愛されること~夫と義妹に殺されたので、今世では悪女になります

愛されること~夫と義妹に殺されたので、今世では悪女になります

last updateTerakhir Diperbarui : 2026-07-31
Oleh:  酔夫人Baru saja diperbarui
Bahasa: Japanese
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夫と義妹の不貞行為を目撃した夜、実花は夫に殺された―――そして十八歳の、夫と婚約する日に回帰する。 今世では従順な令嬢をやめ、婚約ももちろんしない。自分の人生を自分で選ぶと決めた実花。 そんな実花に近づいてきたのは「冷徹」で有名な東国光也。 前世ではろくに話したことがない光也がなぜか実花に急接近―――気づいたとき、実花は光也の甘やかな腕の中に囚われていた。

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Bab 1

第1話 気づかない振り

その夜の記憶は、実花(みか)の頭の奥底に、まるで消えない染みのように残っている。

思い出そうとしなくても勝手に浮かび上がる。

忘れようとすればするほど輪郭を濃くしていく。

そんな種類の記憶だった。

◇◇◇

実花が夫の一ノ瀬恒一(いちのせ こういち)と暮らしていた藤宮家の別邸は、その夜も例外なく重たく閉ざされていた。

外の世界から切り離されたような敷地の中。

季節の風すら遠慮がちに通り過ぎ、建物全体が呼吸を止めているように静かだった。

ダイニングに入った瞬間、まず実花の目に飛び込んでくるのは過剰なほどの準備をされたテーブル。

皺ひとつないクロス。

寸分違わぬ位置に並べられた銀のカトラリー。

食器の反射すら計算されたような配置は、美しくあるが「正しさ」に支配された光景で、そこに人の温度はほとんど存在していなかった。

天井から吊るされたシャンデリアが白く強い光を放つ。

白い光がテーブルの上で瞬くたびに、冷えた陶器が無機質に輝き返している。

実花はいつもこの部屋だけが別の時間軸に置かれているように感じていた。

足を踏み入れ、正しさだけが許される場所につく。

そのたびに、自分が生きている世界の手触りを少しずつ失っていく感覚に襲われていた。

その場所は、本来なら妻である実花を歓迎するはずだった。

法的に実花は恒一の妻と定められていた。

妻として扱われ、妻として振る舞うことが許される立場として、そこに存在しているはずだった。

しかし現実は、その役割にいるとは到底思えない形で存在していた。

恒一の隣には当然のように別の女性が座っているからだ。

·

「最近、少し痩せたんじゃないか」

その言葉はあまりにも自然に、あまりにも穏やかに発せられた。

だがその声が向けられたのは妻である実花ではなかった。

恒一の視線の先にいたのは、一ノ瀬美鈴(みすず)だった。

美鈴は一ノ瀬家の義両親の養女。

形式上は恒一の義妹という立場にあたる存在。

恒一は義妹だから可愛がっているという。

だが。

義妹――それでは説明がつかないほど、二人の距離は近い。

あまりにも自然に、恒一の隣には常に美鈴がいた。

恒一の優しさ、柔らかい声、わずかに眉を下げた微笑み。

全てが美鈴に向けられる。

義妹なのだから当然。

それでは、妻である実花にそんな当然はあったのか。

――なかった。

恒一の優しさも微笑みも、欠片すら実花に向くことはない。

元からそうだったわけではない。

だが、それらが自分に向けられなくなってどれくらい経ったのか。

数えようとしても、答えが定かではないほど過去のこと。

正確な数字はもう出てこない。

ただ、いつからかという感覚だけが鈍い痛みとして胸の奥に沈殿していた。

.

