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第3話

Author: 橘州一
昭弘がこれほど強く出るとは、誰も思っていなかった。リビングの空気がしんと静まり返る。

だが静河は、今この瞬間も自分を守ろうとする夫を見ながら、何の感慨も湧かなかった。

息子の本気に押され、母親の榎木喜久美(えのき きくみ)がついに折れた。

「……分かったわ。とりあえず食事にしましょう」

食卓では、器の音と、喜久美が時おり漏らす冷ややかなため息だけが響いていた。

静河は箸を持つ手を強張らせた。これが説教の前触れだと知っていたからだ。

案の定、喜久美が箸を置いた。

「他のことは言わないわ。でも、跡取りくらいは産んでもらわないと。嫁いで五年、いっこうに吉報がないなんて、どこを探してもそんなお嫁さんはいない。榎木家の血を絶やすつもり?」

昭弘もすぐに箸を置く。

「前にも言ったはずです。静河は痛みに弱いんだ。あんな苦しみを味わわせるくらいなら、俺は生涯子どもなど持たなくていい」

両親はそれを聞いて、食欲を失くしたような顔をした。

また言い争いになりかけたその瞬間、静河が口を開いた。

「あと半月もすれば……お孫さんのことで、いい報告ができると思います」

全員の視線が静河に集まる。

「静河?」昭弘が手を掴んだ。「子どもは作らないと決めてたじゃないか。無理しなくていい」

静河は彼の真剣な顔を見て、微かに唇の端を上げた。

孫の話と言っただけで、自分が産むとは言っていない。

半月後、自分は国を出ている。昭弘があれほど純子に執着して夜な夜な体を重ねているのなら、彼女に産ませればいい。それが一番自然な結末だった。

「お義父様たちのご希望ですから。叶えてあげるべきだと思って」

あまりに素直な言葉に、昭弘の胸がざわめいた。素直すぎて、おかしい。

一方、義父母の顔は怒りから満面の笑みへと変わった。

「そうよ、最初からそう言ってくれればいいのよ」

昭弘がまだ何か言おうとしたとき、部下が入ってきて彼の耳元で短く囁いた。

昭弘の表情が凍りつく。

その内容は、すぐ隣にいた静河の耳にもはっきりと届いていた。

朝から純子を尾行させていた部下からの報告――純子がお見合い目的のパーティで、見知らぬ男と親しげにチークダンスを踊っているという。

聞いた瞬間、昭弘は堪えきれないように立ち上がった。

「すまない静河、急ぎのトラブルが起きた。ここでゆっくり食べて待っていてくれ。片づいたらすぐ迎えに来る」

返事も待たず、上着も持たないまま、昭弘は嵐のように出ていった。

彼が消えると同時に、義父母たちの遠慮はなくなった。冷ややかな言葉の矢を、静河へ次々と放ってきた。

「あんたねえ、嫁いで何年目だと思ってるの。子宝ひとつ宿せないで恥ずかしくないの?親も財産もない孤児のくせに。

昭弘に拾ってもらえなければ榎木の嫁になんてなれなかったでしょう。こっちがどれだけ損したか」

「おい、なに涙ぐんでいるんだ。あとで昭弘に告げ口する気か?嫁はみんな叱られて一人前になるんだよ。あいつに余計な気苦労をかけないでくれ!」

午前から午後にかけての五時間、静河はひたすらその言葉を浴び続けた。

夜になってようやく、昭弘が迎えに来た。

帰路の車内は静まり返っていた。しばらくして、静河が口を開く。

「お仕事の用事は済んだの?」

昭弘は一瞬驚いたような顔をし、それから穏やかに答えた。

「ああ、全部終わったよ」

そう言いながら、ハンドルに置いた人差し指が、無意識に「とんとん」と縁を叩いた。機嫌がいいときにやる、昔からの癖だった。

静河の沈黙に気づいたのか、昭弘が少し遅れて尋ねる。

「俺が出たあと、母さんたちに何か言われたかい?」

静河が答えようとして、ふと足元に目が落ちた。

破れたドット柄のストッキングが一足、マットに転がっていた。

純子に会いに行ったとは思っていた。でも、まさかこの車の中で――

結婚して五年、夜の営みのことでは静河はずっと奥手だった。彼を退屈させていないか不安で、赤くなって尋ねたこともある。昭弘は笑って抱きしめ、何度もキスして言ってくれた。

「静河、俺は君にしか欲情しない。ボロ切れを着ていたって胸が高鳴る。嫌なことを無理にしなくていい。愛している相手なら、ありのままで十分心が動くんだ」

そんな言葉をくれた人が、陰でこれほど獣のように乱れていた。

静河の目が赤く染まる。

「……見れば分かるでしょ?」

昭弘は純子の件がばれたとは知らず、本家でいじめられて泣いているのだと思い込んだ。

慌てて車を止め、静河をきつく抱きしめて宥める。

「すまない、俺が悪かった。君をあんな所に置いていくべきじゃなかった。もう二度と、こんな思いはさせないから」

強く抱かれながら、静河は窒息しそうなほどの息苦しさしか感じなかった。

涙をこらえ、そっと彼を押し返す。

「……いいから、運転して」

どうせ、ふたりに「これから」はないのだから。

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