Masukジェイドは白シャツにサスペンダーと言う軽装で、貴族の外出着とは言えない装いだった。
「お加減はいかがですか? ラヴィ様」
「あ、あぁ……大分良い」
「貸して下さい。私が拭きましょう」
「いや……それは……」
下位の貴族とは言え“旦那様”と呼ばれているという事は、デルメール家を継いでいるという事だ。
ヴェルモナ王国の南の辺境であるデルメール領。
小さな領地ではあるが、その昔は港を有した貿易の拠点として栄華を誇った土地でもある。
今は国境を持つバロー領に取って代わられて衰退した小さな辺境となった。
そんな古い家名で下位であっても、家督を継いだ者に身の回りの世話をさせるのは、気が引けた。
「遠慮する事はありません。今でも、私にとってラヴィ様はお仕えするべき存在ですから」
「……それはどうだろうな」
此処へ来てから自分の家の事がどうなっているのか、一切分からない。
父親や家に仕えていた者達がどうなったのか――。
「お屋敷の事、ご心配ですか?」
「あ、当たり前だ! ジェイド……ローゼン家はどうなったのだ……?」
寝台脇に座ったジェイドは、手に取ったリネンを下して悲し気にこちらを見た。
本当に知りたいのか? そう聞かれている様に見える。
「やはり、もう誰も……」
「……いえ、ローゼン公爵は“
そう言われてラヴェルは一瞬、息を飲んだ。
「なんっ……だと?」
「ローゼン公爵は先日の朝刊でネブラ機関に連行されたと記事になっておりました」
ネブラ機関――通称“夜鷹”
王の勅命だけを受け、貴族達の監視、粛正、場合によっては暗殺をも実行する秘匿機関である。
「夜鷹……だとっ⁉ ネブラ機関が何故、ローゼン家に爪を立てる? 我々ローゼン家はヴェルモア王に忠誠を誓った身。それが何故っ……⁉」
「貴方と一緒に“エルメダの日記”が失われたからですよ」
「……日記が?」
「えぇ。今、ネブラ機関はその犯人を血眼になって追っている」
そう言ったジェイドの視線が、射る様にこちらを見ている。
その真剣な眼差しから視線を外す事が出来ないラヴェルは「だ、れが……」と拙く零した。
ローゼン家が王家からの最大の信を得ている証である“エルメダの日記”が失われた。
それはローゼン家が没落した事と同義だ。
エルメダの日記――古来、王家よりローゼン家に託されて来た禁忌の書。 公になれば世界中の均衡が崩れると言われている。ラヴェルも、その内容はまだ知らされていない。
「巷では、犯人は貴方という事になっています」
「……は?」
「貴方は今、窃盗犯として追われているという事です」
目の前が真っ暗になった。
ラヴェルはジェイドが言わんとすることを理解している様で、その言葉が耳孔に詰まる。
「お、俺が……? な、何の為に……?」
屋敷にあったものを盗んで逃げたなんて、そんな茶番を誰も信じるわけがない。
だが、父親はネブラ機関に逮捕されている。
それが本当なら、その茶番が真実として王の耳には入っているという事だ。
「詳しい事はまだ……。私が市井で集めた情報もまだ十分とは言えません」
「もしかしてその為に街へ……?」
「庶民の噂は侮れませんから」
そう言って眉尻を下げて笑うジェイドは「体を拭きましょう」と立ち上がる。
「……すまない」
ラヴェルはもう抵抗する気力もなかった。
手の内の小さな鍵が柔らかい肉を刺して痛む。日記を持って逃走した嫡男の罪を背負って、父親がネブラ機関に逮捕されたのだとしたら、早く王都へ戻って身の潔白を証明する必要がある。
だが日記がこの手にない以上、確保された上に拷問にかけられるのが目に見えている。
日記を持っていたとしても、極刑に変わりはないだろう。
だが日記を取り戻し、真犯人を証明できればあるいは――。
「大丈夫ですか? ラヴィ様」
ジェイドの大きな手で背中をゆっくりと摩る様に、リネンで拭かれる。
「ジェイド、俺はどうしたら良い? 父上を助ける為にはどうしたら……」
「日記が見つからない以上、貴方が姿を見せるのは得策ではないでしょう」
「じゃ、じゃあっ……日記をっ……」
「あてもなく探して見つかるものではありません」
「しかしっ……! 日記を取戻さなければ……」
「ローゼン家は没落。貴方の罪も晴れることは無いでしょう。だがしかし、闇雲に探しても見つかるとは思えません」
言われている事が当たり前すぎて、ラヴェルは続く言葉が出ない。
何せ、自分が攫われた時のことですら何も分からないのだ。
覚えているのはあの薔薇のような、深い酒のような芳香だけ――。
だがそれだけであの誘拐犯に辿り着けるはずもない。
「
そう言われてラヴェルはビクリと肩を竦めた。
知っているはずがない――もしかして、着替えの際に気付かれた?
