登入「すみません、娘の調子が悪いようなのでお先に失礼します」 瑞希は切羽詰まった声でディレクターに声を掛けた。声が上ずり、手が微かに震えている。「岡部さん、大丈夫ですか? 岡部さんも顔色が悪いですよ」「……すみません、急に気分が悪くなって」 本来ならば脚本家は撮影に立ち会わなくても差し支えなかった。一度、脚本家の手を離れた台本は、監督の采配で「調理」される。おまかせするしかない。けれど、螢子の言動が気になって、瑞希は日をあけず撮影に立ち会っていた。彼女の存在が、瑞希の心を蝕み続けていた。「お大事になさってください」「ありがとうございます」 ふと視線を感じて振り向くと、螢子が勝ち誇った表情でこちらを見ていた。車椅子からゆっくりと立ち上がり、右足を引きずりながら、瑞希に向かって小さく微笑む。その瞳は冷たく、勝利を確信したような光を宿していた。 やはり弁当にキクラゲを混入させたのは螢子……いや、真希だ。 引き摺る足、顎を触る癖、髪の毛をくるくると巻く指。それは演技の域を超えていた。当初は「憑依型」と呼ばれる女優かと思ったが、前作までの映画、ドラマ、そのどれもが素直で純粋な演技ばかりだった。「……これが本当の螢子さん」「私のすべて」で演技している彼女とは別物だった。死んだ妹の魂が、完全に相馬螢子の体を乗っ取り、瑞希の前に現れたのだ。瑞希は爽子を抱き、撮影現場を後にした。背中に螢子の視線が突き刺さる。足取りがふらつき、廊下の壁に手をついた。キクラゲの異臭が、まだ鼻の奥に残っている。食中毒にならなかったのは幸いだったが、心の傷は深かった。 車の中で、瑞希は爽子を抱きしめながら静かに泣いた。陽翔の無邪気な声が、頭の中で響く。「まーま、おはなしかくのヘタなの?」あの言葉が、胸を抉る。真希は、死んだ後も、瑞希の人生を少しずつ、確実に壊し続けている。 夜、智久にすべてを打ち明けようかと思ったが、言葉にできなかった。真希は瑞希の物語を奪い、瑞希の家族さえも、ゆっくりと自分のものにしようとしている。 瑞希はベッドに横になり、天井を見つめた。爽子の寝息が、静かに部屋に響く。娘の顔が、真希のそれと重なり、瑞希は目を閉じた。 この戦いは、まだ終わらない。
休憩時間、各自に弁当が配られ始めた。緊張の糸が緩んだ瑞希は、スタッフに手渡された自分の弁当に、異変を感じた。(……生ぬるい?) いつもは食中毒対策として、弁当はクーラーボックスで厳重に保管されている。それが生ぬるく感じた。弁当を縛る紐も、わずかに歪に結ばれているような気がした。(まさか……ね) 瑞希は考えすぎだと自分に言い聞かせながら、弁当の蓋を開けた。瞬間、ムワッと異臭が鼻をついた。箸で惣菜を避けると、そこにキクラゲが入っていた。瑞希はキクラゲに強いアレルギーがある。スタッフは皆、知っているはずだった。「……これ」 弁当を持つ手が震える。誰かが、弁当に細工をしたのだ。誰が? そんなことは決まりきっていた。 ゆっくりと視線を螢子に向けると、彼女は素知らぬふりで自分の弁当に箸をつけていた。優雅に髪を指で巻きながら、瑞希の方を一瞬だけ見つめ、妖しく微笑んだ。その微笑みは、病床で最後に見せた真希のものと、完全に同じだった。 瑞希の背筋に冷たい汗が伝う。心臓の音が、耳の中で激しく鳴り響く。キクラゲの異臭が、喉の奥まで這い上がってくるようだった。箸を落としそうになり、慌てて弁当をテーブルに置いた。爽子を抱いていた腕に力が入り、娘が小さく身じろぎする。 螢子は遠くから、静かにこちらを観察している。まるで、瑞希の恐怖を味わうように。 瑞希は震える指でスマホを取り出し、智久に連絡しようとしたが、指がうまく動かない。撮影現場の喧騒が、遠くに聞こえる。誰も気づいていない。誰も、助けてくれない。 真希は、死んだはずなのに、確かにここにいる。相馬螢子という美しい殻を借りて、瑞希の人生を、ゆっくりと、確実に蝕み続けている。 瑞希は弁当を押しやり、深く息を吐いた。キクラゲの匂いが、鼻の奥にこびりついて離れない。彼女の精神は、今にも崩れ落ちそうだった。 休憩時間の鐘が、再び鳴り響いた。撮影は、まだ続く。
