ログイン「真希」は螢子の中で完全に覚醒した。 かつて愛した人を奪った姉、瑞希を精神的に追い詰め、世間から抹殺した。瑞希の脚本家としての評価は地に落ち、家族は崩壊し、精神病棟の白い部屋に閉じ込められた。真希は満足げに微笑む。あの病床で吐いた最後の呪いが、ようやく実を結んだ。 真希は亜麻色の髪を艶やかな黒に染め、ストレートパーマをかけた。鏡の前に立ち、ゆっくりと自分の姿を眺める。長い黒髪が肩に滑り落ち、琥珀色の瞳が妖しく輝く。完璧な美しさ。健康で、自由で、誰も守る必要のない体。「真希、綺麗だわ」 唇から零れた言葉に、自分で酔いしれる。指先で髪を梳き、くるくると巻く癖を愉しむように繰り返す。相馬螢子の美しい殻は、今や完全に真希のものだった。右足の違和感すら、愛おしい記憶の証のように感じられる。 窓の外には夜の東京が広がっている。螢子——いや、真希は赤ワインのグラスを傾け、深紅の液体を味わった。瑞希の苦しむ顔、爽子を抱きしめながら震える姿、陽翔の無垢な問いかけが、脳裏に鮮やかに蘇る。すべてが、甘い勝利の味だった。 マネージャーの佐々木公彦が部屋に入ってきた。「次の撮影、明後日だ。体調は大丈夫か?」 真希は優雅に微笑み返した。「ええ、大丈夫。むしろ、最高よ」 公彦は少し戸惑った表情を浮かべたが、何も言わなかった。彼は知らない。この体に宿る魂が、すでに別の女であることを。 真希は鏡に向き直り、再び自分の姿に酔いしれた。死んだはずの自分が、こうして生きている。健康で、美しく、自由に。 瑞希の人生を奪い、陸斗の記憶を自分のものにし、次の役でさらに輝く。真希の第二の人生は、まだ始まったばかりだった。 グラスを掲げ、真希は夜景に向かって静かに呟いた。「お姉ちゃん……ありがとう。あなたのおかげで、私はここにいられるわ」 鏡の中の美しい女が、勝ち誇った笑みを浮かべた。深紅のワインが、血のように輝いていた。
瑞希の世界は、静かに崩壊し始めていた。 螢子の嫌がらせ、演技の中で蘇る「真希」の姿に、心を蝕まれ続けていた。娘の爽子は成長するたび、どんどん「真希」に似てくる。漆黒の髪、薄茶の瞳、顎の下のホクロ、そして時折見せる大人びた微笑み。陽翔の笑顔が唯一の拠り所だったが、ある日、無垢な問いかけが瑞希のプライドを音を立てて砕いた。「まーま、おはなしへたなの?」 保育園の噂を耳にした息子の言葉に、瑞希は膝から崩れ落ちた。夫に相談しても、ただ一言「気のせいだよ」と一蹴されるだけだった。(……私はもうダメだわ) ついつい、ワインに手が伸び、空になった瓶がゴミ箱に増えていく。次回作の台本の催促が来るが、パソコンの上の指は動かなかった。薄暗い部屋で、爽子が泣き叫ぶ。「うるさい!」 赤ペンで修正された台本を、その小さな体に投げつけた。ワインを煽るように飲み干す瑞希。爽子の鳴き声はマンションのリビングからベランダを伝い、隣の部屋の住人が警察に通報した。 警官が駆けつけた時、荒れ果てた部屋で瑞希は爽子を一瞥することなく、部屋の隅で膝を抱え、ブツブツと独り言を呟いていた。「真希……真希……許して……」 瑞希が手がけた初めてのドラマ「私のすべて」は、脚本家の交代を余儀なくされた。螢子が演じる「真希」は、視聴者の心を掴み、高評価を獲得した。 瑞希は白い部屋の中にいる。 精神病棟の白い部屋で、窓から差し込む柔らかな光が、彼女の青白い顔を照らしている。薬の影響でぼんやりとした瞳が、天井を見つめ続けている。爽子と陽翔の笑顔が、遠い記憶のように霞む。 智久が面会に来ても、瑞希はただ微笑むだけだった。心の奥で、真希の冷たい勝利の笑みが、静かに響いている。 相馬螢子は、ドラマの撮影を終え、次の役に挑んでいるという。瑞希はベッドに横になり、静かに目を閉じた。 真希は、とうに勝っていた。
