LOGIN手元の仕事を切り上げ、信行は技術部へと足を運んだ。入り口にたどり着くやいなや、ホストコンピューターの前に座り込んでシステム調整を行う真琴の姿が目に飛び込んでくる。周囲には数名の技術員が群がり、熱心に彼女の作業を見学していた。ズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、信行は遠巻きに真琴を見つめる。その姿に、一瞬で目を奪われてしまった。技術員たちが真剣な眼差しで教えを乞う姿も相まってか、信行には真琴自身がまばゆい光を放っているようにすら思える。邪魔をする気にはなれず、ただ静かに入り口に佇んだ。ひたむきに仕事と向き合う彼女は、ひときわ輝いていた。一通りシステムの調整を終えると、真琴は傍らに立つ技術員たちへ顔を向けた。「おそらく操作ミスによるシステム障害ですね。今はもう復旧しているので、次からは気をつけてください」興衆実業が本格的にシステム開発やAI研究へ参入したのはここ数年のこととはいえ、企業としての総合的な技術力は極めて高い。今日起きたような初歩的なミスは本来あり得ないし、起こるはずもない。それでも、背後に立つ技術員たちが大真面目な顔で学ぼうとしている手前、真琴もきつい言葉はかけられない。ただ注意を促すに留めた。「ありがとうございます、西脇博士。今後は十分に注意します」「ありがとうございました。今日も博士から多くを学ばせていただきました」「本当にありがとうございます」真琴の言葉に、技術員たちは口々に感謝を述べる。それを受け、真琴はゆっくりと立ち上がった。穏やかな声で告げる。「他に用事がないようでしたら、私はこれで戻りますね」そう言って手提げ鞄を取り、肩に掛ける。まさにその場を立ち去ろうとした瞬間、背後から声が飛んできた。「社長」「社長」「社長」社員たちの声に反応し、真琴は鞄を肩に掛けたまま、焦ることもなくゆっくりと振り返った。そこには、信行の姿があった。男の真っ直ぐな視線が、真琴を射抜いている。視線が絡み合う。信行はポケットに両手を突っ込んだまま、周囲の空気を圧するような堂々とした足取りで歩み寄り、笑みを浮かべて声をかけた。「西脇博士」どこか上機嫌な信行の様子と、こちらを直視する眼差し。真琴はあっさりと視線を外し、彼を完全に無視した。推測が正しけ
どこまでも冷淡な信行の態度を前にしても、渚は落ち着き払っていた。向かいの椅子を引いて優雅に腰を下ろすと、静かに口を開く。「お互い大人なのですから、何かあるなら直接お会いして、はっきり話し合ったほうがいいと思ったんです」その物言いを聞いて、信行は心底くだらないと感じた。いい大人の間で、わざわざ言葉にして白黒つけなければならないことなどあるものか。語りたがらないこと、そして沈黙を貫くこと。それ自体が立派な拒絶のサインだ。そもそも、この間の電話で十分に事情は説明したはずだ。だから信行は顔を上げることもせず、手元の書類に視線を落としたまま冷徹に言い放った。「言うべきことはすでに伝えたはずだが。俺の意思はあれが全てだ」どこまでも取り付く島もない信行の態度に、渚の顔に微かな気まずさがよぎる。これまでの人生、彼女は常に男たちから追いかけられ、機嫌を取られる側の人間だった。自分から身を低くしてまで異性に尽くそうとしたのは、今回が初めての経験だ。とはいえ、相手は他でもない信行だ。じっと身動きもせず、渚はしばらく信行の顔を見つめていた。やがてふっと笑みを浮かべて問いかける。「信行さん。私、何か至らないところがありましたか?それとも、何かお気に障るようなことをしてしまったんでしょうか」どこまでも穏やかな彼女の声音に、信行はついに手元の作業を止めた。顔を上げ、渚の目を真っ直ぐに見据えて、真摯に告げる。「いや、君に落ち度はない。ただ、俺が君を好きじゃない。それだけのことだ」渚が何か言い返すよりも早く、信行はさらに言葉を重ねた。「俺なりに試してみたし、努力もした。だが、これ以上君の時間を無駄にさせる義理もないからな」まだ正式に付き合っているわけでもない。だからこそ、ここまではっきり告げるのは、信行なりの誠意であり責任の取り方でもあった。信行を直視しながら、渚はみるみるうちに顔色を変えた。しばらく信行を見つめてから、渚は絞り出すように問いかけた。「……前の奥様の、真琴さんが原因ですか?まだ、彼女のことが忘れられないんですね」厳密に言えば、今の渚と信行の関係性において、彼女にそこまで踏み込んで問い詰める権利はない。だが、どうしても聞かずにはいられなかった。渚の追及にも、信行はあっさりと事実を
