LOGIN「……感心しないわ、人の部屋に勝手に入ってくるのは」
「ごめんなさい、ノックはしたんです」
眉間に皺を寄せ、彼女は困り顔でそう言った。ノックをし、恐らく声もかけただろう。音もせず、ひたすら振動だけ伝わってくる部屋なんてわざわざ声をかけなくても責める者などいないだろうに。少なくとも私はそう思う。それに、これはどちらかと言えば、他の音を聞くなど全くなかった私に非がある。
ただ、何日かこの部屋で生活するなら、この居室のことは説明しておいたほうがいいため、あちらからやって来てくれたのは都合が良い。
「あの、シャワーありがとうございます」
律儀に軽く頭を下げながら。明日も使うはずなのに。きっと初日だからだろう。
「それで、その」
言い淀む。そしてそこに亡と立ち尽くしたまま、部屋をぐるりと見渡した。この部屋は何なのかと言いたげな目で。当然だ。それを裏付けるように、目線は最終的にドラムセットへと吸い寄せられている。
「ドラム……」
肺から最後の空気を送り出すようなか細さで呟く。
「珍しいかしら」
彼女は複雑な形に頭を動かした。それは首を横に振っているようでもあり、肯定しているようでもある。恐らく両方の動作をいっぺんにやろうとしたのだろう。意味は分からなかったが、その気持ちはなんとなく理解出来る。
「……住んでいた家を整理しているときに、ベースが出てきたのを思い出しました」
「そう、ごめんなさい。心当たりはないの」
言いながら、記憶を掘り起こす。姉のものではない。どうせできるのだろうけど、しかし少なくともベースをやっているという覚えはなかった。
対して、「そうですか」と言いながら、彼女はどこか腑に落ちない様子である。即答したことにわざとらしさを感じたのだろうか。それに素っ気なさも内包していたことだろう。納得のいかない、という風ではあるが、それ以上は追及してこない。
だが答えを持っていないのだから、それ以上に答えようがない。
「……趣味で叩いているの」
固まっていた空気を壊すように、話を転じる。どのみち、この話はしておかなければならない。
「ここ、防音室だから振動は気になるかもしれないけれど我慢して。これはうちにいる最低条件よ」
「はい」と雫のようにこぼれ落ちたような声。これまで聞いてきて、彼女の声はあまり大きくない。まだ私に対して緊張しているのか、そもそも小さい声なのかは分からない。まるで籠の中の小鳥と会話しているような、そんな気持ちにさせる。
こうして家内で向き合うと、様々な考えが閃くように現れた。どうして、先刻のファミレスでは彼女の事情を聞くだけ聞いて帰ってきてしまったのかと。制服姿を見て、即座に訊ねなければいけないことがあるではないか。
「貴女そういえば、学校は?」
本当に、基本中の基本だろう。多分彼女の存在を目の前にして、まともな思考回路を損なっていたのだ。大人として、高校生相手にきちんとした対応ができないくらい思考力が落ちていたという事実が愚かしい。まさに、穴があったら入りたい。
「今日はお休みしました。……多分、ここからだと一時間くらいだと思います」
肩の凝りがおりたような一声だった。何時からマンションの前にいたのか分からないが、これで学校を一日サボって私に会いに来ました、なんて言われていたら申し訳なさで胸がいっぱいになっていたところである。
「幸いね、さほど遠くないのは」
今までようやく築いた関係値がリセットされるのは、学生は辛いだろう。私のような浅い関係性を構築していた人間ならいざ知らず、このようやく暖かくなってきたという季節に転学というのは。既に交友関係なんて出来上がっているであろうところに入っていくのは、孤立してしまってもおかしくない。今までずっと暮らしてきた父親と死別したばかりの彼女に、それは辛かろう。
……いいや。
この家にいる期間はそれでもいいかもしれないが、仮に私の実家に引き取られることになったら? 父母の家は遠くもないが、近くもない。なのでそれを考えると、転学の必要がある可能性は大いにありえる。
まあ、いまそんなことを考えても仕方がない。軽く考えて挙げられる問題は、きっと父母がやってきたときには解決するだろう。
だから今日彼女と会話する必要性は、ここまでだ。この会話が終わりだと示唆させる、「明日は早いでしょう、もう寝なさい」という言葉。糸電話の糸を無理矢理引きちぎったように、この話題を終わらせる。
私が考えなければならないのは、いかにこの三日間、姉に良く似たあの顔を見ないようにするかだ。
