INICIAR SESIÓN今夜のためのドレスを、実花は静かに見下ろしていた。
白に近い淡紫色。
光の当たり方によってはほとんど白にも見える色。
それは、藤宮家の令嬢らしさを示すために選ばれたもの。
上品で、柔らかく、誰から見ても好印象を与える。
前世の実花は、この色を何も思わずまとった。
一ノ瀬恒一の好みに合うだろう、そう思って着ていた。
誇らしささえあったかもしれない。
だが、こうして見るとその淡い紫はまったく違う意味があるように思える。
なぜなら。
「……似合わないわね」
実花の容姿に合わない色。
それを喜んで着ていた以前の自分はどれだけ滑稽だったか。
そんな実花を、恒一や美鈴はどう見ていたのか。
これは、清楚であることを示していない。
これは従順の象徴だった。
良い娘であること。
良い妻になること。
そうしていれば、守ってもらえるのか。
いや、実際にそれらは実花を守らなかった。
守るどころか、それらは枷だった。
優しさで色を付けただけの鎖。
実花は目を閉じる。
「変わるのよ」
ゆっくりと目を開く。
変わる。
この言葉は、誰に聞かせるためではない。
部屋の空気に落ちるように響いただけだったが、頭の中で何かが切り替わる音がした。
従順な藤宮実花。
そんなものは、もうここにはない。
(これ以外のドレスは……)
クローゼットに入る。
中を見渡す。
並んでいるドレスはどれも似たような色調ばかり。
白、薄桃色、淡い水色。
期待に沿うために作られた色。
父が望むのは藤宮の娘としての正解。
一ノ瀬恒一が望むのは従順で、愚かな妻。
実花は小さく息を吐いた。
(馬鹿な私)
自分はこれまで選ばれることだけを目的に生きてきた。
それが分かるドレスたち。
あまりにも滑稽で、空しかった。
.
「お嬢様?」
ヘアメイクのために隣室で控えていた使用人たちが顔を出した。
「ドレスに何か不備がありましたか?」
「あの……他のドレスはないかしら」
「……え?」
「この色はちょっと……他に、ないかしら?」
「お嬢様?」
使用人たちが驚くのは当然だろう。
この淡紫のドレスは、実花自身が悩み抜いて選んだという記憶がある。
ギリギリまで悩んで決めたドレス。
実花自身が他を望むなど、誰も想像していなかったはずだ。
実花は彼女たちの戸惑いを感じながら、静かに口を開いた。
「変わり……たいの」
その一言に、部屋の空気がわずかに揺れる。
使用人の一人が、恐る恐る口を開いた。
「ですが……本日は一ノ瀬様との婚約に関わる大切な場で……」
「旦那様も、藤宮家としての格式を何より重んじておられますので……」
前の自分を縛り続けていた言葉が、次々と積み上がっていく。
正しさのように見せかけた圧力。
逃げ道を塞ぐための理屈。
そのすべてを否定せず、実花は穏やかに微笑んでみせた。
「藤宮家の品位を落とすつもりはないの」
藤宮家の娘をやめたいわけではない。
やめたいのは――ただ従うだけの自分。
「私を、変えたいだけなの……だって、似合わないから」
使用人たちが顔を見合わせる。
そこにある理解の色を見て、実花は苦笑したくなる。
(あ……)
思い出した。
実花がこのドレスを選んだのは、誕生日の前日だった。
藤宮家が利用している外商の西野が用意してくれたドレスから選んだ。
西野は、実花が幼い頃から担当してくれていた。
彼の目は確かだ。
記憶にある限り、彼は淡い色合いのドレスのほかに、実花に似合う色も用意してくれていた。
恒一の好みではないからと毎回返却していたのに。
成人を迎えるときも、実花に似合う色のドレスを用意してくれていた。
「他のドレスは、もう返却してしまった?」
実花の言葉に、使用人たちもそれらのドレスを思い出したようだった。
実花はドレスの保管場所を尋ね、自らその部屋へ向かった。
その足取りは驚くほど軽い。
実花の変化に使用人たちは戸惑っていた。
だが、どこか安堵の表情を浮かべていた。
これまでの実花は、人形のようにただ静かに従うだけだった。
その実花が、初めて自分の意思で動いている。
使用人たちは、その事実を嬉しく感じているようだった。
部屋に入る。
ドレスがいくつかあった。
西野が選んだのだから、どれも藤宮の品格を感じさせるものだと分かる。
