LOGIN扉が開いた瞬間、空気が変わった。それまで室内に漂っていた柔らかな熱が、一瞬で冷え切る。
重く、鋭く、抗うことを許さない圧が部屋の中へと流れ込んできた。
「実花」
低い声。その一言だけで、使用人たちの背筋が一斉に伸びる。まるで空気そのものが命令を受けたかのようだった。
藤宮
藤宮グループの頂点に立つ男は、いつだって“場の支配者”として現れる。誰かと会話をしていても、笑みを浮かべていても、その場の空気は最終的に彼のものになる。
逆らうことを考える前に、人は自然と従う。そういう種類の男だった。
実篤の視線がまっすぐ実花へ向く。そして次の瞬間、その目がわずかに見開かれた。
「……その格好は、何だ」
低く押し殺された声。
怒鳴っているわけではない。だがその静かさが、かえって不快感を際立たせていた。
実花は父の眉間に深く刻まれた皺を見て、彼が今の自分の姿を歓迎していないことを即座に理解する。
けれど、不思議なほど動揺はなかった。
前世なら、この視線だけで心臓が縮み上がっていたはずだ。父に失望されることが怖くて、嫌われることが怖くて、自分が間違っているのだと反射的に思い込んでいた。
「その格好で、人前に出る気か?」
実花の正気を疑うような声音には、露骨な非難が滲んでいる。そしてその裏には、言葉にせずとも明確な命令があった。
今すぐ“いつも通り”に戻れ。
実花は一度だけ目を伏せた。だが、すぐにゆっくりと顔を上げる。
前世なら、この瞬間にはもう謝罪の言葉を探していただろう。
「申し訳ありません」
「分かりました」
その二つは、実花にとって父との会話のほとんどすべてだった。
父が実花に話しかけるのは、何か不備があったときだけ。そしてその会話は常に命令か指示で終わる。
実篤は、実花に“諾”以外の返答を許さなかった。意見は不要。感情も不要。ただ正しく従うことだけが求められていた。
(でも、もう違う)
実花は深い藍色のドレスの裾を軽く整えながら、静かに答えた。
「はい。今夜はこの姿でパーティーに出ます」
静かな声だったが、しかし、その声には曖昧さがなかった。
実篤の眉がぴくりと動く。
「藤宮家の娘である自覚はないのか?」
「もちろんあります」
実花はまっすぐ父を見返した。
「ただ私は、この姿が藤宮家の品格を損なうものだとは思っておりません」
迷いのない返答だった。
背筋を伸ばし、凛と立つ実花の姿に、実篤の眉間の皺がさらに深くなる。
部屋の空気はますます張り詰め、使用人たちは息を潜めていた。誰も動けない。誰も声を出せない。
藤宮家では、実篤の命令や指示は絶対だった。
諾としか言えない相手。それは実花にとっても同じだから、今、実花がしている反論がどれほど異常なことなのか、誰もが理解していた。
「何を考えている」
実篤の視線が鋭さを増す。まるで目の前の娘を測るような目だった。
実花はその視線を受け止めながら、静かに問い返す。
「私が気に入ったドレスを着ることに、何か問題がありますか?」
その瞬間、空気が凍った。使用人たちが小さく息を呑む気配がする。
今までの実花なら、絶対にしないことをしてきる自覚はあった。
「実花。お前は藤宮の娘だ」
低い声。
その言葉には、正しさと支配、“従うべきだ”という絶対的な確信が混ざっていた。
父親にとって大切なものは藤宮家。娘の実花はその一部。間違ってはならない。逆らってはならない。完璧でなければならない。
「お父様」
実花は静かに口を開く。
「私は藤宮の娘です。でも同時に、藤宮実花という一人の人間でもあります」
実篤の目が細められる。
その反応を見ても、実花は止まらなかった。前世の自分は、“個”ではなかった。
「藤宮実篤の娘」であり、「一ノ瀬恒一の妻」であり、常に誰かに属する存在だった。
誰かの期待に応えるために笑い、誰かに嫌われないために振る舞い、誰かに必要とされるためだけに自分を削っていた。
だから搾取された。
親切を当然のように吸い取られ、我慢を美徳として押し付けられ、最後には命すら奪われた。
(私は、自分を差し出し続けて死んだ)
その記憶が胸の奥で冷たく疼く。
階段から落ちる瞬間の浮遊感。身体を打ちつけた衝撃。遠ざかっていく意識。そして、自分を見下ろしていた恒一と美鈴の目。
実花はゆっくりと息を吸った。
「私はもう、“誰かのためだけの藤宮実花”にはなりません」
その声は大きくない。
それでも、部屋の誰もが言葉を失った。
実篤が実花を見つめる。
まるで初めて娘を見たかのような目だった。
実花はそんな父親から目を逸らさなかった。
