All Chapters of 夫の初恋の身代わりを拾っちゃった: Chapter 1 - Chapter 10

24 Chapters

第1話

結婚して五年――黒崎あずさ(くろさき あずさ)は、ようやく離婚を決意した。その日、あずさは書類を届けるために夫の黒崎直哉(くろさき なおや)の執務室へ向かった秘書に声をかけ、「ついでだから」と言って書類一式を受け取った。そして、その束の中にもう一通の書類をそっと紛れ込ませる。それは、他ではない離婚届だ。付箋で要所要所が隠され、一目ではそれだと分からないよう、あずさがあらかじめ準備したもの。執務室に入ると、机の向こうで直哉はまだ二日酔いが抜けきっていない様子だった。額を押さえながら書類を受け取り、内容もろくに確認しないまま次々とサインを入れていく。――その離婚届も含めて。最後の一筆が記された瞬間、あずさの視線はその紙から離れなくなった。全部、終わるんだ。そう思いながら書類を回収しようとしたときだった。不意に腕が机の端に触れた。カタン、と小さな音を立ててフォトフレームが倒れ、床に落ちる。ガラスが砕け散った。写真の中で微笑む少女の顔を、飛び散った破片が半分ほど覆い隠す。少女の名前は青木怜奈(あおき れいな)。直哉が今も忘れられない、最愛の人だった。「お前……何をしてるんだ!」鋭い怒声が部屋に響いた。つい先ほどまで酒の残っていたはずの直哉の目が、一瞬で覚める。彼は勢いよく立ち上がると、あずさを乱暴に突き飛ばした。よろめいたあずさは床へ手をつく。その瞬間、砕けたガラスの破片が掌に深く食い込み、鋭い痛みが走った。彼女は唇を噛みしめ、悲鳴は飲み込んだが、込み上げた涙までは止められなかった。手を見ると、ぽたりと血が指先を伝い、床に散らばった書類を赤く染めていく。それでも直哉は、あずさを一度も見なかった。彼の視線はただあの写真だけに向けられている。床に膝をつき、写真を拾い上げると、ガラスの破片を丁寧に払い落としていく。傷一つ付けまいとするその手つきは、驚くほど優しかった。まるで世界で何よりも大切な宝物を扱うように。その光景を見た瞬間、あずさの心は完全に冷え切った。言葉にできない悲しさが込み上げてくる。結婚して五年も経ったのに、自分という生身の人間は、一枚の写真にも敵わないなんて。「まだいたのか?」写真を確認し終えた直哉が顔を上げる。その目は氷のように冷たかった。「今後、俺の許可がな
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第2話

別荘を後にしたあずさは、今まで自分が「家」だと呼んでいた場所へ戻った。玄関を開けても、迎えるのは静寂だけ。リビングを通り過ぎ、そのまま自分の部屋へ向かう。パソコンを立ち上げると、一ヶ月後海外行きの航空券を予約した。花音のレッスンが終わり、怜奈になりきってくれれば、自分はここから出られる。広い世界へ飛び出し、自分の人生を取り戻せるのだ。きっとこれからは、自分らしく生きられる。そしていつか、本当に自分を愛してくれる人にも出会えるだろう。そして直哉は――自分の人生から消えるのだ。その夜、直哉は泥酔した状態で帰宅した。玄関の扉が乱暴に開かれる。直哉のネクタイは緩み、ジャケットは腕に引っ掛けられたまま。足取りも覚束ない。けれど、あずさに近づいた瞬間、ぼんやりとしていた彼の目に、突然光がよぎった。深く息を吸うと、何か懐かしい匂いをたどるように、その瞳が熱を帯びていく。「……怜奈」震える声に込められた想いは重く、痛々しいほどだった。次の瞬間、直哉はあずさを強く抱き寄せた。息が詰まるほどに、二度と離すまいとでも言うように。「怜奈……戻ってきてくれたんだな……会いたかったよ。ずっと……会いたかった」苦しげな吐息が漏れる。「今度こそ離さない。もう二度と、お前を失いたくない……」あずさの身体が強張る。胸の奥を鋭い刃で抉られたようだ。彼女は目を閉じ、静かに息を整えてから、ゆっくりと彼の胸を押し返した。「……人違いよ」その声は驚くほど冷静だった。「私は怜奈じゃない」直哉は数歩よろめきながら後退した。その頃には酒も少し醒めていたらしい。熱を帯びていた瞳から光が消えていく。代わりに浮かんだのは、いつもの冷たさと怒りだった。「その香水……」直哉の声が低く、どこか不快そうな響きを含んでいる。「怜奈が一番好きだった香りだ。二度と使うな」あずさの指先がぴくりと震えた。掌の中へ爪が食い込む。それでも彼女は表情一つ変えず、直哉を見上げ、穏やかな声で言った。「わかった。もう使わない」直哉はそれ以上何も言わなかった。背を向け、そのまま寝室へ向かう。その後ろ姿はどこかよそよそしく、冷酷だった。扉が閉まる音を聞きながら、あずさはその場に立ち尽くす。胸の奥は凍りついたように冷たかった。ふと視線を落とすと、握り締めて
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第3話

