LOGIN如月透子(きさらぎ とうこ)が新井蓮司(あらい れんじ)と結婚して二年―― その二年間、彼女は彼の専属家政婦のように働き詰めだった。尽くして、尽くして、尽くしきって、心なんてすり減る暇もなく、ただただ塵にまみれていた。 そしてその二年が、彼への最後の愛情をすっかり削り取った。 初恋の女が帰国したとき、すべては終わった。 紙一枚の離婚届。それで二人は他人になった。 「蓮司……もし、愛なんてなかったら、あんたのこと……もう一度でも見ると思う?」 蓮司はあっさりと離婚届にサインした。 彼にはわかっていた――透子は自分を骨の髄まで愛していた。だからこそ、離れるわけがないって。 涙ながらに後悔して、きっと戻ってくる。そう信じていた。 ……なのに。 彼女は本当に、彼をもう愛していなかった。 それから、昔のことが次々と明るみに出た。 真実が暴かれたとき――誤解していたのは、彼のほうだったと気づいた。 動揺した。後悔した。謝罪して、やり直したいと縋った。 でも、透子はもう迷惑そうに一蹴して、SNSで堂々と婿を募集し始めた。 蓮司は嫉妬に狂った。発狂するほどに、どうしようもないほどに。 やり直したい、そう思った。 けれど今回は……彼女に近づくことすら、できなかった。
View Moreもっとも、博明が認めようが認めまいが、蓮司は彼を見逃すつもりなどなかった。彼からこれ以上の情報を引き出せないなら、それはそれでいい。どうせ蓮司の手元にある証拠は、すでに十分すぎるほど揃っていた。公判まで残り三日。その三日の間に、ネット上では騒ぎが大きく広がり始めていた。蓮司は、博明たち一行が捜査員に連行されたこと、名義上の資産が差し押さえられたこと、職務停止となり捜査を受けていることなどを、すべて関係メディアへリークした。さらにネット工作員を使って、わざと話題を炎上させた。たちまちネット上は騒然となり、再び大きな波紋を呼んだ。【え、これが噂の大どんでん返しってやつ……?】【やばすぎ。やっぱり名家のお家騒動ってドロドロだな。最後まで誰が黒幕か全然読めないじゃん】【だから少し静観しろって言ったのに、お前ら便乗して叩きまくってたよな。今ごろ赤っ恥かいてるんじゃね?】【いよいよ一斉検挙か。新井蓮司、よくここまで耐え抜いたな。社長を辞任までしたのは、この日を待つためだったんだろ。自分がいなくなった途端、役員たちが好き勝手に私腹を肥やし始めた。そこを一網打尽ってわけだ】……今回の世論の風向きは、誰の目にも明らかだった。前回蓮司を叩いていたネットユーザーたちは、すっかり沈黙した。恥ずかしくてアカウントを動かすこともできないようだった。メディアが報じた証拠書類と関連映像は、すでに動かぬものとなっていた。世間に「どちらが正しいか」を議論させるための材料ではなく、「誰が罪を犯したのか」をはっきり示す通告だったのだ。だから当然、誰も一言も異論を挟む余地はなかった。公判当日、裁判所の外では記者たちが早くから待機していた。審理が終わり次第、すぐに結果を報じるためだ。公判を傍聴したのは取締役会の面々だけではなかった。新井グループの重要な取引先や、新井のお爺さんと私的に親交の深かったかつての重鎮たちも駆けつけていた。祥平と美佐子も来ていた。理恵までもが現場の野次馬気分を味わおうとついてきていたが、そこに透子の姿はなかった。蓮司は弁護士とともに入廷した。顔を上げて傍聴席をぐるりと見渡し、祥平と美佐子、そして理恵のあたりでほんの一瞬だけ視線を止めた。証拠は完璧に揃い、すでに裁判官へ提出されている。博明側の弁護士もとっくに反論の余地を失い、こ
初公判の日程はすぐに決まった。蓮司側が握っている証拠が決定的なものばかりだったため、その日のうちに悠斗や博明たちは取り調べを受け、留置場に勾留された。博明がすべての「真相」を知らされた時、最初は信じようとしなかった。断固として抗議し、これはすべて蓮司の差し金で、濡れ衣を着せられたのだと主張した。だが、一つまた一つと動かぬ証拠を目の前に突きつけられると、彼が雇った弁護士でさえ、もはや一言も弁護できなかった。すでに捜査機関が本格的に動き出していたからだ。博明は完全に力が抜け、信じられない、あり得ないという顔のまま呆然とした。まるで正気を失ったかのようだった。博明は興奮して立ち上がり、手首の手錠をガチャガチャと鳴らしながら叫んだ。「悠斗に会わせろ!本人に直接聞く!信じない、信じられるわけがない!これが全部あいつのやったことだなんて!