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愛して、離れて、もう振り返らない

愛して、離れて、もう振り返らない

Oleh:  冬霧の島Tamat
Bahasa: Japanese
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人工妊娠中絶の手術室の前で、医師が白川詩乃(しらかわ しの)に諭すように言った。 「中絶は体への負担が大きいです。産める状況なのであれば、できれば出産することも考えてみてください。もう一度、ご家族と相談されますか?」 詩乃はスマホを手に取り、鷹宮蓮司(たかみや れんじ)にメッセージを送った。 【病院にいる。子どもをおろすつもり】 返事はすぐに届いた。 【うん】 彼女がスマホの画面を医師に見せると、医師はそれ以上何も言わず、手術の準備に入った。 詩乃はその短い返事を見つめながら、ふと、自分がひどく哀れに思えた。 彼女はずっと、蓮司はただ淡々とした性格で、余計なことを言わない人なのだと思っていた。 けれど結婚して五年が経ち、ようやく気づいた。彼は感情に乏しい人間なのではない。ただ、持っている熱のすべてを、幼なじみの常盤安奈(ときわ あんな)に注いでいただけだった。 当然のように、詩乃に向けるものなど、淡々とした態度くらいしか残っていなかったのだ。 詩乃だって、何も言わずに我慢してきたわけではない。けれど蓮司はこう言った。 「俺と安奈は子どもの頃からの友達で、今は同僚でもある。彼女とは仕事で必要なやり取りをしているだけだ。それに、結婚生活なんてこういうものだろ。穏やかに、淡々と続いていくのが本物なんだ。腰を据えて暮らしていけば、それでいいじゃないか」 彼女は言い返せなかった。だから、彼のその淡々とした態度を受け入れようとした。

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Bab 1

第1話

人工妊娠中絶の手術室の前で、医師が白川詩乃(しらかわ しの)に諭すように言った。

「中絶は体への負担が大きいです。産める状況なのであれば、できれば出産することも考えてみてください。もう一度、ご家族と相談されますか?」

詩乃はスマホを手に取り、鷹宮蓮司(たかみや れんじ)にメッセージを送った。

【病院にいる。子どもをおろすつもり】

返事はすぐに届いた。

【うん】

彼女がスマホの画面を医師に見せると、医師はそれ以上何も言わず、手術の準備に入った。

詩乃はその短い返事を見つめながら、ふと、自分がひどく哀れに思えた。

彼女はずっと、蓮司はただ淡々とした性格で、余計なことを言わない人なのだと思っていた。

けれど結婚して五年が経ち、ようやく気づいた。彼は感情に乏しい人間なのではない。ただ、持っている熱のすべてを、幼なじみの常盤安奈(ときわ あんな)に注いでいただけだった。

当然のように、詩乃に向けるものなど、淡々とした態度くらいしか残っていなかったのだ。

詩乃だって、何も言わずに我慢してきたわけではない。けれど蓮司はこう言った。

「俺と安奈は子どもの頃からの友達で、今は同僚でもある。彼女とは仕事で必要なやり取りをしているだけだ。それに、結婚生活なんてこういうものだろ。穏やかに、淡々と続いていくのが本物なんだ。腰を据えて暮らしていけば、それでいいじゃないか」

彼女は言い返せなかった。だから、彼のその淡々とした態度を受け入れようとした。

三か月前、道路を渡っていた詩乃が車にはねられるまでは。

地面に倒れたまま、意識が何度も遠のきそうになる中で、彼女は必死にスマホへ手を伸ばし、蓮司にメッセージを送った。

それでも蓮司から返ってきたのは、やはり「うん」の一言だけだった。

彼女は長い、長い時間待った。

通行人が救急車を呼んでくれるまで、処置室へ運ばれるまで、傷を縫われ、病室のベッドに横たわるまで、そして意識がはっきり戻るまで、彼女はずっと待ち続けた。

それでも、蓮司は現れなかった。

彼女は痛みに耐えながら安奈に電話をかけ、蓮司がなぜまだ来ないのか、途中で何かあったのではないかと尋ねた。

話を聞き終えた安奈は、ふっと笑い、軽い口調で言った。

「詩乃さん、蓮司くんなら今、私と一緒にいますよ。蓮司くんのアカウント、ずっと私の端末でもログインしているんです。メッセージの返信も私がしてます。ご存じなかったんですか?」

