LOGIN「誰かに決められるのは、もう終わりです。今度は、私があなたを選びます」 私の婚約披露宴だったはずなのに、婚約者の隣にあったのは妹・莉々花の名前だった。父も継母も婚約者も、私に「姉なら譲れ」と迫り、母の形見の指輪まで奪おうとする。 そのとき現れたのは、冷徹と恐れられる御曹司・鷹宮征臣。彼は大勢の前で私に跪き、愛の言葉ではなく一通の契約書を差し出した。 「俺と婚約してほしい」 利害から始まったはずの関係。けれど彼だけは、私の代わりに答えを決めず、「君が選べ」と待ってくれた。 奪われた名前、母の遺した秘密、家族が隠してきた嘘。 これは、すべてを譲ってきた私が、自分の未来と愛を選び直す物語。
View More私の婚約者の隣に、妹の名前があった。
白鳥家と有馬家の婚約披露宴。 その席次表の中央に印字されていたのは、有馬悠真様。そして、その隣には、私ではなく――白鳥莉々花様。 一瞬、息の仕方を忘れた。 昨日まで、父から渡された進行表にも、招待状にも、私と悠真の名前が並んでいた。 その進行表を最後に直したのは、私だ。来賓の肩書き、祝辞の順番、有馬家側の役員席、父が気にしていた取引先の席の距離。夜中まで何度も確認して、悠真から届いた「澪に任せておけば安心だね」という短いメッセージに、少しだけ救われた気になっていた。 安心だと言った人は、私が整えた舞台の真ん中で、別の女の隣に立とうとしている。しかも、その別の女は妹だった。血のつながりは半分もない。けれど、白鳥家ではいつも、莉々花の涙の方が私の努力より重かった。 白鳥澪と有馬悠真。 少なくとも、私に渡された紙の上では、私は今日、婚約者としてこの会場に立つはずだった。 なのに、今、私の名前は二つ隣に押しやられている。 誰かが慌てて空けた余白みたいな席に。 祝福されるはずだった女が、最初から邪魔者として置かれていた。 「お姉様、どうかなさいました? お顔が少し、怖いです」 後ろから、甘い声が落ちてきた。 振り返る前に、香水の匂いで莉々花だと分かった。砂糖を焦がしたような甘さ。昔から、彼女が泣く前にはこの匂いがした。 莉々花は白いドレスを着ていた。 招待客の娘が着るには白すぎる。胸元のレースも、腰のリボンも、まるで花嫁の予行練習みたいだった。 「……そのドレス、ずいぶん白いのね」 からからに乾いた口から出た声は、聞きたかったことからはだいぶ離れていた。どうして、とも、何をしているの、とも言えないまま、私は白いレースだけを見ていた。 莉々花は袖口をつまみ、少し首を傾げた。 「瀬里奈さんが選んでくださったんです。お姉様の青いドレスに、いちばん映えるようにって」 合う、という言葉が、妙に引っかかった。 私のドレスは淡い青だ。亡くなった母が好きだった色に近い。今日だけは、どうしてもその色にしたかった。 莉々花の白は、その青を隣に置いて薄めるための白に見えた。 「澪」 父の声がした。 白鳥清隆。私の父であり、今日の主催者でもある人が、会場の入口近くで腕時計を見ていた。表情はいつも通り硬い。忙しい時の父は、娘の顔ではなく時間を見る。 「挨拶回りは済ませたのか。顔に出すな」 「はい。東都商事の高坂専務には、先ほどご挨拶しました」 そう答える声だけは、仕事の時のものになっていた。 私は白鳥家関連会社の事業管理室に席を置いている。財務資料、契約書、帳簿、提携先との確認書類。白鳥家と有馬家の提携資料も、私の机を通ってきた。 表に立つのは父や悠真で、私はいつも紙の後ろ側にいた。 数字を合わせ、契約条件の穴を拾い、誰かが見栄えよく話せるように資料を整える。 白鳥家では、それを娘の務めと呼ばれた。けれど私にとっては、ちゃんと仕事だった。 父は私を「よく気がつく娘」と呼ぶ。便利な言葉だと思う。成果になれば父の手柄で、失敗すれば私の確認不足。会議で私の作った資料が褒められても、父は「うちの者にやらせました」とだけ言った。名前を出されたことは、ほとんどない。 悠真だけは、違うと思っていた。契約書の朱入れを見て、「澪がいてくれて助かる」と笑った。白鳥家と有馬家の提携を、私たちは二人で支えているのだと、愚かにも信じていた。 「ならいい。余計なことを顔に出すな。白鳥家の娘なら、まず家の体面を考えろ」 余計なことを、顔に出すな。 今日、何の席に立たされているのかさえ分からなくなった場所で、どんな顔をすれば正解なのか、誰か一覧にしてくれないだろうか。できれば席次表よりも分かりやすく。 悠真は少し離れた場所にいた。 濃紺のスーツ。整えられた髪。私が選んだ銀のタイピン。打ち合わせの時、彼はそれを見て「澪の選ぶものは外さないね」と笑っていた。 そのタイピンに、莉々花の白い指が触れている。 