。 だが、朱璃の身の回りには確かな変化が起きていた。 主である麗華(レイファ)徳妃から、 「そんな物置同然の最果ての離れに嬪の者を住まわせておくなど、我が延明宮(えんめいきゅう)の恥ですわ!」 とツンとした態度で命じられ、徳妃の本宮のすぐ近くにある、手入れの行き届いた清潔な離宮へと引っ越しをすることになったのだ。 「呼んだらすぐに来られるようにね」 という麗華の言葉通り、朱璃は変わらず雑用係として主のそば近くで仕えることになった。 実際のところ、麗華徳妃が普段、朱璃にキツい態度を取りながらも、本当は彼女を大切に扱い、深く信頼していることを知っているのは、延明宮の古参の側近たちだけだった。 (本当は、皇帝陛下がお渡りになる時よりも、朱璃と話している時の方が嬉しそうなのよね……) 側近たちは麗華のそんな可愛い秘密をそっと胸にしまいながら、朱璃の裏表のない誠実さと有能さを認め、家族のような強固な信頼関係を築いていた。 ――しかし、それを面白く思わない者が、同じ延明宮の中にいた。 季節は移り変わり、暦でいう九月頃。都では、豊かな実りを祝う「秋の大祭」の準備が着々と始まっていた。 後宮全体が再びバタバタと慌ただしさに包まれる中、朱璃が徳妃のそば近くに配置されたことに激しい嫉妬を燃やす者が現れた。 同じ延明宮に所属する上位の妃、**金 宝蓮(ジン・ホウレン)修媛(しゅうえん)**である。 王宮直属の巨大な商団の一人娘であり、潤沢な実家の財力を背景に、後宮の最高権力者である皇后にも目をかけられている女人だった。皇后の後ろ盾があるからこそ、格上の徳妃の宮に所属していながらも、普段から傲慢で偉そうな態度を崩さないのだ。 「あら、これはこれは……」 廊下ですれ違いざま、宝蓮修媛はわざとらしく扇で口元を隠し、取り巻きの侍女たちと共に憐れむような笑い
龍蘭帝国の容赦ない夏の陽射しを遮るように、夜空へ無数の火が放たれる。 後宮の夏を彩る壮大な大祭『千涼祭(せんりょうさい)』。涼を競う名目のもと、きらびやかに飾り立てられた池の上の特設舞台では、今夜も各宮の妃たちが競うように華美な衣装をまとい、優美な大陸の舞を披露していた。 その宴の最中、いよいよ前座として、延明宮の代表たる朱璃の名が呼ばれる。 春の『桃源節』では、地味で退屈な落第姫だと嘲笑された。主である麗華(レイファ)徳妃からも、あからさまな二度目の公開処刑としてこの舞台に立たされた。誰もが「あの倭国の不器用な姫が、また無様な姿を晒すのだろう」と、冷ややかな、あるいは娯楽を期待するような視線を向けている。 だが、舞台に上がった朱璃の姿に、まず広間が小さくどよめいた。 まとい慣れた、くすんだ藍色の衣装ではない。動きやすさを重視して仕立て直させた、薄衣の装束。髪は高く結い上げられ、その手には――月光を冷たく反射する、一振りの真剣が握られていた。 後宮の宴において、刃物の持ち込みは本来許されない。しかし、倭国の武家が「神に捧げる儀礼」として用いる、刃を潰した儀式用の神剣という名目で、朱璃はこの場に剣を持ち込む許可を強引に勝ち取っていた。 ――トォン、と太鼓の音が響く。 その瞬間、朱璃の身体が爆発的な速度で動いた。 それは、春に踊った静かな神楽舞とは完全に一線を画すものだった。倭国の神事のステップをベースにしながらも、その身のこなしに融合されているのは、父から骨の髄まで叩き込まれた『神凪(かんなぎ)流剣舞』。 抜き放たれた白刃が、夜空に冷烈な弧を描く。 