恐怖は、まだ消えていない。身体の奥には、長年染みついた“逆らってはいけない”という感覚が確かに残っている。
それでも、実花は真っすぐ立ち続けていた。それは二回の人生で初めてのことだった。
·
従順で、静かで、逆らわない人形のような娘。
その認識が、今、実篤の目の前で音を立てて崩れていた。
深い藍色のドレスが灯りを受けて静かに揺れた。その色は、かつての実花なら決して選ばなかった色。だが今の彼女には不思議なほどよく似合っていた。
まるで長い眠りから目覚めた本来の姿のように。
「ねえ、見た?」昼休みのオフィス。スマートフォンを覗き込んでいた女性が、興奮したように隣の同僚へ声をかけた。「見た見た。この二人、誰? モデル?」「モデルじゃなくて一般人なんだって」「一般人?」「この男の人知ってる。どっかの会社の社長だよ」「社長? え、どこ? 転職する」「東国グループの次期後継者らしいよ」「東国!?」その場にいた数人が一斉にスマートフォンを覗き込む。画面に映っているのは、藤宮グループの新しい広告だった。歴史あるホテルの豪奢なエントランス。格式高いレストラン。ウエディングプラン。どの広告にも、一組の男女が映っている。男性はデザイナースーツを着こなし、堂々とした佇まいで女性へ手を差し伸べていた。女性はシンプルなワンピースをまとい、その手を静かに重ねている。派手な演出はない。服も、二人の距離も。二人はただ見つめ合うだけ。それだけなのに、目が離せなかった。「こっちは、その婚約者で……え、高校生!?」「高校生モデル?」「ううん、一般人」「一般人?」「藤宮グループ会長の一人娘だって」「……それ、もう一般人じゃないよ」一同が苦笑する。「でも分かる」一人が広告を見つめながら呟いた。「何か、世界が違うよね」「分かる」「すごく綺麗な子なんだけど、綺麗だけじゃないよね」「品がある」「育ちがいいって、こういうのを言うんだね」「ホテルより二人が気になるんだけど」同じような感想は、SNSにも次々と投稿されていた。【誰、この二人】【本当に一般人?】【品格のサンプル】【リアル
作戦会議から三日後、光也の母親である香坂玲が日本へやって来た。京に連れられて部屋へ入ってきた玲を見た瞬間、実花は息を呑んだ。写真では何度も見たことがある人。雑誌の記事も、インタビューも、玲が手がけた衣装も、前の生で夢中になって集めた。玲が掲載されている雑誌を見つければ購入した。気に入った記事は切り抜いてスクラップ帳へ貼っていた。海外で活躍する日本人デザイナー。華やかな世界にいながら、流行に媚びることなく、自分の美しさを貫き続ける女性。前の生の実花にとって、玲は遠い世界にいる憧れの人だった。その玲が今、目の前にいる。「うわあ……」実花は感激のあまり、玲から目を離せなかった。隣に立つ光也が、面白くなさそうに実花を見る。「君、俺をそんな目で見たことがないよな」「玲様が、本当に目の前に……」実花の耳にはほとんど届いていなかった。光也が眉を寄せる。「母は“様”なんて呼ばれるような大層な人物ではないぞ」「そうですか」実花は玲を見つめたまま、いい加減に返事をした。光也の眉間にさらに深いしわが寄る。その様子を見て、玲が楽しそうに笑った。「初めまして。香坂玲です」「は、初めまして」実花は慌てて姿勢を正し、深く頭を下げた。「藤宮実花です」玲は実花の立ち姿をじっと見つめる。背筋の伸ばし方。手を重ねる位置。目上の相手へ向ける視線。一つひとつの動きに、幼い頃から身につけた品が表れていた。「京から話は聞いているわ」玲は実花へ歩み寄る。「写真や動画もたくさん送られてきたわ」ほら、と玲がタブレットを見せる。実花は顔を赤く染め、一方で、光也は眉間にしわを寄せた。
「反対だ!」光也の大きな声に、実花は驚いた。「絶対に反対だ。囮になるなんて、何を考えている!」光也の反対に、真理も同意する。「そんな危険な真似、やめてよ」真理は実花の目をジッと見る。「もしかして、ご当主が僕の母に執着しているから、ほかの女性には本気で手を出さないと思ってる?」「それは甘い。あの男にとって、それはそれ、これはこれだ」京も光也と真理の言葉に頷く。「そもそも、どうやってご当主に手を出させるつもり? 自分から誘惑してみせるなんて、そんな評判を落とすようなことはやめて頂戴」「でも……」光也が実花の前に膝をつく。「実花、そんな考えは捨てろ」「東国さん……」「俺は藤宮に婿入りすると決めている。君が東国のために危険を冒す必要は一切ない」「ちょっと待て」光也の言葉に実篤が反応した。「何を勝手に決めている」「義父上!」