詩乃は全身が凍りついたように固まった。

安奈はなおも続けた。その声には、それが当然だと言わんばかりの響きがあった。

「蓮司くん、仕事がすごく忙しいじゃないですか。メッセージなんて全部見ていられないから、ずいぶん前から私の端末でログインしたままなんです。何かあれば私が返して、大事なことだけ蓮司くんに伝えています。詩乃さんが送ったものも全部見ていましたよ。大したことじゃないと思ったので、代わりに返しておきました」

詩乃の手が震え始めた。

つまり、この数年、詩乃が蓮司に送ってきた一通一通のメッセージを見ていたのも、返事をしていたのも、蓮司ではなかった。

安奈だったのだ。

そして蓮司は、最初から最後まで、彼女が何を伝えたのかさえ知らなかった。

安奈の声はまだ耳元で響いていた。甘えるような響きを帯びて。

「詩乃さん、もしかして怒ってます?そんなに蓮司くんにそばにいてほしいなら、戻って付き添うように、私から言ってあげましょうか?」

詩乃は何も言わず、慌ただしく電話を切った。

彼女はずっと、彼は忙しいだけなのだと思っていた。気持ちを言葉にするのが苦手なだけなのだと思っていた。

けれど本当は、蓮司は詩乃の言葉に目を通すことすらせず、最初から彼女への返事を別の女に任せきりにしていただけだった。

……

詩乃は病室のベッドに横たわり、顔には何の感情も浮かんでいなかった。

手術の途中、彼女は突然大量出血を起こし、血圧が急激に低下した。モニターがけたたましく鳴り響いた。

看護師が家族へ連絡するために飛び出し、蓮司の番号へ何度も電話をかけたが、誰も出なかった。

最後は執刀医が病院側に報告し、自ら責任を負う形で二時間以上にわたる救命処置を行った。そうして彼女は、ようやく死の淵から引き戻された。

目を覚ますと、病室はがらんとしていた。誰もいない。着信履歴すら一件もなかった。

それなのに、蓮司はつい先ほど、新しい投稿をしていた。

写真には、海辺でキャンプをする様子が写っていた。焚き火が揺らめき、安奈は目を細めて幸せそうに笑いながら、彼の肩にもたれていた。

二人の前には小さなケーキが置かれ、その上には、クリームで少し不格好な数字が書かれていた。

【10000】

添えられた言葉は、とても短かった。

【人生はたった三万日。その三分の一は、お前だ】

詩乃はその写真を見つめたまま、親指を画面の上で止めたまま、長い、長い間動かなかった。

ふいに、自分はいったい何にしがみついているのだろうと、分からなくなった。

この結婚生活は、あまりにも虚しかった。

最初から最後まで、彼女は独り芝居をしていただけで、客席では皆が、彼女を笑いものにして眺めていたのだ。

詩乃は彼のページを閉じ、メッセージを送った。

【疲れた。離婚しよう。午前0時までに返事がなければ、この関係は終わったものとみなす。私はもうあなたの邪魔をしない。選ぶのはあなた】

午後11時59分になって、ようやく画面上の蓮司の表示が「入力中……」に変わった。

詩乃は小さく笑い、相手をブロックした。

【まさか、あなたにチャンスをあげていたとでも思った?蓮司、私たちはもう終わりよ】

送信を終えると、彼女は別の番号へ電話をかけた。

電話がつながっても、相手は特に驚いた様子ではなかった。

詩乃は単刀直入に言った。

「あなたの勝ちよ。賭けに負けたんだから、あなたが出した条件を受け入れる」

電話の向こうでしばらく沈黙が続き、それから低い笑い声が聞こえた。

「一度裏切った男なんて、二度といらない。情が尽きたなら、捨てればいい。俺に対しても、同じようにしてくれて構わない。三日後にプロジェクトが片づく。迎えに行く」

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第1話
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第2話