でも、どれが似合うかと考えると戸惑ってしまう。
「……お嬢様の望むイメージに合わせればよろしいかと」
年配の使用人の助言に、実花は考えた。
望む。
実花のこれまでに存在しなかった言葉だった。
これまでは選んでいるようで、選ばされていたのだから。
「強すぎない色。でも、埋もれない色」
部屋の空気がわずかに変わった。
使用人たちの表情に熱が宿る。
「こちらの深い藍色はいかがでしょう」
「影を含んだ色ですが、お嬢様の落ち着いた雰囲気に似合います」
「お嬢様の髪色であれば、光の加減でとても美しく映えると思います」
次々と提案が飛び交う。
実花はわずかな戸惑いと同時に、胸の奥が温かくなる感覚を覚えた。
(こんなふうに、選んでもいいのね)
勧められたのは、深い藍色のドレス。
光を受けると黒にも紫にも見える、不思議な色。
装飾は控えめだが、艶のある布地なので華やかさも感じる。
見る者を圧倒するような存在感がある。
優しさがないわけではない。
けれど、そこには実花の意志が確かに感じられた。
実花はドレスを手に取り、しばらく見つめる。
そして、小さく息を吐いた。
「これにします」
はっきりと告げる。
迷いはなかった。
「ねえ、見た?」昼休みのオフィス。スマートフォンを覗き込んでいた女性が、興奮したように隣の同僚へ声をかけた。「見た見た。この二人、誰? モデル?」「モデルじゃなくて一般人なんだって」「一般人?」「この男の人知ってる。どっかの会社の社長だよ」「社長? え、どこ? 転職する」「東国グループの次期後継者らしいよ」「東国!?」その場にいた数人が一斉にスマートフォンを覗き込む。画面に映っているのは、藤宮グループの新しい広告だった。歴史あるホテルの豪奢なエントランス。格式高いレストラン。ウエディングプラン。どの広告にも、一組の男女が映っている。男性はデザイナースーツを着こなし、堂々とした佇まいで女性へ手を差し伸べていた。女性はシンプルなワンピースをまとい、その手を静かに重ねている。派手な演出はない。服も、二人の距離も。二人はただ見つめ合うだけ。それだけなのに、目が離せなかった。「こっちは、その婚約者で……え、高校生!?」「高校生モデル?」「ううん、一般人」「一般人?」「藤宮グループ会長の一人娘だって」「……それ、もう一般人じゃないよ」一同が苦笑する。「でも分かる」一人が広告を見つめながら呟いた。「何か、世界が違うよね」「分かる」「すごく綺麗な子なんだけど、綺麗だけじゃないよね」「品がある」「育ちがいいって、こういうのを言うんだね」「ホテルより二人が気になるんだけど」同じような感想は、SNSにも次々と投稿されていた。【誰、この二人】【本当に一般人?】【品格のサンプル】【リアル
作戦会議から三日後、光也の母親である香坂玲が日本へやって来た。京に連れられて部屋へ入ってきた玲を見た瞬間、実花は息を呑んだ。写真では何度も見たことがある人。雑誌の記事も、インタビューも、玲が手がけた衣装も、前の生で夢中になって集めた。玲が掲載されている雑誌を見つければ購入した。気に入った記事は切り抜いてスクラップ帳へ貼っていた。海外で活躍する日本人デザイナー。華やかな世界にいながら、流行に媚びることなく、自分の美しさを貫き続ける女性。前の生の実花にとって、玲は遠い世界にいる憧れの人だった。その玲が今、目の前にいる。「うわあ……」実花は感激のあまり、玲から目を離せなかった。隣に立つ光也が、面白くなさそうに実花を見る。「君、俺をそんな目で見たことがないよな」「玲様が、本当に目の前に……」実花の耳にはほとんど届いていなかった。光也が眉を寄せる。「母は“様”なんて呼ばれるような大層な人物ではないぞ」「そうですか」実花は玲を見つめたまま、いい加減に返事をした。光也の眉間にさらに深いしわが寄る。その様子を見て、玲が楽しそうに笑った。「初めまして。香坂玲です」「は、初めまして」実花は慌てて姿勢を正し、深く頭を下げた。「藤宮実花です」玲は実花の立ち姿をじっと見つめる。背筋の伸ばし方。手を重ねる位置。目上の相手へ向ける視線。一つひとつの動きに、幼い頃から身につけた品が表れていた。「京から話は聞いているわ」玲は実花へ歩み寄る。「写真や動画もたくさん送られてきたわ」ほら、と玲がタブレットを見せる。実花は顔を赤く染め、一方で、光也は眉間にしわを寄せた。