実花は食事を機械的に口へ運ぶ。

噛むという行為だけを淡々と繰り返す。

味を認識する前に、次の動作へ移る。

食欲はない。

だが、それでも食べなければならないという強迫にも似た習慣だけが身体を動かす。

食事を残せば、朝になって本邸から来る使用人が不審に思う。

実花の体調が悪いと判断されれば、無用な騒ぎが起きる。

――それを恒一が嫌う。

恒一が嫌うことは問題として扱われる。

実花の『よい妻として』の立場を揺るがす。

だから、自分の体調すら管理対象として扱っていた。

ただ「問題のない妻」を演じ続けるために。

何があっても、いつも通りであること。

それが、恒一が実花に求める唯一のことだった。

そして、その「いつも通り」には美鈴の存在も含まれていた。

美鈴の身体が恒一にわずかに寄せられること。

食事の最中に、自然な動作としてその指先が恒一の腕に触れること。

本来なら視線が止まってしまいそうなそれらの動きを、実花は『気づかない振り』で処理しなければならない。

その振りこそが、この家で呼吸を続けるための唯一の方法だった。

.

「大丈夫、少し仕事が忙しいだけだよ」

美鈴がそう言った声は軽やかだった。

空気をわずかに柔らかくする響きも持っていた。

「忙しい?」

恒一は首を傾げる。

美鈴は、視線をわずかに落としながら実花を見た。

「お義姉様から、いろいろ頼まれていて……あ、でも、大丈夫だから」

へへへ、と小さく笑う。

その笑いは、場の空気を和ませるためのものか。

いや、恒一の目を実花に向けるためのものだった。

美鈴の狙い通り、恒一の視線だけが実花へと移る。

「……実花」

名前を呼ばれた瞬間、実花はわずかに背筋を正す。

呼ぶ声に、かつて存在したはずの優しさはもう見当たらない。

感情の温度はない。

管理する対象を確認する。

そのための呼びかけに近いものだった。

「美鈴はお前の義妹であって、使用人ではない。こき使うな。何を考えている」

淡々とした指摘。

正しさを帯びた言葉。

その形だけを見れば『注意』として成立しているように見える。

だが、その中に実花を理解しようとする意図はない。

恒一が歓迎できない事象が起きた。

その結論だけが先にある。

そのための原因として、実花が配置されていた。

「……申し訳ありませんでした」

実花は即座に頭を下げる。

謝罪の形は完璧だったが、その言葉の中に真実の説明は一切含まなかった。

美鈴の発言は事実とは違う。

逆だ。

美鈴の仕事が、すべて実花に押しつけられている。

しかし、それを説明しても意味はない。

この場の構造、美鈴が庇われ、実花が叱られる形は変わらない。

そのことを、実花はもう理解していた。

だから言わない。

言っても無駄だと知っているから。

それだけではない。

言うことで“この先”を崩し、それを恒一が歓迎しないことを知っていたから。

すべて、茶番なのだ。

美鈴は実花が決して反論しないことを知っていて嘘を吐く。

恒一もまた、それ以上確かめようとはせず、実花を責める。

それらを『気づかない振り』で流す。

その『気づかない振り』こそが、実花に求められている役目。

.