経過観察のため入院し、数値が安定したのを確認してから、詩乃は退院した。家に戻ると、珍しくリビングの明かりがついていた。ドアを開けると、蓮司がソファに座り、仕事の書類に目を通していた。スーツの上着は肘掛けに無造作に掛けられていて、帰ってきてまだ間もないようだった。物音に気づいた彼はちらりと目を上げ、書類を脇に置いた。「安奈が、お前が病院に行ったって言ってた。何しに行ったんだ?」「中絶してきたの」彼女がそう言いかけたとき、蓮司のスマホが鳴った。画面に表示された名前は安奈。甲高く弾むような着信音が、彼女の声を完全にかき消した。蓮司は着信を見るなり、目に見えて口元を緩めた。電話を切ってから、ようやく詩乃に視線を戻し、何気ない調子で尋ねた。「さっき、何て言った?」詩乃は彼の落ち着き払った顔を見つめ、ふいに、もう何も言う気が失せた。安奈は確かに、彼に伝えはするのだろう。ただし、それが正確に伝わるかどうかは、また別の話だ。彼女は小さく息をついた。「何でもない」寝室へ向かおうと背を向けると、蓮司がふいに立ち上がり、後ろからついてきた。そして、力の抜けた腕で彼女の腰をゆるく抱き、顎を肩に乗せた。「どうした?」詩乃は一瞬、動きを止めた。「何のこと?」「俺が病院に付き添わなかったから、機嫌を損ねてるのか?」蓮司の口調は軽かった。まるで、駄々をこねる子どもをなだめているかのようだった。「今日は少し特別だったんだ。俺と安奈が出会って一万日目でな。あの子はそういう記念日を大事にするタイプだから、一日早くても遅くても駄目なんだ。抜けられなかった」詩乃はそこでようやく、彼があのメッセージのことを言っているのだと気づいた。彼はおそらく、彼女がただの検査を受けに行っただけだと思っている。そして離婚を切り出したのも、自分が安奈に付き添い、彼女の通院に付き添わなかったせいだと思っているのだろう。「あなたに当てつけているわけじゃないの。あとで協議書を作って……」「最近は仕事が忙しいんだ。安奈みたいな若い子の真似をして、いちいち拗ねるな」蓮司は彼女の言葉を遮り、少し冷えた声で言った。彼はソファへ戻って書類を片づけながら、顔も上げずに言った。「今夜も会社に戻らなきゃならない。それでも、わざわざ時間を作
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第3話
安奈は突然の平手打ちに反応できず、よろめいてそのまま床に倒れ込んだ。詩乃は一歩踏み出すと、身をかがめて安奈の髪をつかみ、顔を引き上げて、さらに容赦なくもう一度頬を打った。「詩乃!」蓮司が勢いよく立ち上がった。数歩で駆け寄ってくると、彼女の手首をつかみ、後ろへ引きずるように引っ張った。その力はあまりにも強く、彼女の体は大きく後ろへ引き離された。彼は彼女の手首を強くつかんだまま、怒りを噛み殺すように低く言った。眉間には、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。「安奈は酔うとわけの分からないことを言うんだ。そんなことでいちいち本気にして、手を上げる必要があるのか!?」詩乃は手を引き抜こうとしたが、彼の手はびくともしなかった。「酔ってわけの分からないことを言っただけ?それとも、酔った勢いで本音を言っただけ?私に隠れて何度浮気したの?気持ち悪いと思わないの!?私のことが嫌いなら離婚すればいいじゃない!」詩乃の声が、不意にかすれた。涙が一気にあふれ出した。「どうしてそこまで私を踏みにじって、弄ぶのよ!?」安奈はそばにいた人に支えられて立ち上がり、頬を押さえて泣き出した。「私の顔……」そこでようやく、周囲の者たちは気づいた。彼女の右頬には、鋭いテーブルの角で切れた傷が一本走り、血が涙と混じって顎を伝い落ちていた。それを見た瞬間、蓮司はもう怒りを抑えきれなくなっていた。「詩乃、謝れ」詩乃は胸の奥に火が噴き上がるのを感じた。詩乃は揉め事が好きな人間ではない。だからといって、黙って踏みにじられるつもりもなかった。彼女は勢いよく彼の手を振りほどくと、テーブルの上にあった、半分ほど残った赤ワインのボトルをつかみ、中身をすべて安奈に浴びせた。ワインが傷口にしみ、安奈は悲鳴を上げて後ずさった。蓮司は完全に激怒した。「本当にどうかしてるぞ!誰か、この女の頭を冷やしてやれ!」詩乃が反応する間もなく、ワインクーラーに入っていた氷水が頭から浴びせられた。全身がびくりと震えた。濡れた寝間着が肌にぴったりと張りつき、あまりの冷たさに呼吸まで震えた。まだ息を整える間もなく、二人のボディガードが一歩前へ出て彼女の肩を押さえつけ、さらに氷水を頭からぶちまけた。退院して間もない彼女は、もともと下腹部に鈍い痛みが残ってい
