《愛は難く、別れは易し》全部章節:第 1 章 - 第 10 章

25 章節

第1話

西京市、パスポート申請窓口の前で、係官は目の前の静河をどこか気まずそうに見つめていた。「榎木静河(えのき しずか)様、本当に海外へ移住するつもりですか。ご主人の榎木昭弘(えのき あきひろ)様は、まだ渡航の許可が下りていないと伺っております。ここにご署名、ご捺印なさいますと……当分、お会いになるのは難しくなるかもしれません」静河に迷いはなかった。印鑑を手に取り、申請書に静かに判を押した。――一生、会わなくていい。それでいい。それ以上は何も言えず、係官は書類を受け取った。「では、手続きには二週間ほどかかります。今しばらくお待ちください」静河は小さく頷き、窓口を離れた。出口へ向かう背中に、職員たちの低い囁きが追いかけてくる。「榎木様とご主人、何かあったのかしら……でも、ここまでなさらなくてもねえ。あのご夫妻、西京市内でも評判のおしどり夫婦だったのに」「そうよ、うちの主人も昭弘さんの部下でね、いつも話を聞かされるんだけど……もう本当に奥さんを溺愛していてね。静河さんのお肌が繊細だからって毎日牛乳を大量に取り寄せてお風呂に入れてあげたり、静かな環境が好きだからってわざわざ郊外に豪華な一軒家を建てたり。前に静河さんが街へ出たきり、ほんの一時間ほど居場所が分からなくなっただけで、新聞に尋ね人広告まで出したっていうんだから。それなのに黙って国を出ようとしているなんて……昭弘さん、平気でいられるはずがないわ」周囲の噂話を耳にしながら、静河はかすかに口の端を上げた。瞳に浮かぶ自嘲の色は、じわじわと濃くなるばかりだった。そうだ。昭弘がどれほど静河を愛していたか――それは誰もが知っていた。当時の静河は、舞踊団でもひときわ目を引く花形だった。一方の昭弘は、市内でも名の通った旧家の御曹司。冷淡で近寄りがたく、三歩以内に女を近づけない男だと、周囲ではまことしやかに囁かれていた。その昭弘が変わったのは、あの夜会の晩だった。静河に一目惚れした昭弘は、狂ったように彼女にアプローチしていた。宝石やドレスを惜しげもなく贈り、三日三晩、夜空を染め尽くす花火を打ち上げた。ある日、静河がふと「昔よく食べた栗のお菓子、もう生産終了だけど食べたいな」と呟けば、猛吹雪の真夜中に車を走らせ、いくつもの街を渡り歩いて探し出し、全身ずぶ濡れのまま、まだ温か
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第2話

朝、静河は騒がしい声で目を覚ました。窓を押し開けると、屋敷の外で、疲れ果てた顔の女性が夫らしき男の胸ぐらを掴み、喉を張り裂けんばかりに叫んでいた。「十年以上、この家のために身を粉にして尽くしてきたのに!結婚するとき、永遠に愛すると言ったじゃない。それがどうして、何年も経たないうちに他の女と……!」周囲の住人たちが事情を察してひそひそし始める。男は体裁を気にして顔を歪めると、女の腕を掴んで家の中へ引きずり込んだ。「恥ずかしい真似はもういい。中へ入れ」呆然と見下ろしていた静河の耳を、後ろから温かい手がそっと包んだ。「ああいうものは聞かなくていい」静河は振り返らず、ただ静かに尋ねた。「ねえ。人の心って、いつかは変わってしまうものなの?」背後の体がわずかに強張った。昭弘は静河を自分の方へ向かせ、真剣な瞳で言った。「他の奴らのことは知らない。でも、俺は変わらない。静河、俺はこれからの人生、君だけを愛する」「これからの人生、ずっと私だけ?でも一生って、長いよ」昭弘はそっと彼女を抱き寄せ、耳元に温かな吐息を落とした。「一生が長くても、欲しいのは君だけだ」静河はようやく笑った。だがその笑みの奥には、かすかな苦味が混じっている。「もしもの話だけど……もし、裏切ったら?」「もし裏切ったなら、天罰が下ればいい。惨めな死に方をしてもかまわない」すべての真実を知った上で聞くその言葉に、胸に鋭い痛みが走った。「そんな恐ろしい誓いを立てて、本当に怖くないの?」昭弘は低く笑う。「怖くないさ。俺が君をどれほど愛しているか、誰よりも俺自身が知っているから。信じられないなら、胸を切り開いて心臓を見せてやる。それでも駄目なら、命ごと君にやる」――命をやるって?それなのに、どうして下半身すら律することができなかったのか。別の女と交わった匂いを体に残したまま、甘い言葉だけが口から零れ落ちてくる。「あれ?二人は何してるの?」不意に入り口から声が響き、静寂が破られた。瞬間、昭弘の体がわずかに固まる。彼は眉をひそめた。「……そんな格好で、どこへ行くんだ」それは妻の従妹に向ける気遣いとは違うトーンだった。着飾って出かけようとする妻を案じるような、どこか拗ねた響きがある。その声の色に気づいた純子は、艶やかに微笑ん
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第3話