困惑し、ラヴェルは無言のままジェイドを見る。
「何故、知っているのか? と言う顔ですね」
そう言ったジェイドに、ラヴェルは無言で睨み返した。
「大丈夫。誰にも話したりはしません」
「何故……お前が知っている?」
逸る鼓動が言葉を乱暴にした。
この秘密はローゼン家の者、いや正確には父上と王家の一部の人間しか知らない秘匿事項だ。
「その昔、夜中にローゼン家へと届け物をした事があるのです」
ラヴェルはひゅっと息を飲んだ。
あれを見られたのか――?
そう思うと腹の底から羞恥が沸き上がり、ラヴェルは言葉を失った。
ジェイドはそれ以上話すつもりはないとばかりに「その話はまた今度」と余裕の笑みを漏らす。
「夜鷹は正体不明。ラヴェル・ローゼンのまま外へ出れば、何の成果もなく捕獲されるのがオチです」
「ではっ、どうしたらっ……俺はっ! 俺が! ローゼン家は潔白だと証明しなければ!」
ラヴェルは憤り、昂ったまま語気を強めた。
それをジェイドは優しく微笑みながら覗き込み、穏やかに一言零す。
――――生まれ変われば良いのです。
バロー伯爵と顔を合わせて数日が経つ頃、その声は切り裂くように飛び込んで来た。「ベル様っ、侍女殿がっ!」 毎日書庫へ行き、与えられた部屋で本を読むふりをしながら、皇太子に言われた事を延々と考えている。 その思考に終止符を打ったのはランベルトだ。 ラヴェルは驚き、一瞬瞳を瞬かせる。「ど……どうしたの? ランベルト」 いつもは寡黙な彼が、息を荒げて飛び込んで来た。 それだけで緊張が走る。 リゼルはお茶を淹れて来ると部屋を出て行き、しばらく経っていた。「何者かに刺されてっ……」「刺されたっ⁉」 ラヴェルは読んでいた本を閉じ、思わず立ち上がる。「リゼルはどこにいるのっ?」 ドレスの裾を持ち上げ、部屋を出ようとして、ドアの前に立ったランベルトに制された。「いけません、ベル様。何があるか分からない」「いいえ、リゼルは私の侍女よ。そこをどきなさい」「承服しかねますッ!」 ランベルトはそう言い切って、こちらをジッと見ていた。 彼には彼の責務がある。 皇太子に護衛を頼まれている以上、敬語対象に何かあれば、罰則では済まないだろう。 そこまで考えてラヴェルはふぅっと深く息を吐いた。「ランベルト、リゼルはどこにいるの?」「今は医務室で手当てを受けているはずです」 ラヴェルは治療を受けていると聞いて、ホッと胸を撫でる。「大丈夫なの?」「分かりませんが、呼吸は確認できております。背後から刺されたようです」「一体誰が&hel
ジェイドは物言わぬネロを連れてバロー領へと入った。 港はかつてのデルメール領のように賑わい、国軍は国境付近に大きな砦を構えている。 他国からの移民も多く、紛れるには苦労しない土地ではあるが、ジェイドはローブを被ったまま歩いた。「ネロ、先に宿場へ行こう」 ただ頷き返すネロは、右手で行き先を指して歩き出す。 彼はこの土地に詳しく、道案内兼護衛として連れて来た。「東の風は乾いているな……」 南に位置するデルメールとは違い、湿度がなく乾燥している。 色とりどりのテントやはためく輸入物の反物が、賑やかさに拍車をかけていた。 宿場へと荷を下ろし、ジェイドはすぐさま地図を広げる。 目的はバロー領で密かに“生産”されているアンドールの子供達だ。 証言して貰えれば一番良いが、彼らを保護する事が出来ればやりようはいくらでもある。 ネロが地図の一か所を指してこちらを見た。「ここから入るのか?」 ネロは頷き、地図上を指で辿りながらある一点で止める。 そこはバロー領の玄関口とは違う、裏手の小さな海岸だった。「ここから船を?」 ネロは頷き、唇をゆっくりと動かして見せる。 彼がリゼルとレヴィンを連れて屋敷に現れた時から、数年。 彼の為にジェイドは読唇術を覚え、彼との会話を可能にして来た。「船をつけてあるのか」――こちらから脱出します「分かった。夜を待って向かおう」 ネロはコクリと頷いて、しっかりとこちらを見る。 元々、彼はバロー伯爵の部下として従軍していた軍人の一人だった。 だがバロー伯爵に迎合しなかった事で、アンドール達の監視員として地位を剥奪され地下へ送られた。「早く帰ら