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「お父様なら、誰を東国の当主に選びますか?」実花の問いに、実篤は迷わなかった。「東国万葉だな」「万葉さん?」京が目を瞬かせる。東国万葉。東国夫人が産んだ三姉妹の長女だ。光也にとっては父親違いの姉にあたる。「女性、ですか?」真理が尋ねる。「東国家の基準で問題になるのは、東国万葉が女性であるという一点だけだ」実篤は不満そうに言った。「旧家の跡取りとして考えれば、実花に引けを取らない優れた人材だ」「引けを取らない、ですか」光也が実花を見る。「それは、随分と優秀なんですね」「君の姉だろう」「そうなのですが、いまいち覚えていなくて」「なぜだ」「異母きょうだいが多すぎます。ときどき増えるし……なぜ減らないのか」「減ったら問題だろう」実花は思わず父の袖を引いた。話が逸れている。実篤は咳払いをする。「ともかく、東国万葉が優秀なのは間違いない」一族の中での立場。人脈。実務能力。周囲からの信頼。どれを考えても、旧家を継ぐ者として申し分ないと実篤は言う。「そもそも夫人との結婚は政略結婚だ。夫人の実家としても、自分たちの血を引く者が継ぐなら異論はないだろう」実篤は一度言葉を切る。「東国の一族は、現当主の女問題で散々苦労させられている」実篤は呆れたように息を吐く。「愛人問題。夫人との不和。外に作った子ども。次期当主を巡る混乱。家の評判も随分と落ちた」真理が俯く。それに気づいた実篤は、静かに付け加えた。「真理君を責めているわけではない。君は被害者だ」真理は小さく頷いた。「東国君が後継者として最有力なのは事実だ」実篤は光也を見る。
「状況を整理したい」実篤のその言葉に、部屋の空気が引き締まった。光也が注文したルームサービスは、まだ届いていない。京と真理はソファに座り、実花は父の隣へ腰を下ろした。光也だけが少し離れた椅子へ座り、相変わらず落ち着いた様子で足を組んでいる。実篤はまず真理を見た。「女性と偽っていたところを見ると、真理君は東国の当主になる気はない。間違いはないか?」「はい」真理は迷わず頷いた。「僕は東国の当主にはなりたくありません」実篤は続いて光也へ視線を移す。「東国君は?」「俺は藤宮に婿入りするので」「それについては別途話し合いだな」光也がわずかに眉を寄せる。「まだ話し合う必要がありますか?」「……その話はあとだ」光也は渋々口を閉じた。実篤は真理へ向き直る。「では、君は今後どうしたい?」真理は膝の上で拳を握った。「僕は篠原家を継ぎたいです」その声には迷いがなかった。「ただし、それは男として。本来の自分に戻って、もう隠れるような生き方はしたくありません」名前を偽り、女生徒のふりをして。本来の自分を隠して生きることに疲れていた。しかし、自分の存在を明かせば、東国家だけでなく、関係する家々まで混乱させることは分かっている。だから、まだ名乗れない。実篤は静かに頷いた。「それなら、東国君がさっさと当主になれば問題は解決だな」光也は表情を変えずに答える。「その場合は、実花を嫁として東国家へ連れていきますよ?」「何だって?」実篤の眉間に皺が寄った。「当然でしょう。実花は俺の婚約者です」光也は淡々と返す。「俺が東国の当主になれば、実花は東国の当主夫人になる。藤宮家には渡しません」「実花を東国へやるつもりはない」「では、俺と実花の結婚はどうするのです?」「……知らん」「知らんではないでしょう」「……この話も後で、だ」実篤は咳払いをした。京が呆れたように息を吐く。「光也の話は置いておきましょう」「俺の将来の話ですが?」「ややこしくなるから黙ってなさい」実篤は京に感謝するような目を向けたあと、再び話を戻す。「東国君。君から見て、これという人物はいないのか?」「これの基準が難しいのですよ」「……そもそも、だ。君は親戚をきちんと覚えているのか?」光也は少し考えた。「そういえば、ろくに知りませんね」「なぜ
