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芍薬の花

作者: 雫石しま
last update 公開日: 2026-04-14 09:53:11

瑞希は朝の光がまだ柔らかい時間に、街角の小さなフラワーショップへ足を運んだ。

白い芍薬の八重咲きを一束、丁寧にラッピングしてもらった。

花びらは重なり合い、ふんわりと膨らんで、まるで恥じらうように首を傾げている。

店主が「今日は特別に良い香りですよ」と笑ったが、瑞希は無言で代金を払い、ショップの紙袋を抱えた。

 

花言葉は「はにかみ」。

もう一つは「恥じらい」。

……恥じらい?瑞希の口元が、冷たく歪んだ。真希にぴったりではないか。

大人しいふりをした山猫。

柔らかい毛並みと、大きな瞳で旅人を誘い、

頭から丸呑みにしてしまう、静かな捕食者。
旅人は陸斗。

もうとっくに、山猫の牙に絡め取られ、逃げられない虜になっている。

 

薬指の結婚指輪が、重く虚しく光った。

昨夜、陸斗がはめたはずの指輪は、

今も瑞希の手に嵌まったまま、まるで他人のもののように冷たい。

 

瑞希は大学病院のエントランスを横切り、自動ドアをくぐった。

消毒薬の匂いが鼻腔を刺す。

白い壁の廊下を進むたび、足音がやけに大きく響いた。

真希の病室は、最上階の特別個室。

一泊六万円もする部屋だ。

陸斗の医師としての地位と、両親のコネで用意された特別待遇。

足に負担がかからないよう、特注の羽毛布団がベッドに敷かれ、

車椅子の移動ルートにはカーペットまで敷き詰められている。

瑞希は病室のドアの前で立ち止まり、白い芍薬の束を胸に抱き直した。

腫れた頬はまだ熱を持ち、化粧で隠しきれていない。

バスローブから着替えたシンプルなワンピースが、昨夜の結婚式の残り香をまとわりつかせていた。

彼女は深く息を吸い、ノックもせずにドアをゆっくり開けた。

病室の中は静かだった。

真希はベッドに体を預け、羽毛布団を膝までかけ、窓の外をぼんやりと見つめていた。

陸斗はまだそこにいた。

椅子を引き寄せ、真希の細い手を握ったまま、うつらうつらと仮眠を取っている。

眼鏡がずれ、結婚式の疲れがそのまま残った顔。
真希が先に気づき、ゆっくりと視線を瑞希に向けた。

 

「お姉ちゃん……?」

 

声はいつも通り、弱々しく、甘い。

けれど瞳の奥には、昨夜と同じ——静かな勝利の光が、ほのかに瞬いていた。

瑞希は無言で病室に入り、ドアを背中で閉めた。

白い芍薬の束を、ベッドサイドのテーブルにそっと置いた。

八重咲きの花びらが、病室の無機質な光の中で、柔らかく揺れた。

 

「真希。

 お見舞いよ。

 白い芍薬……花言葉は『はにかみ』と『恥じらい』だって。

 あなたにぴったりだと思って」

 

瑞希の声は平静だった。

けれどその奥に、冷たい刃のようなものが潜んでいるのを、真希は敏感に察知した。

真希は花を見つめ、小さく微笑んだ。

 

「……ありがとう、お姉ちゃん。

 綺麗……。でも、こんな朝早くに、どうして?

 陸斗くんは……昨夜、ずっとここにいてくれたのよ?」

 

その言葉を聞いた瞬間、瑞希の胸に鋭い痛みが走った。

陸斗はまだ眠ったまま、気づいていない。

真希は意図的に、姉の前で「陸斗くんは私のもの」と誇示している。

瑞希はゆっくりとベッドに近づき、真希の顔をまっすぐに見下ろした。

瓜二つの顔が、至近距離で向き合う。

 

「真希。

 あなたは本当に、恥じらいなんてものを持ってるの?

 大人しいふりをして、陸斗を頭から食べてしまう山猫なのに。

 童話みたいに、旅人を優しい声で誘って、

 骨までしゃぶりつくすくせに」

 

真希の微笑みが、わずかに凍りついた。

瑞希は続けた。

声は低く、静かだった。

 

「昨夜、私は一人で冷たいベッドで膝を抱えていた。

 あなたはここで、羽毛布団に包まれて、陸斗に手を握ってもらっていた。

 結婚式の夜に、夫を呼びつけて。

 一泊六万円の特別室で、特注の布団で、

 『足が痛い』って甘えて」

 

瑞希は白い芍薬の一輪を摘み、真希の頰にそっと近づけた。

花びらが、真希の肌に触れそうなくらい。

 

「この花、綺麗でしょう?

 でも、八重咲きは重なりすぎて、中が腐りやすいんだって。

 外側だけ綺麗で、内側はもう、ぐちゃぐちゃに溶けている。

 ……あなたみたいに」

 

真希の瞳が、初めてわずかに揺れた。

陸斗が、微かに身じろぎした。

まだ目を覚ましていない。

瑞希は花をテーブルに戻し、真希の耳元に顔を寄せた。

声は囁きのように小さく、しかしはっきりと。

 

「真希。

 私はもう、我慢しない。

 あなたが山猫なら、私は……

 その山猫の首を、ゆっくりと絞めてやるわ」

 

白い芍薬の甘い香りが、病室に満ちていた。

それは「はにかみ」と「恥じらい」の香りではなく、

静かな、冷たい、復讐の香りだった。

 

真希は黙って姉を見つめ返した。

その瞳の奥で、幼い頃の公園の桜の木の下が、

一瞬、フラッシュバックのように過ぎった。

双子の戦いは、ここから、本当に始まろうとしていた。

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