「ベル様、今日はいかがしましょうか?」 リゼルがいつものように支度を手伝いながらそう聞いて来る。 あの晩以来、何もする事が無く部屋で軟禁されているようなものだった。 許可されているのは部屋のテラスから出られる庭と、近くにある書庫だけ。 皇太子に言われた言葉たちは日増しに重みを増していく。「書庫に行って借りて来た本をお庭で読みましょうか」 ラヴェルの脳内は皇太子との婚約話をどう回避するかでいっぱいだが、リゼルにそれを悟らせたくなかった。 自分が皇太子妃になれば、全ては丸く収まる。 ジェイドも、デルメール領の民も、何も失わずにいられるのかもしれない。 自分がジェイドを手放せば――そこまで考えて、また振出しに戻る。 ラヴェルは首につけた夜境石のネックレスを無意識に握った。 支度の間、部屋の外で待たせていたランベルトは「どちらへ?」と短く問う。「書庫に本を取りに行くだけよ。貴方はお茶の用意を誰かに頼んでくれないかしら?」「かしこまりました」 本来なら護衛に頼む事でもない。 だが、先日のリゼルの件があってラヴェルは彼女をむやみに一人で歩かせたくなかった。 部屋から書庫へ行く途中、人の声が聞こえてラヴェルは足を止める。 後ろから付いて来ていたリゼルがすかさず一歩前に出て、様子を窺う。「お父様、勝手に入っては叱られてしまいますわ」「何、迷ったと言えば良い」 若い女性と、低い男性の声だ。 部屋に引き返すか、否か、迷っている内に彼らが突き当りの角から姿を現した。「……ここは皇太子殿下の居城だというのに、どこのご令嬢かな?」 体格のいい軍服を纏った男は、そう言ってこちらを不躾に舐めるように見る。 その隣には可憐を絵に描いたような少女が、似合わない赤いドレスを着せ
上着もはおらず軽装のまま姿を見せた皇太子は、リゼルの怪我を聞きつけて見舞いに来たらしい。「ベル、侍女の怪我の具合はどうだ?」「殿下、恐れ入ります。本人は大丈夫だと……」「こちらの通達が遅れたばっかりに、すまなかった」「いえ……」 ラヴェルは殊勝な皇太子の態度に、反論も出来ずただやり過ごそうとした。 傍に立って首を垂れるリゼルは、きっとまだ痛いままだというのに……。「少し、話せるか?」 そう言った皇太子は、こちらではなくランベルトとリゼルの方へと視線をやる。 暗に“出て行け”と言いたいのだ。「では、我々は外で待機しております」 こちらの返答も聞かずにランベルトはリゼルを連れて部屋を出る。 仕方ない。 この状況では、皇太子を拒否する事は出来ない。「何のお話でしょうか? 殿下」「まぁ、そう急くな」 皇太子はソファに腰掛け、足を組み、対面に座れと促す。 若い後継者ではあるが、ラヴェルはこの男を侮るほど世間知らずにもなれなかった。 夜会では礼儀的に声を掛け合う程度、仲良く話した記憶もあまりない。「侍女には悪い事をした。後で詫びを贈ろう」 詫び、といいながら表情が詫びているように見えない。 でも彼にはそれが許されるだけの権力がある。「いえ、その様なお心遣いは無用です」「その内、私の婚約者が城内に招かれていると噂になるだろう」「左様でございますか」「ベル」 名を呼ばれて顔を上げると、皇太子が前のめりに肘をつき見つめている。 嫌な予感がした。「何でございましょう?」「君はとても美しいな」「はぁ……恐
一方その頃、セルジオは皇太子の私室にいた。「計画通りだな、ナハト」「そうですね。しかしこれからが本番です」 そう言うと、皇太子は「ふん」と鼻で笑う。「ベル嬢が男爵を裏切るとは思えません」「しかし、男爵を質に取れば、彼女も言う事を聞くだろう」「こちらの裏切りがバレたら、一巻の終わりですよ」「あんな南の辺境まで行ったんだ。必ず手に入れてみせるさ」 そう言った皇太子に無言のまま敬礼し、セルジオは部屋を出る。 ジェイド・デルメールは野放しに出来ない。 まだ何かを隠し持っているのではないか? そう思わせる程、用意周到な男でもある。 流れの情報屋のふりをして近づいたが、結局最後まで信頼される事もなかった。 皇太子の私室から軍の詰所へと向かう途中、大きな声が聞こえてセルジオは足を止める。「跪けッ! 動くなッ!」 声の方へと歩いて行くと、下級の兵士がお仕着せを着た小さな侍女を捕まえて声を荒げている。「お前は何処から入った⁉ 何者だッ! 言わんかッ!」 兵士は持っていた警棒で、彼女の大腿部を強く叩いた。 セルジオは見兼ねて声をかける。「おい」「……これは、ナハト大尉! お戻りになっていたのですね」「お前は何をしている?」 兵士は男爵家の侍女リゼルの片腕を、引っ張り上げたままだ。「この怪しい者が場内をうろついておりまして」「いや、俺今、お前に何しているか聞いたよな?」 セルジオは軽い調子の言葉とは裏腹に、しっかりと兵士を見て問い返した。「ふ……不審者に尋問しておりました」「放してやれ」「ですがっ……」「殿下の客人の侍女