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第4話
体の傷が少し落ち着いてから、詩乃は鷹宮家へ向かった。今夜は、約束どおり彼が迎えに来る日だった。離婚のことを、先に莉子へ伝えておくつもりでいた。何はともあれ、五年も嫁として過ごしたのだから、最後の礼儀くらいは尽くすべきだと思ったのだ。莉子は庭の籐椅子に腰かけ、スマホを手にビデオ通話をしていた。詩乃は歩み寄った。「お義母さま」彼女だと分かると、莉子はそっけなく「ええ」と返しただけで、視線をすぐにスマホへ戻した。その表情は、目に見えてやわらかくなっていく。「おばさま!蓮司くんから、体調を崩されたって聞きましたよ。もうすぐ着きますからね!」安奈の声がスピーカー越しに聞こえてきた。甘くやわらかく、語尾には甘えるような響きがあった。莉子は目尻を下げて笑った。「そうなの。あなた、クッキーが好きだったでしょう?今から田中さんに焼かせておくわ。着いたらすぐ食べられるようにね」安奈が嬉しそうな声を上げる。二人は本当の家族のように、和やかに話していた。通話を切ってから、莉子はようやく笑みを収めた。「あなたは、いつもの紅茶でいいわね?」詩乃が答えるより先に、彼女はそばの使用人へ顎で合図をした。使用人はすぐに紅茶を一杯運んできて、詩乃の前に置いた。詩乃は紅茶が好きではない。ここへ来るたびに、そう伝えてきた。けれど莉子が彼女に用意するのは、いつも決まって紅茶だった。以前、冗談めかして蓮司に愚痴をこぼしたことがある。ただ、何気なく聞いてほしかっただけだった。けれど彼はこう言った。「母さんは物覚えがよくないんだ。それに、お前は母さんの世話をしに行ってるんであって、もてなされに行ってるわけじゃないだろ」蓮司は、母は物覚えがよくないと言った。けれど、めったに来ない安奈がクッキー好きなことは覚えていて、わざわざ先に焼かせておく。詩乃は毎週三、四回も通い、三年間ずっと世話をしてきた。それでも莉子は、彼女が紅茶を飲まないことさえ覚えていなかった。「詩乃、はっきり言わせてもらうわね」詩乃は目を上げて彼女を見た。「安奈と蓮司は、小さい頃から私が見てきた子たちなの。二人は昔から仲がよくて、お互いのこともよく分かっている。ここ数年、私の世話をしてくれているのはあなたで、人柄が悪いとは思わないわ。ただ、少し堅すぎるのよ。
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第5話
蓮司は手を放さなかった。目の奥には、今にもあふれ出しそうな怒りが滲んでいる。詩乃は数歩離れたところに立ち、その光景を見つめていた。ふいに、現実感が薄れていく。蓮司がここまで怒ったところを見たのは、前に一度だけだった。まだ二人が恋人だった頃のことだ。詩乃が路地の入口で数人のチンピラに絡まれたとき、駆けつけた蓮司は、それでも冷たい顔で数言、警告しただけだった。彼の育ちのよさは、取り乱すことを許さなかった。蓮司はいつだって感情を抑え、体面を崩さない人だった。けれど今回は違った。彼は場も、立場も、集まった取引先の目も気にせず、その男の腕の関節を外した。騒ぎはすぐに収められた。蓮司は安奈をかばうようにして外へ向かった。詩乃のそばを通り過ぎるとき、ふと足を止める。彼は彼女を見た。目の奥にはまだ怒りが残り、声は低く抑えられていた。「わざとなのか?」詩乃はすぐには意味が分からなかった。「何が?」「こういう場で誰もそばについていなければ、変な人に絡まれる可能性がどれだけ高いか、分からないのか?安奈は恋愛経験がない。断り方も分からないから、つけ込まれやすい。俺がお前についていたら、あの子を見ていられない。もう少し分別を持て」詩乃は呆然と彼を見つめた。かつて彼女の心を揺らした顔が、目の前にある。冷ややかな眉目。くっきりとした輪郭。初めて会ったときと、何ひとつ変わらない。けれど、どれほど見つめても、胸の奥は少しも波立たなかった。どうやら、もうあの頃ほど愛してはいないらしい。