結婚して五年――黒崎あずさ(くろさき あずさ)は、ようやく離婚を決意した。その日、あずさは書類を届けるために夫の黒崎直哉(くろさき なおや)の執務室へ向かった秘書に声をかけ、「ついでだから」と言って書類一式を受け取った。そして、その束の中にもう一通の書類をそっと紛れ込ませる。それは、他ではない離婚届だ。付箋で要所要所が隠され、一目ではそれだと分からないよう、あずさがあらかじめ準備したもの。執務室に入ると、机の向こうで直哉はまだ二日酔いが抜けきっていない様子だった。額を押さえながら書類を受け取り、内容もろくに確認しないまま次々とサインを入れていく。――その離婚届も含めて。最後の一筆が記された瞬間、あずさの視線はその紙から離れなくなった。全部、終わるんだ。そう思いながら書類を回収しようとしたときだった。不意に腕が机の端に触れた。カタン、と小さな音を立ててフォトフレームが倒れ、床に落ちる。ガラスが砕け散った。写真の中で微笑む少女の顔を、飛び散った破片が半分ほど覆い隠す。少女の名前は青木怜奈(あおき れいな)。直哉が今も忘れられない、最愛の人だった。「お前……何をしてるんだ!」鋭い怒声が部屋に響いた。つい先ほどまで酒の残っていたはずの直哉の目が、一瞬で覚める。彼は勢いよく立ち上がると、あずさを乱暴に突き飛ばした。よろめいたあずさは床へ手をつく。その瞬間、砕けたガラスの破片が掌に深く食い込み、鋭い痛みが走った。彼女は唇を噛みしめ、悲鳴は飲み込んだが、込み上げた涙までは止められなかった。手を見ると、ぽたりと血が指先を伝い、床に散らばった書類を赤く染めていく。それでも直哉は、あずさを一度も見なかった。彼の視線はただあの写真だけに向けられている。床に膝をつき、写真を拾い上げると、ガラスの破片を丁寧に払い落としていく。傷一つ付けまいとするその手つきは、驚くほど優しかった。まるで世界で何よりも大切な宝物を扱うように。その光景を見た瞬間、あずさの心は完全に冷え切った。言葉にできない悲しさが込み上げてくる。結婚して五年も経ったのに、自分という生身の人間は、一枚の写真にも敵わないなんて。「まだいたのか?」写真を確認し終えた直哉が顔を上げる。その目は氷のように冷たかった。「今後、俺の許可がな
Read more