翌朝、目が覚めると隣にはもうジェイドはいなかった。 裸のまま半身を起こすと、体中に彼が付けた所有の証が朝陽で良く見える。「……着替えないと」 リゼルを呼びつけ着替えを用意して貰ったが、明らかな事後にリゼルに手伝って貰うのも気が引けた。「自分で出来るわ」「ダメです」 間髪入れず断ったリゼルは無表情のままコルセットを持って待機している。 おずおずと恥ずかし気に寝台を出たラヴェルは、大人しくリゼルの前に立った。 ジェイドはバロー領へと早朝に出発したらしい。 起こしてくれたらよかったのに、と思いながらも、黙って出て行く所がジェイドらしいとも思える。「本日のドレスは旦那様がお選びになりました」 リゼルがそう言って出して来たのは、美しい碧いドレスだ。 まるで人魚の鱗の様にシルクの生地が幾重にも重なって揺れ動く。 首元まで隠れるクラシカルなデザインで、昨夜咲いた花達はしっかり隠せる。 自分の瞳の色を纏わせて、他の男の婚約者を演じさせる所も、彼らしい。 一年前なら困惑していたかもしれない。 でも、今なら分かる。 ジェイドの熱を全身全霊で受けた今、何も疑う余地はない。 昨晩の余韻がドレスの内側に仕舞われる頃――。 部屋の扉がノックされ、リゼルが扉へと向かう。「おはよう、侍女殿」 声の主はセルジオらしい。「レディをお迎えに上がりました。殿下が馬車でお待ちです」「お待たせしてしまっているのね。リゼル、行きましょう」 身を翻し部屋を出たラヴェルたちを待っていたのは、豪奢で大きな馬車だった。 乗り込むと皇太子はもう暇そうに頬杖をついて、車窓の外を眺めている。「おはようござ
「生まれ変わる?」 起き上がれる様になり、初めて食堂で一緒に晩餐をとった夜。 ラヴェルはジェイドにそう聞き返した。「えぇ、そうです」「ど、どう言う意味だ……?」「ラヴェル・ローゼンとしての全てを捨てて、別人としての人生を歩むのですよ」「別……人……。しかしっ……」「では、他に方法が?」 そう言われてラヴェルは唇を噛む。 ローゼン家の嫡男として追われている自分が、怪しまれずに外へ出るには、それしかない
ジェイドは出先から帰って来てリゼルとラヴェルの会話を扉越しに聞く。 巷では公爵家の嫡男が王家の秘密を持って逃走した――と派手に吹聴されていた。 「さて、どうするか……」 ジェイドが幼い頃はまだデルメール家が貿易の拠点として栄えていた。 王家御用達の宝石商として栄華を誇るローゼン家と、輸出入を担うデルメール家は懇意にしており、二つ年下のラヴェルとは幼馴染として過ごした時間もある。 だがデルメール家は十年ほど前にとある事情で、衰退の一途を辿る事になった。 静かに、沈殿するよう
「ぐえっ――! げほっ、げほっ――!!!」 ラヴェルは必死に目を開け、直後に海水を激しく吐き出した。 肺が引き裂かれたように痛む。 呼吸の一つ一つが拷問だった。 「ゔっ……」 「ラヴィ様っ! お
ラヴェルは、自分があとどれだけ持ちこたえられるのか分からなかった。 海水が無数の手のように、彼の鼻や口を引き裂く。 肺に流れ込み、空気のひと欠片まで押し出していく。 視界は閉ざされ、四肢も縛られている。 ラヴェルは誰かに捨てられた石のように、ゆっくりと真っ暗な底へ沈んでいった。 これが、ローゼン公爵家の嫡男の末路なのか? 二十分前まで、彼は王都で最も豪華な夜会にいて、クリスタルのグラスを手に、皆からの祝いの言葉を受けていた。「ラヴェル様、ご立派になられて」「ラヴェル様は王家からの期待も大きいですからな」 偽りの笑顔、追従の言葉。 彼はただ早く家に帰って、夜会服を脱ぎ