渚のことなど、問題外だ。あいつと一緒になる可能性なんて、万に一つもあり得ない。あんな女、ちっとも好きじゃない。……しかし、祖父とやり合った翌日、各メディアのニュースサイトでは、信行とラジオ局のアナウンサー・成瀬渚の交際を匂わせるゴシップが、トレンドランキングをじわじわと駆け上がっていた。最初はかなり下の方にあったが、信行が絡んでいるとあって、あっという間に上位へと躍り出た。おまけに、渚は昨今もてはやされている美貌の人気アナウンサーだ。瞬く間に、ネットでも現実でも、この話題で持ちきりとなった。【親同士が決めた見合いだって噂だよ。これならトントン拍子でまとまるんじゃないか】【片桐信行は元妻を忘れられない、もう結婚しないって言ってなかったっけ?やっぱり男の言葉なんて信用できないな】【でも、お似合いの二人じゃないか。美男美女で】【男の言葉なんて真に受けちゃ駄目だ。片桐さんが二年も大人しくしてただけでも、上出来じゃないか】【ただ内海由美が可哀想だな。何年も曖昧な関係を引っ張られてたのに、ポッと出のアナウンサーに横取りされるなんて】今や、ネットの中だけでなく、街角でもこのゴシップが人々の口の端に上っていた。信行自身も、その記事を目にしていた。デスクの前で、無責任に書き連ねられたコメントの数々を眺める信行の顔色は、見る見るうちに険しくなっていく。数年前の信行なら、こんな根も葉もないゴシップなど鼻で笑って一蹴していただろう。むしろ、こうした噂が立つことで真琴の嫉妬を煽れるなら、好都合だとさえ思っていたかもしれない。だが今は違う。自分のゴシップを目にして、真っ先に真琴の目に触れることを、そして誤解されることを何よりも恐れていた。間もなく、祐斗がノックをして執務室に入ってくると、信行はスマホを机にパサッと投げ出し、顔を上げて命じた。「ネットに上がってるあの下らない記事、すぐに全部消させろ」「承知いたしました、社長」そう答えてから、祐斗はおずおずと顔色を窺いながら言った。「社長、成瀬様がお見えです」信行はしれっと顔を上げる。「どの成瀬だ?」つい先ほどまでその女とのゴシップ記事を見ていたというのに、信行の頭からは、渚のことなどすっかり抜け落ちていた。「……」祐斗は絶句した。
努力してみる気がなかったわけじゃない。だが、真琴以外の女じゃ、どうにもならない。開き直った態度の信行に、由紀夫は眉を深くひそめて問い詰めた。「お前、まだ真琴のところへ行くつもりか。あの子から身を引く気はないのか?」身を引く気はない、だと?その言葉に信行の顔色は一瞬にして冷え込み、低く冷たい声で言い放った。「身を引かないって、どういう意味だ?俺とあいつはもう二十年来の仲だぞ。会いに行くことすら、想うことすら許されないって言うのか?」信行が言い終えるや否や、祖父はすかさず言葉を返す。「会いたいだけだと?想うだけだと?夫婦だった頃はろくに見向きもしなかったくせに、相手にされなくなってから恥も外聞もなく付き纏うとは。我が家はお前にそんなみっともない真似を教えた覚えはないぞ!」由紀夫はさらに畳み掛ける。「お前が口に出さずとも、よりを戻したがっていることくらい手に取るように分かる。だがな、お前が復縁したくてあの子とやり直したいと願ったところで、真琴自身がそれを望んでいるとでも思っているのか?またお前と一緒になりたいと願っているとでも?」そして、由紀夫は容赦なく追い打ちをかけた。「真琴がどんな思いでお前のもとを去ったか、まさか忘れたとは言わせんぞ」その言葉に、信行の表情はこれ以上ないほど暗く沈み込んだ。ポケットに両手を突っ込んだまま、祖父を射抜くような鋭い視線で睨みつけ、やがて低く吐き捨てる。「俺のことに首を突っ込むのはやめてくれ。お祖父さんは自分の体でも心配していればいい」そう言い残すと、これ以上押し問答を続ける気も失せたのか、信行は背を向けて階段を上がっていった。誰も彼もが、自分と真琴の仲を邪魔しようとしてくる。一体自分がどれほどの大罪を犯したというのか。心を入れ替えてやり直すチャンスすら与えられないというのか。リビングに残された由紀夫は、階段を上がる信行の背中に向かって怒鳴りつけた。「成瀬のお嬢さんとの縁談は、嫌でも承知してもらうからな!もう二度と、真琴に迷惑をかけるんじゃないぞ!」あの時、自分が一瞬の情に流され、若者たちの言い分を呑んでしまったばかりに、こんな結末を招いてしまった。長く生きてきた分、人を見る目は若者よりもずっと確かだったはずだ。信行のあの捻くれた性格では、優しすぎる