幸い、この部屋についての説明はできた。だからこの部屋に籠ってさえいれば、彼女と顔を合わせるのは最低限になるだろう。私は明日も仕事で、しかも帰りが遅くなることは昼間のやり取りで確定している。
あの琥珀色の瞳が、私の脳裏から離れない。
……大丈夫。
これは私が勝手に抱えている呪いのようなものだ。だから自衛だって自分でする。私を守るための自衛。今日はろくなことがなかっただけに、明日の仕事とその後の予定は何事もなく事が運んでほしい。そんな懸念を貼り付けたまま、シャワールームへと向かう。
その不純物が洗い流されることを期待して。
ホールの鏡壁に映るもう一人の自分。 鏡は己の容貌を整えるものと同時に、自分への自惚れをなくす消毒液だ。姿勢、腕の角度、演奏している自分の所作をはっきりと客観的に見せてくれる。楽器を演奏している自らに自信がある時、鏡を見る以上に薬になることはない。 相変わらずの仏頂面でドラムを叩く私と、高校時代の軽音部で組んだ他三人のバンドメンバー。部員の中で余っていたパート同士が組んだバンドだが、こうしてもう何年も続いている。私もまさかここまで続くとは思っていなかったが、こんなにも不出来な火原沙紀という存在に長い間居場所を与えてくれているだけでも有り難いとは思いつつ。そんなことを吐露する予定もない。 昨日の蟠りも問題なく正確に叩けていた。あるとすれば、シャワーを浴びた後もしばらく叩いていたのが原因で、仕事終わりということも相まって上げる腕が少し重いということだろうか。 いいや、私なんかよりも今朝起きてきた彼女が発する声の底に、まだ眠気がたゆたっていたことのほうが本当に申し訳ないとは思う。わざわざ今まで接点なんてない私のところまでやってきて疲れただろうに。加えて慣れない環境だ、ぐっすり眠れたとは言いづらい。とても後ろめたいが、予め言っておいたことだ。それに明日は休日で、早くに起きる必要性はない。なので、一日くらい我慢してほしいところだ。まあ、平日だろうと休日だろうと、私の起床時間は大して変わらないのだが。 そういえば、バンドメンバー以外に料理を振る舞ったのは、同僚が泊まったとき以来だ。と言っても少しだけ炊いたご飯と目玉焼き、それに具の少ない味噌汁と昨日コンビニで買っておいたサラダを出しただけなのだが。私としてはすべてコンビニ弁当でもいいのだが、まさか育ち盛りの高校生に添加物まみれのものを食べさせるわけにもいかない。味噌汁を作ることなど酔っ払ったバンドメンバーが押しかけて来た時以外にはないので、簡単な料理のはずなのに妙に気を引き締めてしまった自分がいた。 目玉焼きには醤油を掛けるだとか、寝起きは少しふらふらしているだとか、そんな細かいところまで姉に似ている。そういう下らない事まで気になる自分に辟易しながら、私より少し家を出る時間が早い彼女を見送った。今日は少し遅くなると言ってあるので
「……感心しないわ、人の部屋に勝手に入ってくるのは」「ごめんなさい、ノックはしたんです」 眉間に皺を寄せ、彼女は困り顔でそう言った。ノックをし、恐らく声もかけただろう。音もせず、ひたすら振動だけ伝わってくる部屋なんてわざわざ声をかけなくても責める者などいないだろうに。少なくとも私はそう思う。それに、これはどちらかと言えば、他の音を聞くなど全くなかった私に非がある。 ただ、何日かこの部屋で生活するなら、この居室のことは説明しておいたほうがいいため、あちらからやって来てくれたのは都合が良い。「あの、シャワーありがとうございます」 律儀に軽く頭を下げながら。明日も使うはずなのに。きっと初日だからだろう。「それで、その」 言い淀む。そしてそこに亡と立ち尽くしたまま、部屋をぐるりと見渡した。この部屋は何なのかと言いたげな目で。当然だ。それを裏付けるように、目線は最終的にドラムセットへと吸い寄せられている。「ドラム……」 肺から最後の空気を送り出すようなか細さで呟く。「珍しいかしら」 彼女は複雑な形に頭を動かした。それは首を横に振っているようでもあり、肯定しているようでもある。恐らく両方の動作をいっぺんにやろうとしたのだろう。意味は分からなかったが、その気持ちはなんとなく理解出来る。「……住んでいた家を整理しているときに、ベースが出てきたのを思い出しました」「そう、ごめんなさい。心当たりはないの」 言いながら、記憶を掘り起こす。姉のものではない。どうせできるのだろうけど、しかし少なくともベースをやっているという覚えはなかった。 対して、「そうですか」と言いながら、彼女はどこか腑に落ちない様子である。即答したことにわざとらしさを感じたのだろうか。それに素っ気なさも内包していたことだろう。納得のいかない、という風ではあるが、それ以上は追及してこない。 だが答えを持っていないのだから、それ以上に答えようがない。「…