昭弘がこれほど強く出るとは、誰も思っていなかった。リビングの空気がしんと静まり返る。だが静河は、今この瞬間も自分を守ろうとする夫を見ながら、何の感慨も湧かなかった。息子の本気に押され、母親の榎木喜久美(えのき きくみ)がついに折れた。「……分かったわ。とりあえず食事にしましょう」食卓では、器の音と、喜久美が時おり漏らす冷ややかなため息だけが響いていた。静河は箸を持つ手を強張らせた。これが説教の前触れだと知っていたからだ。案の定、喜久美が箸を置いた。「他のことは言わないわ。でも、跡取りくらいは産んでもらわないと。嫁いで五年、いっこうに吉報がないなんて、どこを探してもそんなお嫁さんはいない。榎木家の血を絶やすつもり?」昭弘もすぐに箸を置く。「前にも言ったはずです。静河は痛みに弱いんだ。あんな苦しみを味わわせるくらいなら、俺は生涯子どもなど持たなくていい」両親はそれを聞いて、食欲を失くしたような顔をした。また言い争いになりかけたその瞬間、静河が口を開いた。「あと半月もすれば……お孫さんのことで、いい報告ができると思います」全員の視線が静河に集まる。「静河?」昭弘が手を掴んだ。「子どもは作らないと決めてたじゃないか。無理しなくていい」静河は彼の真剣な顔を見て、微かに唇の端を上げた。孫の話と言っただけで、自分が産むとは言っていない。半月後、自分は国を出ている。昭弘があれほど純子に執着して夜な夜な体を重ねているのなら、彼女に産ませればいい。それが一番自然な結末だった。「お義父様たちのご希望ですから。叶えてあげるべきだと思って」あまりに素直な言葉に、昭弘の胸がざわめいた。素直すぎて、おかしい。一方、義父母の顔は怒りから満面の笑みへと変わった。「そうよ、最初からそう言ってくれればいいのよ」昭弘がまだ何か言おうとしたとき、部下が入ってきて彼の耳元で短く囁いた。昭弘の表情が凍りつく。その内容は、すぐ隣にいた静河の耳にもはっきりと届いていた。朝から純子を尾行させていた部下からの報告――純子がお見合い目的のパーティで、見知らぬ男と親しげにチークダンスを踊っているという。聞いた瞬間、昭弘は堪えきれないように立ち上がった。「すまない静河、急ぎのトラブルが起きた。ここでゆっくり食べて待って
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第4話