「私は、あなたにそばにいてなんて頼んでいないわ。それに、そもそも私は来たくなかった。安奈が無理やり私を車に乗せたのよ。こういう場に連れてくるくせに、ドレスの一着も用意しなかった。私のほうこそ聞きたいわ。どういうつもりだったの?私に恥をかかせたかったの?」その言葉が落ちた瞬間、周囲からざわざわと囁きが広がった。安奈の目から、タイミングを見計らったように涙がこぼれた。彼女は蓮司の腕の中に小さく身を寄せ、肩をかすかに震わせる。「詩乃さん……どうしてそんなふうに私を悪者にするの……一緒に行きたいって言ったのは詩乃さんじゃないですか。余っているドレスはないけど大丈夫かって、私、先に聞きましたよね。詩乃さんが気にしないって言ったんじゃ
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第6話
取引先の人間が慌てて前に出て、その場を収めようとした。先頭に立った中年の男が、笑みを浮かべながら手を振る。「鷹宮社長、そこまでなさらなくても。大したことではありませんし、こちらも故意ではないと信じています。常盤さんも驚かれたでしょうから、まずは病院へ行かれたほうが」だが、蓮司は譲らなかった。「駄目です」その声は冷たく硬く、取りつく島もなかった。「鷹宮家の妻が過ちを犯した以上、甘やかして済ませるわけにはいきません。事が事です。外に漏れれば、鷹宮家の面目に関わる。必ず謝らせます」詩乃はその場に立ち尽くしたまま、その言葉を聞いていた。胸の奥に残っていた最後の温もりまで、すっかり抜き取られていくようだった。彼女は顔を上げた。目元はうっすら赤く、声にはとうとう押し殺した怒りが滲んだ。「安奈が適当なことを言ったから?泣いていてかわいそうに見えるから?だから、確かめもせず、事情も聞かず、私に罪をかぶせるの?」彼女は蓮司の目をまっすぐ見つめた。一語一語が、胸を裂くようだった。「私は争いたくなかった。それなのに、あなたはまだ私に恥をかかせるつもり?」だが蓮司は、冷たく笑った。「お前がやっていないなら、どうして謝った?」詩乃は言葉に詰まった。そこへ、安奈が絶妙なタイミングで口を開いた。涙を拭いながら、いかにも傷ついたような声を出す。「詩乃さん、怒らないでください……私が何も言わなかったことにすればいいんです。蓮司くん、前から私に言ってたんだ。詩乃さんは少し情緒が不安定で、いつも私のことで蓮司くんと気まずくなるって……でも私、今回は詩乃さんに悪気はなかったんだって信じてる。もう許すから」わずかな言葉で、すべての罪を彼女にかぶせた。情緒が不安定。いつも拗ねる。悪気のない過ち。詩乃は、あまりの馬鹿馬鹿しさに笑いたくなった。蓮司は本来、夫婦二人で解決すべき問題を、すべて安奈に話していたのだ。外の人間の前で、彼女は理不尽に騒ぎ立て、嫉妬に狂う女にされていた。胸の奥から怒りが燃え上がった。詩乃は一歩前に出て、笑みを浮かべた。「そう。そこまで言うなら、本当にやってあげないと損よね」言い終わるより早く、彼女は手を振り上げ、安奈の頬を思いきり打った。安奈はその一撃で床に尻もちをついた。起き上が
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第7話
控室では、安奈はソファに座っていた。蓮司が温かい水を差し出すと、彼女は両手でそれを受け取った。目元はまだ赤かったが、気持ちはだいぶ落ち着いているようだった。彼女はうつむき、小さな声で口を開いた。「蓮司くん……私が悪かったのかな」蓮司は乱れた袖口を整えていたが、その言葉に顔を上げた。「詩乃が来るって分かった時点で、すぐドレスを用意させるべきだったよね……そうしていれば、あんな恥ずかしい思いをさせずに済んだし、私のせいで嫌な目に遭わせることも……なかったのに。詩乃にあんなことして、よくなかったんじゃない?行って、ちゃんと話してあげて」蓮司はすでに怒りが収まりかけていて、詩乃を密かにつけさせていた者に様子を尋ねようと、スマホを手に取るところだった。だが、その言葉を聞いた途端、また理由の分からない苛立ちが込み上げてきた。「必要ない」彼の声は冷たかった。「お前は最初から最後まで何も悪くない。どんな理由があっても、あいつが人前でお前にあんなことをしていいはずがない。