LOGIN結婚して五年―― 黒崎あずさ(くろさき あずさ)は、ようやく離婚を決意した。 その日、あずさは書類を届けるために夫の黒崎直哉(くろさき なおや)の執務室へ向かった秘書に声をかけ、「ついでだから」と言って書類一式を受け取った。そして、その束の中にもう一通の書類をそっと紛れ込ませる。 それは、他ではない離婚届だ。付箋で要所要所が隠され、一目ではそれだと分からないよう、あずさがあらかじめ準備したもの。 執務室に入ると、机の向こうで直哉はまだ二日酔いが抜けきっていない様子だった。 額を押さえながら書類を受け取り、内容もろくに確認しないまま次々とサインを入れていく。 ――その離婚届も含めて。 最後の一筆が記された瞬間、あずさの視線はその紙から離れなくなった。 全部、終わるんだ。 そう思いながら書類を回収しようとしたときだった。 不意に腕が机の端に触れた。カタン、と小さな音を立ててフォトフレームが倒れ、床に落ちる。 ガラスが砕け散った。写真の中で微笑む少女の顔を、飛び散った破片が半分ほど覆い隠す。 少女の名前は青木怜奈(あおき れいな)。 直哉が今も忘れられない、最愛の人だった。
View More圭介の報告を聞いて、直哉は奥歯を強く噛み締めた。怒りでスマホを握る手が震える。何度も深呼吸を繰り返し、ようやく冷静さを取り戻した。「分かった。すぐ戻る」会社へ駆けつけた直哉は、その光景を見て思わず足を止めた。執務室では、花音が自分の椅子に座り、退屈そうにくるりと回転していた。「お帰りなさい、直哉。どう?今の状況。満足してる?言ったでしょう?あずささんを邪魔して欲しくないって」その瞬間、直哉はすべてを理解した。今回の騒動は、すべて花音の仕業だったのだ。怒りを通り越し、笑いが込み上げてくる。「赤羽花音……本当に見くびっていた。多少の能力はあるらしいな。だが黒崎家を甘く見るな。これくらいの小細工で俺を潰せると思ったのか?お前を刑務所に送ってもいいんだぞ」花音は微笑みを崩さなかった。その柔らかな表情は怜奈によく似ている。だが口から出る言葉は氷より冷たかった。「あなたはそんなことしないわ。だって、できないもの。もし怜奈が刑務所でひどい目に遭って、満足に食事もできなくて、誰かに虐められていたらどうするの?あなた、耐えられるかな?」花音はくすりと笑う。「それに勘違いしないで。私は最初から、これだけであなたを倒せるなんて思ってないわ。むしろ感謝してほしいくらい。会社の中にあった膿を表に出してあげたんだから。私は何も違法なことはしてない。ただ隠れていた問題を暴いただけ。あなたは大人しくここで仕事をしていればよかったのに、どうして何度も何度も、あずささんを追いかけるの?今の彼女、すごく幸せそうじゃない。それに、あなたがずっと会いたかった怜奈は、こうしてあなたのそばにいる。それなのに、何が不満なの?」花音には理解できなかった。直哉はすべてを欲しがっている。だが、そんな都合のいい話があるはずがない。何かを得るなら、何かを失う。それが当たり前だ。なのに、直哉はまだ満足しないなんて。直哉は怒りに満ちた視線で彼女を睨みつける。息が詰まりそうだった。「花音……本当にいい度胸だな。俺がお前の顔に手を出せないと思っているから、好き放題やっているんだろう?もしお前が怜奈に似ていなくなったら、どうなると思う?その時は絶対に許さない、必ず後悔させてやる!」花音はまるで怜奈そのもののような優しい眼差しを向ける。そして静
イソンには「あなたの過去なんて気にしてない」と言われても、あずさは割り切れなかった。彼が自分を何のわだかまりもなく受け入れてくれることに、どうしても後ろめたさがあったのだ。だからこの恋も、きっとここで終わるのだろう――そう思っていた。だが、イソンは別の形で想いを伝えてきた。自分の気持ちを隠そうともせず、世界中に知らしめたいと言わんばかりに真っ直ぐ愛情を注いでくる。そして、あずさが何より驚いたのは、彼の言葉だった。「あなたは無理に僕を愛そうとしなくていい。心を差し出す必要もない。ただ僕の愛を受け取ってくれればいいんだ。僕は待つよ。あなたが僕を好きになってくれる日まで」その言葉に、少しずつ心は揺らいでいった。そして気づけば、あずさは彼に惹かれていた。――今を楽しめばいい。そう自分に言い聞かせた。愛し合っている間は誠実に向き合う。もし愛が終わったなら、その時は別れればいい。今、この幸せが本物であれば、それで十分だ。過去のことを思い返しながら、あずさはイソンの肩に回した腕に少しだけ力を込める。「ねえ、イソン。私、昨日より今日のほうが、あなたのことがもっと好きになったよ」イソンは低く笑った。「そうか、それは光栄だね」そう言って、優しく答える。「僕もだよ」……遠ざかっていくあずさの背中を見つめながら、直哉は必死にもがいていた。あずさを追いかけて、連れ戻したい。そして、彼の心が激しく叫んでいる。――あずさを行かせるな。絶対に手放すな。だが、銃を持ったボディーガードたちに囲まれた状態では、一歩も前へ進めなかった。目の前で彼女が去っていく。その姿が小さくなっていくたびに、胸の奥に針を刺されるような痛みが広がっていく。彼女はずっと自分の隣にいるはずだった。それなのに、なぜ他の男を選んだのか。理解できない。受け入れられない。結局、直哉はそのまま送り返された。だが、あずさを諦めるつもりはなかった。帰国後、彼はまず、あずさとの思い出を整理しようとした。過去を振り返り、二人の記憶を武器に彼女を取り戻そうと考えたのだ。しかし――例の火災が、すべてを焼き尽くしていた。残っていたのは怜奈に関するものだけ。あずさとの思い出は、驚くほど何一つ残っていなかった。写真も見当たらない。ア