一瞬にして頭の先から足の先まで澄み渡り、全身に活力がみなぎるのを感じた。たとえよりを戻せていなくとも、もう心が塞ぎ込むことはなかった。*マンションの一室。真琴は部屋に入るなり、ドアを背にしてずるずるともたれかかった。信行という男はあまりにも手強く、そのやり口はどこまでも抜け目がない。まだ離婚していなかったあの頃、信行がここまで自分にすがる日が来るなど、想像することすらできなかった。ただ……あまりにも遅すぎた。ドアに背を預けたまましばらく立ち尽くし、やがて真琴はようやく足を踏み出して寝室へ向かい、着替えを手にして浴室へと入っていった。扉の外では、先ほどの口づけの余韻からゆっくりと抜け出した信行が、階下へと降りて帰路についていた。真琴の反感を買わないよう、その後二日間、信行は大人しく身を潜め、彼女の邪魔をすることはなかった。ある夜、信行が早めに仕事を切り上げて本家へ戻ると、前庭の屋敷で由紀夫が両手で杖を突いたまま、鋭い眼光でこちらを睨みつけていた。祖父の険しい眼差しを正面から受け、信行は何事もなかったようにふっと笑った。「俺、何か犯罪でも犯したか?」言い終わるや否や、由紀夫は単刀直入に切り込んできた。「お前、成瀬のお嬢さんとはどうなってるんだ?前はあんなに上手くやってたじゃないか。どうしてまた急に掌を返したように突き放したんだ」信行が口を開く間も与えず、祖父はソファから立ち上がり、先ほどよりもさらに厳しい口調で説教を始める。「お前も今年で二十八だ。子供じゃあるまいし、もう少し責任ある行動はとれんのか。向こうはこの縁談に大きな期待を寄せているというのに、お前のこの身勝手な振る舞いは一体何だ?」祖父の叱責に、信行もさすがに聞く耳を持てなくなり、顔に浮かんでいた笑みはすっと消え失せた。無表情で由紀夫を見据え、焦る様子もなく淡々と反論する。「お祖父さん。第一に、俺はあいつと関係をはっきりさせた覚えはない。何度か顔を合わせて飯を食っただけで、俺から何か約束したことは一度もない。第二に、成瀬のほうがどんな期待を抱こうが、それは向こうの勝手だろ。俺はあいつらの願いを叶えるための打ち出の小槌じゃないし、彼らの期待に応える義務なんざどこにもない。第三に、見合いなんてものはただの顔合わせだ。気が合え
今この瞬間の信行の距離感は、まるで学生時代に戻ったかのようだった。その遠慮のない振る舞いに、真琴は振り返って一瞥した。信行のちょっとした下心など、真琴にはすっかりお見通しだ。だが、思い通りにさせる気など毛頭ない。部屋に上げることも、何らかの間違いを起こすことなど絶対にあり得なかった。やがてエレベーターが目的の階に到着し、降りて玄関先まで来ると、真琴は振り返って告げた。「着いたわ。もう帰って」そのあからさまな門前払いに、ある程度予想していたとはいえ、いざ面と向かって言われると、信行も内心面白くなかった。両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、目の前の真琴を見下ろして言う。「本当につれないな。せっかく家の前まで送ってきたんだ、お茶の一杯くらい淹れてくれてもいいだろうに」信行を見上げ、真琴は言い返す。「こんな時間にお茶なんて飲んだら、目が冴えて眠れなくなるわよ」信行が背を向けて立ち去らない限り、真琴は頑としてドアの鍵を開けようとはしなかった。とにかく、付け入る隙など一ミリも与えるつもりはない。そのあまりに徹底した警戒ぶりに、信行自身、だんだんとおかしくなってきた。そのまま玄関先で膠着状態が続き、一向にドアを開けようとしない様子に、とうとう信行は堪えきれずに吹き出してしまった。いきなり笑い出したのを見て、真琴もこうして睨み合っているのが馬鹿らしくなってきた。小さくため息をつき、口を開く。「もういいわ。じゃあ気をつけて帰……」言い終わるよりも早く、信行が唐突にその首の後ろを掴んだ。ぐっと力を込めて自分の方へ引き寄せると、そのまま身をかがめて強引に唇を塞ぐ。眉をきつくひそめ、真琴は咄嗟に両手を上げて突き飛ばそうとした。だが、信行はとうに予期していた。抵抗する隙など一切与えず、真琴の両手首を掴み上げると、さらに深く強引に口づけてきた。男女の力差はあまりにも歴然としており、本気で力ずくに出る信行を前にしては、真琴になす術などなかった。必死に抵抗したものの、結局は壁に押し付けられ、抗いようもなく唇を奪われ続ける。しばらく身をよじって抗っていたが、どうしても振り解けないと悟ると、真琴はもはや無駄な抵抗をする気すら失せた。背中を壁にぴったりと押し付けられ、強引な口づけも、手首を押さ