重苦しい空気のまま、結婚記念日のディナーは終わった。帰りの車内でも二人の間に会話はない。直哉は無表情のままハンドルを握り、あずさは助手席から流れていく夜景を眺め、虚しい感情だけが胸に満ちていく。その時、鋭いブレーキ音が耳をつんざく。二人が同時に顔を上げると、対向車線から一台の車が制御を失ったまま猛スピードで突っ込んできていた。あずさが状況を理解するより早く、激しい衝突音が響いた。車体が大きく跳ね上がり、視界がぐるりと反転した。頭が車の窓に叩きつけられる。鈍い衝撃とともに視界が真っ暗になり、意識が遠のいた。どのくらい経ったか、耳元で直哉の荒い呼吸音が聞こえる。ぼんやりとした意識の中、あずさはかろうじて目を開く。すると、直哉の腕が自分の前へ伸ばされているのが見えた。――守ってくれたのだろうか。一瞬だけ、そんな考えがよぎる。だが次の瞬間、その期待は無残に砕け散った。直哉が庇っていたのはあずさではなく、助手席の脇に置かれていた天然石のペンダントだった。怜奈が生前、彼に贈ったものだ。事故の衝撃でペンダントには血が付着している。それなのに直哉は、自分の傷など気にも留めず、震える指で血を拭っていた。やがてペンダントの表面に小さな亀裂を見つけると、その瞳に痛みが走る。すぐにスマホを取り出し、どこかへ電話を掛けた。「至急、腕の立つアクセサリー職人を手配しろ。修復してほしいものがある」あずさはぼんやりとその光景を見つめていた。胸の奥から、どうしようもない虚しさが込み上げてくる。彼の妻である自分が血まみれで、身動きもできないほど傷ついているのに、彼は一度もこちらを見ない。容体を確認することもなければ、救急車を呼ぶことさえしない。彼にとって大切なのは、あのペンダントだけ。直哉はふらつく足取りで車を降りる。その背中を見ながら、あずさの意識はゆっくりと沈んでいった。世界が暗闇に飲み込まれる直前、最後に見えたのは――振り返ることなく去っていく直哉の背中だった。……手術室の照明が眩しく目に刺さる。あずさの意識は途切れたり戻ったりを繰り返していた。遠くから慌ただしい声が聞こえる。「ご主人と連絡が取れません!手術同意書にサインする方がいないんです!」「こんな重傷なのに、一度も病院へ来ないなんて…
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第4話

