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第8話

Author: 川辺の夕映え
南州市に戻ってからの私の生活は、とてもシンプルで穏やかなものになった。

まずは実家に帰り、両親に南州で就職することにしたと伝えた。

母は私の額の傷を見て心を痛め、薬を塗りながら涙をこぼした。

「陽菜……こんなことなら、東都なんて行かせるんじゃなかったわ」

私は笑って母を慰めた。

「大丈夫よ。ちょっとした怪我だもの。数日すれば治るわ」

だって、胸の奥にある傷の方がずっと痛かったから。

就職は想像していたよりも遥かに順調だった。

大学の四年間、私は必死に勉強し、インターンやコンテストにも血を吐くような努力で食らいついてきた。

履歴書は実績でびっしりと埋まっている。

条件の良い三社の面接を受け、そのうちの二社から内定をもらうことができた。

入社初日、メンターが私の履歴書に一目を通してこう言った。

「君、そこらの大学院生よりずっと優秀だね」

私は微笑みながらも、胸の奥がチクリと痛むのを感じた。

本当は、私だってずっと優秀だったのだ。

ただ、湊がそれに気づこうとしてくれなかっただけで。

仕事はとても忙しく、毎朝九時に出社し、夜八時、九時まで残業するのは日常茶飯事だ
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    私は自嘲気味に笑った。「東都よりも、南州の方が好きだからよ。あなたは南州の雨の日が一番嫌いだって言ってたけど、私、雨の日がすごく好きだったのよ」湊は顔を上げ、戸惑ったような視線を私に向けた。「どうして私が雨の日を好きだったか、分かる?」彼は首を横に振った。「あなたのためよ」私は窓の外に目をやった。空はどんよりと曇り、また雨が降り出しそうだった。「高校の時、あなたは特進クラスで、私は一般クラスだった。学校にいる間は、顔を合わせることすらできなかったわ。でも雨が降った日だけは、あなたが私を家まで送ってくれた。その時、あなたはいつも歩調を少しだけ緩めてくれたわ。その数分間だけでも、隣にいられるのが嬉しかったの」湊の眼差しが、ハッと変わった。私はふっと笑い、言葉を続けた。「大学に入ってから、あなたは本当に忙しくなった。私が東都に会いに行っても、あなたは実験やコンテスト、プロジェクトに追われていたわ。でも、雨が降っている日だけは、あなたは部屋で私と一緒に過ごしてくれた」そこまで言うと、私の目頭は熱くなった。それでも、決して涙はこぼさなかった。「だから、私は雨の日が好きだったの。それは、私があなたと一緒にいられる日々だったから」湊は言葉を失い、呆然としていた。「でも、あなたは雨の日が嫌いだったわよね」私は彼の目を真っ直ぐに見つめた。「雨が降ると、あなたはいつも機嫌が悪くなって、眉間に皺を寄せて、一言も喋らなくなっていた」「陽菜、俺は……」湊は手を伸ばし、テーブルの上に置かれていた私の手を握ろうとした。私はすぐさま手を引っ込めた。「湊、たぶん私たちは最初から合わなかったのよ。ただ、私がそれを認めるのが怖かっただけ」私の声はとても軽く、そして冷静だった。「あなたと由里こそ、同じ世界に住む人間よ。あなたたちはお似合いだと思うわ」「ごめん、陽菜。俺が最低だった。他の女性との境界線を曖昧にして、お前を深く傷つけてしまった」彼の声はひどく掠れていた。「俺と由里の間には本当に何もないんだ!浮気なんて絶対にしてない!彼女にはもうはっきり伝えた。これからはただの友達だ!それ以上には絶対に……」「湊、精神的な浮気だって立派な浮気よ。あな

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    南州市に戻ってからの私の生活は、とてもシンプルで穏やかなものになった。まずは実家に帰り、両親に南州で就職することにしたと伝えた。母は私の額の傷を見て心を痛め、薬を塗りながら涙をこぼした。「陽菜……こんなことなら、東都なんて行かせるんじゃなかったわ」私は笑って母を慰めた。「大丈夫よ。ちょっとした怪我だもの。数日すれば治るわ」だって、胸の奥にある傷の方がずっと痛かったから。就職は想像していたよりも遥かに順調だった。大学の四年間、私は必死に勉強し、インターンやコンテストにも血を吐くような努力で食らいついてきた。履歴書は実績でびっしりと埋まっている。条件の良い三社の面接を受け、そのうちの二社から内定をもらうことができた。入社初日、メンターが私の履歴書に一目を通してこう言った。「君、そこらの大学院生よりずっと優秀だね」私は微笑みながらも、胸の奥がチクリと痛むのを感じた。本当は、私だってずっと優秀だったのだ。ただ、湊がそれに気づこうとしてくれなかっただけで。仕事はとても忙しく、毎朝九時に出社し、夜八時、九時まで残業するのは日常茶飯事だった。でも、嫌いではなかった。仕事に没頭していれば、あの忌まわしい出来事を思い出さずに済むし、湊のことを考えずに済むからだ。それでも、夜の静寂が訪れると、記憶の波が容赦なく押し寄せてきた。私はよく、学生時代の夢を見た。放課後、湊が私を家まで送ってくれる夢……私たちは手を繋ぎ、狭い路地をゆっくりと歩いていた。彼は私の指に自分の指を絡め、こう言った。「陽菜、一生、お前のこの手を離さないからな」彼が勉強を教えてくれていた時の夢……私の頭を軽く叩いて「本当に頭が悪いな」と文句を言いながらも、根気よく何度でも同じ問題を教えてくれた。付き合い始めた日の夢……初めて「好きだ」と言ってくれた時、彼の顔は真っ赤に染まっていた。夢から覚めるたび、私はいつも涙で顔を濡らしていた。もうふっきれたと思っていたのに、あの思い出たちはまるで心の中に根を張ってしまったかのように、どうしても引き抜くことができなかった。だが、時間が経つにつれ、私は次第に泣かなくなっていった。半月が過ぎたある日の午後、私のスマホが鳴った。湊からだった。「陽菜、今、南州