莉々花は私が選んだものをよく欲しがった。髪留め、万年筆、母の部屋にあった青いガラスの小皿。最初は偶然だと思っていた。けれど彼女はいつも、私が少し大事にし始めたころに欲しがる。欲しい、と言うのではなく、「いいな」と濡れた目で見る。すると父が、姉なら譲れと言う。 今、彼女の指は、悠真ではなくタイピンに触れていた。私が選んだものだと知っているから。そう思った瞬間、胃の奥が冷たく沈んだ。 悠真は、私を見なかった。 見ないようにしている、のではない。もう見なくていいものとして、視界から外している。 爪の先が、席次表の紙を軽く押した。角の浮きが指の腹に当たる。 「お姉様、手、震えてます。そんなに怖い顔をなさらないで」 莉々花が小さく言った。 心配そうな声だった。けれど、彼女の視線は私の手ではなく、左手の薬指にあった。 母の指輪。 婚約指輪とは別に、今日だけはめてきたもの。母が亡くなる前、私の手を両手で包んで渡してくれた細いプラチナの輪だ。 「……大丈夫。そう言わないと、立っていられないから」 「本当に? 無理しないで。みんな見ていますよ」 「見られて困ることは、していませんから」 大丈夫かどうかを、今この場で莉々花に判定されたくはなかった。 司会者がマイクの前に立つ。会場の音が、薄い布を一枚かぶせられたみたいに遠くなった。 悠真が莉々花の腰に手を添える。 父はそれを止めない。 瀬里奈さんは、涙ぐむ準備をするみたいにハンカチを指先で畳んでいた。 司会者が息を吸った。その口が開く前に、胸の底が冷えた。 嫌な予感は、ずっとあった。 莉々花の白いドレス。悠真が私を見ないこと。父が席次表を確かめようともしないこと。どれも、見ないふりをすればまだ間に合うと思いたかっただけだ。 でも、予感は予感のままでは終わらなかった。 マイクの前で、司会者の口が開く。 「有馬悠真様、白鳥莉々花様」「防犯データと面会簿を残してください。正式な照会は相沢から出します」 征臣の声から、普段の余白が消えた。 職員は一度だけ廊下の奥を見てから、分厚いファイルを胸へ抱えた。 消灯の音楽が流れる。古い童謡をオルゴールにしたような曲で、明るい旋律のはずなのに、白い廊下を余計に寂しくした。 別の職員が私を呼んだ。「宮野様が談話室でお待ちです。お一人で、と」 番号札を握っていた指へ力が入る。「澪」「……行ってきます」「無理なら出てこい。廊下にいる」 大丈夫とは言えなかった。代わりに一度だけ頷いた。 談話室は廊下の一番奥にあった。小さなガラス窓の向こうで、宮野真理さんが丸いテーブルに座っている。向かいの椅子は空いていた。 扉を閉めると、冷めた麦茶と消毒液の匂いが混じった。窓際には葉の薄い観葉植物、壁には手書きの予定表。膝の上の青い布片だけが、その普通の部屋から浮いて見えた。 宮野さんが椅子を示す。「どうぞ、お嬢様」「澪で……お願いします」 言い直すと、彼女の眉が少し下がった。「奥様も、同じことをおっしゃいました。名前で呼んで、と」 椅子を引く手が止まりかけた。母の声を聞いたわけではないのに、喉が熱くなる。 座ってから、テーブルについた細い傷を見た。爪で何度も削ったような跡だった。青い布より、今はそちらの方が見ていられる。 宮野さんは布片を両手で包んだ。「これは、奥様から預かりました」「母が、あなたに?」「ええ。もし、いつかこれを澪様のものではないと言う人が現れたら、渡してほしいと」 その言い方に、すぐ返事ができなかった。 父の声が頭に戻る。家のため。姉なら。誰のおかげで。言葉は違っても、最後には私の名前を小さくする。 宮野さんが布を広げた。 褪せた青いリボン。端は丁寧に始末され、片側だけ切り取られたように短い。 指を伸ばして、途中で止めた。「……触っ
「ここでは、話せませんか」 宮野さんの肩が小さく揺れた。頷くことさえ怖いのか、ハンカチだけをさらに握り込む。 征臣が一歩、前に出ようとした。 私は手を上げて止めた。 彼の靴音が、そこで止まる。「宮野さん」 声が低く出た。怒っているわけではない。震えないようにすると、こうなる。「母のことを知りたいです。でも、無理に話してほしいとは言いません」 宮野さんの目が、ゆっくり私へ戻った。「お嬢様は……奥様と同じことをおっしゃる」「母も、そう言いましたか」「はい。あの方は、いつも……人を急かしませんでした。急いでいらしたのに」 最後の言葉だけ、ひどくかすれた。 みぞおちのあたりで、何かが薄く破れる。母は急いでいた。では、何に追われていたのか。誰に。 聞きたいことは喉まで来た。けれど、今問い詰めれば、この人はまた閉じてしまう。 私は膝の上で指をほどいた。「今日は、お顔を見られただけで十分です」「いけません」 宮野さんが、初めてはっきり首を振った。 