Masuk「美鈴、疲れているだろう。今日はうちに泊まっていくといい」
その言葉は、最初から用意されていた言葉のように自然だった。
迷いも、逡巡もない。
恒一が実花の反応を気にかける様子はない。
「でも、服が……」
美鈴は困ったようにわずかに眉を寄せる。
その困り方すら、整えられている。
自分がどう振る舞えば、恒一に最も大事にされる存在として成立するか。
それを計算した振る舞い。
「この前置いていった服をとりあえず着ればいい」
「でも……」
「明日になったら一緒に買い物に行こう」
恒一の宥めるような声。
その声音には、こうするのが当然というような親密さが滲んでいた。
「嬉しい」
これで決まった。
あまりにも迷いのない流れ。
この全てが、最初から完成された台本だからだ。
先ほどまでの茶番の続きだ。
実花を責めるための導線を作る。
そして実花の不出来を詫びる形で恒一が美鈴に償いを提案し、最終的に二人が一緒に過ごす。
二人が一緒に。
ただ、それを正当化するためだけに実花はいる。
二人は義理の兄妹である。
そう証明するためだけの『妻』なのだ。
いつもそうだ。
前回は、実花が作った料理を食べて体調を崩したと美鈴が言い出した。
断る余地を奪う形で、恒一は美鈴をこの屋敷に泊めた。
体調不良は、実花を断罪するのに便利な言葉だった。
この屋敷に使用人は常駐していない。
新婚夫婦の邪魔になるから。
そんな理由で、恒一が遠ざけた。
新婚夫婦水入らず。
そのはずなのに、美鈴は例外。
美鈴だけは、夫婦水入らずの生活に当たり前のように入り込む。
週に数日。
時には、それ以上。
気がつけば当然のように滞在している。
そして、当然のように恒一の隣にいる。
実花に許可を取るなど形だけ。
最初から、反対できないようになっている。
実花は微笑みを崩さないように唇の端に力を入れた。
それは、もはや習慣に近い。
少しでも歪めば、この空間はすぐに別の形へ崩れてしまう。
不満を訴えても意味はない。
実花に向くのは苛立ちだけ。
全て無駄。
だから飲み込む。
言葉も、違和感も、喉の奥に押し戻す。
そして、心の中でだけ繰り返す。
――私たちは家族なのだから。
その言葉は慰めではない。
正当化でもない。
ただ自分の立ち位置、存在してよいものだと思うための理由。
実花は今夜もその細い糸のような理由にしがみつく。
そうすることでしか、この場に留まることができないから。
◇◇◇
いま思い返せば、この夜はいつもとどこかが違っていたかもしれない。
……いや、それは結果論なのかもしれない。
あのことがあったから、今になって「違っていた」と認識しているだけかもしれない。
時間の経過は、事実を面白く捻じ曲げる。
意味のない断片が、急に象徴のように見えてしまうことがある。
◇◇◇
「お義姉様って、本当に昔から優しいよね」
美鈴の声で、顔を上げた。
その笑顔は無邪気で、場を和ませるために最適化されたものだった。
だが、その言葉の奥には確かに薄い刃のような棘が含まれていた。
「だから、何でも許してくれるのでしょう?」
許す。
その単語が、実花の中で不自然に浮き上がった。
何を許すというのか。
誰が、誰を、どの立場で。
「何でも」という言い方は、その範囲が曖昧だった。
意図的に曖昧にしているようにも感じられた。
実花が言葉を返すより先に。
「こら、美鈴」
恒一が美鈴をたしなめた。
その声音は叱責というより調整だった。
強く止めるのではなく、逸れかけた流れを元に戻す程度の力加減。
そしてその中には、どこか甘さのようなものが混じっていた。
「実花がそういう性格だから、良いんじゃないか」
それは褒め言葉の形をしていながら、実花にはまったく別の意味として届いた。
良い。
何が良いと評価されているのか。
それは、愛情のある言葉のように見せかけたもの。
実際は、愛情の不在を丁寧に覆い隠した説明にすぎなかった。
ただ、置いておく必要があるから。
置かれたまま、何も問題が起きないことが――良い。
不要な波風を立てないことが――良い。
良いから、自分の存在が肯定される。
その感覚に、温もりはない。
それは優しさではない。
ただの管理だった。
◇◇◇
――何でも許してくれるのでしょう?