家に戻ると、昭弘は車を駐車場へ回しに行き、静河が先に玄関のドアを開けた。扉を開けると同時に、ネグリジェ姿の純子がソファにもたれ、お菓子を頬張りながら雑誌を眺めている光景が目に飛び込んできた。静河は足を止め、わざとらしく言った。「今日は交流会があって帰らないと言っていなかったかしら?」純子は口元を妖艶に綻ばせ、恥じらうふりをして言った。「ごめんね、言い忘れたの。実は彼氏と喧嘩して、腹いせに交流会に行くって言ったんだけど、そのとき彼に話したら平気そうにしていたのに、私がパーティに着いたら、すぐ彼も現れて、私を連れ戻してしまったのよ」そう言いながら、純子はわざとらしく襟元を引き下げ、首筋にびっしりと散った艶めかしいキスマークを見せつけた。挑むような瞳が静河を射抜く。「まさか、あんなに嫉妬深い人だとは思わなかった。車の中で三度も……」静河は爪が食い込むほど拳を握り締めた。痛みが全身に広がっていく。深く息を吸い、落ち着いた声で尋ねた。「彼氏なんていたのね。一度も聞いたことがなかったけれど」純子は顔を上げ、気のない様子で笑った。「三ヶ月前からよ」三ヶ月前。純子がここに引っ越してきて、わずか三ヶ月。つまり、この家に来た初日からだ!静河の呼吸が浅くなり始めた。何か言おうとした瞬間、背後から大きな手が静河の肩をそっと抱いた。戻ってきた昭弘が、穏やかな声で言った。「静河、今日は一日疲れただろう。風呂を沸かしてくるから、ゆっくり温まって早く休んで」そのまま浴室へ押し込まれた。服を脱ごうとして、着替えを忘れたことに気がついた。扉を開けた瞬間、目に飛び込んできた光景に全身が凍りついた。リビングのソファで、昭弘が純子のネグリジェを荒々しく引き剥がし、押し倒していた。大きな手が細い腰を抱き込み、鎖骨から下へと唇を這わせていく。純子は彼の肩にすがり、仰け反りながらか細い声を漏らした。「ん……もう少し優しくして……お姉ちゃん、まだお風呂に入っているのよ?昼間の車の中じゃ足りなかったの?」昭弘は応えるように、純子を抱く腕にさらに力を込めた。純子の喘ぎに泣き声が混じり始める。「黙れ。よそに男を作ろうなどとしてみろ、どうなるか分かっているな」純子の唇の端がかすかに上がった。そして何かに気づいたように視線を上
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第5話

静河が振り返ると、昭弘が青ざめた顔で立っていた。彼は駆け寄って静河の手を掴んだ。「静河、誰が海外へ移住するんだ!」静河は心臓が跳ねるのをこらえ、愛子を指さした。「愛子が。発つ前に食事をしたいって」愛子は驚いて静河を見たが、夫婦の間に口を挟むわけにもいかず、引きつった笑みを浮かべて頷き、そそくさと去っていった。静河の表情があまりに平静だったせいか、昭弘は嘘だとは考えもしなかったようだった。それでも、彼女をぎゅっと抱きしめる。「君のことかと思った。心臓が止まるかと思ったぞ」静河はかすかに口の端を上げた。「移住くらいで、そんなに大げさな」昭弘はまだ動揺が収まらない様子で言った。「静河、うちの事情は知っているだろう。榎木家は三代にわたって、防衛関係の中枢に身を置いてきた家だ。海外へ出るには、厳しい許可が要る」少し間を置いて、念を押すように続けた。「もし俺が何か悪いことをしたなら、叩いてもいい、罵ってもいい、いっそ殺してもいい。でも移住だけはしないでくれ。そうされたら、永遠に探せなくなる。それは殺されるより辛い」昭弘の腕の中で、静河はただ微笑んだ。「わかったわ」何かを感じ取ったのか、その後数日、昭弘は静河を片時も離さなかった。旧友が新しくレストランを開いたと誘いが来ても、静河を連れていくと言い張った。気取られたくなかった静河は、仕方なく同行した。店に入ると、昭弘の友人たちが一斉に出迎えた。「今日はゆっくりしていってください。邪魔は入りません」「静河さんが静かな場所を好きなのはみんな知ってるから、今日は貸し切りにしたんですよ」「さあさあ、こちらへどうぞ。デザートも切ってあります。料理もすぐ来ますから、おすすめを全部出しますね」昭弘は苦笑しながら言った。「お前たち、いつからそんなに気が利く奴らだったか?」「静河さんが昭弘さんの宝だって、知らない人はいませんよ。静河さんに気に入ってもらえなかったら、こいつと付き合いが続けられないじゃないですか」「そうそう、昭弘は結婚してから友達のことなんか眼中にないんだから、静河さんを味方につけるしかない」笑い声が広がり、場が和む。そのとき、小柄な影が店に入ってきた。純子だった。マネージャーが慌てて前に出た。「申し訳ございません、本日
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第6話