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    由里は、まさか自分が拒絶されるとは夢にも思っていなかった。湊の顔をじっと見つめ、少しでも迷いの色がないか探ろうとしたが、無駄だった。彼の態度は、どこまでも断固としていた。「湊くん、あなただって私に特別な感情を持ってるはずでしょ? あなたも私のこと、好きなはずなのに、どうして付き合えないの?」「ごめん、由里。俺たちは付き合えない」「いままで、よくしてくれたことには感謝してる。でも……」湊は深く息を吸い込み、はっきりとした口調で告げた。「俺は陽菜と別れるつもりはない。俺の未来にあいつは不可欠なんだ。君に惹かれたことは認めるよ。でも、あれはただの気の迷いだ」由里の顔からさっと血の気が引き、大粒の涙が次々とこぼれ落ちた。湊は彼女の肩を軽く叩き、低い声で釘を刺した。「由里、俺たちはこれからも友達だ。でも、あくまでただの友達だ。これ以上、一線を越えるような真似はしないでくれ。由里は顔を覆い、その場にしゃがみ込んで泣き崩れた。今回ばかりは、湊が彼女を慰めることはなかった。彼はそのまま背を向け、ホールを後にした。彼はふと思い出した。今日が陽菜の退院日だったということを。病院へ迎えに行く途中、湊はわざわざ花屋に寄り、陽菜の好きな花束を買った。花束を抱えて病室のドアを開けた湊だったが、そこはすでにもぬけの殻だった。慌ててナースステーションへ尋ねに行くと、看護師から「夏目陽菜(なつめ ひな)さんなら、とっくに退院されましたよ」と告げられた。湊はスマホを取り出し、陽菜に電話をかけ始めた。出ない。もう一度かける。やはり出ない。十数回かけ直して、ようやく電話が繋がった。「陽菜、今どこだ?退院したなら、どうして俺に言わないんだよ」彼の声には焦りが滲んでいた。電話の向こうで、数秒の沈黙が流れた。「もう、南州に帰ったわ」「は?」「湊。私、南州市で仕事を見つけたから。もう東都には行かないわ」「陽菜!」湊は歯を食いしばり、彼女の名前を叫んだ。「お前、一体いつまで意地を張るつもりだ?お前の荷物はまだアパートに残ってるんだぞ。早く戻ってこい。いいな?」「私は意地なんて張ってないわ!」彼女の声が突然跳ね上がった。「湊。私たち、もう別れたのよ。あなたと由里が、ど

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    外はまだ、冷たい雨が降り続いていた。私は宛てもなく、ただ街角を彷徨って歩いた。ふと、大学受験の志望校を決める時のことを思い出した。湊と由里は二人とも帝都大学を志望していた。彼らは私に、東都にある中堅私立大学を受けるようにと勧めた。そうすれば、離れ離れにならなくて済むからと。私は家に帰ってから一晩中悩み抜いた末、最終的に地元の国立大学に志望を変えた。それを知った時、湊はひどく不機嫌な顔をした。彼は私に、志望校を元に戻すようにと説得してきた。「陽菜、俺はただお前と一緒にいたいだけなんだ。お前の学歴なんて、俺はこれっぽっちも気にしてない」でも、私が気にしていたのだ。私は彼との間にある格差を、ほんの少しでもいいから縮めたかった。その件が原因で、私たちは一ヶ月近くも冷戦状態になり、ようやく仲直りをしたのだ。大学に入学してからの湊も、相変わらず優秀だった。この四年間、彼のSNSには由里と一緒に海外のコンテストに出場した時の写真ばかりが並んでいた。長期休みで地元に帰ってきても、彼らが話す話題に私は全くついていけず、ただ相槌を打つことしかできなかった。大学でも、湊に憧れる女子学生の列は途切れることがなかった。由里はしょっちゅう私に報告してきた。今日は後輩の女の子から告白されただの、どこそこの学部のマドンナが彼を狙っているだの。あの頃の私は、いつか彼を失うのではないかという恐怖に怯えていた。毎日彼に何度も電話をかけ、由里に彼の行動を見張るよう頼み込んだことさえあった。最初の頃は、湊もいつも私をなだめてくれていた。だが時間が経つにつれ、彼は次第に面倒くさがるようになり、頻繁に喧嘩をするようになった。喧嘩の最後には、彼はいつも遠回しに「お前は由里のように物分かりが良くない」と私を責めた。私は彼を失うのが怖くて、いつも自分から折れて謝ってきた。その間にも、由里と湊の距離はどんどん縮まっていった。今思えば、すべてはとっくの昔から予兆があったのだ。気持ちを落ち着かせた後、私は荷物をまとめるために再びアパートへと戻った。固く閉ざされたドアの前に立ち、暗証番号が変えられていたことを思い出す。少し躊躇したが、私は由里の誕生日を入力した。「開錠しました」という無機質な電子音が響い

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