――だから、良いんじゃないか。
あの言葉の意味を理解したのは、このあと。
階段から落ちながら。
やっと理解した。
背中から崩れ落ちるように視界が揺れていた。
天井の光が乱れ、線を引くように流れていった。
その視界の端で見えたものは、親密に寄り添う二人の姿。
恒一と美鈴。
二人は自然だった。
二人ともシーツを身に巻きつけただけだった。
身を寄せ合い、二人は実花を哂っていた。
その光景だけが、今も焼き付いて離れない。
「ねえ、見た?」昼休みのオフィス。スマートフォンを覗き込んでいた女性が、興奮したように隣の同僚へ声をかけた。「見た見た。この二人、誰? モデル?」「モデルじゃなくて一般人なんだって」「一般人?」「この男の人知ってる。どっかの会社の社長だよ」「社長? え、どこ? 転職する」「東国グループの次期後継者らしいよ」「東国!?」その場にいた数人が一斉にスマートフォンを覗き込む。画面に映っているのは、藤宮グループの新しい広告だった。歴史あるホテルの豪奢なエントランス。格式高いレストラン。ウエディングプラン。どの広告にも、一組の男女が映っている。男性はデザイナースーツを着こなし、堂々とした佇まいで女性へ手を差し伸べていた。女性はシンプルなワンピースをまとい、その手を静かに重ねている。派手な演出はない。服も、二人の距離も。二人はただ見つめ合うだけ。それだけなのに、目が離せなかった。「こっちは、その婚約者で……え、高校生!?」「高校生モデル?」「ううん、一般人」「一般人?」「藤宮グループ会長の一人娘だって」「……それ、もう一般人じゃないよ」一同が苦笑する。「でも分かる」一人が広告を見つめながら呟いた。「何か、世界が違うよね」「分かる」「すごく綺麗な子なんだけど、綺麗だけじゃないよね」「品がある」「育ちがいいって、こういうのを言うんだね」「ホテルより二人が気になるんだけど」同じような感想は、SNSにも次々と投稿されていた。【誰、この二人】【本当に一般人?】【品格のサンプル】【リアル
作戦会議から三日後、光也の母親である香坂玲が日本へやって来た。京に連れられて部屋へ入ってきた玲を見た瞬間、実花は息を呑んだ。写真では何度も見たことがある人。雑誌の記事も、インタビューも、玲が手がけた衣装も、前の生で夢中になって集めた。玲が掲載されている雑誌を見つければ購入した。気に入った記事は切り抜いてスクラップ帳へ貼っていた。海外で活躍する日本人デザイナー。華やかな世界にいながら、流行に媚びることなく、自分の美しさを貫き続ける女性。前の生の実花にとって、玲は遠い世界にいる憧れの人だった。その玲が今、目の前にいる。「うわあ……」実花は感激のあまり、玲から目を離せなかった。隣に立つ光也が、面白くなさそうに実花を見る。「君、俺をそんな目で見たことがないよな」「玲様が、本当に目の前に……」実花の耳にはほとんど届いていなかった。光也が眉を寄せる。「母は“様”なんて呼ばれるような大層な人物ではないぞ」「そうですか」実花は玲を見つめたまま、いい加減に返事をした。光也の眉間にさらに深いしわが寄る。その様子を見て、玲が楽しそうに笑った。「初めまして。香坂玲です」「は、初めまして」実花は慌てて姿勢を正し、深く頭を下げた。「藤宮実花です」玲は実花の立ち姿をじっと見つめる。背筋の伸ばし方。手を重ねる位置。目上の相手へ向ける視線。一つひとつの動きに、幼い頃から身につけた品が表れていた。「京から話は聞いているわ」玲は実花へ歩み寄る。「写真や動画もたくさん送られてきたわ」ほら、と玲がタブレットを見せる。実花は顔を赤く染め、一方で、光也は眉間にしわを寄せた。