「すみません、娘の調子が悪いようなのでお先に失礼します」 瑞希は切羽詰まった声でディレクターに声を掛けた。声が上ずり、手が微かに震えている。「岡部さん、大丈夫ですか? 岡部さんも顔色が悪いですよ」「……すみません、急に気分が悪くなって」 本来ならば脚本家は撮影に立ち会わなくても差し支えなかった。一度、脚本家の手を離れた台本は、監督の采配で「調理」される。おまかせするしかない。けれど、螢子の言動が気になって、瑞希は日をあけず撮影に立ち会っていた。彼女の存在が、瑞希の心を蝕み続けていた。「お大事になさってください」「ありがとうございます」 ふと視線を感じて振り向くと、螢子が勝ち誇った表情でこちらを見ていた。車椅子からゆっくりと立ち上がり、右足を引きずりながら、瑞希に向かって小さく微笑む。その瞳は冷たく、勝利を確信したような光を宿していた。 やはり弁当にキクラゲを混入させたのは螢子……いや、真希だ。 引き摺る足、顎を触る癖、髪の毛をくるくると巻く指。それは演技の域を超えていた。当初は「憑依型」と呼ばれる女優かと思ったが、前作までの映画、ドラマ、そのどれもが素直で純粋な演技ばかりだった。「……これが本当の螢子さん」「私のすべて」で演技している彼女とは別物だった。死んだ妹の魂が、完全に相馬螢子の体を乗っ取り、瑞希の前に現れたのだ。瑞希は爽子を抱き、撮影現場を後にした。背中に螢子の視線が突き刺さる。足取りがふらつき、廊下の壁に手をついた。キクラゲの異臭が、まだ鼻の奥に残っている。食中毒にならなかったのは幸いだったが、心の傷は深かった。 車の中で、瑞希は爽子を抱きしめながら静かに泣いた。陽翔の無邪気な声が、頭の中で響く。「まーま、おはなしかくのヘタなの?」あの言葉が、胸を抉る。真希は、死んだ後も、瑞希の人生を少しずつ、確実に壊し続けている。 夜、智久にすべてを打ち明けようかと思ったが、言葉にできなかった。真希は瑞希の物語を奪い、瑞希の家族さえも、ゆっくりと自分のものにしようとしている。 瑞希はベッドに横になり、天井を見つめた。爽子の寝息が、静かに部屋に響く。娘の顔が、真希のそれと重なり、瑞希は目を閉じた。 この戦いは、まだ終わらない。
休憩時間、各自に弁当が配られ始めた。緊張の糸が緩んだ瑞希は、スタッフに手渡された自分の弁当に、異変を感じた。(……生ぬるい?) いつもは食中毒対策として、弁当はクーラーボックスで厳重に保管されている。それが生ぬるく感じた。弁当を縛る紐も、わずかに歪に結ばれているような気がした。(まさか……ね) 瑞希は考えすぎだと自分に言い聞かせながら、弁当の蓋を開けた。瞬間、ムワッと異臭が鼻をついた。箸で惣菜を避けると、そこにキクラゲが入っていた。瑞希はキクラゲに強いアレルギーがある。スタッフは皆、知っているはずだった。「……これ」 弁当を持つ手が震える。誰かが、弁当に細工をしたのだ。誰が? そんなことは決まりきっていた。 ゆっくりと視線を螢子に向けると、彼女は素知らぬふりで自分の弁当に箸をつけていた。優雅に髪を指で巻きながら、瑞希の方を一瞬だけ見つめ、妖しく微笑んだ。その微笑みは、病床で最後に見せた真希のものと、完全に同じだった。 瑞希の背筋に冷たい汗が伝う。心臓の音が、耳の中で激しく鳴り響く。キクラゲの異臭が、喉の奥まで這い上がってくるようだった。箸を落としそうになり、慌てて弁当をテーブルに置いた。爽子を抱いていた腕に力が入り、娘が小さく身じろぎする。 螢子は遠くから、静かにこちらを観察している。まるで、瑞希の恐怖を味わうように。 瑞希は震える指でスマホを取り出し、智久に連絡しようとしたが、指がうまく動かない。撮影現場の喧騒が、遠くに聞こえる。誰も気づいていない。誰も、助けてくれない。 真希は、死んだはずなのに、確かにここにいる。相馬螢子という美しい殻を借りて、瑞希の人生を、ゆっくりと、確実に蝕み続けている。 瑞希は弁当を押しやり、深く息を吐いた。キクラゲの匂いが、鼻の奥にこびりついて離れない。彼女の精神は、今にも崩れ落ちそうだった。 休憩時間の鐘が、再び鳴り響いた。撮影は、まだ続く。
