LOGINラヴェルは、ローゼン公爵家の嫡子として何不自由ない生活を送っていた。しかしある夜、そのすべてが崩れ落ちる。 禁書の紛失事件の犯人として罪を着せられ、 さらに誘拐事件に巻き込まれた末、彼は海へと突き落とされる。 彼を救ったのは、一目見た瞬間に運命を感じさせる男——ジェイドだった。 ラヴェルは正体を隠し、ジェイドの“女”として生きることを選ぶ。 しかし、やがて辿り着く真実はあまりにも残酷だった。 ラヴェルを絶望の淵へ突き落としたのは——全てジェイドだった。 復讐と愛欲が絡み合い、繭のように彼を縛る中で、ラヴェルは蝶として羽ばたくのか、それとも仇敵とともに深淵へ堕ちていくのか。
View Moreラヴェルは、自分があとどれだけ持ちこたえられるのか分からなかった。
海水が無数の手のように、彼の鼻や口を引き裂く。
肺に流れ込み、空気のひと欠片まで押し出していく。視界は閉ざされ、四肢も縛られている。
ラヴェルは誰かに捨てられた石のように、ゆっくりと真っ暗な底へ沈んでいった。
これが、ローゼン公爵家の嫡男の末路なのか?
二十分前まで、彼は王都で最も豪華な夜会にいて、クリスタルのグラスを手に、皆からの祝いの言葉を受けていた。
「ラヴェル様、ご立派になられて」
「ラヴェル様は王家からの期待も大きいですからな」
偽りの笑顔、追従の言葉。
彼はただ早く家に帰って、夜会服を脱ぎ、ベッドに横たわりたかっただけなのに――雷鳴がバリバリと天を走る。
夜会帰りのラヴェルは、屋敷に入って痛い程の沈黙に首を傾げた。
明かりがついているはずのエントランスも、出迎えるはずの執事の姿も見えない。 「何だ……? 誰か、居ないのか? クレイ……?」 やけに自分の声が響く。 広い屋敷の中にあるのは、地面を激しく打つ雨音と、吠え猛る風の声だけ。 それが静けさを濁らせていた。誰も彼に応えなかった。
自室の前まで来て、ピタリと足を止める。 「……何だ?」 最初に気付いたのは血の匂い。 何か異変が起きている。 余りにも人気の無い屋敷に、無意味に背後を気にして振り返った。 「……?」 自室の扉を開けた先には、血塗れになって横たわったクレイの姿があった。 「クレイッ!! なっ、どうっ……」 言葉も思考回路も途切れ、ただ、ただ、横たわるクレイの硬い体を揺さぶる。 開け放たれたバルコニーへの窓がバタリバタリと風に踊らされていた。 「――クレイッ!!」 ラヴェルは諦めきれずに声を掛ける。 僅かに口を開いた様に見えたが「逃げっ……」と短く吐き出された。震えるクレイの握りしめられた手がこちらの胸元を押し付ける様にして、何かを訴えて来る。
ラヴェルは反射的にその手を握る。
その手の内には、ローゼン家の象徴であるロゼリアと言う宝石が埋まった小さな鍵が握られていた。
「しっかりしろっ! クレイッ!」
声を荒げ激しくクレイの体を揺さぶる。
だが、触れた手にぬるりとしたクレイの血がベッタリと付いて、微動だにしない彼がもう生きてはいないのだと思い知らされた。
彼が託そうとした鍵を半ば強引に奪い取り、内ポケットへと入れた。
息が上がり、冷たい汗がわけもなく噴き出して頬を伝う。
何が起こっている――? 父上は?何より――エルメダの日記は?