絶対に綾子がやったんだ。悠斗は無実だ!捕まえるなら綾子を捕まえろ!全部、綾子の仕業だ!悠斗にとっては実の祖父だぞ!どうして実の祖父を手に掛けるような真似をするんだ!」博明がなおも死に物狂いで足掻き、悠斗をかばおうとするのを聞き、傍らの取調官が言った。「すべての証拠はすでに裏付けが取れています。以前、綾子が悠斗の罪をかぶって服役した件も含め、背後にいた真犯人は悠斗です。彼は闇の送金ルートを使って高木浩二に金を送っていました。取引担当者もすでに逮捕されており、証拠は揺るぎません」それを聞いた博明の顔から興奮が消えた。彼は再び椅子にへたり込み、両目から光が失われた。実のところ、前回綾子が服役した時から、博明もどこかで「察して」はいた。綾子のような専業主婦が、どうやって地下送金ルートを知り、どうやって自ら取引などできるというのか。ただ、その時はすでに有罪が確定していた。だから彼は自分で自分を騙し、綾子がやったのだと思い込もうとした。そんなことが悠斗の仕業だなどと、認める勇気がなかったのだ。唯一の息子、溺愛してきた希望。悠斗に何かあれば、自分の人生は本当に完全に終わってしまう……博明は呟くように尋ねた。「これらはすべて……最終的に、どんな判決になるんだ?」蓮司側から被害者側の代理人として同席していた弁護士が答えた。「悠斗は実の祖父に対する殺人未遂の疑いをかけられています。しかも相手は高齢者で、その結
病院にいる新井のお爺さんが今どうなっているのかも分からない。万が一奇跡的に回復して、悠斗の就任を阻みにでも来たらどうするのか。あの老いぼれは昔から蓮司ばかりを贔屓してきた。本当に、さっさとくたばって墓に入ってくれなければ安心できない!……会社で起きた大騒ぎは、当然ながら蓮司側にもすぐ届いた。勝が一億円もの裏金を受け取った?勝裕たちは驚いたが、蓮司は正直なところ、あまり信じていなかった。勝はまだ完全に近藤に首根っこを掴まれている。金をかすめ取ろうにも、あれほどあからさまな真似ができるはずがない。つまり、これはおそらく――勝が自ら仕組んで警察に捕まったのだ。蓮司はスマホに届いた弁護士からのメッセージを見つめた。勝は、本当に絶妙なタイミングを見計らっていた。そして、勝が連行された翌日の午前、新井グループの取締役会は臨時会議を開き、新たな代理社長を選ぶ準備に入った。近藤取締役たちは二つの案を用意していた。一つは悠斗を推すこと。もう一つは、外部人材の招聘と内部昇格の候補者リストを出すことだった。会議が始まるとすぐ、近藤取締役が自分の意見を述べた。別派閥の周防取締役たちは当然反対し、大島取締役たちは沈黙して考え込んでいた。状況が膠着し、大島取締役の派閥が決定的な判断を下そうとした、その時だった。突然、会議室のドアが外から開け放たれ、捜査員たちが踏み込んできた。「近藤凡夫(こんど つねお)、斎藤利夫(さいとう としお)、中島海司(なかじま かいじ)……」彼らは順番に名前を読み上げた。「内部告発を受け、関係当局が調査を行った結果、あなた方が在職中、職務上の立場を悪用して複数回にわたり不正な裏金を受け取っていたことが確認されました。巨額の現金、高価な贈答品、不動産などが関連しており、送金記録と裏帳簿についても、すでに決定的な証拠を押さえています」名前を呼ばれた近藤取締役たちは、その場で呆然とした。だがすぐに我に返り、反論しようとした。しかし捜査員たちは彼らに言い逃れの機会を与えなかった。逮捕状を提示し、そのまま身柄を拘束した。ちょうどその時、大島取締役の電話が鳴った。蓮司からだった。蓮司は余計な前置きはせず、ただ事実だけを述べ、さらに大島取締役たちに、後日開かれる裁判へ出席してほしいと伝えた。蓮司は言った
その知らせはすぐにSNS上へ流れ、ネットユーザーたちの格好の野次馬ネタになった。最近の新井グループでは、あまりにも多くのことが起きていた。前社長の蓮司に醜聞が噴き出し、実の祖父を殺そうとした疑惑まで出て、辞任に追い込まれた。会社内部では慌ただしく代理社長が立てられたばかりだった。ところが、その代理社長は就任から一ヶ月も経たないうちに、待ちきれなかったかのように汚職へ走ったのだ。【正直、新井グループももう終わりだろ。新井のお爺さんが経営していた頃だけが全盛期で、次の世代になった途端、自分たちで自滅してる】【公開資料を見たけど、あの勝って前は新井蓮司の部下だったんだな。やっぱり上司があれなら部下もあれだわ。