Masuk夫と義妹の不貞行為を目撃した夜、実花は夫に殺された―――そして十八歳の、夫と婚約する日に回帰する。 今世では従順な令嬢をやめ、婚約ももちろんしない。自分の人生を自分で選ぶと決めた実花。 そんな実花に近づいてきたのは「冷徹」で有名な東国光也。 前世ではろくに話したことがない光也がなぜか実花に急接近―――気づいたとき、実花は光也の甘やかな腕の中に囚われていた。
Lihat lebih banyakその夜の記憶は、実花(みか)の頭の奥底に、まるで消えない染みのように残っている。
思い出そうとしなくても勝手に浮かび上がる。
忘れようとすればするほど輪郭を濃くしていく。
そんな種類の記憶だった。
◇◇◇
実花が夫の一ノ瀬恒一(いちのせ こういち)と暮らしていた藤宮家の別邸は、その夜も例外なく重たく閉ざされていた。
外の世界から切り離されたような敷地の中。
季節の風すら遠慮がちに通り過ぎ、建物全体が呼吸を止めているように静かだった。
ダイニングに入った瞬間、まず実花の目に飛び込んでくるのは過剰なほどの準備をされたテーブル。
皺ひとつないクロス。
寸分違わぬ位置に並べられた銀のカトラリー。
食器の反射すら計算されたような配置は、美しくあるが「正しさ」に支配された光景で、そこに人の温度はほとんど存在していなかった。
天井から吊るされたシャンデリアが白く強い光を放つ。
白い光がテーブルの上で瞬くたびに、冷えた陶器が無機質に輝き返している。
実花はいつもこの部屋だけが別の時間軸に置かれているように感じていた。
足を踏み入れ、正しさだけが許される場所につく。
そのたびに、自分が生きている世界の手触りを少しずつ失っていく感覚に襲われていた。
その場所は、本来なら妻である実花を歓迎するはずだった。
法的に実花は恒一の妻と定められていた。
妻として扱われ、妻として振る舞うことが許される立場として、そこに存在しているはずだった。
しかし現実は、その役割にいるとは到底思えない形で存在していた。
恒一の隣には当然のように別の女性が座っているからだ。
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「最近、少し痩せたんじゃないか」
その言葉はあまりにも自然に、あまりにも穏やかに発せられた。
だがその声が向けられたのは妻である実花ではなかった。
恒一の視線の先にいたのは、一ノ瀬美鈴(みすず)だった。
美鈴は一ノ瀬家の義両親の養女。
形式上は恒一の義妹という立場にあたる存在。
恒一は義妹だから可愛がっているという。
だが。
義妹――それでは説明がつかないほど、二人の距離は近い。
あまりにも自然に、恒一の隣には常に美鈴がいた。
恒一の優しさ、柔らかい声、わずかに眉を下げた微笑み。
全てが美鈴に向けられる。
義妹なのだから当然。
それでは、妻である実花にそんな当然はあったのか。
――なかった。
恒一の優しさも微笑みも、欠片すら実花に向くことはない。
元からそうだったわけではない。
だが、それらが自分に向けられなくなってどれくらい経ったのか。
数えようとしても、答えが定かではないほど過去のこと。
正確な数字はもう出てこない。
ただ、いつからかという感覚だけが鈍い痛みとして胸の奥に沈殿していた。
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実花は食事を機械的に口へ運ぶ。
噛むという行為だけを淡々と繰り返す。
味を認識する前に、次の動作へ移る。
食欲はない。
だが、それでも食べなければならないという強迫にも似た習慣だけが身体を動かす。
食事を残せば、朝になって本邸から来る使用人が不審に思う。
実花の体調が悪いと判断されれば、無用な騒ぎが起きる。
――それを恒一が嫌う。
恒一が嫌うことは問題として扱われる。
実花の『よい妻として』の立場を揺るがす。
だから、自分の体調すら管理対象として扱っていた。
ただ「問題のない妻」を演じ続けるために。
何があっても、いつも通りであること。
それが、恒一が実花に求める唯一のことだった。
そして、その「いつも通り」には美鈴の存在も含まれていた。
美鈴の身体が恒一にわずかに寄せられること。