実花は静かに食事を続けた。

誰にも見えない場所で、確かに何かが削られていく感覚だけを抱えながら。

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Ulasan-ulasan

倉地ユミ
倉地ユミ
まだ序章ですが先の展開が気になります。主人公がどう反撃していくのか楽しみです。
2026-07-26 19:06:33
1
0
umi
umi
最初は、やだなぁ、悔しいなぁ でした。 でも、転生してからは、早々にざまぁは来るし、 何より、光也を絡めた押し問答、特にお父様とのやり取りが面白すぎて楽しく読めます。 そして、ヒロインがとにかく可愛い! これからも笑いありの内容に期待しまくりです。
2026-07-04 07:41:09
1
1
あんず
あんず
ヒーローよりパパの登場を待ちわびるww イライラしても即笑いで塗り替えてくれる♪オススメです
2026-06-21 16:04:19
10
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第1話 気づかない振り
その夜の記憶は、実花(みか)の頭の奥底に、まるで消えない染みのように残っている。思い出そうとしなくても勝手に浮かび上がる。忘れようとすればするほど輪郭を濃くしていく。そんな種類の記憶だった。◇◇◇実花が夫の一ノ瀬恒一(いちのせ こういち)と暮らしていた藤宮家の別邸は、その夜も例外なく重たく閉ざされていた。外の世界から切り離されたような敷地の中。季節の風すら遠慮がちに通り過ぎ、建物全体が呼吸を止めているように静かだった。ダイニングに入った瞬間、まず実花の目に飛び込んでくるのは過剰なほどの準備をされたテーブル。皺ひとつないクロス。寸分違わぬ位置に並べられた銀のカトラリー。食器の反射すら計算されたような配置は、美しくあるが「正しさ」に支配された光景で、そこに人の温度はほとんど存在していなかった。天井から吊るされたシャンデリアが白く強い光を放つ。白い光がテーブルの上で瞬くたびに、冷えた陶器が無機質に輝き返している。実花はいつもこの部屋だけが別の時間軸に置かれているように感じていた。足を踏み入れ、正しさだけが許される場所につく。そのたびに、自分が生きている世界の手触りを少しずつ失っていく感覚に襲われていた。その場所は、本来なら妻である実花を歓迎するはずだった。法的に実花は恒一の妻と定められていた。妻として扱われ、妻として振る舞うことが許される立場として、そこに存在しているはずだった。しかし現実は、その役割にいるとは到底思えない形で存在していた。恒一の隣には当然のように別の女性が座っているからだ。·「最近、少し痩せたんじゃないか」その言葉はあまりにも自然に、あまりにも穏やかに発せられた。だがその声が向けられたのは妻である実花ではなかった。恒一の視線の先にいたのは、一ノ瀬美鈴(みすず)だった。美鈴は一ノ瀬家の義両親の養女。形式上は恒一の義妹という立場にあたる存在。恒一は義妹だから可愛がっているという。だが。義妹――それでは説明がつかないほど、二人の距離は近い。あまりにも自然に、恒一の隣には常に美鈴がいた。恒一の優しさ、柔らかい声、わずかに眉を下げた微笑み。全てが美鈴に向けられる。義妹なのだから当然。それでは、妻である実花にそんな当然はあったのか。――なかった。恒一の優しさも微笑みも、欠片すら実花に向くこと
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第2話 許すということ