その時、何の前触れもなく、雨が降り出した。大粒の雨が容赦なくあずさの身体を打つ。冷たい雨水は服を瞬く間に濡らし、まだ癒えていない傷口へと染み込んでいった。滲んだ包帯の下で、裂けるような痛みが走る。あずさは唇を噛みながら車椅子の車輪に手を掛けた。とにかくここを離れなければ。だが、車通りの少ない道では、タクシーなど捕まるはずもない。雨で冷え切った指先は思うように動かず、濡れた路面に車輪は何度も滑った。危うく転倒しかけながら、それでも前へ進む。けれど、あるカーブに差しかかった時、車椅子のバランスが崩れてしまい、あずさは地面へ投げ出された。膝がコンクリートに激しくぶつかる。傷口が開き、鮮血が雨水に混じって流れていく。痛みに息が詰まる。それでも何とか起き上がろうと腕に力を込めた。だが衰弱した身体は言うことを聞いてくれず、何度挑戦しても、立てなかった。雨脚はさらに強くなり、視界も滲み始める。頬を伝うのが雨なのか涙なのか、自分でもよく分からなかった。冷たい地面に伏したまま、どうしようもない虚しさだけが胸の奥から込み上げてきた。怜奈に少し似ている後ろ姿を見つけただけで、直哉は自分を置き去りにした。それなのに今までの自分は、いつか彼が振り向いてくれると本気で信じていた。どうしてそんな夢を見られたのだろう。あずさは小さく笑った。自嘲するような笑い声は、いつしか嗚咽に変わり、涙が次々と溢れる。どれほど時間が経ったのか分からない。あずさはようやく身体を起こし、這うようにして車椅子へ戻った。服はびしょ濡れで、傷口はふやけて白くなっている。痛みで感覚さえ麻痺し始めていた。それでもあずさは前を向いた。少しずつ、車椅子を押しながら家を目指す。そして五時間後、あずさはようやく自宅へ辿り着いた。傷だらけで、全身はずぶ濡れ。玄関にいた使用人たちがそんな彼女を見た時、誰もが言葉を失った。けれどあずさは彼らの反応など気にも留めなかった。ただ掠れた声で告げる。「お湯と、替えの包帯を用意して」……夜になってようやく直哉が帰宅した。スーツは乱れ、顔には疲労の色が浮かんでいる。そして、その目には失望が宿っていた。ソファに座っているあずさは、彼を見上げると、静かに尋ねた。「あの女性、見失ったの?」「いや、見
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第5話

あずさの声は静かだった。けれどその言葉は、思いのほか重く直哉の胸に落ちた。一瞬だけ、彼の表情が固まる。だが数秒後には何事もなかったように冷静さを取り戻した。「出て行くって?また旅行にでも行くのか?」その返答に、あずさは思わず苦笑した。彼は一度たりとも、自分が本気で離れていくとは考えたことがない。だから本音を口にしても、旅行の話だと思い込んでしまう。それほどまでに、自分の存在は当たり前になっていた。返事しようとあずさが口を開きかけた時、直哉は話を逸らした。「しばらく旅行は控えてくれ。もうすぐ俺と怜奈が出会って七年になる。その記念にパーティーを開くつもりだ。お前も手伝ってくれ」あずさは言い返す気力もなく、ただ「分かった」と答えただけだった。それから数日間、あずさはパーティーの準備に追われた。会場は豪華に飾り付けられた。怜奈が生前好きだったクチナシの花が至る所に飾られ、無数の照明が幻想的な光を落としている。招待客たちがグラスを交わしながら談笑する中、あずさの耳にも様々な噂話が聞こえてくる。「黒崎社長は本当に一途だな。七年経ってもまだ青木さんを忘れられないなんて。亡くなった人との記念日を祝うのって、やっぱり初恋の相手って特別なんだろうな」「そうよね。それにしても奥さんもすごいよ。聞いた話じゃ、このパーティーは彼女自身で準備したらしい。黒崎社長のことが大好きでしょうね、私なら絶対無理」――大好き。昔はそうだったかもしれない。あずさは胸の中で静かに呟いた。テーブルに並ぶデザートへ手を伸ばそうとした時、ふと視線の先に直哉の姿が映る。彼は怜奈の遺影の前に立ち、丁寧に包装されたプレゼントをそっと置いた。そこへ友人たちが集まってくる。一人が苦笑しながら言った。「なあ直哉。さすがに今回はやり過ぎじゃないか?あずささんがお前をどれだけ想ってるか、俺たちだって見てきた。お前はずっと怜奈さんを忘れられないままだろ。もしあずささんが愛想を尽かして出て行ったらどうするんだ?」その言葉に直哉は笑った。まるであり得ない冗談でも聞いたように。「出て行くって?そんなの、あいつだけはありえない」その声には絶対的な確信があった。あずさの指先がかすかに震え、顔に苦い笑みが浮かぶ。――直哉。今回に限って、あなたは間違っている。私は
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第6話