上が腐れば下も歪むってやつ】【新井グループってもう使える人材いないの?わざわざ前社長の人間を使うとかさ。同族経営だとしても、ほかに子供や後継ぎはいないわけ?】【企業の存続を考えるなら、まず能力のある人間が座るべきだろ。新井のお爺さんには非嫡出の孫もいるんじゃなかった?出自にこだわらなければ、誰でもいいんだよ】……ネット上の世論は、最初こそ出来事そのものを論じていただけだった。だがやがて、意図的に別の方向へ誘導されていった。当然、それはすべて博明が金で雇ったネット工作員たちの操作だった。勝などは一時的な盾にすぎない。蓮司が失脚したばかりの時点で悠斗を上に据えれば、間違いなく世間から激しい非難を浴び、隙を突いて地位を奪ったと言われるからだ。だが一ヶ月が過ぎた今、風向きも落ち着いてきた。瑞相グループとの提携プロジェクトも、すでに彼らの手元へ移っている。いずれそのすべてが息子の悠斗の実績になる。そうなれば取締役会側も、わざと難癖をつけることはできまい。一方、新井グループでは。勝が連行され調査を受けた結果、彼が「合法的なルート」を装って受け取った裏金が、合計で一億円に上ることが判明した。近藤取締役たちは怒りで気が狂いそうになっていた。近藤取締役は、勝が一度大きく稼いでから逃げるつもりだったのだと決めつけた。前回、勝が辞めようとした時、近藤取締役は、彼を京田市から追放してやると脅した。だがそれだけの裏金があれば話は別だ。働かなくても生きていける。腹は立つ。だが勝が使い物にならなくなった以上、また新たな操り人形を立
蓮司が美月を追い出したと聞き、透子は少し意外に感じ、理恵は驚いた。それから透子は冷ややかに言った。「こっちは確かに離婚したわ。ただ、彼が一方的にしつこく付きまとってくるだけ。来週、離婚訴訟を起こすから。裁判が終われば、私と新井はもう何の関係もなくなる。信じられないなら、自分で公判を傍聴しに来ればいいわ」美月はその言葉に眉をひそめ、半信半疑だった。もし離婚が通らなかったらどうすんの?そしたら、また自分が馬鹿を見ることになるじゃないか。「透子の言う通りよ。彼女と新井みたいなクズ男が離婚するのは当たり前。あんただけよ、あんな男を宝物みたいに扱ってるのは。誰が欲しがるっていうのよ」
博が振り返ると、そこにいたのは、口数の少ない方の女性だった。透子が博を手伝い、一緒に蓮司をベッドへと支えた。理恵は怪我をしているため手伝えず、ただそばで見守るしかなかった。岡目八目とはよく言ったものだ。彼女には見えていた。透子が蓮司に近づいた途端、彼がまるでタコのように、自分から透子に絡みついていくのを。先ほどまで博がどう支えてもぐにゃぐにゃで、全く力の入らなかった体が、今や足腰に力が入り、両腕を透子の腕にかけて、博を完全に脇へ追いやっている。理恵は、親友が善意で手を貸しているのを見ていたが、蓮司は徐々に体全体を透子に密着させ、少しの隙間も残さない。傍から見れば、二人はまる
蓮司は透子を見て、かすかに笑みを浮かべて言った。「透子、今日はお見舞いに来てくれてありがとう。心配をかけたね。理恵さんは、俺が良くなるのを心から望んでいるわけじゃないだろうけど、君は、俺が回復するのを願ってくれている、そうだろ?」理恵は頭をかしげた。何よ、この男、人を比べものにして。彼女は今、蓮司がこんな男ぶりっ子になったのは、自分を踏み台にして透子の同情と好感を得るためだと疑っていた。そして、その隙に、透子ともっと話そうとしているのだと!透子が返事をする前に、理恵はすぐに立ち上がり、親友の手を引いて言った。「新井さんが、私たちが善意で見舞いに来たんじゃないって思うなら、もう帰
蓮司は黙っていた。大輔の自信満々な態度を見て、メイクなど造作もないことだと信じてしまったのだ。そして、理論を実践に移す時が来た。大輔はファンデーションを掌に大量に出し、両手で勢いよく擦り合わせると、蓮司の顔に塗りたくった。両手を駆使して塗り広げ、確かに均一にはなったが……いや、これは白すぎないか?まるで漆喰の壁だ!大輔は慌ててティッシュで余分なファンデーションを拭き取り、自分の手も綺麗にした。だが、拭き終わっても彼の表情は晴れなかった。なぜなら……今の蓮司の顔は、あちこちが白く、所々が剥げており、まるで塗装が剥がれ落ちた古い壁のようだったからだ。大輔は修復作業に
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