職員が驚いたように横を見る。 宮野さんは、ハンカチを胸元に抱えた。銀鈴の刺繍が、彼女の指の間で歪む。「あれは、奥様から……お嬢様にだけ、と」「あれ?」 廊下の奥で、誰かの台車が鳴った。 宮野さんは息を詰め、またカメラを見た。 それから、唇だけをほとんど動かさずに言った。「銀鈴のことは、お嬢様にだけ」 その一言で、胸の奥が小さく痛んだ。母の名前を呼ぶ人が、まだこの施設にいた。 面会時間は、あと十五分で終わると言われた。 宮野さんは職員に支えられて廊下の奥へ戻っていった。背中は小さく、白いカーディガンの肩が片方だけ落ちている。直してあげたいと思って、手が動きかけた。 でも、彼女は振り返らなかった。 受付横の時計が、やけに大きく見える。針が一つ進むたび、母に近づいているのか、遠ざかっている
みどり療養センターは、都心から少し離れた坂の上にあった。 白い壁。低い植え込み。玄関脇には、雨で色の薄くなった案内板が立っている。病院ほど冷たくはない。けれど、家と呼ぶには静かすぎる場所だった。 受付で名前を告げると、職員の女性が一度だけ私の顔を見た。「白鳥様……」 その声に、何かを思い出したような揺れがあった。 私は背筋を伸ばした。「宮野真理さんに、お会いできますか」「確認いたします。少々お待ちください」 待合室の椅子に座る。 征臣は隣ではなく、少し離れた壁際に立った。来るとは言った。でも、私の前には出ない。 その距離が、今はちょうどよかった。 壁には季節の花の写真が飾られている。古い額の端に、細い傷がある。母の部屋にあった額縁と少し似ていて、手元が落ち着かない。 受付でもらった番号札を握る。薄いプラスチックが、手のひらで少し曲がった。母の名前を聞く前から、もう逃げ場がない気がした。「帰るか」 征臣が低く聞いた。「帰りません」 それ以上は言わない。 ありがたい。けれど、わずかながらずるい。何も言われないと、自分で決めるしかなくなる。 受付の奥から、紙をめくる音がした。誰かが小声で確認している。名前を告げただけで、古い引き出しが開いていくような音だった。 膝の上で、指を重ねる。包帯の端が少しほつれていた。直そうとして、やめた。今は何かを整えるより、崩れるものを見届ける方が先だ。 施設の時計が、かち、と小さく鳴った。待合室にいる人たちは誰もこちらを見ない。それなのに、自分だけが古い部屋の真ん中に立たされている気がした。 母がこの人を頼ったのか。あるいは、この人が母を守れなかったのか。答えはまだ来ない。 廊下の奥から、足音が聞こえた。 ゆっくりした足音。途中で一度止まり、また近づいてくる。 職員に支えられて現れた女性は、私を見るなり、手に持っていたハンカチを握りしめた。 白い髪が混じっている。けれど、目元の線に、覚えがあった。
私はその違和感を、もう無視しない。 宮野真理。名前を心の中で呼んでみる。返事はない。けれど、母の部屋に残っていた古い便箋の匂いが、かすかに戻ってきた気がした。 母のそばにいた人なら、母の最後の夜を知っているかもしれない。知っていて、黙らされていたのかもしれない。 ページの端に、見慣れない施設名が印字されていた。 みどり療養センター。「療養センター?」 声に出すと、書斎の空気が少し変わった。 調査員は頷く。「宮野真理さんは退職後、数年ほど所在が不明でした。ただ、最近の住所照会で、この施設の関連資料が出ています」「病気、ということですか」「そこまでは分かりません。入所というより、短期滞在の履歴に近いです」 短期滞在。 逃げ込んだ、という言葉が喉まで上がって、飲み込んだ。 決めつけるのは簡単だ。けれど、母のことは、簡単な言葉にしたくなかった。 征臣がファイルを一枚取る。「面会簿は」「一部だけ。古いものは施設側で保管期限を過ぎています。ただ、出入りの履歴が一件残っています」 調査員の指が、紙の下の方を示した。 来訪者欄に、白鳥瀬里奈の名前があった。 日付は、母が亡くなった翌月。 私は息を止めた。「……母の秘書に、継母が会いに行っていたんですか」「少なくとも、書類上は」 征臣の手が、袖口の手前で止まった。 怒っている。声を荒げない分、指先の動きが硬い。「この資料は保全する」「承知しました。保全を開始します」 調査員が返事をする。 私は紙から目を離せなかった。 母が亡くなったあと、父は言った。宮野さんは体調を崩して辞めた。もう関わりのない人だ、と。 でも、瀬里奈は会いに行っている。 関わりのない人に、わざわざ。 紙の上の瀬里奈の名前は、ひどく丁寧に印字されていた。誰かの人生を隠す書類ほど、外側だけは整っている。 母の秘書。継母。療養センター。三つの言葉が