静河の足はすくみ、地面に縫いつけられたように動けなくなった。中の声はまだ続いている。「昭弘さんと嫁さんの従妹、まだ終わってないのか?もう五時間近くになるだろ」「急かすなよ。昭弘さんがあれだけ激しくて、純子もああいう子なんだから、一日じゃ終わらないって」「しかしあの二人も大胆だよな。隣の個室でそのまま情事に耽りやがって、途中で声まで聞こえてきたのに。俺が機転を利かせて音楽のボリュームを上げたから姉さんに気づかれなかったけど、あのときはさすがに焦ったよ」「何を焦ることがある。俺みたいに何度も経験すれば慣れるって。昭弘さんの周りに、ようやく遊び相手になる女が現れたんだから、親友として手助けしてやらないと。いい思いをしてもらおうじゃないか」「静河さんは確かに綺麗だけど、保守的すぎる。あの澄ました様子じゃ、ベッドの上じゃ、どうせマグロだろうな。男はやっぱり刺激的な女が好きなんだよ」それ以上の言葉は、耳に入ってこなかった。頭の中がぐわんと鳴った。静河はふらふらと、外へ向かって歩き始めた。――みんな知っていたのだ。自分一人だけに隠していた。表向きは親切にしながら、陰では昭弘の隠れ蓑になり、こうして堂々と自分を笑いものにしていた。心臓が、見えない手に引き裂かれるようだった。手足の先まで、耐えられないほどの痛みが走る。外は大雨だった。静河はそれにも気づかないまま、魂が抜けたように一歩一歩、歩き続けた。ひとりで雨の中を帰宅し、部屋に籠もって鍵をかけた。その夜から、静河は高熱を出した。昭弘が気づいたのは、翌日帰宅したときだった。静河はすでに意識が朦朧とし、人の顔もまともに見分けられない状態だった。昭弘は半狂乱になって彼女を抱え上げ、病院へ走った。幸い軽いインフルで、一昼夜の点滴で意識は戻った。だが昭弘の動揺は収まらなかった。病院の一フロアを丸ごと貸し切り、仕事も放り出して、静河の傍を一歩も離れようとしなかった。そんな日々が続いたある日、部下が扉を叩いた。重鎮が面会を求めており、どうしても昭弘に会いたいと言っているという。昭弘は眉をひそめて断ろうとしたが、部下の耳打ちを聞いて表情が変わった。しばらく迷ってから、静河の手をそっと放す。「静河、俺……」言い終わる前に、静河は目を閉じて静かに遮った。
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第7話

退院した日は、ちょうど静河の誕生日だった。二つの慶事が重なったこの佳き日に、昭弘は惜しみなく私財を投じ、市内で最も豪華なホテルを貸し切って祝宴を開いた。そのあまりの華やかさに、集まった招待客は感嘆の声を漏らした。昭弘の友人たちも、それぞれに趣向を凝らしたプレゼントを持参していた。だが、静河にとっては何もかもが空虚だった。あの夜の出来事があって以来、彼の友人たちに対する信頼はひとかけらも残っていない。友人たちは特に気にする様子もなく、大病のあとでまだ体力が戻っていないのだろうと勝手に解釈していた。やがてケーキにナイフが入れられ、願いごとをする時間がやってくる。昭弘は背後から静河をそっと抱き締め、彼女の手に自身の手を重ねてナイフを下ろした。「静河、今日は君の誕生日だ。何か願いごとはあるか?」以前の静河なら、静かに首を横に振っていただろう。彼に愛されてさえいれば、それだけで十分だったからだ。けれど今は、ひとつだけ強く願っていることがある。彼から離れ、二度と会わないこと。静河は、自分を深い愛情を湛えて見つめる昭弘の瞳を見上げた。「……何を願っても、叶えてくれる?」昭弘は一瞬驚いたように瞬きし、それからいっそう甘く微笑んだ。「もちろんだとも」静河は笑った。ただし、その瞳には何も映っていない。「それなら、三つお願いがあるわ」昭弘は幼子をあやすように言った。「言ってごらん。何でも叶えてやるよ」「最初の願いは、先代がA国大使から受け取った親書が欲しいの」その言葉に、ホールにいた全員が息を呑んだ。それは榎木家にとって、ただの古い書状ではなかった。かつて先代当主がA国大使に大きな恩を売り、その返礼として受け取った、本人の署名入りの親書である。封は切られていない。宛名は、今もその国の外交筋に名を残す一族へ向けられていた。それを携えて大使館を訪ねれば、通常の査証窓口ではなく、領事部の上層部へ直接取り次いでもらえる。申請が必ず認められるわけではない。だが、静河が昭弘の手の届かない場所へ行くには、それだけで十分だった。だからこそ榎木家は代々、それを最重要の家宝として秘蔵してきた。かつて名のある有力者が借用を願い出た時でさえ、先代は即座に退けたという。誰もが思った。昭弘といえども、これだけは渡すはずがない。
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第8話

