LOGIN私はその指輪を見下ろし、ふいに涙がこぼれた。涼は目を上げて私を見た。「俺のそばでは、君は誰にも譲らなくていい。君が一番で、唯一だ」私はそっと手を差し出した。指輪が薬指に嵌められたとき、庭の門の外で、何かが軽く地面に落ちる音がした。拓也が影の中に立っていた。あの画集が彼の手から落ち、敷石の上で再び泥にまみれていた。……一年後。私と涼は、書店の外の芝生でささやかなガーデンウェディングを挙げた。周りには私が描いた絵本や絵葉書が、色鮮やかに飾られていた。涼は淡い色のスーツを着て、屈み込んで私のベールを整えてくれた。「緊張してる?」私は首を振った。「少しお腹が空いちゃった」彼は笑って、キャンディを一つ私の手のひらに握らせた。「まずこれで我慢して。式が終わったら、美味しいご飯でも食べにいこう」そのとき、スマホが短く震えた。見知らぬ番号から、1枚の写真が届いていた。写真の中の拓也は車椅子に座り、ズボンの裾は途中から空っぽのまま垂れ下がっていた。全身が見る影もなく痩せこけている。メッセージは短かった。【祐那、安川市から帰ったあの夜、俺は放心状態で事故を起こして、両脚を失った。お前の描いた絵本は毎日見てる。今日は結婚おめでとう。これは俺が受けた報いだ】私はそれを読み終えると、静かに削除し、番号をブロックした。恨みもなく、ざまあみろというような快感もなかった。なぜなら、私の人生はとっくに前へ進んでいたからだ。拓也は療養施設の窓辺に座り、スマホの画面には送信完了の表示が出たままだった。介護士が薬をテーブルに置いた。「近藤様、お薬をどうぞ」彼は動かなかった。膝の上に置かれた絵本は、最後のページが開かれていた。少女がモクレンの絵筆を握りしめ、影の外へと歩み出し、紙いっぱいに明るい春が広がっている。彼はその1ページに手を伸ばし、指先が紙面の上で止まったまま、長い間動かなかった。背後でドアが開いた。可奈が立っていた。ひどく痩せ細り、顔には病的な白さが浮かんでいる。彼女は拓也の車椅子を見て、まず嫌悪の色を浮かべたが、すぐにそれを押し殺して嘘泣きを始めた。「拓也、あなたがお金の援助を打ち切ってから、両親は私の治療のために家まで売ったの。もうどこからもお金を借りられなくて、治療も続け
拓也のその様子を見て、私はふと、彼のことが見知らぬ他人のように思えた。かつての彼は、いつも確信していたのだ。私が譲るということを。私が待つということを。どれほど冷たくされても、いずれ自分から戻ってくるということを。今、私の庭に立ち尽くす彼は、必死にすがりつく姿さえ滑稽に見えた。「あなたに、私を問い詰める資格なんてあるの?」彼の唇は真っ白だった。「俺はただ、お前がこんなに早く俺を諦められることが受け入れられないだけだ」私は頷いた。「そうでしょうね、受け入れられるはずないわ。私のウェルカムボードをお姉ちゃんのものに差し替えて、私の招待状をお姉ちゃんに使わせて、結婚式では私より先にお姉ちゃんをエスコートする姿を見せつけようとしたんだから」拓也の肩が強張った。私は続けた。「あなたは私を愛してない。お姉ちゃんのことも愛してないわ。ただ、私が後ろに控えて、可奈があなたにすがりつく……その構図の中で、優越感に浸りたかっただけじゃない」涼は食器を片付ける手を一瞬止めたが、何も言わなかった。拓也は口を開きかけた。「そうじゃない」私は彼を見つめた。「じゃあ、どういうことなの?私がすっぽんの匂いに耐えられないと知っていながら、そのメニューを用意した。私が絵を描くのが好きだと知っていながら、7年間あなたの助手をさせ続けた。あのモクレンの絵筆が私にとってどれほど大切か知っていながら、それがなぜ引き出しにしまわれたままなのか、一度も尋ねなかったじゃない」拓也は突然身をかがめ、泥水の中からあの画集を拾い上げ、指の腹で表紙を必死に拭った。「これからは訊く。全部、埋め合わせるから」私は小さく笑った。「もう遅いわ」彼は膝を折り、私の前にひざまずいて、指で私のスカートの裾を掴んだ。「祐那、頼む。もう一度だけチャンスをくれ」拓也がこんなふうに頭を下げたことなど、一度もなかった。もし以前の私だったら、きっと動揺して、心が揺らいで、また自分をあの暗い影の中に押し戻していただろう。けれど私は、ただ静かに一歩後ろへ下がった。スカートの裾が、彼の手のひらからふっと滑り落ちる。涼が私の傍らに歩み寄り、無闇に触れたりせず、ただ隣に立った。拓也は顔を上げて彼を見た。その目には嫉妬しかなかった。「お前に何の資格がある?こいつと知り合って