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「お父様なら、誰を東国の当主に選びますか?」実花の問いに、実篤は迷わなかった。「東国万葉だな」「万葉さん?」京が目を瞬かせる。東国万葉。東国夫人が産んだ三姉妹の長女だ。光也にとっては父親違いの姉にあたる。「女性、ですか?」真理が尋ねる。「東国家の基準で問題になるのは、東国万葉が女性であるという一点だけだ」実篤は不満そうに言った。「旧家の跡取りとして考えれば、実花に引けを取らない優れた人材だ」「引けを取らない、ですか」光也が実花を見る。「それは、随分と優秀なんですね」「君の姉だろう」「そうなのですが、いまいち覚えていなくて」「なぜだ」「異母きょうだいが多すぎます。ときどき増えるし……なぜ減らないのか」「減ったら問題だろう」実花は思わず父の袖を引いた。話が逸れている。実篤は咳払いをする。「ともかく、東国万葉が優秀なのは間違いない」一族の中での立場。人脈。実務能力。周囲からの信頼。どれを考えても、旧家を継ぐ者として申し分ないと実篤は言う。「そもそも夫人との結婚は政略結婚だ。夫人の実家としても、自分たちの血を引く者が継ぐなら異論はないだろう」実篤は一度言葉を切る。「東国の一族は、現当主の女問題で散々苦労させられている」実篤は呆れたように息を吐く。「愛人問題。夫人との不和。外に作った子ども。次期当主を巡る混乱。家の評判も随分と落ちた」真理が俯く。それに気づいた実篤は、静かに付け加えた。「真理君を責めているわけではない。君は被害者だ」真理は小さく頷いた。「東国君が後継者として最有力なのは事実だ」実篤は光也を見る。
「状況を整理したい」実篤のその言葉に、部屋の空気が引き締まった。光也が注文したルームサービスは、まだ届いていない。京と真理はソファに座り、実花は父の隣へ腰を下ろした。光也だけが少し離れた椅子へ座り、相変わらず落ち着いた様子で足を組んでいる。実篤はまず真理を見た。「女性と偽っていたところを見ると、真理君は東国の当主になる気はない。間違いはないか?」「はい」真理は迷わず頷いた。「僕は東国の当主にはなりたくありません」実篤は続いて光也へ視線を移す。「東国君は?」「俺は藤宮に婿入りするので」「それについては別途話し合いだな」光也がわずかに眉を寄せる。「まだ話し合う必要がありますか?」「……その話はあとだ」光也は渋々口を閉じた。実篤は真理へ向き直る。「では、君は今後どうしたい?」真理は膝の上で拳を握った。「僕は篠原家を継ぎたいです」その声には迷いがなかった。「ただし、それは男として。本来の自分に戻って、もう隠れるような生き方はしたくありません」名前を偽り、女生徒のふりをして。本来の自分を隠して生きることに疲れていた。しかし、自分の存在を明かせば、東国家だけでなく、関係する家々まで混乱させることは分かっている。だから、まだ名乗れない。実篤は静かに頷いた。「それなら、東国君がさっさと当主になれば問題は解決だな」光也は表情を変えずに答える。「その場合は、実花を嫁として東国家へ連れていきますよ?」「何だって?」実篤の眉間に皺が寄った。「当然でしょう。実花は俺の婚約者です」光也は淡々と返す。「俺が東国の当主になれば、実花は東国の当主夫人になる。藤宮家には渡しません」「実花を東国へやるつもりはない」「では、俺と実花の結婚はどうするのです?」「……知らん」「知らんではないでしょう」「……この話も後で、だ」実篤は咳払いをした。京が呆れたように息を吐く。「光也の話は置いておきましょう」「俺の将来の話ですが?」「ややこしくなるから黙ってなさい」実篤は京に感謝するような目を向けたあと、再び話を戻す。「東国君。君から見て、これという人物はいないのか?」「これの基準が難しいのですよ」「……そもそも、だ。君は親戚をきちんと覚えているのか?」光也は少し考えた。「そういえば、ろくに知りませんね」「なぜ