「美鈴、疲れているだろう。今日はうちに泊まっていくといい」その言葉は、最初から用意されていた言葉のように自然だった。迷いも、逡巡もない。恒一が実花の反応を気にかける様子はない。「でも、服が……」美鈴は困ったようにわずかに眉を寄せる。その困り方すら、整えられている。自分がどう振る舞えば、恒一に最も大事にされる存在として成立するか。それを計算した振る舞い。「この前置いていった服をとりあえず着ればいい」「でも……」「明日になったら一緒に買い物に行こう」恒一の宥めるような声。その声音には、こうするのが当然というような親密さが滲んでいた。「嬉しい」これで決まった。あまりにも迷いのない流れ。この全てが、最初から完成された台本だからだ。先ほどまでの茶番の続きだ。実花を責めるための導線を作る。そして実花の不出来を詫びる形で恒一が美鈴に償いを提案し、最終的に二人が一緒に過ごす。二人が一緒に。ただ、それを正当化するためだけに実花はいる。二人は義理の兄妹である。そう証明するためだけの『妻』なのだ。いつもそうだ。前回は、実花が作った料理を食べて体調を崩したと美鈴が言い出した。断る余地を奪う形で、恒一は美鈴をこの屋敷に泊めた。体調不良は、実花を断罪するのに便利な言葉だった。この屋敷に使用人は常駐していない。新婚夫婦の邪魔になるから。そんな理由で、恒一が遠ざけた。新婚夫婦水入らず。そのはずなのに、美鈴は例外。美鈴だけは、夫婦水入らずの生活に当たり前のように入り込む。週に数日。時には、それ以上。気がつけば当然のように滞在している。そして、当然のように恒一の隣にいる。実花に許可を取るなど形だけ。最初から、反対できないようになっている。実花は微笑みを崩さないように唇の端に力を入れた。それは、もはや習慣に近い。少しでも歪めば、この空間はすぐに別の形へ崩れてしまう。不満を訴えても意味はない。実花に向くのは苛立ちだけ。全て無駄。だから飲み込む。言葉も、違和感も、喉の奥に押し戻す。そして、心の中でだけ繰り返す。――私たちは家族なのだから。その言葉は慰めではない。正当化でもない。ただ自分の立ち位置、存在してよいものだと思うための理由。実花は今夜もその細い糸のような理由にしがみつく。そうすることでしか、
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第3話 人生をやり直せるなら
あの夜のことは、忘れられない。ただ、変な声がして目が覚めただけだった。夢と現実の境目が曖昧なまま、鈍く痛む頭を押さえながら実花は起き上がった。また、声が聞こえた。夢ではない。不審に思って、実花は寝室からゆっくりと廊下へ出た。隣の部屋、恒一の寝室の扉を開けた。恒一はいなかった。実花は声のするほうに向かった。冷えた床の感触が足裏から伝わってくる。意識が少しずつ現実へ引き戻されていった。それでも、声のするほうへ向かい続けた。意志というより、反射に近かった。何が起きているのか。それを考える前に、身体が勝手に動いていた。.客間の前で、何が起きているのか理解した。すぐに分かった。何の声か。何の音か。胸の奥が冷たく沈んだ。「もっとぉ……」美鈴の甲高い声は快感を訴え、甘えるように揺れていた。応える恒一の唸り声は、理性を削ぎ落とされた獣のようだった。実花の知る『夫』という存在から遠い響きだった。.実花は持っていたスマートフォンを起動させた。よく冷静に行動できたと、今でも実花は信じられない。実花を突き動かしたのは恐怖なのか。それとも怒りなのか。その判断は不要だった。異様なほど思考が冴えていることが重要だった。指先が震えているのに、操作だけは正確だった。二人の様子を動画に収めた。衝動的だった。証拠を残さなければいけない。そんな目的を理解したときには、録画が始まっていた。濡れた肌がぶつかり合う打擲音が、スマートフォンの電子音を消した。どの音も非現実的で。小さな画面の中で絡み合う夫と義妹の姿は、別の世界の出来事のように見えた。二人がいつも言い訳に使っていた「義兄妹」。それが白々しいほど、二人は男と女だった。「あんんっ……激しっ!」ただ、この時点では夫の不貞でしかなかった。だが。「待って、お腹の赤ちゃんがっ!」耳に飛び込んできた美鈴の言葉。それは、実花が想定していた裏切りの範囲を踏み越えていた。「赤ん坊だって、父親と母親が仲が良いほうが嬉しいだろっ」美鈴は妊娠していた。恒一の子どもを。「ほらっ、もっと声を出せ」恒一の声は笑っていた。「だめっ! お義姉さんが起きちゃうぅ……あんっ!」実花を気遣う台詞。それと真逆の、目の前の光景。「大丈夫だって。いつも通り睡眠薬を飲ませている」「で、も
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第4話 やり直せる