救急車が到着した頃、直哉はすでに意識を失っていた。ストレッチャーへ運ばれていく彼を見て、看護師があずさに声をかける。「ご家族ですよね?一緒に病院へ行かれますか?」あずさは静かに首を横に振った。「いいえ」その声は驚くほど穏やかだった。もう彼の怪我を心配する気持ちも、後を追いかける気力も残っていなかった。救急車が去った後、あずさは自分の荷物を整理した。そしてそのまま、郊外の別荘へ向かった。……玄関の扉を開けたのは花音だった。その姿を見た瞬間、あずさは思わず息を呑む。白いワンピースに、ゆるく巻かれた長い髪。そして柔らかな眼差し。そこに立っているのは花音のはずなのに、一瞬だけ怜奈が目の前にいるような錯覚を覚えた。「あずささん。私、だいぶ似てきましたよね?」花音は嬉しそうに微笑んだ。その声まで柔らかく、どこか怜奈を思わせる。あずさは小さく頷いた。「ええ。よく頑張ったわ」少し観察してから続ける。「もう一つアドバイスをさせてもらうと……目線と話し方に気をつけることかな」あずさはゆっくり説明する。「怜奈は裕福な家庭で育った娘だった。だから人を見る時に怯えたり遠慮したりしなかったの。あなたも、もっと自信を持つといいわ。それから話し方。怜奈はいつも穏やかで声も小さめだったけど、それは体が弱くて病気がちだったからで……」それから三日間。あずさは別荘に泊まり込み、花音に怜奈のことを教え続けた。怜奈の好き嫌いも、趣味も、あずさが知る限りの情報を、一つ残らず伝えていく。「花音、忘れないで。直哉のそばにいれば、お金も地位も、あなたのほしいものならなんでも手に入るでしょう。でも――彼の愛情だけ欲しがってはだめ。彼の愛情は最初から怜奈ものだから。どれだけ似せても、あなたは怜奈本人にはなれない」花音は素直に頷いた。「分かっています。私はただ安心して暮らしたいだけです。誰かに愛されたいなんて望んでいません」あずさはようやく肩の力を抜いた。「わかっているならいいわ。私がいなくなった後も、その顔があれば直哉はきっとあなたを大切にしてくれる。もう家族に利用されたり傷つけられたりする心配もない」話すべきことをすべて話し終え、あずさが別荘を出ようとした時だった。スマホが鳴る。画面には直哉の名前が表示されていた。彼から電話がかかってくること
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第7話

三日後、あずさは一人で退院した。その日は偶然にも、怜奈の誕生日であり、同時にあずさ自身の誕生日でもあった。予約していたバースデーケーキが届くと、あずさはキッチンに立ち、自分の好きな料理を作った。テーブルに料理を並べ、ケーキにろうそくを立てる。小さな炎が揺れるのを見つめながら、静かにバースデーソングを口ずさんだ。そして目を閉じる。――願わくば、もう二度と直哉と会いませんように。願い事を終えた直後、玄関の扉が開く音がする。直哉が帰ってきたのだ。酒に酔っているらしく、足取りは少しふらついている。テーブルの上に置かれたケーキとろうそくを見た瞬間、顔が険しくなる。彼は大股で歩み寄り、ケーキを床へ叩き落とした。さらにテーブルを乱暴に払いのける。「何度も言っただろう!誕生日を祝うなって!怜奈はもう誕生日を迎えられないんだぞ。それなのに、勝手に自分の誕生日を祝うなんて……俺が苦しむってわかっててやってるのか!」あずさは直哉を見据え、静かに問い返した。「じゃあ聞くけど、怜奈が亡くなったからって、たまたま同じ日に生まれた私も一生誕生日を祝う資格がないの?」直哉は一瞬言葉に詰まった。だがすぐに冷たい表情へ戻る。「少しくらい配慮してやってもいいだろ。怜奈はもうこの世にいないんだから」あずさは呆然とした。そして次の瞬間、小さく笑った。笑いながら、涙が滲む。「分かった。直哉、これから先、あなたの前で誕生日を祝うことは二度とないわ」……それから、あずさの顔をもう見たくないのか、直哉は家にも帰らなくなった。彼の秘書のSNSを見れば、直哉の近況は自然と伝わってくる。相変わらず怜奈に似た女性を探し続けていること。だが決定的に似た相手には出会えていないこと。その情報を確認しながら、あずさは静かに時を待った。そしてついに――全ての準備が整い、花音が直哉のそばに来れる日が来た。あずさもようやく、自由になれる。その日、あずさは一人で役所へ向かった。今後のために、そして、直哉に現実を理解してもらうために、離婚届受理証明書をもらいに行ったのだ。家に帰ると、酔い潰れた直哉がソファで眠っていた。そして眠りながらも、掠れた声で同じ名前を呼び続けている。「怜奈……怜奈……」あずさは彼を一瞥して、静かに離婚届受理証明
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第8話