母は振りほどこうともがいたが、涼の手はびくともせず、顔を真っ赤にして叫んだ。「私はこの子の母親よ!親が娘を叱って何が悪いの!」涼は手を離すと、私を半歩後ろへ庇うように立った。「彼女はもう大人です。あなたがたの所有物じゃない」拓也は涼の手元を睨みつけ、声を冷たくした。「これは俺たちの家の問題だ。部外者が口を出す資格はない」涼は静かに彼を見た。「彼女が望んでいないのなら、それはもう『あなたがたの』家の問題ではありませんよ」私は涼の背後から歩み出た。正直、また彼らと顔を合わせたら、震えて、傷ついて、泣きたくなるだろうと思っていた。けれどこの3人の顔を見ても、ただひどく遠い存在に感じるだけだった。私は母に向かって言った。「小学生の頃、私がテストで一番を取ったとき、お姉ちゃんが傷つくからって黙ってろと言ったわよね。中学の誕生日には、私のケーキをお姉ちゃんが食べられる無糖のものに替えられた。美大を受験したいと言ったときは、お姉ちゃんの治療にお金がかかるからもっと学費の安い学校を選べって言ったわね」母の顔色が変わる。「可奈は体が弱いんだから、少し優先するくらい、何が悪いの?」私は淡々と頷いた。「だから今日からは、これからずっと、お姉ちゃんだけを優先すればいいわ」私は財布から銀行のカードを取り出し、庭の石テーブルの上に置いた。「600万よ。今まで育ててもらった分の清算。これから先、私に両親はいないし、姉もいない」父が怒鳴った。「祐那、親に向かってなんて口の利き方だ!」私は彼を見た。「ええ。ようやく自分の足で立てるようになったの」拓也はずっと黙っていた。私が彼の方を向くと、彼はようやく我に返ったように口を開いた。「祐那、辛い思いをさせたのは分かってる。俺と一緒に帰ろう。式はやり直す。受付の写真はお前のに戻すし、招待状も刷り直す。可奈のことは俺が何とかするから」彼は必死に譲歩を並べた。まるでそれが、彼にできる精一杯の譲歩だとでも言うように。「拓也、あなたは今でも、私がただ結婚式のことで怒ってるとでも思ってるの?」彼の喉仏が動いた。「それだけじゃないのは分かってる。だが7年の付き合いだ、簡単に断ち切れるものじゃないだろう。まずは家に帰って話そう。勝手に話を終わらせるな」私は小さく笑った。「その家に
その三毛猫を彼から受け取ろうとしたとき、猫の爪が私の袖口に引っかかってしまった。彼は目を伏せ、丁寧に爪を外してくれた。その指先はとても落ち着いていた。「団子っていうんです。人見知りですが、画用紙が好きで」私が見下ろすと、団子はすでに私の画材箱の上に飛び乗り、丸くなってうとうとし始めていた。彼は一枚の名刺を差し出した。【ノスタルジア書店 深澤涼(ふかざわ りょう)】「隣に古書の修復作業台があります。道具が足りなければ、いつでも借りに来てください」私は頷いた。「ありがとうございます」安川市での生活に落ち着いてから、私は1冊の絵本を描き始めた。タイトルは「春を待つ」1ページ目に描いたのは、長い影の中に立つひとりの少女。手にはモクレンの木の絵筆を握っている。彼女は待ち続け、待ち続けて、白い紙の上に埃が積もるほど、ただ待ち続けた。先生は初稿を見終えると、ただ一言だけ言った。「癒しを急いではいけない。まずは痛みを、正確に描きなさい」私は庭で絵を直しながら日々を過ごした。団子はいつも、画架の下で丸くなっていた。涼は猫を迎えに来るたび、ついでに戸口に置かれた絵の具箱を中へ運び入れてくれた。彼は、私がどこから来たのかも、なぜひとりでいるのかも、一度も尋ねることはなかった。時々、食事を忘れて絵に没頭していると、石のテーブルの上に、いつの間にか温かいお茶と菓子が一皿そっと置かれていた。メモがカップの下に挟まれている。【冷めると胃に悪いです】その字は細く、整っていた。1ヶ月後、絵本のサンプルページをネットに公開すると、ちょっとした話題になった。出版社から出版契約の連絡が来て、見本誌の送付先にはこのアトリエの住所を書いた。絵筆一本で、初めて原稿料を受け取った。口座への振込通知が届いたとき、私はその数字の並びをしばらくじっと見つめてしまった。――私は、誰かの影であることしかできない存在では、なかったのだ。……拓也はがらんとした部屋に座り込んでいた。机の上には、ゴミ捨て場から拾い直してきた思い出のアルバムが置かれている。写真は汚水に浸かり、端がひどく反り返っていた。彼はティッシュでそれを少しずつ拭った。指の腹が擦れて赤くなるまで、無心で拭い続けた。秘書がドアの前に立ち、慎重な声で報告し