振り返った――その瞬間。
薬を染み込ませた布で、背後から頭を覆われた。 視界を覆われ、喉元を締め付けるその布を剝ごうと足掻く。深い酒のような芳香に、意識が霞んだ。
「連れていけ」
声の主は男だった。
骨まで凍らせるような、冷たい声。
ジタバタと抵抗するも、首の圧迫感に声すら出せず、ただ引き摺られて行く。
焦りだけが断片的に残り、ラヴェルは意識を手放した。
◇◇◇ 意識が戻った時、彼は手足を縛られ、揺れる船の上にいた。 恐怖で体が小刻みに震えている。何も分からない。
その恐怖が冷静さを奪って行く。
いったい誰が――――何の為に? 殺さずに連れてくると言う事は、公爵家の嫡男であるラヴェル・ローゼンに用があるのか? もしくは人質として連れ去られたのか。 鈍く回らない頭をラヴェルは必死に回す。 だが、その無意味な試行錯誤をしている間に、自分の身の振り方は決まってしまった様だ。 「捨てろ」 男の声でそう告げられた時、両の手足を抱えられ体が宙に浮いた。 「ちょっ……まっ……」 反射的に「待ってくれ」と言いたかったが、それすら遅かった。 ゆりかごのように揺られて、ふわっと浮いた後―― ザッパンと冷たい海へと放り出されたのだ。 顔も覆われて足を拘束された状態で海に投げ捨てられる。 顔を覆った布の中に海水が入り、呼吸は出来なくなった。 この大雨で荒れ狂う海に放り出され、生きて帰れる希望を抱けるほど、おめでたい頭はしていない。 ラヴェルは吸えなくなった空気の代わりに、海水を飲み、藻掻き、そして沈んで行く。彼は、それが誘拐だと思った。
甘すぎた。 奴らは最初から、生かしておくつもりなどなかった。 それでも――彼は水中で必死にもがき、全身で叫んでいた。 死にたくない――!!しかし海は理不尽だった。
海水が彼の肺に流れ込み、最後のひと欠片の温もりまで押し出していく。
手足はどんどん重くなり、もがきは次第に弱まっていく。まさか……。
意識が途切れようとしたその瞬間――骨ばった、大きく力強い手が、ラヴェルの手首を強く掴んだ。
◇◇◇無意識の中で聞いたのは懐かしい声だった。
「ラヴィ様……?」遠く聞こえるその懐かしい呼び名に、朦朧とした意識が浮上する。
息が苦しく、潮の匂いが胸を焼いた。
体は熱く、瞼はどう頑張っても開かない。 ただ不快感だけが、体を覆っている。 「ラヴィ様……何でこんな所に……」自分の事をそう呼ぶ人間は、家族の他に一人しかいない。
それは……「なっ……」 誰だ、何だ、何の用だ、と言葉にしたいが口が動かない。「ウォォォ――――ッン」 空に向かってそう吠えた男の声に、ラヴェルは驚きビクッと身を固くする。 ラヴェルはその異様に体躯の大きな男を前に、身動ぎ一つ出来なくなっていた。 ただ怖い物から視線を逸らせない。 その意志だけが、ラヴェルに残っていた。「み、つけた……」 男の大きな手がこちらへと伸びて来て、ラヴェルは座り込んだ木の根を這いずるようにして逃げる。 だが、疲弊し力尽きているラヴェルは、軽々と担がれてしまう。「やっ……! ヤメロッ! 離せッ!」 ラヴェルは残った力を振り絞って、ジタバタと暴れて男から逃れようと藻掻く。 だが、その大きな腕はビクリとも動かず、聞く耳も持たないと言った風だ。「おろせっ! 触るなッ!」 男の肩に担がれて一頻り暴れ、その男の胸に膝蹴りし背中を拳で叩いてみても、まるで壁を殴っているようだ。 当の本人はまるで痛みを感じておらず、こちらの手の方がジンジンと痛む。「だんな、さま……み、つけ、た」 男がそう言ったのを聞いて、ラヴェルは「え?」と振り返る。 無様に担がれた自分の視線の先には、傘も差さずにずぶ濡れになったジェイドが見えた。「はぁっ……はぁっ……レヴィン、降ろして良い」「ん」 レヴィン――? その名前に聞き覚えがある。 そう思ったのも束の間、そっと降ろされたラヴェルは、濡れそぼり息の上がったジェイドを見て、俯いた。 眉根を寄せて肩で息をするジェイドを見て、ラヴェルも顔を歪めた。 ゴロゴロと唸りを上げる空の音に紛れるようにして「すまない」と目を逸らす。