ここで光也は実篤がずっと黙っていたことに気づいた。「なぜ反対しないのです!」「……君もそんな風に興奮するんだな」実篤の言葉に、光也の目がつり上がる。「俺のことよりも、実花のことです!」「君のことを心配して言ったわけではない」「それなら」「でも、実花は君たちのことを気にかけている。どうにかしたいと思っている」「だからって」「現当主の女性問題を利用するという考えは悪くないと思うぞ」「なにをっ」「だから、落ち着け」実花の前に膝をついたままの光也の額を、実篤は指で弾いた。「……デコピンなんて初めてやったが、気持ちのいいものだな」目を開いて驚く光也。「君のそんな顔も見られた」実篤は笑う。そして。「香坂さん」「は、はい」名を呼ばれた京は姿勢を正す。
「お父様なら、誰を東国の当主に選びますか?」実花の問いに、実篤は迷わなかった。「東国万葉だな」「万葉さん?」京が目を瞬かせる。東国万葉。東国夫人が産んだ三姉妹の長女だ。光也にとっては父親違いの姉にあたる。「女性、ですか?」真理が尋ねる。「東国家の基準で問題になるのは、東国万葉が女性であるという一点だけだ」実篤は不満そうに言った。「旧家の跡取りとして考えれば、実花に引けを取らない優れた人材だ」「引けを取らない、ですか」光也が実花を見る。「それは、随分と優秀なんですね」「君の姉だろう」「そうなのですが、いまいち覚えていなくて」「なぜだ」「異母きょうだいが多すぎます。ときどき増えるし……なぜ減らないのか」「減ったら問題だろう」実花は思わず父の袖を引いた。話が逸れている。実篤は咳払いをする。「ともかく、東国万葉が優秀なのは間違いない」一族の中での立場。人脈。実務能力。周囲からの信頼。どれを考えても、旧家を継ぐ者として申し分ないと実篤は言う。「そもそも夫人との結婚は政略結婚だ。夫人の実家としても、自分たちの血を引く者が継ぐなら異論はないだろう」実篤は一度言葉を切る。「東国の一族は、現当主の女問題で散々苦労させられている」実篤は呆れたように息を吐く。「愛人問題。夫人との不和。外に作った子ども。次期当主を巡る混乱。家の評判も随分と落ちた」真理が俯く。それに気づいた実篤は、静かに付け加えた。「真理君を責めているわけではない。君は被害者だ」真理は小さく頷いた。「東国君が後継者として最有力なのは事実だ」実篤は光也を見る。
「状況を整理したい」実篤のその言葉に、部屋の空気が引き締まった。光也が注文したルームサービスは、まだ届いていない。京と真理はソファに座り、実花は父の隣へ腰を下ろした。光也だけが少し離れた椅子へ座り、相変わらず落ち着いた様子で足を組んでいる。実篤はまず真理を見た。「女性と偽っていたところを見ると、真理君は東国の当主になる気はない。間違いはないか?」「はい」真理は迷わず頷いた。「僕は東国の当主にはなりたくありません」実篤は続いて光也へ視線を移す。「東国君は?」「俺は藤宮に婿入りするので」「それについては別途話し合いだな」光也がわずかに眉を寄せる。「まだ話し合う必要がありますか?」「……その話はあとだ」光也は渋々口を閉じた。実篤は真理へ向き直る。「では、君は今後どうしたい?」真理は膝の上で拳を握った。「僕は篠原家を継ぎたいです」その声には迷いがなかった。「ただし、それは男として。本来の自分に戻って、もう隠れるような生き方はしたくありません」名前を偽り、女生徒のふりをして。本来の自分を隠して生きることに疲れていた。しかし、自分の存在を明かせば、東国家だけでなく、関係する家々まで混乱させることは分かっている。だから、まだ名乗れない。実篤は静かに頷いた。「それなら、東国君がさっさと当主になれば問題は解決だな」光也は表情を変えずに答える。「その場合は、実花を嫁として東国家へ連れていきますよ?」「何だって?」実篤の眉間に皺が寄った。「当然でしょう。実花は俺の婚約者です」光也は淡々と返す。「俺が東国の当主になれば、実花は東国の当主夫人になる。藤宮家には渡しません」「実花を東国へやるつもりはない」「では、俺と実花の結婚はどうするのです?」「……知らん」「知らんではないでしょう」「……この話も後で、だ」実篤は咳払いをした。京が呆れたように息を吐く。「光也の話は置いておきましょう」「俺の将来の話ですが?」「ややこしくなるから黙ってなさい」実篤は京に感謝するような目を向けたあと、再び話を戻す。「東国君。君から見て、これという人物はいないのか?」「これの基準が難しいのですよ」「……そもそも、だ。君は親戚をきちんと覚えているのか?」光也は少し考えた。「そういえば、ろくに知りませんね」「なぜ