最初、自分がどこにいるのか分からなかった。柔らかい感触に包まれていた。手が触れたのは、上質なシーツだった。布地は肌に吸いつくように滑らかだった。微かに甘い、落ち着いたこの香りがなければ、病院に運ばれたと思っただろう。でも、この香りは違う。ゆっくりと視線を巡らせる。ここは見慣れた――懐かしく感じる自分の昔の部屋。窓の外を見る。そこには手入れされた庭園が広がっていた。剪定された樹木。計算された配置の花々。まるで絵画のような均整を保つ庭。記憶にある、かつて見慣れたその景色。(私……本邸に、運ばれたの?)階段から落ちたはず。でも、痛みの記憶はない。落ちる途中で気を失ったのだろうか。(おかしい……)なぜなら、痛みがない。階段から落ちたはずだ。落ちれば、死んでもおかしくない高さ。生きているのは、運が良かったと言える。でも、痛みがないことはおかしい。動かしても、痛くない。痛いどころか。(何か、とても元気な気がする)長く眠り続けていたのか。奇妙なほどに、身体の内側から力を感じる。実花はゆっくりと体を起こした。痛くない。ベッドから足を下ろす。絨毯の感触を確かめるように、そっと一歩踏み出した。痛くない。柔らかく沈み込む繊維の感触が伝わってくるだけ。はっきりと理解する――なんともない。どうしてか。理由を探すため、姿見に向かう。その前に立ち、そこに映った自分の姿に実花は息を呑んだ。長い黒髪。丁寧に手入れされ、光を受けて滑らかに揺れている。肌は透けるように白い。頬には健康的な血色がある。瞳には疲弊も絶望もない。諦めきった空虚さもない。静かな光を宿した目がこちらを見ていた。若い。(いえ、あまりにも若すぎるわ)最後に見た自分を実花は覚えている。二十八歳という年齢にはとても見えなかった。若さを擦り減らした、老けた姿をしていた。それなのに今は逆だ。十歳以上若返ったかのように、生き生きとしている。実花は息を止めた。単なる寝起きの錯覚ではない。これは、『よく寝た』では説明できない現象だ。「もしかして……時間が、戻った?」小説やドラマのような、荒唐無稽なこと。でも、それを口にした瞬間、現実として自分の中に落ちてきた気がした。声に出したことで、曖昧だった違和感が輪郭を持ったのだ。記憶は途切
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第5話 私が選ぶ色
今夜のためのドレスを、実花は静かに見下ろしていた。白に近い淡紫色。光の当たり方によってはほとんど白にも見える色。それは、藤宮家の令嬢らしさを示すために選ばれたもの。上品で、柔らかく、誰から見ても好印象を与える。前世の実花は、この色を何も思わずまとった。一ノ瀬恒一の好みに合うだろう、そう思って着ていた。誇らしささえあったかもしれない。だが、こうして見るとその淡い紫はまったく違う意味があるように思える。なぜなら。「……似合わないわね」実花の容姿に合わない色。それを喜んで着ていた以前の自分はどれだけ滑稽だったか。そんな実花を、恒一や美鈴はどう見ていたのか。これは、清楚であることを示していない。これは従順の象徴だった。良い娘であること。良い妻になること。そうしていれば、守ってもらえるのか。いや、実際にそれらは実花を守らなかった。守るどころか、それらは枷だった。優しさで色を付けただけの鎖。実花は目を閉じる。「変わるのよ」ゆっくりと目を開く。変わる。この言葉は、誰に聞かせるためではない。部屋の空気に落ちるように響いただけだったが、頭の中で何かが切り替わる音がした。従順な藤宮実花。そんなものは、もうここにはない。(これ以外のドレスは……)クローゼットに入る。中を見渡す。並んでいるドレスはどれも似たような色調ばかり。白、薄桃色、淡い水色。期待に沿うために作られた色。父が望むのは藤宮の娘としての正解。一ノ瀬恒一が望むのは従順で、愚かな妻。実花は小さく息を吐いた。(馬鹿な私)自分はこれまで選ばれることだけを目的に生きてきた。それが分かるドレスたち。あまりにも滑稽で、空しかった。.「お嬢様?」ヘアメイクのために隣室で控えていた使用人たちが顔を出した。「ドレスに何か不備がありましたか?」「あの……他のドレスはないかしら」「……え?」「この色はちょっと……他に、ないかしら?」「お嬢様?」使用人たちが驚くのは当然だろう。この淡紫のドレスは、実花自身が悩み抜いて選んだという記憶がある。ギリギリまで悩んで決めたドレス。実花自身が他を望むなど、誰も想像していなかったはずだ。実花は彼女たちの戸惑いを感じながら、静かに口を開いた。「変わり……たいの」その一言に、部屋の空気がわずかに揺れる。