「東国光也! 貴様っ――何だ?」勢いよく部屋へ踏み込もうとした実篤の前で、光也は人差し指を唇の前に立てた。静かに。その仕草に、実篤は眉を寄せる。何だ、と不思議そうな顔をしながらも、ひとまず声を落とした。「誰かにつけてこられませんでしたか?」光也が周囲を確認しながら尋ねる。「……警察の世話になるようなことをやらかしたのか?」「心当たりはありませんね」「君が気づいていないだけかもしれないぞ」実篤は深いため息をついた。「それより、実花はどこだ?」「ここにいますっ」実花は光也の背後から声を上げた。実篤からは、光也の身体に隠れて実花の姿がほとんど見えない。光也が背に庇うようにして、実花を前へ出さないようにしていた。「……何をしている?」「実花を叩かせるわけにはいかないので」「なぜ私が実花を叩かねばならん」「昔のドラマにあるでしょう。無断外泊した娘に『この不良娘が!』と平手打ちするような場面が」「実花は外泊をしたわけではない」「まあ、そうですね」「万が一そうだとしても、俺ならお前を殴る」「確かに」光也はあっさり納得し、実花を前へ出した。実篤は娘の姿を頭の天辺から足先まで確認する。一度では足りなかったのか、視線が再び足元から頭まで戻り、もう一度下へ降りた。「見て分かるものですか?」茶々を入れるような光也の言葉を、実篤はひと睨みで黙らせる。髪も服も乱れていない。ただ、泣いた痕がある。「貴様、実花に何をした」「泣かせたのは、あいつです」光也は部屋の奥を示す。そこでようやく、実篤は部屋の奥にあと二人いることに気づいた。光也と実花が二人きりではなかったと分かり、実篤の表情からわ
まぶしさで目が覚めた。実花は一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。瞼の裏に残る白い光の余韻がゆっくりと引いていき、代わりに柔らかい感触と静かな空気が意識へと染み込んでくる。身体を包んでいるのは上質なシーツで、布地は肌に吸い付くように滑らかだった。鼻腔を満たすのは、微かに甘く落ち着いた香り。高価な調度品に染みついたような、整えられた空間特有の匂いだ。ゆっくりと視線を巡らせると、そこは見慣れた―――けれど今の自分からは遠く感じる藤宮邸の一室だった。咄嗟に窓の外を見る。そこには、過剰なまでに手入れされた庭園が広がり、剪定された樹木と計算された配置の花々が、まるで絵画のような均整を保ってい
あの夜は、ただ変な声がして目が覚めただけだった。夢と現実の境目がまだ曖昧なまま、痛みでふらつく頭を押さえながら実花は一人で寝ていた寝室からゆっくりと廊下へ出た。冷えた床の感触が足裏に伝わるたび、意識が少しずつ現実へ引き戻されていった。声のする方へ向かったのは、意志というより反射に近かった。何が起きているのかを考える前に身体が勝手に動いていた。そして、すぐに分かった。何の声か。何の音か。理解してしまった瞬間、胸の奥が冷たく沈んだ。美鈴の甲高い声は快感を訴え、「もっと」と甘えるように揺れていた。それに応える恒一の唸り声は理性を削ぎ落とされた獣のようで、実花の知る“夫”という存在
「全く……美鈴、疲れているだろう。今日はうちに泊まっていくといい」その言葉は、まるで最初から用意されていた結論を読み上げるかのように自然だった。迷いも逡巡もなく、恒一の口から滑り落ちる中に実花の反応を気にかける様子はない。「でも、服が……」美鈴は困ったようにわずかに眉を寄せる―――困り方すら整えられていた。自分がどう振る舞えば最も『恒一に大事にされる存在』として成立するか、それを計算した振る舞いだった。「今夜はこの前置いていった服をとりあえず着ればいい。明日になったら一緒に買い物に行こう」恒一は即座にそう言い切った。その声音には、『こうするのが当然』というような親密さが滲んでい
その夜の記憶は、実花の頭の奥底に、まるで消えない染みのように残っている。思い出そうとしなくても勝手に浮かび上がり、忘れようとすればするほど輪郭を濃くしていく。そんな種類の記憶だった。.実花が夫の恒一と暮らしていた藤宮家の別邸は、その夜も例外なく重たく閉ざされていた。外の世界から切り離されたような敷地の中では季節の風すら遠慮がちに通り過ぎ、建物全体が呼吸を止めているように静かだった。ダイニングに入った瞬間、まず実花の目に飛び込んでくるのは過剰なほどの準備をされたテーブル。皺ひとつないクロス。寸分違わぬ位置に並べられた銀のカトラリー。食器の反射すら計算され