螢子は車椅子に座り、瑞希役の女優に呪いの言葉を吐きかけた。「瑞希……私を見下ろして満足!? 脚が動かない分、みんなから愛されているのよ! あなたは何も持っていけない……!」 気圧された女優は言葉を失い、目を見開いたまま固まっていた。撮影は何度も撮り直された。監督の「カット!」という声が響くたび、螢子はゆっくりと息を吐く。車椅子に座るたび、「真希」になるたび、瑞希への憎しみが増殖するのを感じた。 それは、女優ではなく、スタジオの袖で撮影を見守る、岡部瑞希本人に向けられていた。 瑞希は愛すべき存在だった。陸斗と結婚し、その結婚生活が破綻したと思えば、次の男性と結婚した。二人の子供にも恵まれ、幸せの絶頂にある瑞希が許せなかった。守られるだけの妹として、死ぬまで瑞希に勝てなかった自分が、許せなかった。 螢子は撮影の合間、スタッフルームに忍び込んだ。冷房の効いていない部屋はむし暑く、汗が背中に張り付く。保冷バックに入っていた撮影用の弁当を取り出した。瑞希の弁当には「岡部瑞希様」と丁寧に名前が貼られている。キクラゲにアレルギーがある彼女のために、特別に調整されたものだ。 螢子はゆっくりと蓋を開け、中身を眺めた。口元が、毒々しく弧を描く。「……食中毒にでもなればいいのにね」 指先でキクラゲを軽くつまみ、別の弁当に移す。瑞希の弁当には、代わりに別の具材を詰め直した。表面上は変わらない。誰にも気づかれない程度の、小さな復讐。 螢子は保冷バックを元に戻し、静かにスタッフルームを後にした。唇の端に浮かぶ微笑みは、死の間際に浮かべたものと同じだった。 スタジオに戻ると、瑞希が心配そうにこちらを見ていた。螢子は優しく微笑み返した。心の中で、静かに呟く。 (お姉ちゃん……これから、ゆっくりと味わってね) 車椅子に戻り、次のカットの準備をする螢子の瞳は、暗く、深く、勝利の喜びに満ちていた。真希の魂は、相馬螢子の体の中で、ますます強く息づいていた。
ドラマの撮影が始まった。 螢子の書いた「真希」のセリフやシーンを取り入れた台本は、瑞希の書いた自叙伝とは全く異なっていた。これまでは瑞希一人の「私」だった光景が、「群像劇」のように視点が入れ替わる。真希の内なる独白、陸斗の葛藤、両親の無自覚な偏愛——すべてが、赤裸々に、残酷に描き出されていた。連続ドラマに書き下ろしたとはいえ、瑞希にとっては屈辱的な出来事だった。 撮影現場に立ち会った瑞希は、肌が粟立つ感覚を抑えきれなかった。そこにいるのは、まさに双子の妹の「真希」だった。顔貌は全く異なるのに、彼女が生き返ったかのような錯覚を覚えた。車椅子に座り、右足を引きずりながらセリフを吐く螢子。鬼気迫る表情、勝ち誇ったような視線、指先で髪を巻く癖——すべてが、真希そのものだった。 そして螢子は、演技に熱が入ると更にセリフや解釈を変え、監督と激しく口論した。「……真希、真希だわ」 螢子に真希が重なる。瑞希は足元から這い上がる怖気に思わず体を抱きしめた。死んだはずの妹が、別の体を借りて、瑞希の物語を奪い取ろうとしている。 それから程なくして事件が起きた。スタッフと思われる人物がSNSでこの事実を呟いたのだ。「素人の女優が台本を書き換えた」 瞬く間に拡散され、瑞希の脚本家としての評価は失落した。次に入っていたショートムービーの依頼が立ち消えになり、出版社からも連絡が途絶えた。ネットのコメント欄は、冷たい言葉で埋め尽くされた。 そして、陽翔の言葉は瑞希のプライドをズタズタに引き裂いた。