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第2話

Author: みずちゃん
別荘を後にしたあずさは、今まで自分が「家」だと呼んでいた場所へ戻った。

玄関を開けても、迎えるのは静寂だけ。リビングを通り過ぎ、そのまま自分の部屋へ向かう。パソコンを立ち上げると、一ヶ月後海外行きの航空券を予約した。

花音のレッスンが終わり、怜奈になりきってくれれば、自分はここから出られる。広い世界へ飛び出し、自分の人生を取り戻せるのだ。

きっとこれからは、自分らしく生きられる。そしていつか、本当に自分を愛してくれる人にも出会えるだろう。

そして直哉は――自分の人生から消えるのだ。

その夜、直哉は泥酔した状態で帰宅した。

玄関の扉が乱暴に開かれる。

直哉のネクタイは緩み、ジャケットは腕に引っ掛けられたまま。足取りも覚束ない。

けれど、あずさに近づいた瞬間、ぼんやりとしていた彼の目に、突然光がよぎった。

深く息を吸うと、何か懐かしい匂いをたどるように、その瞳が熱を帯びていく。

「……怜奈」

震える声に込められた想いは重く、痛々しいほどだった。

次の瞬間、直哉はあずさを強く抱き寄せた。息が詰まるほどに、二度と離すまいとでも言うように。

「怜奈……戻ってきてくれたんだな……会いたかったよ。ずっと……会いたかった」

苦しげな吐息が漏れる。

「今度こそ離さない。もう二度と、お前を失いたくない……」

あずさの身体が強張る。胸の奥を鋭い刃で抉られたようだ。

彼女は目を閉じ、静かに息を整えてから、ゆっくりと彼の胸を押し返した。

「……人違いよ」その声は驚くほど冷静だった。「私は怜奈じゃない」

直哉は数歩よろめきながら後退した。その頃には酒も少し醒めていたらしい。

熱を帯びていた瞳から光が消えていく。代わりに浮かんだのは、いつもの冷たさと怒りだった。

「その香水……」直哉の声が低く、どこか不快そうな響きを含んでいる。「怜奈が一番好きだった香りだ。二度と使うな」

あずさの指先がぴくりと震えた。掌の中へ爪が食い込む。

それでも彼女は表情一つ変えず、直哉を見上げ、穏やかな声で言った。「わかった。もう使わない」

直哉はそれ以上何も言わなかった。背を向け、そのまま寝室へ向かう。その後ろ姿はどこかよそよそしく、冷酷だった。

扉が閉まる音を聞きながら、あずさはその場に立ち尽くす。胸の奥は凍りついたように冷たかった。

ふと視線を落とすと、握り締めていた掌には、深く食い込んだ爪の跡が赤く残っていた。

……

翌日は二人の結婚記念日だった。

これまでの直哉は、記念日など気に留めることがなかった。だからこそ、「今夜、食事に行くぞ」と言われた時、あずさは一瞬耳を疑った。

しかも予約されていたのは、夜景の見える高級レストランだった。

柔らかな照明。静かに流れる音楽。

誰が見ても理想的な記念日のディナーだが、向かい側に座る直哉の表情は淡々としていて、どこか義務を果たしているだけのように見えた。

彼はメニューを開くと、ほとんど考えることなく料理を注文していく。

その内容を聞いた瞬間、あずさの胸が静かに沈んだ。

すべて、怜奈が好きだった料理だ。

注文を終え、店員が立ち去ろうとした時、あずさが声を掛ける。

「すみません」

向かい側で直哉が顔を上げ、わずかに眉が寄った。

「私、今の料理は全部好きじゃないので、注文し直してもいいですか?」

穏やかな口調だったが、その言葉に迷いはなかった。

直哉は意外そうに目を細める。彼はメニューを閉じ、あずさを見据える。

「好きじゃない?今までは喜んで食べていただろう」

あずさは静かに彼を見返した。「ええ、今まではそうだった。けどもう違う。あなたが注文した料理、全部怜奈が好きだったものでしょ?私は好きじゃないし、これからも好きにはなれないわ」

直哉の眉間に深い皺が刻まれた。あずさの反応が予想に反し、視線に苛立ちが混じる。

「いきなりどうした?こんなことをして、俺の注意を引くつもりか?結婚する時に話したはずだ。俺の心には怜奈しかいないと。それでも構わないと言ったのはお前だろう?今さらこんな話をしてどうするんだ?まさか、死んだ人間に嫉妬しているのか?」

あずさは答えなかった。ただ静かにワイングラスを揺らす。

直哉の容赦のない言葉を浴びても、不思議と動揺しなかった。以前なら傷ついていたかもしれない、けれど今は違う。

今までの彼女は、直哉と少しでも同じ時間を過ごしたくて、苦手な料理も無理に口へ運んだ。時には体質に合わず、アレルギー症状が出るものさえ我慢して食べていた。

――でも、その我慢はもう終わりだ。これ以上、自分を偽るつもりはない。

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