搭乗案内のアナウンスが流れ、あずさは人の流れに紛れながら搭乗口をくぐった。窓際の席に腰を下ろし、シートベルトを締める。やがて機体はゆっくりと滑走路を走り始めた。窓の外では街並みが少しずつ遠ざかっていく。高層ビルも道路も、やがて小さな模型のようになった。あずさは心の中で呟く。――さようなら、直哉。もう二度と会うことはない。この先、あの家で何が起ころうと、もう自分には関係ない。窓の外を眺めていると、胸の中は信じられないほど軽くなった。……その頃、花音は何度も練習した微笑みを浮かべていた。怜奈らしく、優しくて穏やかに。そして酔い潰れている直哉の隣へ腰を下ろし、そっと指先を彼のこめかみに添える。「直哉。もうお酒はやめて。飲みすぎると頭が痛くなるでしょ」聞き慣れたはずなのに、どこか懐かしい声。直哉の身体が硬直し、手にしていた酒瓶がゆっくりと滑り落ちる。ガシャン――床に落ちた瓶が砕け散り、鋭い音でようやく意識が覚醒した。鼓動が激しく鳴り響き、頭の中も真っ白になる。驚きなのか、喜びなのか。自分でもよく分からない。ただ目の前の女性から目を離せなかった。「怜奈……?怜奈なのか?本当に帰ってきてくれたんだな……?会いたかったよ。この七年間、一日だって忘れたことなんてなかった……」次の瞬間、彼は花音を強く抱き締めた。彼女を二度と離さないというように、腕に力をこめる。震える声で言葉を紡ぎながら、直哉は花音の肩口に額を押し当てる。やがて数滴の涙が頬を伝い落ち、花音の首筋を濡らした。その冷たさに、彼女は思わず身体を震わせる。胸の奥には吐き気にも似た嫌悪感が込み上げていた。それでも長い訓練で身についた反射のように、彼女は直哉のシャツを掴み、優しく背中を撫でる。「うん、私は生き返ったの。あなたに会いたくて、もう一度あなたのそばにいたいと思って、頑張って戻ってきたのよ」直哉は一度だけ身体を離し、真剣な眼差しで彼女を見つめた。花音の胸が大きく跳ねる。見破られてしまう――そう思った次の瞬間、直哉は再び彼女を抱き締めた。「本当に怜奈だ……俺、夢を見てるわけじゃないよな?怜奈、戻るのにたくさん苦労したんだろう?でももう大丈夫。これからは俺がいる。二度とお前に苦しい思いをさせない」彼は花音の両手を包み込
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第9話