その夜、ひとりで家に戻った静河のもとに、病院にいる昭弘から電話が入った。「静河、すまない。純子の容体が思わしくなくて、もう少し入院が必要みたいなんだ。君の従妹だからな、余計な心配をかけたくない。この数日は、代わりに俺がつきっきりで看病しようと思う。家でゆっくり休んでいてくれ」静河は、ひどく平坦な声で返した。「構わないよ。ゆっくり、そばにいてあげて」昭弘。これからの人生は、ずっと彼女のそばにいればいい。離れるまで、あと三日。純子から、録画されたビデオテープが届いた。再生すると、映像が流れ始めた。同じ誕生日の会場で、純子がお姫様のようなドレスを身に纏い、ティアラを載せて、山積みのプレゼントの中心に立っている。昭弘が背後からしっかりと腕を回し、彼女の耳元に唇を寄せていた。「誕生日おめでとう。何か願いごとはあるか?」純子は顎を上げて、甘えきった声で言う。「静河お姉ちゃんと同じにして!私がなにを願っても、ぜんぶ叶えるって約束して!」昭弘は快活に笑い、純子の鼻先を軽くつついた。「分かった。お前の望み通り、全部叶えてやる」次の瞬間、ふたりは貪るように唇を重ねた。静河は、それを最後まで見なかった。ビデオテープを止めて、外へ出る。バッグの底には、もう一枚の紙が入っていた。昭弘の署名と判が入った離婚届。昭弘は普段から、静河が差し出す書類にはほとんど目を通さなかった。彼女を疑うという発想そのものがなかったからだ。その日も、家の諸手続きに必要だと言って差し出された書類の束に、彼はろくに目を通さず署名し、判を押した。その中に一枚だけ、離婚届が紛れていた。静河はその足で役所へ向かった。窓口で差し出したのは、昭弘の署名と判が入った離婚届だった。証人欄も、すでに埋まっている。手続きは、あっけないほど早く終わった。一時間後、静河の手には離婚届受理証明書があった。それだけで昭弘から完全に逃げ切れるわけではないことは、静河にも分かっていた。けれど今は、それで十分だった。この紙一枚があれば、少なくとも昭弘が気づくまでの間、彼女は榎木家の妻ではなくなる。離れるまで、あと二日。また純子からビデオテープが届いた。映像の中で、昭弘がベッドサイドに片膝をつき、純子のお腹にそっと耳を当てていた。
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第9話