防音の1LDK。私が暮らす居住空間は、そんな至って普通の部屋だ。 以前終電を逃した同僚を一度だけ泊めたことがある。別にそこまで人を拒絶しているわけでもないし、交友関係の狭い私にも気さくに話しかけてくれる人物であったことから、そのときは二つ返事で了承した。流石に忘年会の二次会後、一時間半かけて帰宅させるのは酷だろう、と。ただその際に、一人で住むに少し広いのでは、なんて言われ、初めてここが一人暮らしには余りある空間なのだと気づいた。恐らくは物がないゆえ、そういう印象を与えたのだと思われるが。もちろん、訳あって少し広めのダイニングと居室がついている部屋を借りているのであって、別に贅沢をしたくて借りているわけではない。 知り合いがよくこの部屋へやってくるが、部屋の大きさについて一度も言われたことがなかったため、同僚にそう言われたときは少し驚いた覚えがある。 しかし今日ほど、部屋が少し広いことに感謝したことはないだろう。なにせこれから最低三日間、姉と似た顔の見ず知らずの少女と暮らさねばならないのだ。ただでさえずっと顔を合わせているには気まずい関係性である。あちらが後ろめたい姿勢なのもあり、普通のワンルームではお互いに気が滅入ってしまったことだろう。 元々籠るための居室である。三日ほどならなんとかなるはずだ。 そういえば、記憶の中の姉の部屋は結構散らかっていたことが多かった気がする。そのたびに母か私が言うのだが、本人はどこ吹く風という感じだった。 というのも、私は物が散らかっていると気になってしまう人間だ。そのため整理整頓はしているほうだと自負しているのだが、自分以外の者が部屋に上がるとなるとどうしても気になってしまう。この部屋にやってくる人物というと母か知り合いたち、ということになるのだが、母はそんな頻繁にこちらに来るわけではないし、その他何人かは散らかっていてもあまり気にしない者のほうが多い。 ほとんど初対面のような自分の部屋を散らかすような人物は然う然ういないとは思うのだが、親である姉がそうだったため、彼女も部屋は散らかすような人物なのだろうかと少し気になってしまった。「差し支えないなら端のベッドを使って頂戴、私は部屋で寝るから」
琥珀色の瞳が、私を見つめている。 とりあえず真実だというていで話を進めると、彼女は自分の名前を白幡燈と名乗った。そもそもの話、故人である姉の名前を知っている時点で筋は通っている。これで全てシナリオだというなら、若輩者の会社員一人騙すのに随分と手間のかかった詐欺だなと思う。 名字が火原でないことを鑑みるに、父方の姓だろうか。金髪なのは父親の血筋か、それにしては日本の姓であるのはどういった経緯なのだろうか、なんて考える。姉が結婚していたかどうかなんてこの際どっちだっていい。旅立つその寸前まで連絡を取り合っていた身としては、まさか裏で子供を設けていたなんて想像もつかなかった。 もしや私にだけ知らされていなかったのだろうか、そう思い実家に連絡を取る。結論だけ言えば、両親も知らなかった。何なら報告して開口一番「病院へは行ったか」という旨の言葉を吐き捨てられた。その話は三十分ほど掛けて説得して、三日後こちらに来ることで決着したのだが、恐らく信じてはいないだろう。無理もない、私だって彼女の顔が姉に似ているという点を除いたら、きっと相手にすらしていない。それくらい、私の記憶の中の姉と彼女が纏う雰囲気は重なっていた。 そうして母への連絡を終えたところで、目の前のペペロンチーノの大盛りサイズ二皿へと視線を戻した。ガーリックの焼けた香ばしさが、仕事終わりだったことを思い出させるように唾液腺を刺激する。始めに断っておくのだが、二皿とも私が注文したものである。 運ばれてきたミラノ風ドリアを遠慮しながら口に運んでいるところを見て、「心配しなくても奢りよ」なんて言ってみる。ありがとうございますなんて、そんな言葉が聞きたいわけでもないのに。一皿目のペペロンチーノを食べ終わり二皿目へ手を伸ばすと、彼女の目がこちらを見つめていることに気づいた。なんだろうと目線で返すと、目の前のドリアを再び口に運び始める。もしかして、食べ過ぎだなんて思われているのだろうか。 私だって、目の前に現れた暗黒に飲み込まれまいと、食事をすることで誤魔化しているのだ。大盛りのパスタ二皿程度多めに見てほしいどころか、もう一度店員を呼ぶことも許してほしい。 「驚いたわ、姉は娘がいるなんて言っていなかったから」 「私には母の記憶なんてこれっぽっちもないんです、物心ついたときには父と二人でした」 彼女が高