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第6話 鏡の中の私
「今日は髪をまとめて、首を見せてみたらいかがでしょう」そう声をかけた使用人にとっては、何気ない提案だっただろう。だが、実花にとっては奇妙な重みを持っていた。前の生の記憶がよみがえる。恒一は実花が髪を上げることを好まなかった。首筋が露わになることを「下品だ」と言った。女らしさを捨てて、男と張り合おうとしている。そんな、女性を見下すような言い方をしていた。その言葉を、愚かにも正解として受け取ってきた。だから、実花は一度も髪を結い上げなかった。それが恒一に好かれるための、正しい髪型だと信じていた。だが、いまはもう違う。「……いいわね」返事はすぐに出なかった。呼吸の間に、わずかに迷いが挟まった。「お願い」恒一の好みに逆らおうとしている。胸の奥に緊張が走った。だが使用人たちは、その緊張を、自分で選んだ装いに自信が持てないためだと考えたようだった。「首元のアクセサリーは、少し大きめのものにしてみてはいかがでしょう」「視線が上に集まって、全体の印象も変わりますわ」実花が頷くと、使用人たちが一斉に動き始めた。「耳元はどういたしましょう」「一粒のシンプルなものも上品ですが、今日は揺れるタイプの方が映えるかもしれませんわ」「藍色のドレスですし、主張しすぎるとバランスが……」「いえ、むしろ少しだけ動きを出したほうが」「そうね、今の雰囲気に合うかもしれないわ」使用人たちの手で、実花の新しい姿が形作られていく。それは命令でも作業でもない。誰か一人の正解を押し付けるのではなく、複数の視点が重なり合って形を作っていく。まるで舞台を組み立てているような熱量。その中心に自分がいるという事実が、実花にはまだうまく理解できない。ただ、不思議と拒絶したいとは思わなかった。むしろ耳を澄ませてさえいる自分に気づく。どんなものが似合うのか。どんな姿を、自分が望んでいるのか。少しずつ、分かり始めていた。誰かの理想像として塗り固められるのではない。誰かの所有物として形を決められるのでもない。自分の手の中に、自分らしさが転がり込んできた気がした。·鏡の中で、自分がゆっくりと変わっていく。髪は丁寧にまとめられ、うなじが静かに現れる。下ろしているよりも大人っぽく見えて、そう見える自分が好きになった。藍色のドレスは光を受けるたびに色味が
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第7話 父親の視線
扉が開いた瞬間、空気が変わった。それまで室内に漂っていた柔らかな熱が、一瞬で冷え切る。重く、鋭く、抗うことを許さない圧が部屋の中へと流れ込んできた。「実花」低い声。その一言だけで、使用人たちの背筋が一斉に伸びる。まるで空気そのものが命令を受けたかのようだった。藤宮実篤。藤宮グループの頂点に立つ男は、いつだって“場の支配者”として現れる。誰かと会話をしていても、笑みを浮かべていても、その場の空気は最終的に彼のものになる。逆らうことを考える前に、人は自然と従う。そういう種類の男だった。実篤の視線がまっすぐ実花へ向く。そして次の瞬間、その目がわずかに見開かれた。「……その格好は、何だ」低く押し殺された声。怒鳴っているわけではない。だがその静かさが、かえって不快感を際立たせていた。実花は父の眉間に深く刻まれた皺を見て、彼が今の自分の姿を歓迎していないことを即座に理解する。けれど、不思議なほど動揺はなかった。前世なら、この視線だけで心臓が縮み上がっていたはずだ。父に失望されることが怖くて、嫌われることが怖くて、自分が間違っているのだと反射的に思い込んでいた。「その格好で、人前に出る気か?」実花の正気を疑うような声音には、露骨な非難が滲んでいる。そしてその裏には、言葉にせずとも明確な命令があった。  