「まーま、おはなしかくのヘタなの?」 それは、保育園に迎えに来ていた保護者たちが瑞希の台本がゴーストライターのもので、面白くないと噂しているのを息子が耳にしたのだという。陽翔は無邪気に首を傾げ、瑞希の顔を見つめていた。 瑞希は膝から崩れ落ち、息子を抱きしめながら嗚咽を漏らした。爽子が隣で小さな手を伸ばすが、その手さえ今は恐ろしい。 相馬螢子——いや、真希は、瑞希の人生を静かに、しかし確実に壊し続けていた。夜、瑞希は鏡の前に立ち、青白い自分の顔を見つめた。死んだ妹の影が、笑っている気がした。
相馬螢子は煌めく夜景を見下ろしながら、ソファーに深く身を沈めていた。高層マンションの最上階、リビングの大きな窓ガラスに、東京の灯りが宝石のように散らばっている。手には赤ワインのグラスが光を弾き、深紅の液体がゆっくりと揺れていた。 螢子はグラスを傾け、口元を妖しげに弧を描かせた。「螢子、飲み過ぎだぞ」 マネージャーの佐々木公彦がミネラルウォーターのコップを手に、彼女の肩を軽く叩いた。眼鏡の奥に心配の色が浮かんでいる。「お祝いなの」「お祝い? なんのだ? 映画は深夜枠のドラマになって大損だぞ。予算もスケジュールも大幅カットされた」 螢子は赤ワインを一気に飲み干し、空になったグラスをテーブルに置いた。唇に残った赤い雫を舌で拭う仕草が、どこか艶めかしい。「私のセリフが採用されたんだもの。お祝いよ。真っ白な台本の原稿を前にした瑞希さんの顔が目に浮かぶわ……きっと、震える手でページをめくっていたでしょうね」 螢子の瞳には、暗く沈んだ色が横たわっていた。勝利の喜びと、底知れぬ憎悪が混じり合った、複雑な光。佐々木は戸惑った表情で彼女を見つめた。「どうしたんだ。これまでこんなことは一度もなかったじゃないか。なんでそんなにこの作品に固執するんだ?」螢子はゆっくりとグラスにワインを注ぎ直し、低く笑った。「固執? これは復讐よ」「……復讐?」「私を蔑ろにした全てのものへの復讐よ。守られるだけの壊れやすい妹として、車椅子に縛られ、愛を奪われ、死ぬ間際まで『勝った』と呟きながら消えたあの私への——そして、今、再びこの美しい体を手に入れた私による、瑞希への復讐」 螢子の声は静かだったが、部屋の空気を震わせるほどの重みがあった。夜景の灯りが、彼女の横顔を妖しく照らす。右足がわずかに引き摺る癖が、ワインを飲む動作の合間に見え隠れする。 佐々木は言葉を失い、ただ黙って彼女を見つめた。事故以前の相馬螢子とは、明らかに違う女がそこにいた。 螢子はグラスを掲げ、夜景に向かって静かに微笑んだ。「瑞希……お姉ちゃん。これから、ゆっくりと楽しませてあげるわ」 深紅の液体が、グラスの中で揺れ、まるで血のように輝いていた。
瑞希は「真希」の存在に押しつぶされそうになりながらも、台本の案を一から練り直した。自分からの視点と、「真希」からの視点。原作本にはなかった場面が大幅に追加され、姉妹の確執、陸斗を巡る歪んだ三角関係、真希の内なる憎悪と孤独が、赤裸々に描き出されていった。映画のスケジュールにも無理が生じ、撮影日程が次々とずれ始めた。 プロデューサーから連絡があったのは、そんな矢先だった。「出資していた銀行から、ドラマへの変更が打診されました」 これまでは映画化で進んでいたプロジェクト自体が縮小され、深夜帯のドラマ枠への変更を余儀なくされた。予算も規模も大幅に削られ、瑞希の書いた新たなシーンもいくつかカットされることになった。 相馬螢子との出会いは、瑞希の人生の歯車を大きく変えていった。それは小説家としての瑞希のプライドも、「私のすべて」の受賞作としての評価も、地に叩き落とされたも同然だった。自分が守ろうとしてきた美しい物語は、螢子という女優によって暴かれ、塗り替えられ、別の形へと変貌を遂げていた。 そして——。