「東国光也! 貴様っ――何だ?」勢いよく部屋へ踏み込もうとした実篤の前で、光也は人差し指を唇の前に立てた。静かに。その仕草に、実篤は眉を寄せる。何だ、と不思議そうな顔をしながらも、ひとまず声を落とした。「誰かにつけてこられませんでしたか?」光也が周囲を確認しながら尋ねる。「……警察の世話になるようなことをやらかしたのか?」「心当たりはありませんね」「君が気づいていないだけかもしれないぞ」実篤は深いため息をついた。「それより、実花はどこだ?」「ここにいますっ」実花は光也の背後から声を上げた。実篤からは、光也の身体に隠れて実花の姿がほとんど見えない。光也が背に庇うようにして、実花を前へ出さないようにしていた。「……何をしている?」「実花を叩かせるわけにはいかないので」「なぜ私が実花を叩かねばならん」「昔のドラマにあるでしょう。無断外泊した娘に『この不良娘が!』と平手打ちするような場面が」「実花は外泊をしたわけではない」「まあ、そうですね」「万が一そうだとしても、俺ならお前を殴る」「確かに」光也はあっさり納得し、実花を前へ出した。実篤は娘の姿を頭の天辺から足先まで確認する。一度では足りなかったのか、視線が再び足元から頭まで戻り、もう一度下へ降りた。「見て分かるものですか?」茶々を入れるような光也の言葉を、実篤はひと睨みで黙らせる。髪も服も乱れていない。ただ、泣いた痕がある。「貴様、実花に何をした」「泣かせたのは、あいつです」光也は部屋の奥を示す。そこでようやく、実篤は部屋の奥にあと二人いることに気づいた。光也と実花が二人きりではなかったと分かり、実篤の表情からわ
その夜の記憶は、実花の頭の奥底に、まるで消えない染みのように残っている。思い出そうとしなくても勝手に浮かび上がり、忘れようとすればするほど輪郭を濃くしていく。そんな種類の記憶だった。.実花が夫の恒一と暮らしていた藤宮家の別邸は、その夜も例外なく重たく閉ざされていた。外の世界から切り離されたような敷地の中では季節の風すら遠慮がちに通り過ぎ、建物全体が呼吸を止めているように静かだった。ダイニングに入った瞬間、まず実花の目に飛び込んでくるのは過剰なほどの準備をされたテーブル。皺ひとつないクロス。寸分違わぬ位置に並べられた銀のカトラリー。食器の反射すら計算され
「お嬢様、今日は髪をまとめて、首元を見せてみたらいかがでしょう」その一言は、何気ない提案のようでいて、実花にとっては奇妙な重みを持って響いた。前世の記憶が一瞬でよみがえる。一ノ瀬恒一は、実花が髪を上げることを好まなかった。首筋が露わになることを「下品だ」と言い、社交の場で他の女性が髪をまとめているのを見ては、どこか見下すような言い方をしていた。その言葉を、実花は何度も正解として受け取ってきた。だから彼の前で一度たりとも髪を上げたことはなかった。それが「好かれるための正しさ」だと信じていたからだ。だが今、その記憶は違う形で胸に残っている。「……いいわね」返事はすぐに出なかった。
使用人が用意したドレスを、実花は静かに見下ろしていた。白に近い淡紫色。光の当たり方によってはほとんど白にも見えるその色は、藤宮家の「清楚な娘」であることを象徴するために選ばれたものだった。上品で、柔らかく、誰から見ても好印象を与える色。前世の実花はこの色を疑うこともなく、むしろ一ノ瀬恒一の好みに合うだろうと信じて、少し誇らしげに選んでいた記憶すらある。彼に選ばれるための自分を作ることに、何の疑問も抱いていなかった。だが今、その淡い紫はまったく違う意味を持って見えていた。それは「清楚」の象徴ではなく、「従順」の象徴だった。良い娘であること、良い妻になること、それらの言葉に守られているよう
まぶしさで目が覚めた。実花は一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。瞼の裏に残る白い光の余韻がゆっくりと引いていき、代わりに柔らかい感触と静かな空気が意識へと染み込んでくる。身体を包んでいるのは上質なシーツで、布地は肌に吸い付くように滑らかだった。鼻腔を満たすのは、微かに甘く落ち着いた香り。高価な調度品に染みついたような、整えられた空間特有の匂いだ。ゆっくりと視線を巡らせると、そこは見慣れた―――けれど今の自分からは遠く感じる藤宮邸の一室だった。咄嗟に窓の外を見る。そこには、過剰なまでに手入れされた庭園が広がり、剪定された樹木と計算された配置の花々が、まるで絵画のような均整を保ってい