螢子は車椅子に座り、瑞希役の女優に呪いの言葉を吐きかけた。「瑞希……私を見下ろして満足!? 脚が動かない分、みんなから愛されているのよ! あなたは何も持っていけない……!」 気圧された女優は言葉を失い、目を見開いたまま固まっていた。撮影は何度も撮り直された。監督の「カット!」という声が響くたび、螢子はゆっくりと息を吐く。車椅子に座るたび、「真希」になるたび、瑞希への憎しみが増殖するのを感じた。 それは、女優ではなく、スタジオの袖で撮影を見守る、岡部瑞希本人に向けられていた。 瑞希は愛すべき存在だった。陸斗と結婚し、その結婚生活が破綻したと思えば、次の男性と結婚した。二人の子供にも恵まれ、幸せの絶頂にある瑞希が許せなかった。守られるだけの妹として、死ぬまで瑞希に勝てなかった自分が、許せなかった。 螢子は撮影の合間、スタッフルームに忍び込んだ。冷房の効いていない部屋はむし暑く、汗が背中に張り付く。保冷バックに入っていた撮影用の弁当を取り出した。瑞希の弁当には「岡部瑞希様」と丁寧に名前が貼られている。キクラゲにアレルギーがある彼女のために、特別に調整されたものだ。 螢子はゆっくりと蓋を開け、中身を眺めた。口元が、毒々しく弧を描く。「……食中毒にでもなればいいのにね」 指先でキクラゲを軽くつまみ、別の弁当に移す。瑞希の弁当には、代わりに別の具材を詰め直した。表面上は変わらない。誰にも気づかれない程度の、小さな復讐。 螢子は保冷バックを元に戻し、静かにスタッフルームを後にした。唇の端に浮かぶ微笑みは、死の間際に浮かべたものと同じだった。 スタジオに戻ると、瑞希が心配そうにこちらを見ていた。螢子は優しく微笑み返した。心の中で、静かに呟く。 (お姉ちゃん……これから、ゆっくりと味わってね) 車椅子に戻り、次のカットの準備をする螢子の瞳は、暗く、深く、勝利の喜びに満ちていた。真希の魂は、相馬螢子の体の中で、ますます強く息づいていた。
ドラマの撮影が始まった。 螢子の書いた「真希」のセリフやシーンを取り入れた台本は、瑞希の書いた自叙伝とは全く異なっていた。これまでは瑞希一人の「私」だった光景が、「群像劇」のように視点が入れ替わる。真希の内なる独白、陸斗の葛藤、両親の無自覚な偏愛——すべてが、赤裸々に、残酷に描き出されていた。連続ドラマに書き下ろしたとはいえ、瑞希にとっては屈辱的な出来事だった。 撮影現場に立ち会った瑞希は、肌が粟立つ感覚を抑えきれなかった。そこにいるのは、まさに双子の妹の「真希」だった。顔貌は全く異なるのに、彼女が生き返ったかのような錯覚を覚えた。車椅子に座り、右足を引きずりながらセリフを吐く螢子。鬼気迫る表情、勝ち誇ったような視線、指先で髪を巻く癖——すべてが、真希そのものだった。 そして螢子は、演技に熱が入ると更にセリフや解釈を変え、監督と激しく口論した。「……真希、真希だわ」 螢子に真希が重なる。瑞希は足元から這い上がる怖気に思わず体を抱きしめた。死んだはずの妹が、別の体を借りて、瑞希の物語を奪い取ろうとしている。 それから程なくして事件が起きた。スタッフと思われる人物がSNSでこの事実を呟いたのだ。