食事の最中に、自然な動作としてその指先が恒一の腕に触れること。
本来なら視線が止まってしまいそうなそれらの動きを、実花は『気づかない振り』で処理しなければならない。
その振りこそが、この家で呼吸を続けるための唯一の方法だった。
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「大丈夫、少し仕事が忙しいだけだよ」
美鈴がそう言った声は軽やかだった。
空気をわずかに柔らかくする響きも持っていた。
「忙しい?」
恒一は首を傾げる。
美鈴は、視線をわずかに落としながら実花を見た。
「お義姉様から、いろいろ頼まれていて……あ、でも、大丈夫だから」
へへへ、と小さく笑う。
その笑いは、場の空気を和ませるためのものか。
いや、恒一の目を実花に向けるためのものだった。
美鈴の狙い通り、恒一の視線だけが実花へと移る。
「……実花」
名前を呼ばれた瞬間、実花はわずかに背筋を正す。
呼ぶ声に、かつて存在したはずの優しさはもう見当たらない。
感情の温度はない。
管理する対象を確認する。
そのための呼びかけに近いものだった。
「美鈴はお前の義妹であって、使用人ではない。こき使うな。何を考えている」
淡々とした指摘。
正しさを帯びた言葉。
その形だけを見れば『注意』として成立しているように見える。
だが、その中に実花を理解しようとする意図はない。
恒一が歓迎できない事象が起きた。
その結論だけが先にある。
そのための原因として、実花が配置されていた。
「……申し訳ありませんでした」
実花は即座に頭を下げる。
謝罪の形は完璧だったが、その言葉の中に真実の説明は一切含まなかった。
美鈴の発言は事実とは違う。
逆だ。
美鈴の仕事が、すべて実花に押しつけられている。
しかし、それを説明しても意味はない。
この場の構造、美鈴が庇われ、実花が叱られる形は変わらない。
そのことを、実花はもう理解していた。
だから言わない。
言っても無駄だと知っているから。
それだけではない。
言うことで“この先”を崩し、それを恒一が歓迎しないことを知っていたから。
すべて、茶番なのだ。
美鈴は実花が決して反論しないことを知っていて嘘を吐く。
恒一もまた、それ以上確かめようとはせず、実花を責める。
それらを『気づかない振り』で流す。
その『気づかない振り』こそが、実花に求められている役目。
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実花は静かに食事を続けた。
誰にも見えない場所で、確かに何かが削られていく感覚だけを抱えながら。
作戦会議から三日後、光也の母親である香坂玲が日本へやって来た。京に連れられて部屋へ入ってきた玲を見た瞬間、実花は息を呑んだ。写真では何度も見たことがある人。雑誌の記事も、インタビューも、玲が手がけた衣装も、前の生で夢中になって集めた。玲が掲載されている雑誌を見つければ購入した。気に入った記事は切り抜いてスクラップ帳へ貼っていた。海外で活躍する日本人デザイナー。華やかな世界にいながら、流行に媚びることなく、自分の美しさを貫き続ける女性。前の生の実花にとって、玲は遠い世界にいる憧れの人だった。その玲が今、目の前にいる。「うわあ……」実花は感激のあまり、玲から目を離せなかった。隣に立つ光也が、面白くなさそうに実花を見る。「君、俺をそんな目で見たことがないよな」「玲様が、本当に目の前に……」実花の耳にはほとんど届いていなかった。光也が眉を寄せる。「母は“様”なんて呼ばれるような大層な人物ではないぞ」「そうですか」実花は玲を見つめたまま、いい加減に返事をした。光也の眉間にさらに深いしわが寄る。その様子を見て、玲が楽しそうに笑った。「初めまして。香坂玲です」「は、初めまして」実花は慌てて姿勢を正し、深く頭を下げた。「藤宮実花です」玲は実花の立ち姿をじっと見つめる。背筋の伸ばし方。手を重ねる位置。目上の相手へ向ける視線。一つひとつの動きに、幼い頃から身につけた品が表れていた。「京から話は聞いているわ」玲は実花へ歩み寄る。「写真や動画もたくさん送られてきたわ」ほら、と玲がタブレットを見せる。実花は顔を赤く染め、一方で、光也は眉間にしわを寄せた。