なんとか終業時刻ぎりぎりで残りの作業を終わらせ、帰路に着いた。寄り道などせずに真っすぐに、何も考えずとも身体に染み付いた動作が勝手に私を家へと導いていく。電車に乗り、外を眺めていると、見慣れた街の佇まいが連続して飛び去って行くが、最早視線上をただ流れて通ったとしか感じない。 そうして何駅かスルーすると、目的の場所へたどり着く。 退社して四十分程度で帰宅できるのは立派な利点だろう。遅くなったとしてもタクシーを利用すればなんとかなるし、電車を経由する必要があるため終電を逃した者の宿屋として使われることもほとんどない。 住んでいるのはよくある普通のマンションだ。特に高級というわけではないが、防音もしっかりしており、エントランスも立派で明るい。最寄り駅から見上げてもしっかりと視認できることから、まあまあ良いところに住めていると思う。 しかしそんなこと、いまはどうでもよくて。 エントランスの前で、キャリーケースの上に腰掛けながら中空を眺めている少女がいた。制服を着ているところを見るに、中高生だろうか。淡く光る金髪と、人形めいた顔立ちはそこにいるだけで彫刻のような存在感を放っている。 夜中、とまではいかないが、こうして社会人が帰宅する時間に学生がマンションの前で何をしているのだろうとは思う。キャリーケースを持っていることから、面倒臭い件であることはたしかだ。 厄介事に巻き込まれたくはないのだが、自宅マンションの前なので通らないわけにもいかず、出来るだけ気がついていないフリをして彼女の前を通る。万が一、いや億が一、話しかけられない可能性に賭けて。 しかし、「あの」 琥珀色の目は、しっかりと私を見据えている。 そんな期待はするものではないのだ。昔から、嫌な予感だけは当たるのだから。「火原沙綺さんですか」 そのハスキーな声色に、驚かずにはいられなかった。まるで背中に氷水でも流し込まれたのではないかと錯覚する、それくらいの驚き。 沙綺という名前は私の名前だ。このマンションのどこかに違う沙綺という名前の者がいる可能性もなくはないが、それよりも驚いたのは、その声色があまりにも記憶の姉に似ていたからだった。「ち、違うわ」 思わず、そんなことを口走る。それは目の前の彼女が、姉の関係者であることを否定したいがための言葉だった。「いえ、お父さんが探偵に調べてもら
果たして、その憧れがいつからのものだったのか。 姉は私にないものを全部持っていて、私は何も持っていなかった。 届くはずのないものを見て、それでもただ後ろをついていく。 ただ「すごいね」と言われたくて。 姉は色々なことに挑戦し、できるようになっては捨てていく。 私はそんなことはできなくて、ただただ置いていかれるばかり。 例えば習い事、例えばスポーツ。 姉は一か月くらいでもう別のことに乗り換えていたっけ。 初めはそんな姉と同じように色々なことに挑戦したけど、次第に劣等感が降り積もっていくだけになった。 そんな中、私はドラムを叩くだけになった。 姉が疾うの昔に捨てたもの。 見てもらうと、姉は褒めてくれた。 その唇は、私にとって心地よい言葉を紡いだ。 褒められたくて、熱中した。 そんな姉が、突然天国に旅立った。 頭が真っ白になる。 私は、これから何の為にスティックを握ればいいのか分からなくなった。 ◆ ふう、と一つ息を吐く。 ようやく仕事に区切りが着いて時計を見上げると、既に針は二時を指していた。一つの事に集中すると時間を気にしなくなるのは昔からだ。 一端昼休憩に入ろうと他の職員に声を掛けると、まだ食べてなかったの、なんて驚かれる。七時が定時であることを考えると、今日想定している残りの作業量的にはあまり昼食に時間は費やせない。 ただ、意識してしまうと空腹というのは厄介で、常にお腹を風が通っているかのような感覚に襲われる。仕方ないので、私はオフィスを出て休憩室へとやってきた。 誰もいない一室に、ポットとゴミ箱だけが置いてある。 そこは幾つも白いテーブルが置かれた部屋で、個人的には食べ物を持ち込んで用を済ます、というだけのスペースという認識だ。誰も利用してない際には軽い会