今すぐ“いつも通り”に戻れ。実花は一度だけ目を伏せた。だが、すぐにゆっくりと顔を上げる。前世なら、この瞬間にはもう謝罪の言葉を探していただろう。  「申し訳ありません」  「分かりました」その二つは、実花にとって父との会話のほとんどすべてだった。父が実花に話しかけるのは、何か不備があったときだけ。そしてその会話は常に命令か指示で終わる。実篤は、実花に“諾”以外の返答を許さなかった。意見は不要。感情も不要。ただ正しく従うことだけが求められていた。(でも、もう違う)実花は深い藍色のドレスの裾を軽く整えながら、静かに答えた。「はい。今夜はこの姿でパーティーに出ます」静かな声だったが、しかし、その声には曖昧さがなかった。実篤の眉がぴくりと動く。「藤宮家の娘である自覚はないのか?」「もちろんあります」実花はまっすぐ父を見返した。「ただ私は、この姿が藤宮家の品格を損なうものだとは思っておりません」迷いのない返答だっ
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第8話 初めての勝利
「誤解がないように申し上げますが、私にとっても藤宮家の娘であることは誇りです。藤宮の品格を落とすつもりなど、毛頭ございません」実花は静かにそう告げた。その声音には反抗的な響きはない。ただ、真っ直ぐな意思だけがあった。藤宮の箱庭で生まれ育ち、藤宮の価値観だけを教え込まれてきた。それしか知らないと言われれば、その通りだ。だが、だからこそ実花にとって藤宮家は世界の中心だった。格式、伝統、誇り。幼い頃から耳にしてきたそれらを、実花は確かに愛している。否定したいわけではない。捨て去りたいわけでもない。ただ――そこに“自分”を含めたいだけだった。「藤宮実花として立ちたいと言っても、私自身、私の審美眼にそこまで自信があるわけではありません」実花は続ける。「ですから、目も技術も優れ、なおかつ藤宮家の品格をよく理解している方々のお力を借りました」その言葉に、実篤は反射的に口を開きかけた。しかし、すぐに閉じる。この場で実花の言う“協力者”が誰を指しているのか、理解したからだ。「このドレスを持ってきてくださった外商の方は、長年この家に出入りしてくださっている方です。お父様も信頼なさっているでしょう?」実花は深い藍色のドレスにそっと指先を滑らせた。「その方が成人を迎える私のために選んでくださったドレスが、藤宮家の品格を損なうものだとは思えません」実篤は黙っている。だが、その沈黙は肯定ではなく、言葉を探している沈黙だった。実花はさらに言葉を重ねる。「ここにいる使用人の皆さんも、藤宮の品格を理解してくださっています」視線を向けられた使用人たちは、小さく肩を震わせた。実篤の前で自分たちの存在が出るとは思っていなかったのだろう。「ここにいる者たちは、誰もお前を止めなかったのか?」低い問い。責任の所在を探るような声だった。「止められました」実花は素直に答える。「ですが、お断りしました」「……なぜだ」その問いに、実花は一瞬だけ考える。なぜ。前世なら、そんなことを考える必要すらなかった。父が望むものを選び、恒一が好むものを選び、それを“自分の望み”だと思い込んできたから。だが今は違う。「誰かのためではなく、自分のためにドレスを選びたかったのです」その瞬間、実篤の表情がわずかに険しくなる。実花は察した。父の頭に浮かんだ“誰か”は、一ノ瀬恒一だ。こ
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第9話 視線の中の自分
社交会は前世と同じように華やかだった。天井には光量まで計算された巨大なシャンデリアが幾重にも吊るされ、その眩い輝きが磨き上げられた床へ反射している。床に映る光は波のように揺れ、人々が歩くたびにドレスの裾と靴音がそこへ重なっていく。香水の甘い香り。低く抑えられた笑い声。グラスの触れ合う繊細な音色。それらすべてが混ざり合い、上流階級特有の“騒がしい静けさ”を作り出していた。誰も大声を出さない。だが、そこには確かに無数の感情が渦巻いている。値踏み、探り合い、牽制、打算、嫉妬、媚び。表面だけを見れば優雅な夜会。しかし実態は戦場だった。