「反対だ!」光也の大きな声に、実花は驚いた。「絶対に反対だ。囮になるなんて、何を考えている!」光也の反対に、真理も同意する。「そんな危険な真似、やめてよ」真理は実花の目をジッと見る。「もしかして、ご当主が僕の母に執着しているから、ほかの女性には本気で手を出さないと思ってる?」「それは甘い。あの男にとって、それはそれ、これはこれだ」京も光也と真理の言葉に頷く。「そもそも、どうやってご当主に手を出させるつもり? 自分から誘惑してみせるなんて、そんな評判を落とすようなことはやめて頂戴」「でも……」光也が実花の前に膝をつく。「実花、そんな考えは捨てろ」「東国さん……」「俺は藤宮に婿入りすると決めている。君が東国のために危険を冒す必要は一切ない」「ちょっと待て」光也の言葉に実篤が反応した。「何を勝手に決めている」「義父上!」ここで光也は実篤がずっと黙っていたことに気づいた。「なぜ反対しないのです!」「……君もそんな風に興奮するんだな」実篤の言葉に、光也の目がつり上がる。「俺のことよりも、実花のことです!」「君のことを心配して言ったわけではない」「それなら」「でも、実花は君たちのことを気にかけている。どうにかしたいと思っている」「だからって」「現当主の女性問題を利用するという考えは悪くないと思うぞ」「なにをっ」「だから、落ち着け」実花の前に膝をついたままの光也の額を、実篤は指で弾いた。「……デコピンなんて初めてやったが、気持ちのいいものだな」目を開いて驚く光也。「君のそんな顔も見られた」実篤は笑う。そして。「香坂さん」「は、はい」名を呼ばれた京は姿勢を正す。
「お父様なら、誰を東国の当主に選びますか?」実花の問いに、実篤は迷わなかった。「東国万葉だな」「万葉さん?」京が目を瞬かせる。東国万葉。東国夫人が産んだ三姉妹の長女だ。光也にとっては父親違いの姉にあたる。「女性、ですか?」真理が尋ねる。「東国家の基準で問題になるのは、東国万葉が女性であるという一点だけだ」実篤は不満そうに言った。「旧家の跡取りとして考えれば、実花に引けを取らない優れた人材だ」「引けを取らない、ですか」光也が実花を見る。「それは、随分と優秀なんですね」「君の姉だろう」「そうなのですが、いまいち覚えていなくて」「なぜだ」「異母きょうだいが多すぎます。ときどき増えるし……なぜ減らないのか」「減ったら問題だろう」実花は思わず父の袖を引いた。話が逸れている。実篤は咳払いをする。「ともかく、東国万葉が優秀なのは間違いない」一族の中での立場。人脈。実務能力。周囲からの信頼。どれを考えても、旧家を継ぐ者として申し分ないと実篤は言う。「そもそも夫人との結婚は政略結婚だ。夫人の実家としても、自分たちの血を引く者が継ぐなら異論はないだろう」実篤は一度言葉を切る。「東国の一族は、現当主の女問題で散々苦労させられている」実篤は呆れたように息を吐く。「愛人問題。夫人との不和。外に作った子ども。次期当主を巡る混乱。家の評判も随分と落ちた」真理が俯く。それに気づいた実篤は、静かに付け加えた。「真理君を責めているわけではない。君は被害者だ」真理は小さく頷いた。「東国君が後継者として最有力なのは事実だ」実篤は光也を見る。
「状況を整理したい」実篤のその言葉に、部屋の空気が引き締まった。光也が注文したルームサービスは、まだ届いていない。京と真理はソファに座り、実花は父の隣へ腰を下ろした。光也だけが少し離れた椅子へ座り、相変わらず落ち着いた様子で足を組んでいる。実篤はまず真理を見た。「女性と偽っていたところを見ると、真理君は東国の当主になる気はない。間違いはないか?」「はい」真理は迷わず頷いた。「僕は東国の当主にはなりたくありません」実篤は続いて光也へ視線を移す。「東国君は?」「俺は藤宮に婿入りするので」「それについては別途話し合いだな」光也がわずかに眉を寄せる。「まだ話し合う必要がありますか?」「……その話はあとだ」光也は渋々口を閉じた。実篤は真理へ向き直る。「では、君は今後どうしたい?」真理は膝の上で拳を握った。「僕は篠原家を継ぎたいです」その声には迷いがなかった。「ただし、それは男として。