お前はゆっくり休んでいろ」安奈は小さく「うん」と頷いた。目を伏せたまま、指先で無意識にコップの縁をなぞっている。しばらくして、彼女はまた口を開いた。まるで、よほど勇気を振り絞ったかのように。「蓮司くん、ずっと……聞きたかったことがあるの」蓮司はスマホを見ながら、何気なく返した。「何だ?」安奈は顔を上げなかった。耳の先がわずかに赤く染まり、声は蚊の鳴くように細い。「もし……詩乃さんと出会っていなかったら、私たち、自然に付き合ってたのかな」彼女は一度言葉を切り、それから付け加えた。「それとも……昔に戻れたら、私を選んでた?」蓮司は眉をひそめ、少し不可解そうに彼女を見た。「それはない」安奈はさっと顔を青ざめさせ、ようやく顔を上げた。「どうして?」蓮司の表情は淡々としていた。「俺たちは小さい頃から一緒に育った。得がたい友人で、大切な縁だと思っている。安奈、俺はお前をそういう目で見たことは一度もない。ずっと妹のように思って、面倒を見てきただけだ。たとえ昔に戻ったとしても、その相手が詩乃ではなく、別の誰かだったとしても、それは変わらない」安奈の指が強くこわばり、グラスの中の水が揺れた。彼女は顔を上げた。目には信じられな
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第8話
蓮司は目を閉じた。あの日のことを思い出していた。メッセージを受け取ったとき、彼は帰るつもりだった。だが安奈が彼の袖を引き、甘えるように言った。「詩乃さんはただの軽い風邪でしょ。薬を飲めば治るよ。蓮司くん、今日は私たちの一万日記念日なんだよ?人生なんて三万日しかないのに、一万日なんて、そう何度も迎えられるものじゃないでしょ?」彼女に引き止められ、結局、彼はその場に残って付き合うしかなかった。夜、解散したあとでスマホを開くと、詩乃から離婚したい、十二時までに返事がなければこの関係は終わりとみなす、というメッセージが届いていた。けれど彼がそれを見たときには、もう期限ぎりぎりだった。彼はすぐにすべての仕事を断り、時間を作って家へ戻った。彼女の顔色は青白かった。彼は、ただ風邪を引いているだけだと思った。彼女が自分を見ようとしないのも、ただ怒っているだけだと思った。けれど本当は、彼女は中絶手術を受けていたのだ。そしてあの夜、安奈は会社に戻る用がある、書類に署名が抜けていると彼に嘘をついた。彼は慌ててまた出かけ、署名を済ませると、そのまま酒の席に連れていかれた。さらに、安奈はわざわざ本音ゲームなどという遊びを始め、詩乃に電話をかけたのだ。詩乃は手術を終えたばかりで、体はまだひどく弱っていた。それでも、彼に何かあったのではないかと心配して、反射的に駆けつけてしまった。そして言葉で踏みにじられ、耐えきれず安奈を平手打ちした。それなのに、彼は安奈を守り、詩乃を責めた。それどころか、彼女がいちばん弱っているときに、人に押さえつけさせ、何度も氷水を浴びせて、無理やり謝らせた。蓮司の手が震えた。あのとき、詩乃はどれほど痛かったのだろう。子どもを失ったばかりで、手術を終えたばかりで、そばには誰もいなかった。夫が来てくれると、心のどこかで信じていたはずなのに。待っていた彼女に返ってきたのは、あんな仕打ちだった。それでも酒の席へ呼び出され、侮辱され、無理やり頭を下げさせられた。そして蓮司は、すぐそばに立ちながら、別の女の味方をしていた。真実も、記憶も、鋭い刃のように蓮司の胸を抉った。蓮司は、ほとんど夜明けを待たずに役所へ向かった。まだ夜も明けきらないうちから入口の前に立ち、開庁を待っていた。昨夜のイ
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第9話