病院の個室。昭弘はベッドに横たわる純子を見下ろし、どこか責めるような声で言った。「……妊娠しているのに、なんで無茶をする。何かあってからでは遅いんだ」純子はその言葉を聞き流すように、彼の腰に腕を回してすり寄った。「わかってる、ごめんなさい。目が覚めたときあなたがいなかったから、私、捨てられたのかと思っちゃって……」彼女の瞳にうっすらと赤みが差す。しかし昭弘はそれに動じなかった。純子の腕を外し、細い顎を掴んで低い声で言った。「前から言っているだろう。彼女の前で余計なことをしない限り、この関係は続けてやる、と。それに今、お前には俺の子どもがいる。余計なことを考えるな。おとなしく体を休めていろ……俺はいったん帰る」手を放して、扉へ向かった。純子は諦めきれない目で彼を引き止める。「今すぐ行かなくてもいいじゃない。赤ちゃんは、まだお父さんが必要なのに」そう囁きながら、彼女の白い指先が、昭弘の胸元からゆっくりと下へ滑っていった。目元にほんのり色気が滲む。昭弘はごくりと喉を鳴らした。次の瞬間、彼は純子の後頭部を掴んで唇を重ねた。まもなく女の声と男の息が入り混じり、扉の隙間から廊下へ漏れ出して、通りかかった人が思わず顔を赤らめて通り過ぎた。着替えを済ませて昭弘が病院を後にしたときには、すでに深夜になっていた。屋敷が見えてくると、胸の中に罪悪感がじわじわと募った。昼間に電話で、今夜必ず戻ると伝えておきながら、けっきょくこんな時間になってしまった。静河はどれほど待ちわびているだろう。そういえば彼女、テーブルの上にサプライズを用意して待っていると言っていたな。昭弘は自身の不甲斐なさに苛立ち、ハンドルを強く叩くと、ふと助手席に目をやった。そこには、帰りに商店街へ寄り道して買ってきた腕時計の箱が置かれている。ずいぶん前に静河がさりげなく「欲しいな」と呟いていたものだ。誕生日の夜にそばにいてやれなかった埋め合わせと、この数日、そばにいられなかった埋め合わせを込めた、今さらながらの贈り物だった。昭弘はしばらくそれを見つめてから、ゲートが開くのに気づいてアクセルを踏んだ。車を停めるなり、ドアも閉めきらないまま足早に玄関へと向かった。「静河!」勢いよくリビングの電気をつけた瞬間、昭弘はその場に立ち尽くした
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第10話

昭弘は深く息を吸い、近所の人たちに礼を言って見送った。突き返された箱の山を抱えてリビングへ戻り、テーブルの上に置く。そのとき気づいた。贈り物の山の下に、一枚の白い紙が挟まっていた。引き抜いて捨てようとした彼の手が、そこに記された文字を見てピタリと止まった。静河の筆跡は、どこまでも凛として流麗だった。彼女自身がそうであるように、いつも穏やかで、どんな困難に直面しても決して乱れることのない筆致だった。しかしその紙は、何箇所も、ペン先によって鋭く突き破られていた。そこに書かれていたのは、昭弘と純子が密会した場所、日時、そしてその回数だけだった。それ以外、静河の言葉はどこにも書かれていない。それでも、言うべきことはすべてそこに詰まっていた。最後の一文字まで読み終えたとき、紙を握りしめる昭弘の指の関節が白く浮き上がった。昭弘は紙をくしゃくしゃに丸めてポケットへねじ込み、踵を返して玄関を飛び出した。黒い愛車が唸りを上げて雨の中へ発進する。矢のように夜の街を切り裂き、そのまま病院の正面入口に急停止した。ドアを閉める手間すらもどかしく、昭弘は院内へ足を踏み入れる。夜勤の若い看護師が立ち上がって声をかけようとしたが、昭弘のただならぬ顔つきを見た瞬間、言葉が喉の奥で凍りついた。昭弘はまっすぐ個室へ向かい、勢いよくドアを閉めた。その轟音が廊下に響き渡り、外にいた看護師たちを震え上がらせた。病床で眠っていた純子も、驚いて飛び起きた。睡魔にぼやける視界のまま体を起こし、どこの無作法な看護師だと怒鳴りつけようとした瞬間、ベッドの前に立つ男の顔が見えた。「昭弘さん!来てくれたの?」純子の目から瞬時に怒りが消え、喜びが広がった。彼女は、今日あれほど何度も抱かれたのだから、昭弘はこのまま残って自分に付き添ってくれると思っていた。けれど結局、彼は帰るつもりらしい。これから数日、彼が静河のそばにいるのだと思うと、胸の奥にじりじりと嫉妬が灼けついた。あの女が、自分のどこに勝っているというのだろう。着飾ることもできなければ、子どもを産むこともできないくせに。考えれば考えるほど悔しくなり、彼女はようやく自分をなだめるようにして眠りについた。ところが、それから間もなく、昭弘がまた自分のそばに戻ってきたのだ!やっぱり自分の
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