花音が人生で初めてブランコを目にしたのは、まだ子供の時だった。公園で父親が弟――赤羽正樹(あかばね まさき)を遊ばせているのを、少し離れた場所から見ていた。弟が飽きてブランコを降りたとき、花音は恐る恐る近づき、一度だけ乗ってみようとした。だが次の瞬間、父親に思い切り蹴り飛ばされる。「正樹が遊ばなくなったからって、お前が勝手に乗っていいわけがないだろ!」地面に叩きつけられた花音の額からは血が流れていた。そんな彼女を見ながら、正樹は楽しそうに笑っていた。石を拾っては投げつけ、手を叩いてはしゃぐ。「召使いは主にひれ伏すべきだ!」それはテレビで覚えた言葉だった。けれど花音にとって、その言葉は冗談ではなかった。家の中での彼女の扱いは、「召使い」と何も変わらないからだ。都会へ連れて来られたのも、自分のためではない。ただ弟の世話をさせるためだった。だからブランコに乗るたび、あの日の光景が鮮明によみがえる。花音は誰よりも理解していた。今、自分が手にしている幸福は、本来すべて怜奈のものなのだと。だからこそ彼女は歯を食いしばり、仮面を被り続けた。直哉はそんな彼女の内心に気づくことなく、楽しそうにブランコを押し続ける。どれほど時間が経っただろうか。花音が本当に遊ぶ気がないと分かって、ようやく直哉は手を止めた。その後も彼は彼女の手を引き、家の隅々まで案内して回る。最後に辿り着いたのは寝室だった。扉を開きながら、直哉が優しく微笑む。「怜奈、疲れただろう?少し休もう」そう言うと彼は花音を引き寄せ、そのまま口づけようとした。彼女の身体から漂うクチナシの香りに酔わされたように、その眼差しには抑えきれない熱が宿る。首筋へ唇を寄せながら、壊れ物を扱うような手つきで彼女を抱きかかえ、ベッドへ横たえた。だが、その先へ進もうとした瞬間――花音はそっと顔を逸らし、細い指先を彼の胸元へ添えた。「ごめんなさい……戻ってきたばかりで、まだ身体も万全じゃないの。今日はやめておかない?まだ……心の準備ができていなくて」花音は顔を赤らめ、シーツを握る指先にもわずかに力をこめる。怜奈らしい恥じらいを演じながらも、花音の胸の奥には別の感情が渦巻いていた。鼻先には、今もあずさの淡い香りが残っている気がする。まるで彼女がまだ近くにいてくれるようで。花
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第10話

直哉はベランダへ出ると、あずさに電話をかけた。彼女に協力してもらい、形だけの離婚をしてもらうつもりだ。だが何度発信しても、返ってくるのは無機質なアナウンスだけだった。「おかけになった電話の電源が入っていないか、電波の届かない場所にあります……」それを聞くたびに、胸の奥の不安は大きくなっていく。直哉は眉をひそめ、慌ててあずさへメッセージを送った。しかしいくら待っても、既読がつかない。いつもなら、すぐ返事が帰ってくるはずなのに。「あずさ……いったい何をしてるんだ?こんな時にまた拗ねてるのか?」苛立ちと焦燥を押し殺しながら、直哉はすぐに秘書の東山圭介(ひがしやま けいすけ)へ電話をかけた。「あずさに連絡を取ってくれ。今すぐ俺に折り返せって伝えろ」命令を受けた圭介は、あらゆる伝手を使ってあずさに電話をかけ、メッセージも送ったが、やはり返事はなかった。「社長……あずさ様とは連絡が取れません。行方を調べましょうか?」「必要ない!放っておけ!」直哉は怒気を含んだ声で言い放ち、そのまま電話を切った。――ヘソを曲げて自分を避けているのなら、もう二度と姿を見せるな。そう腹の中で吐き捨てながらリビングへ戻った彼は、床に散らばった酒瓶の破片を片付けようとして、ふとテーブルの上に置かれた一枚の書類を見つけた。「……離婚届受理証明書?」直哉の身体が硬直する。まるで雷に打たれたようだった。「どういうことだ……?俺はいつ、あずさと離婚した?」震える手で書類を持ち上げ、内容を確認する。そこには確かに自分の名前と役所の公印があった。今日あずさに連絡を取ろうとしたのは、形だけでもいいから、離婚してほしいと伝えるためだ。思わぬ形ではあったが、目的がすんなり果たされた。なのに、胸の奥には説明のつかない重苦しさが広がっていく。「あずさは俺を愛しているのに……急に離婚だなんて……きっと冗談だよな?」「あずさはもう自分を愛していない」という結論だけは認めたくなかった。頭の中は混乱しきっていて、背後から呼びかける花音の声さえ耳に入らない。彼は再びベランダへ飛び出し、圭介へ電話をかけた。「俺とあずさの離婚が事実かどうか、今すぐ役所に行って確認してくれ」「えっ……?」電話の向こうで圭介が息を呑む。「社長とあずさ様が……離婚されたんで
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