あずさは氷のように冷え切った眼差しを向けた。もう、直哉の言葉にも行動にも傷つくことはない。一方の直哉は、図星を突かれたかのように顔色を悪くしていた。だが、それでもなお意地を張る。「あずさ、俺がお前を好きになることなんてあり得ない。俺は怜奈を裏切らない。愛するのは、彼女だけだ」あずさが口を開くより先に、イソンが鼻で笑った。「裏切らない、ね」その声音には露骨な嘲りが混じっていた。「でもあなたは、とっくに何度も青木さんを裏切っているじゃないですか。身代わりを探したこともそうだし、別の女性と結婚したこともそう。赤羽さんを青木さんの代用品として扱ったことも、彼女にプロポーズしたことも全部そうです。あなたは青木さんにも、赤羽さんにも、そしてあずさにも不誠実でした。そんなあなたに、僕と張り合う資格があるのですか?少なくとも僕は一人しか見ていません。忘れられない初恋の相手もいなければ、あなたみたいに本音をごまかしたりもしません」その言葉は、直哉が必死に守ってきた最後の尊厳さえ容赦なく奪い去った。彼は呆然と立ち尽くす。反論しようとしても、言葉が出てこない。唇を震わせながら、ようやく絞り出せたのは――「違う……」それだけだった。あずさはそんな彼を見つめ、失望したように目を伏せる。彼女はイソンの手を軽く引いた。「行こう。もうこれ以上、この人と関わりたくないの。できることなら、一生会いたくない」イソンの唇に美しい笑みが浮かぶ。彼はあずさの手の甲にそっと口づけた。「あなたの望むままに」次の瞬間、銃を携えたボディーガードたちが現れ、直哉を取り囲んだ。完全に退路を塞がれた直哉を残し、あずさは一度も振り返らなかった。――彼が自分に振り向いていなかったなら。あるいは、花音にプロポーズなどしなかったなら。最後まで怜奈だけを愛し続け、誰も傷つけなかったなら。自分はきっと、その一途さを尊敬していただろう。だが今の彼に抱く感情は、ただ一つ。失望だけだ。イソンはそのままあずさの肩を抱き寄せる。大型犬のように身体を預け、少しでも彼女に触れていたいと言わんばかりだった。「あ、ちょっと……重いよ!」あずさは思わず笑いながら彼を押し返す。するとイソンは楽しそうに目を細め、彼女の腰を抱えて軽々と背負い上げた。
イソンが弱々しく身を寄せてくると、あずさの胸にはたちまち強い庇護欲が湧き上がった。これまで彼はいつだって自信に満ち、頼もしく振る舞っていた。そんな彼がこのような姿を見せるなんて、原因はどう考えても直哉にある。あずさは冷え切った眼差しで直哉を見据え、イソンを背後にかばうように一歩前へ出た。「直哉、あなた正気?どうしてイソンを殴ろうとするの?」その視線を受けた瞬間、直哉の胸は鋭く抉られたように痛んだ。彼は信じられないものを見るようにあずさを見つめ、怒りのあまり笑いそうになる。「まだ当たってもいないのに、なんで責められなければいけないんだ?お前、変わったな」かつてのあずさは、いつだって彼の後ろを追いかけていた。そんな彼女が、今は別の男を庇うために自分を責めている。正気じゃないのは自分ではなく、あずさの方ではないのか――そう思わずにはいられなかった。直哉は彼女の表情を一瞬たりとも見逃すまいと凝視する。だが、あずさは終始淡々としていた。むしろ煩わしそうに眉をひそめる。「変わった?人なんだから変わるに決まってるでしょう。それに、私たちはもう離婚してる。あなたが私の前に現れる理由なんてないわ。今ごろ怜奈と幸せに過ごしているはずでしょ?プロポーズもしたって聞いたわ。おめでとう。末永くお幸せに」その言葉に、直哉の顔が険しく歪む。「怜奈だと?彼女は怜奈なのか、それとも赤羽花音なのか、お前が一番よく分かってるだろ!どうしてあいつと組んで俺を騙した?俺を弄ぶのがそんなに楽しいのか?それとも、これも新しい作戦か?一度離れて俺に振り向いて欲しいっていう――」彼は怒りで肩を震わせながら続けた。「認めるよ。そのやり方は確かに効いた。だからもう偽物を使って俺を刺激するのはやめろ。今すぐ俺と帰れ。復縁するつもりはないが、埋め合わせならちゃんとする」そう言って、あずさの手を掴もうとした。しかし彼女は迷いなく身を引く。その瞬間、イソンの鋭い目が細められた。彼は直哉の手首を掴み、骨が砕けそうなほど強く握り締める。「黒崎さん。僕のこと、無視しないでくれませんか?本人と恋人である僕の了承もなしに、彼女を連れて行こうとするなんて、無理に決まってるでしょ」「恋人だと?」直哉は鼻で笑った。「冗談はよせ。あずさが愛しているのは――」だが最後
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