本来の自分に戻って、もう隠れるような生き方はしたくありません」名前を偽り、女生徒のふりをして。本来の自分を隠して生きることに疲れていた。しかし、自分の存在を明かせば、東国家だけでなく、関係する家々まで混乱させることは分かっている。だから、まだ名乗れない。実篤は静かに頷いた。「それなら、東国君がさっさと当主になれば問題は解決だな」光也は表情を変えずに答える。「その場合は、実花を嫁として東国家へ連れていきますよ?」「何だって?」実篤の眉間に皺が寄った。「当然でしょう。実花は俺の婚約者です」光也は淡々と返す。「俺が東国の当主になれば、実花は東国の当主夫人になる。藤宮家には渡しません」「実花を東国へやるつもりはない」「では、俺と実花の結婚はどうするのです?」「……知らん」「知らんではないでしょう」「……この話も後で、だ」実篤は咳払いをした。京が呆れたように息を吐く。「光也の話は置いておきましょう」「俺の将来の話ですが?」「ややこしくなるから黙ってなさい」実篤は京に感謝するような目を向けたあと、再び話を戻す。「東国君。君から見て、これという人物はいないのか?」「これの基準が難しいのですよ」「……そもそも、だ。君は親戚をきちんと覚えているのか?」光也は少し考えた。「そういえば、ろくに知りませんね」「なぜ
扉が開いた瞬間、空気が変わった。それまで室内に漂っていた柔らかな熱が、一瞬で冷え切る。重く、鋭く、抗うことを許さない圧が部屋の中へと流れ込んできた。「実花」低い声。その一言だけで、使用人たちの背筋が一斉に伸びる。まるで空気そのものが命令を受けたかのようだった。藤宮実篤。藤宮グループの頂点に立つ男は、いつだって“場の支配者”として現れる。誰かと会話をしていても、笑みを浮かべていても、その場の空気は最終的に彼のものになる。逆らうことを考える前に、人は自然と従う。そういう種類の男だった。実篤の視線がまっすぐ実花へ向く。そして次の瞬間、その目がわずかに見開かれた。「……そ
「お嬢様、今日は髪をまとめて、首元を見せてみたらいかがでしょう」その一言は、何気ない提案のようでいて、実花にとっては奇妙な重みを持って響いた。前世の記憶が一瞬でよみがえる。一ノ瀬恒一は、実花が髪を上げることを好まなかった。首筋が露わになることを「下品だ」と言い、社交の場で他の女性が髪をまとめているのを見ては、どこか見下すような言い方をしていた。その言葉を、実花は何度も正解として受け取ってきた。だから彼の前で一度たりとも髪を上げたことはなかった。それが「好かれるための正しさ」だと信じていたからだ。だが今、その記憶は違う形で胸に残っている。「……いいわね」返事はすぐに出なかった。
使用人が用意したドレスを、実花は静かに見下ろしていた。白に近い淡紫色。光の当たり方によってはほとんど白にも見えるその色は、藤宮家の「清楚な娘」であることを象徴するために選ばれたものだった。上品で、柔らかく、誰から見ても好印象を与える色。前世の実花はこの色を疑うこともなく、むしろ一ノ瀬恒一の好みに合うだろうと信じて、少し誇らしげに選んでいた記憶すらある。彼に選ばれるための自分を作ることに、何の疑問も抱いていなかった。だが今、その淡い紫はまったく違う意味を持って見えていた。それは「清楚」の象徴ではなく、「従順」の象徴だった。良い娘であること、良い妻になること、それらの言葉に守られているよう
まぶしさで目が覚めた。実花は一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。瞼の裏に残る白い光の余韻がゆっくりと引いていき、代わりに柔らかい感触と静かな空気が意識へと染み込んでくる。身体を包んでいるのは上質なシーツで、布地は肌に吸い付くように滑らかだった。鼻腔を満たすのは、微かに甘く落ち着いた香り。高価な調度品に染みついたような、整えられた空間特有の匂いだ。ゆっくりと視線を巡らせると、そこは見慣れた―――けれど今の自分からは遠く感じる藤宮邸の一室だった。咄嗟に窓の外を見る。そこには、過剰なまでに手入れされた庭園が広がり、剪定された樹木と計算された配置の花々が、まるで絵画のような均整を保ってい
Ulasan-ulasan