オルレイン博士を探そうと、ラヴェルは部屋を出る。 静まり返った古い屋敷に雨の音だけが響いて、少し薄気味悪いくらいだ。 長い廊下の先に炊事場の入り口を見付けて覗き込む。「お呼びですかい、旦那様」「エド、使いを頼まれてくれ」 御者だった男を呼びつけて、オルレインが何か話している。 話し終わったら暇を申し出ようと、壁際に隠れるようにして待った。 博士は小さな手紙らしきものをエドに手渡している。「じゃあ、これを渡せば良いんですかい?」「あぁ、渡して“見つけた。間違いない”と伝えろ」 その博士の言葉を聞いてラヴェルはひゅっと息を飲んだ。 誰に何を伝えようとしているのか? 見つけた、というのが自分の事ならば今、港には王都から調査隊も来ている。 逃げないと――!! 真実は分からない。 オルレイン家は国王派の筆頭貴族の一つ。 犯罪者ラヴェル・ローゼンを見付けたならば、突き出すに違いないのだ。 口の端が震える。 ラヴェルはそっと炊事場の扉の陰から離れ、出入口を探す。 だが、余りウロウロしていては博士に見つかってしまうだろう。 そう考えたラヴェルは案内された部屋まで戻り、その部屋の窓から飛び出した。 地に足をつけた際、傷めた足に激痛が走る。「――ッ!!」 それでも、見つかってはならないという警戒心が、声を嚙み殺した。 左足を引き摺りながら、来た道を戻る。 博士が気付いて追い掛けて来たら、すぐに捕まってしまう。 ラヴェルは焦って足が縺れそうになりながら、痛みに堪え一歩ずつ歩いた。 唯一、男物の服に着替えていたせいで、濡れたドレスの様に重くはないのだけは幸いだった。「はぁっ……はぁっ……」
押しの強いオルレイン博士に、麓の街へ行く前にと小さな屋敷へと連れて行かれる。 小さな庭と貴族の別荘と言うには質素なその屋敷には、使用人の気配さえない。 傍に設えてある厩と雨に濡れる素朴な草花が、よく似合う古い建物だった。「ここは……?」「私の仕事場だ。年季は入っているが、居心地は悪くない」「仕事場……」「あ、そうだ。名乗っていなかったね、私はルアン。ルアン・オルレインと言う。君は?」「あ……ベルですわ」 ラヴェルはデルメールの名を出す事を憚り、敢えてそう答えた。「さぁ、中へ入って少し休むといい」 案内された客間には、小さな本棚とアンティークのテーブル、人気がないせいなのか雨の音が良く響く。 古くても大事にされて来たであろう家具たちが、良い具合に歳を重ねている。 ただ何か、ほんの僅か、違和感があった。「ここには女性用の着替えはないな……暖炉を入れ……いや、使えたかな?」 まるで独り言の様にそう言いながら暖炉の奥を覗いている。「あの、オルレイン様……どうか、お構いなく……」「いや、でも君っ……」 振り返った博士の顔に、煤がついている。「ふっ……オルレイン様、お顔に煤が」「あっ、え……」 顔を袖で拭ってオルレインは「あぁ……」と残念そうな声を上げる。 人の良さそうな博士の人となりに、ラヴェルは少しホッと胸を撫で下ろした。 男だとは気づかれていない様だし、ここからなら街まですぐそこだ。 歩いてでもそう遠くはない。 着替えの代わりに、と出された男物のシャツとスラックスを受け取り、お茶を淹れて来ると部屋を出る博士を見送る。 流石に男物を着るのは拙い。 でも