「素人の女優が台本を書き換えた」 瞬く間に拡散され、瑞希の脚本家としての評価は失落した。次に入っていたショートムービーの依頼が立ち消えになり、出版社からも連絡が途絶えた。ネットのコメント欄は、冷たい言葉で埋め尽くされた。 そして、陽翔の言葉は瑞希のプライドをズタズタに引き裂いた。「まーま、おはなしかくのヘタなの?」 それは、保育園に迎えに来ていた保護者たちが瑞希の台本がゴーストライターのもので、面白くないと噂しているのを息子が耳にしたのだという。陽翔は無邪気に首を傾げ、瑞希の顔を見つめていた。 瑞希は膝から崩れ落ち、息子を抱きしめながら嗚咽を漏らした。爽子が隣で小さな手を伸ばすが、その手さえ今は恐ろしい。 相馬螢子——いや、真希は、瑞希の人生を静かに、しかし確実に壊し続けていた。夜、瑞希は鏡の前に立ち、青白い自分の顔を見つめた。死んだ妹の影が、笑っている気がした。
病院を後にした私は、タクシーに乗り、実家へと向かった。窓の外を流れる街並みが、ぼんやりと過ぎていく。白い芍薬の残り香が、まだ指先にまとわりついている気がした。腫れた頬は化粧で隠したものの、鏡で見るたび、昨夜の平手打ちの感触が蘇る。実家——暖かく優しい思い出のかけらなど、最初からなかった家。玄関の鍵を回す音が、妙に大きく響いた。中に入ると、いつものように母の声が飛んできた。「あら、瑞希? どうしたの、こんな朝早くに。……陸斗くんは?」母はキッチンから顔を出し、いつもの柔らかい笑みを浮かべていた。父はリビングのソファに座ったまま、新聞を広げていた。二人とも、結婚披露パーティー
義父の眉がピクリと動いた。「結婚早々、何の冗談だね」その声は穏やかだったが、底に冷たい棘が隠れていた。私はアールグレイの湯気をじっと見つめながら、ゆっくりと首を振った。「私も離婚する気はありませんでした」一瞬の沈黙。義父の指が、再びテーブルの縁を軽く叩き始めた。規則正しい、まるで計算機のようなリズムで。「……なら!」彼が声を荒げかけたその瞬間、瑞希は静かに、しかしはっきりと言葉を被せた。「婚姻の条件として、製薬会社と取り交わした契約書のコピーをいただけますか?」義父の指が止まった。部屋の空気が、一気に重くなった。エミール・ガレのランプの光が、黒光りする本革の椅子に冷
芍薬の花を手渡した瑞希は昨夜の衝撃的な事実を思い出していた。新婦一人取り残されたスイートルーム。陸斗のスマホが、慌てて置いていったテーブルの上で、まだ画面が点灯している。通知が一つ、表示されたままだった。『父より:特別枠の更新確認。真希のデータ、明日理事長室へ提出。配偶者家族限定の条件は変わらず。研究予算の継続には婚姻状態が必須だ。くれぐれも瑞希さんを大切に。』……配偶者家族限定?私は思わずその文字を凝視した。大学病院の最上階——一泊六万円もする特別個室。あそこはただの「医師の特権」じゃない。陸斗の父が理事長を務める臨床研究プログラムで、「医師本人の配偶者およびその直系家族」
大学病院の最上階、特別個室。深夜を過ぎても、モニターの小さな電子音だけが規則正しく響いていた。白い壁に囲まれた部屋は、消毒液と微かな花の甘い匂いが混じり、冷たい空気が肌に張りつく。真希は調整可能なベッドに体を預け、膝から下をブランケットで丁寧に覆っていた。足は相変わらず動かない。今日は特に、左足の血流が悪化し、時折鋭い痺れが走る。それでも彼女の表情は穏やかで、薄い唇の端には、誰にも見せない小さな微笑みが浮かんでいた。病室のドアが静かに開き、陸斗が入ってきた。タキシードのシャツを乱暴に羽織ったまま、眼鏡をかけた医師の顔。息が少し荒く、結婚式の余韻など微塵も感じさせない。「真