「まーま、だっこ」 爽子の存在。日に日に彼女は「真希」に似てくる。漆黒の髪の艶、薄茶の瞳の深み、顎の下のホクロ、そして時折見せる大人びた微笑み。幼い頃のアルバムをめくりながら、母親は涙を拭いながら言った。「真希とそっくり。真希が帰ってきてくれたみたいで嬉しいわ」 瑞希は心の均衡を失いつつあった。爽子を抱きしめようとすると、手が震え、思わず押し返してしまう。夜中、娘の寝息を聞きながら、瑞希は天井を見つめ続けた。死んだはずの真希は、爽子という新しい命を通じて、そして相馬螢子という女優を通じて、瑞希の人生に深く、深く入り込んできていた。 カウンセリングで吐き出したはずの感情は、再び渦を巻き、瑞希の精神をゆっくりと蝕んでいく。智久の優しい言葉も、陽翔の笑顔も、今はただ遠い。 瑞希は母子手帳を閉じ、静かに震えた。この物語は、まだ終わっていない。真希の影は、瑞希の人生から決して離れない。 ガラス細工のように脆く、美しかった「真希」は、今や瑞希の心の中で、黒く、濃密に、生き続けていた。
瑞希は朝の光がまだ柔らかい時間に、街角の小さなフラワーショップへ足を運んだ。白い芍薬の八重咲きを一束、丁寧にラッピングしてもらった。花びらは重なり合い、ふんわりと膨らんで、まるで恥じらうように首を傾げている。店主が「今日は特別に良い香りですよ」と笑ったが、瑞希は無言で代金を払い、ショップの紙袋を抱えた。花言葉は「はにかみ」。もう一つは「恥じらい」。……恥じらい?瑞希の口元が、冷たく歪んだ。真希にぴったりではないか。大人しいふりをした山猫。柔らかい毛並みと、大きな瞳で旅人を誘い、頭から丸呑みにしてしまう、静かな捕食者。旅人は陸斗。もうとっくに、山猫の牙に絡め取られ、逃げられ
大学病院の最上階、特別個室。深夜を過ぎても、モニターの小さな電子音だけが規則正しく響いていた。白い壁に囲まれた部屋は、消毒液と微かな花の甘い匂いが混じり、冷たい空気が肌に張りつく。真希は調整可能なベッドに体を預け、膝から下をブランケットで丁寧に覆っていた。足は相変わらず動かない。今日は特に、左足の血流が悪化し、時折鋭い痺れが走る。それでも彼女の表情は穏やかで、薄い唇の端には、誰にも見せない小さな微笑みが浮かんでいた。病室のドアが静かに開き、陸斗が入ってきた。タキシードのシャツを乱暴に羽織ったまま、眼鏡をかけた医師の顔。息が少し荒く、結婚式の余韻など微塵も感じさせない。「真
瑞希は一人で、眠れない夜を過ごした。クイーンサイズのベッドは広すぎて、彼女の体をまるでちっぽけな欠片のように浮かび上がらせていた。バスローブを着たまま膝を抱え、シーツの冷たさが背中に染み込んでいく。つま先が、ゆっくりと、容赦なく冷えていくのを感じながら、瑞希は天井のシャンデリアの影をぼんやりと見つめていた。「……この足が動かなかったら」声に出してみた言葉は、部屋の暗闇に吸い込まれて消えた。もし自分が車椅子に乗っていたら。もし足が動かなくて、毎日誰かに押してもらわなければいけなかったら。陸斗は自分を選んでくれただろうか。いや——瑞希は唇を噛んだ。この足が動いたからこそ、陸斗
その時だった。テーブルの上で陸斗のスマホが短く震えた。深夜のスイートルームに、電子音が不吉に響く。瑞希は窓辺から振り返り、わずかに眉を寄せた。陸斗は素早い動きでスマホを掴み、画面をスライドさせた。次の瞬間、彼の顔色がサッと変わった。瞳が見開かれ、唇が固く結ばれる。「……どうしたの? 病院から?」瑞希の声は低く、腫れた頬の痛みで少し掠れていた。陸斗はスマホを耳に当てたまま、片手でタキシードのシャツを乱暴に羽織った。「急患だ。病院に行く」声はすでに医師のそれだった。感情を押し殺し、冷静さを装ったプロフェッショナルな響き。新郎の顔は一瞬で消え、大学病院で三本の指に入る若き外