「東国光也! 貴様っ――何だ?」勢いよく部屋へ踏み込もうとした実篤の前で、光也は人差し指を唇の前に立てた。静かに。その仕草に、実篤は眉を寄せる。何だ、と不思議そうな顔をしながらも、ひとまず声を落とした。「誰かにつけてこられませんでしたか?」光也が周囲を確認しながら尋ねる。「……警察の世話になるようなことをやらかしたのか?」「心当たりはありませんね」「君が気づいていないだけかもしれないぞ」実篤は深いため息をついた。「それより、実花はどこだ?」「ここにいますっ」実花は光也の背後から声を上げた。実篤からは、光也の身体に隠れて実花の姿がほとんど見えない。光也が背に庇うようにして、実花を前へ出さないようにしていた。「……何をしている?」「実花を叩かせるわけにはいかないので」「なぜ私が実花を叩かねばならん」「昔のドラマにあるでしょう。無断外泊した娘に『この不良娘が!』と平手打ちするような場面が」「実花は外泊をしたわけではない」「まあ、そうですね」「万が一そうだとしても、俺ならお前を殴る」「確かに」光也はあっさり納得し、実花を前へ出した。実篤は娘の姿を頭の天辺から足先まで確認する。一度では足りなかったのか、視線が再び足元から頭まで戻り、もう一度下へ降りた。「見て分かるものですか?」茶々を入れるような光也の言葉を、実篤はひと睨みで黙らせる。髪も服も乱れていない。ただ、泣いた痕がある。「貴様、実花に何をした」「泣かせたのは、あいつです」光也は部屋の奥を示す。そこでようやく、実篤は部屋の奥にあと二人いることに気づいた。光也と実花が二人きりではなかったと分かり、実篤の表情からわ
あの夜は、ただ変な声がして目が覚めただけだった。夢と現実の境目がまだ曖昧なまま、痛みでふらつく頭を押さえながら実花は一人で寝ていた寝室からゆっくりと廊下へ出た。冷えた床の感触が足裏に伝わるたび、意識が少しずつ現実へ引き戻されていった。声のする方へ向かったのは、意志というより反射に近かった。何が起きているのかを考える前に身体が勝手に動いていた。そして、すぐに分かった。何の声か。何の音か。理解してしまった瞬間、胸の奥が冷たく沈んだ。美鈴の甲高い声は快感を訴え、「もっと」と甘えるように揺れていた。それに応える恒一の唸り声は理性を削ぎ落とされた獣のようで、実花の知る“夫”という存在
その夜の記憶は、実花の頭の奥底に、まるで消えない染みのように残っている。思い出そうとしなくても勝手に浮かび上がり、忘れようとすればするほど輪郭を濃くしていく。そんな種類の記憶だった。.実花が夫の恒一と暮らしていた藤宮家の別邸は、その夜も例外なく重たく閉ざされていた。外の世界から切り離されたような敷地の中では季節の風すら遠慮がちに通り過ぎ、建物全体が呼吸を止めているように静かだった。ダイニングに入った瞬間、まず実花の目に飛び込んでくるのは過剰なほどの準備をされたテーブル。皺ひとつないクロス。寸分違わぬ位置に並べられた銀のカトラリー。食器の反射すら計算され
扉が開いた瞬間、空気が変わった。それまで室内に漂っていた柔らかな熱が、一瞬で冷え切る。重く、鋭く、抗うことを許さない圧が部屋の中へと流れ込んできた。「実花」低い声。その一言だけで、使用人たちの背筋が一斉に伸びる。まるで空気そのものが命令を受けたかのようだった。藤宮実篤。藤宮グループの頂点に立つ男は、いつだって“場の支配者”として現れる。誰かと会話をしていても、笑みを浮かべていても、その場の空気は最終的に彼のものになる。逆らうことを考える前に、人は自然と従う。そういう種類の男だった。実篤の視線がまっすぐ実花へ向く。そして次の瞬間、その目がわずかに見開かれた。「……そ
「お嬢様、今日は髪をまとめて、首元を見せてみたらいかがでしょう」その一言は、何気ない提案のようでいて、実花にとっては奇妙な重みを持って響いた。前世の記憶が一瞬でよみがえる。一ノ瀬恒一は、実花が髪を上げることを好まなかった。首筋が露わになることを「下品だ」と言い、社交の場で他の女性が髪をまとめているのを見ては、どこか見下すような言い方をしていた。その言葉を、実花は何度も正解として受け取ってきた。だから彼の前で一度たりとも髪を上げたことはなかった。それが「好かれるための正しさ」だと信じていたからだ。だが今、その記憶は違う形で胸に残っている。「……いいわね」返事はすぐに出なかった。