·そんな大広間へ足を踏み入れた瞬間、実花は前世と変わらない残酷さを肌で感じ取った。「藤宮の令嬢だ」誰かが小さく呟く。その声を合図にしたように、多くの視線が一斉に実花へ向けられた。好奇。観察。興味。成人を迎え、これから本格的に社交界へ姿を見せる藤宮家の一人娘。これまで公の場へほとんど出てこなかった存在だからこそ、その視線には未知への探りが多く含まれていた。時間が戻ったいま、前世と違って実花の評価はまだ定まり切っていない。だからこそ、人々は見極めようとしていることを実花は感じた。(あとは……違和感ね)実花は心の中で静かに分析する。彼らがなぜそんな反応をしてみせるのかを、彼女自身よく理解していた。だからこそ、わざとドレスの裾を揺らすように歩く。藍色のドレスが照明を受けるたび、深い海のような色彩が波打つ。その姿に、会場の空気がわずかにざわめいた。「……あれ、本当に藤宮実花か?」「雰囲気が違う」「いつもはもっと、こう……白くて儚い感じじゃなかったか?」囁き声があちこちから漏れる。表立った活動は少なくても、藤宮家の一人娘として実花は以前から注目されていた。だからこそ、人々は“以前の実花”を知っている。柔らかく、従順で、守られることを前提にした少女。恒一が好む、淡い色のドレスに身を包み、誰かの隣で静かに微笑むだけの存在。(戸惑いがほとんどで……嘲笑が少し)実花は歩きながら、そのすべてを冷静に観察していた。前世の自分にはなかった余裕だった。以前なら、向けられる視線に怯え、その視線が“受け入れ”へ変わることに安心していた。今なら分かる。あのとき受け入れられたのは「藤宮らしい娘」という型にはまってい
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第10話 遅れてきた婚約者
入口に立っていたのは、実花の思った通り一ノ瀬恒一だった。 だが、その姿を視界に捉えた瞬間、実花の胸に浮かんだのは懐かしさでも痛みでもなく、強い違和感だった。 (こんな人だったかしら) 誰かが「一ノ瀬恒一だ」と小さく呟かなければ、実花は一瞬、本当に彼だと認識できなかったかもしれない。 十年前の彼だから印象が違うのだろうか、と考えかけて、すぐに違うと気づく。変わったのは恒一ではない。実花自身の“見る目”だった。 前世では、実花は恒一を「愛する人」というフィルター越しにしか見ていなかった。だから彼の振る舞いの一つ一つが、自分へ向けられた特別なものに見えていた。 けれど今、その幻想は存在しない。 実花の視界の中で、恒一は会場中の視線を一身に集めていた。 彼はそれを当然のように受け止めている。その場の空気を支配することに慣れきった男の立ち姿だった。 そのために恒一は、いつも“少し遅れて”現れる。意図された登場。藤宮家が主催する社交会でありながら、まるで自分が主役であるかのように空気を塗り替えるための計算された遅延。 人は待たされることで、無意識に「待つ価値のある相手」だと認識してしまう。恒一はそれを理解していた。 前世の実花は、その演出に気づきもしなかった。いや、正確には気づこうとしなかったのだ。 仕事を頑張っていたから遅れたのだと信じていた。忙しい中でも、自分のために来てくれたのだと、疑いなく喜んでいた。その“信じ込み”が、今となっては滑稽ですらある。 実花は静かに恒一を見つめる。 完璧に仕立てられたスーツ。乱れ一つない髪。社交界の中心に立つことを前提として磨き上げられた外見。 確かに恒一は整っている、スマートだ。以前の実花が、他の多くの女性たちが彼に視線を向ける理由も分かる。 だが今の実花には、そのすべてが“作られた表面”にしか見えなかった。 彼の笑顔は、人を安心させるために計算された角度で浮かび、視線の配り方も、歩幅も、声の抑揚も、すべてが「好まれる男」という完成形を演じているようだった。 実花の目は、恒一を一瞥しただけですぐ横へ逸れる。彼は一人ではなかった。その隣には――一ノ瀬美鈴がいた。 柔らかな笑み。控えめな仕草。そこにいることが当然であることを前提とした立ち振る舞い。 その細い腰へ添
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