しなやかに跳躍したかと思えば、鋭い踏み込みと共に剣が風を「烈(れつ)」と引き裂き、飛び散る火花を両断するかのように激しく煌めいた。音もなく着地する足捌き、目にも留まらぬ速さで繰り出される突きと斬撃。流れるような一連の動作の裏には、一撃で人の首を刈り取れるような、圧倒的な体幹の強さと鋭い殺気が孕まれていた。 美しくも、あまりに恐ろしい、命を削り合う戦場さながらの剣舞。 刃が空気を切り裂く風切音だけが響く広間は、水を打ったように静まり返った。 演舞が終わり、朱璃が剣を美しく鞘へと収め、深く一礼して舞台を降りても、しばらくの間、誰も声を出すことができなかっ
大国の権威を誇示するような、圧倒的な朱色の城門。龍蘭帝国の後宮に足を踏み入れた朱璃(しゅり)を待っていたのは、息を巡らせる暇もないほどの混沌だった。 到着した時期は、ちょうど春の盛りの大祭『桃源節(とうげんせつ)』の直前。後宮全体がその準備で蜂の巣を突ついたような大騒ぎになっており、他国から来たばかりの、まだ寵愛も得ていない端くれの姫である朱璃など、誰もまともに相手をしてはくれない。あてがわれた宮の侍女たちとも、一言二言の挨拶を交わすのが精一杯という慌続きだった。 そして、何一つこの国の作法を教えられないまま、春の祭り当日を迎える。 絢爛豪華な大広間。金銀の装飾が施された衣装をまとい、妖艶で華やかな大陸の舞を披露する他国の姫たち。その姿に、玉座に座る皇帝や皇后、あるいは第三皇子リウ・タイランが退屈そうに視線を送っていた。 やがて朱璃の番が回ってくる。生家である神凪(かんなぎ)の地、倭国(わこく)の厳かな神事しか知らない朱璃は、心を込めて、静かで格式高い「神楽舞(かぐらまい)」を踊った。指先まで神経を尖らせた、神に捧げるための美しい舞。 しかし、この後宮が求めるのは「男の目を惑わせる色香」だ。静寂を重んじる朱璃の舞は、彼らにとって退屈極まりないものでしかなかった。 「まあ、陰気な舞。まるで死人を弔っているようですわ」 「せっかくの桃の節句が台無しね。倭国の野蛮な娘には、この国の華やかさは理解できないのかしら」 他国の姫たちの間で、容赦のない嘲笑が響く。玉座の皇帝や皇后は興味なさげに一瞥をくれただけで、すぐに視線を外した。こうして朱璃は、後宮に足を踏み入れた初日に「地味で退屈な、落第姫」という烙印を押されたのだった。 ――だが、嘲笑の嵐が吹き荒れる広間の中で、ただ一人、違う目をしている男がいた。 第三皇子、リウ・タイラン。 彼は頬杖を突いたまま、遠ざかる朱璃の背中をじっと見つめ、周囲の喧騒に消え入るような小声でボソッと呟いた。 「……なんと、華麗な舞なのだ。軸が一切ぶれていない。これが神に捧げるという、倭国の舞なのか」 その瞳には、退屈の代わりに、獲物を見つけたかのような深い興味の光が鈍く宿っていた。しかし、その呟きに気づく者は、まだ誰もいなかった。 ◇ 祭りが終わり、後宮が本来の静け
夕暮れの庭に、乾いた音が響いた。 木剣と木剣がぶつかり合い、火花の代わりに鋭い衝撃が空気を震わせる。「甘い」 低い声と共に、主人公の握る木剣が弾かれた。 手のひらが痺れる。 だが主人公――朱璃(しゅり)は、すぐに体勢を立て直した。乱れた呼吸を整えながら、再び父へ踏み込む。 夕日に照らされた長い黒髪が背中で揺れた。 本当なら、切ってしまいたい。 もっと短く。 弟のように。 そんな考えを振り払うように、朱璃は木剣を振るう。 しかし父の一撃は重い。 受け止めた瞬間、腕が軋み、木剣が地へ落ちた。 乾いた音が庭へ響く。「……参りました」 膝をつきながらそう言うと、父は