小雨が降る中、屋敷の敷地内出るだけで、ドレスが重さを増してくる。 裾が汚れない様に持ち上げてみるが、傘を持って来られなかったのは痛手だった。 リゼルに気付かれる前に、出来るだけ屋敷から離れないといけない。 その焦りが足を急かし、少しずつ強まる雨がその行く手を阻む様に向かって来る。 ラヴェルは一先ず麓に見える街を目指して歩き続けるが、泥濘に足を取られてよろめく。「あっ……」 濡れたドレスの裾が足に纏わりついて危うくこけそうになり、傍にあった木に手を伸ばした。 だが足首があらぬ方向にぐりっと曲がり、激痛が走る。「いっ……た……」 思い切って出て来たは良いものの、街に辿り着く事さえ出来ない。 自分の無力さが足の痛みを酷くする。 痛みを堪えて眉根を寄せ、大きな溜息を吐いた。 木陰で雨は凌げているが、このまま麓に降りるのも簡単ではない。 屋敷に戻れば全身びしょぬれで隠し通せるはずもなかった。「何やってるんだろうな……」 頬に張り付いた髪が口に入るのを、うっとおしく指で払う。 街へ下りたとて、どうやってセルジオを探せばいいのかも分からない。 港付近へ行けばジェイドに遭遇する可能性だってある。 あの日以来、ジェイドとは真面に会話もしていない。 屋敷を出たと知られれば、今度こそ愛想をつかされて追い出されるかもしれないというのに――。 いやでも、真実を知らなければあの屋敷で安心して眠れる日は来ない。 そんな事を呆然と考えていると、遠くから馬車の蹄の音が聞こえて来て、ラヴェルは顔を上げた。 段々と近づいて来るその馬車に、一縷の望みをかけ、飛び出した。 こちらの存在を認めた御者が、驚き、手綱を引いて馬車を停める。 甲高い馬の嘶きの後、驚いた御者が「そんな所で何してる!
ラヴェルは、自分があとどれだけ持ちこたえられるのか分からなかった。 海水が無数の手のように、彼の鼻や口を引き裂く。 肺に流れ込み、空気のひと欠片まで押し出していく。 視界は閉ざされ、四肢も縛られている。 ラヴェルは誰かに捨てられた石のように、ゆっくりと真っ暗な底へ沈んでいった。 これが、ローゼン公爵家の嫡男の末路なのか? 二十分前まで、彼は王都で最も豪華な夜会にいて、クリスタルのグラスを手に、皆からの祝いの言葉を受けていた。「ラヴェル様、ご立派になられて」「ラヴェル様は王家からの期待も大きいですからな」 偽りの笑顔、追従の言葉。 彼はただ早く家に帰って、夜会服を脱ぎ
「生まれ変わる?」 起き上がれる様になり、初めて食堂で一緒に晩餐をとった夜。 ラヴェルはジェイドにそう聞き返した。「えぇ、そうです」「ど、どう言う意味だ……?」「ラヴェル・ローゼンとしての全てを捨てて、別人としての人生を歩むのですよ」「別……人……。しかしっ……」「では、他に方法が?」 そう言われてラヴェルは唇を噛む。 ローゼン家の嫡男として追われている自分が、怪しまれずに外へ出るには、それしかない
ジェイドは出先から帰って来てリゼルとラヴェルの会話を扉越しに聞く。 巷では公爵家の嫡男が王家の秘密を持って逃走した――と派手に吹聴されていた。 「さて、どうするか……」 ジェイドが幼い頃はまだデルメール家が貿易の拠点として栄えていた。 王家御用達の宝石商として栄華を誇るローゼン家と、輸出入を担うデルメール家は懇意にしており、二つ年下のラヴェルとは幼馴染として過ごした時間もある。 だがデルメール家は十年ほど前にとある事情で、衰退の一途を辿る事になった。 静かに、沈殿するよう
「ぐえっ――! げほっ、げほっ――!!!」 ラヴェルは必死に目を開け、直後に海水を激しく吐き出した。 肺が引き裂かれたように痛む。 呼吸の一つ一つが拷問だった。 「ゔっ……」 「ラヴィ様っ! お