拓也の顔色がサッと沈んだ。「あいつは意地を張ってるだけだ。入り口に人をやって待たせておけ」司会者はタブレットを差し出しながら、声を震わせた。「ス、スクリーンをご覧ください。芳賀様が、タイマー再生を設定されていたようで――今、会場中のお客様がすでにご覧になっております!」拓也は勢いよく顔を上げ、宴会場のメインスクリーンを見た。大画面には一枚の画像が映し出されていた。拓也自身が承認した、あの「結婚式進行表」だった。そこにははっきりとこう書かれている。――【新郎はまず姉の可奈様を車椅子で押し、ふたりでバージンロードを歩く。その後、新婦が入場する】拓也の指先が宙で凍りついた。可奈の顔が、華やかな照明の下でじわじわと蒼白になっていく。次の瞬間、宴会場の扉が開き、ウェディングプランナーが純白のウェディングドレスを抱えて駆け込んできた。「近藤様、新居がもぬけの殻になっています。ベッドの上には、これだけが残されていました」ウェディングプランナーの震える腕からドレスが滑り落ち、裾が床の埃にまみれた。拓也は身をかがめてドレスを拾い上げた。その指の関節が、少しずつ白く強張っていく。ゲストたちの容赦ないささやき声が、四方から波のように押し寄せてきた。「まあ、あのお姉さん。普段はか弱そうに見えたのに、裏ではあんな真似をしていたなんて」「妹の結婚式で自分の夢を叶えるんですって?そんなの、ただの横取りじゃないの!」「道理で新婦が逃げ出すわけだわ。あんなの、誰が耐えられるっていうの。あのお姉さん、ずいぶん計算高いのね……」スクリーン上の進行表がゆっくりとフェードアウトし、最後に、私が残した黒い太字のメッセージが浮かび上がった。【お姉ちゃんがそんなに花嫁になりたいなら、こそこそ他人の式で夢を叶える必要なんてないわ。新郎ごと、全部あげる。おふたりとも末永くお幸せに。これから一生、ふたりで仲良くやっていけばいいわ。私のことは探さないで】拓也はスクリーンに映る【全部あげる】の文字を見つめたまま立ち尽くした。耳の中は、四方からの嘲笑とざわめきでいっぱいだった。その瞬間、彼は関節が白くなるほど拳を強く握りしめ、胸の奥を鋭く抉り取られたような激しい痛みだけが残った。彼は弾かれたようにスマホを取り出し、私の番号にかけた。しかし、聞こえてきたの
ウェディングプランナーがためらいがちにタブレットを差し出した。トップページのレイアウト案では、ウェルカムボードのメイン写真が、私たちふたりのものから可奈ひとりのものへと差し替えられていた。例の「あなたの花嫁」という言葉は消え、代わりに小さな一行が添えられている。――【すべての心残りが、優しく受け止められますように】私は尋ねた。「この言葉、誰が決めたの?」ウェディングプランナーはちらりと入り口へ目をやり、言いにくそうに答えた。「近藤様が、先ほどお決めになりました」ちょうどそこへ、拓也がドアを開けて入ってきた。手には温かい飲み物を持っている。彼はまずそれを可奈に渡し、それから私を見た。「祐那、ちょうどよかった。可奈の闘病仲間たちが数卓分増えることになったから、席はもう増やしておいたぞ」私は静かに尋ねた。「じゃあ、私の同僚や友人の席は?」拓也はまるで些細なことのように答えた。「後ろの席に移したよ。可奈の仲間たちは体が弱いから、出入り口に近いほうが都合がいいんだ」私はタブレットの画面で、最後列の隅へ追いやられた名前を見つめた。そこには、大学時代のルームメイトも、私の絵を褒めてくれた恩師も、唯一招待した前職の同僚の名前もあった。拓也は軽く私の手首を握った。「結婚式なんて人に見せるためのもんだ。席順なんかに拘るなよ、な?」車椅子に座った可奈が、また目を赤くして俯いた。「祐那、まだ私のこと、怒ってる?だったら、私、やっぱり来ないほうがいいのかな」母がすぐさま私を睨みつける。「可奈はあなたの結婚式に出るためにこんなに無理してるのよ。まだ何が不満なの?」私は拓也の指から静かに自分の手を引き抜いた。「参加するなとは、一言も言ってないわ」拓也は満足げに頷いた。「それでいい」昼食の席で、可奈が突然胸を押さえ、息を荒くした。隣の市に評判の医師がいて、その診察予約がちょうど結婚式当日の午前中に取れたのだという。母はその場で慌てふためき、私の腕をきつく掴んだ。「祐那、昼のガーデンウェディングは中止にしましょう。夜の宴会場に変更するの。私たちと拓也は可奈の診察に付き添わなきゃいけないから、あんたの結婚式まで面倒見てられないわよ」拓也は迷う素振りすら見せなかった。「夜のほうがちょうどいい。ガーデンは風が強いから、可奈の体に障