異国の地。窓の外には、見慣れない街並みが広がっていた。海の匂いを含んだ風が吹き込み、白いレースのカーテンを揺らしている。詩乃は悪夢から目を覚ました。背中には、冷たい汗がびっしょりと滲んでいた。また、あの夢だった。彼女は布団の中で体を丸め、膝を抱えたまま、乱れた鼓動が少しずつ落ち着いていくのを待った。そのとき、温かな手が背中に触れた。軽く、ゆっくりと、何度も背中を撫でる。まるで、怯えた小動物を宥めるように。「もう大丈夫。大丈夫だ」低い声が、暗闇の中に響いた。少し掠れていて、それでも不思議と心が落ち着く声だった。詩乃は顔を横へ向けた。窓の外から差し込む月明かりの中、ベッドのそばに座る人影が見える。黒瀬怜央(くろせ れお)。蓮司の宿敵だった男。彼は濃い色の部屋着を着て、ベッド脇の椅子にもたれるように座っていた。手元には開いたままの本が置かれている。もうずいぶん長いあいだ、そこにいたようだった。詩乃は一瞬、ぼんやりした。声には、まだ寝起きの掠れが残っている。「どうして……ここにいるの?」怜央は彼女の背中に置いた手を離さなかった。声は淡々としていた。「佐藤さんが最近、夜中に起きるたびに君の泣き声を聞くと言っていた。眠れていないようだから、故郷に伝わるまじないを試してみたらどうかと。誰かがそばで夢を見張っていれば、悪夢は寄りつかないらしい」詩乃は彼を見た。喉の奥がきゅっと熱くなったが、涙はどうにか堪えた。怜央も、それ以上は何も言わなかった。ただ、手のひらで彼女の背中をゆっくりと撫で続けている。長い時間が過ぎ、詩乃の呼吸はようやく少しずつ落ち着いていった。離れたからといって、すぐにすべてを手放せるわけではない。五年以上の想いだった。彼女は確かに、本気で愛していた。けれど、その気持ちをひとつずつ思い返すたびに、胸が裂けそうなほど痛んだ。詩乃はスマホを手に取った。ブロックリストから蓮司の名前を開き、彼とのトーク履歴を一つひとつ遡っていく。最初の頃のメッセージは、どれも彼女が恐る恐る送ったものだった。【蓮司、今日は寒くなったから、秘書に上着を届けてもらったわ】【うん】【いつ帰ってくる?ご飯、作ってあるの】【分からない。待たなくていい】【分かった。仕事、
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第10話
一か月後。詩乃が、あの出来事を思い出すことは少なくなっていた。悪夢にうなされるのも、毎晩から時折に変わり、目を覚ましたときに全身が冷や汗で濡れていることもなくなった。一晩ぐっすり眠れるようになった。朝、悪夢ではなく陽射しに起こされる日も増えていった。この一か月、怜央は詩乃にこれ以上ないほどよくしてくれた。彼女が何気なく、この国のコーヒーは苦すぎると言えば、翌日には家に国内でも名の知れたバリスタが呼ばれていた。鍋が食べたいけれど近くに店がないと言えば、次の日には近所に鍋の店が開いた。ある日、ベランダから階下の花屋を何度か眺めていただけで、夕方に戻ると部屋には白いトルコキキョウの花束が飾られていた。怜央はわざとらしく恩を着せることもなければ、自分からその話を持ち出すこともなかった。まるで、すべてが当然のことのように。けれど詩乃は、ずっと待っていた。彼がいつ、自分の要求を口にするのかを。男が何の理由もなく、ここまで女に尽くすはずがない。彼女は、あの賭けを覚えていた。半年前のことだった。怜央は詩乃の前に現れ、ひどく馬鹿げた賭けを持ちかけた。半年以内に蓮司が改心したら、怜央はもう詩乃の前に現れない。二度と関わらず、そのまま姿を消す。もしそうならなかったら、詩乃は怜央についていき、彼の手配に従う。衣食住は彼が保証する。期限はない。そのときの詩乃は、ただ戸惑うばかりだった。蓮司の宿敵である男が、なぜそんなことをするのか分からなかった。蓮司の妻がどれほど惨めに暮らしているのかを見て、彼を笑いものにするためではないかと疑ったことさえある。けれどその半年、怜央はほとんど姿を見せなかった。連絡もない。現れることもない。存在感すらなかった。まるで最初からいなかったかのように静かだった。ときどき詩乃は、あれは自分が見た夢だったのではないかとさえ思った。だが結果として、怜央は勝った。しかも、完膚なきまでに。半年のあいだ、蓮司が改心することは一度もなかった。彼女に歩み寄り、機嫌を取ろうとしたこともない。それどころか、彼女が妊娠したことも、交通事故に遭ったことも、中絶したことも、何ひとつ知らなかった。詩乃が連れ出された日、怜央は自ら迎えに来た。黒い車が路肩に停まり、彼女の姿を見た
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