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私はもう、振り返らない

私はもう、振り返らない

Par:  徐々Complété
Langue: Japanese
goodnovel4goodnovel
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六年ものあいだ育ててきたはずの子どもが、彼女を自らの手で、犬だらけの檻の中へ突き落とした。 一夜が明けたころには、鷹宮澪(たかみや みお)の身体は十数か所を噛み裂かれ、息も絶え絶えのまま、檻の隅にもたれかかっていた。激痛に肺が締めつけられ、まともに息を吸うことすらできない。 檻の外では、鷹宮勇太(たかみや ゆうた)が段差の上に立ち、彼女を見下ろしていた。鷹宮恒一(たかみや こういち)と瓜二つの黒い瞳には、凍りつくような嫌悪が浮かんでいた。

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Chapitre 1

第1話

六年ものあいだ育ててきたはずの子どもが、彼女を自らの手で、犬だらけの檻の中へ突き落とした。

一夜が明けたころには、鷹宮澪(たかみや みお)の身体は十数か所を噛み裂かれ、息も絶え絶えのまま、檻の隅にもたれかかっていた。激痛に肺が締めつけられ、まともに息を吸うことすらできない。

檻の外では、鷹宮勇太(たかみや ゆうた)が段差の上に立ち、彼女を見下ろしていた。鷹宮恒一(たかみや こういち)と瓜二つの黒い瞳には、凍りつくような嫌悪が浮かんでいた。

「痛いか?」

幼い声は、その年齢には不釣り合いなほど鋭かった。

「ママの猫を死なせたとき、こんな日が来るなんて思わなかったでしょ。この家に来ただけで、ママの代わりになれると思わないで。

僕が大きくなったら、絶対お前をこの家から追い出すからな!」

喉を締めつけられるような苦しさの中で、澪はかすれた声を絞り出した。「猫は……寿命で死んだだけよ。私がやったんじゃない……」

「嘘つけ!」

勇太が檻を思いきり蹴りつける。金属の格子が大きく震え、その衝撃に怯えた犬たちは、かえって凶暴さを増し、彼女へと襲いかかった。

澪は反射的に身を引く。背中が氷のように冷たい檻の壁にぶつかり、もう後ろへ下がることはできなかった。

見かねた使用人が慌てて割って入る。「坊っちゃん、どうかお怒りをお鎮めくださいませ。確認いたしましたところ、あの猫は寿命によるものでございます。奥様の責ではございません」

「黙れ!」勇太は振り向きざま怒鳴りつけた。

「たとえ寿命でも、あいつの世話が足りなかっただけだ!」

そして再び、檻の中の澪を睨みつける。

「まだ出すな。徹底的に思い知らせろ」

低いうなり声が迫り、澪はそっと目を閉じた。爪が食い込むほど、拳を強く握りしめる。

――もう、六年。

この家で、彼女はいまだに居場所すらなかった。

どれほどの時間が過ぎたのか。

遠くにあったはずの足音が次第に近づき、やがて扉の向こうから、低く冷え切った声が落ちてきた――

「勇太、何をしている」

入口に立っていたのは恒一だった。隙のないスーツ姿に、冷えた眼差し。

血に染まった澪へ視線を走らせた瞬間、その瞳がわずかに細まる。だが次の瞬間には、感情を押し殺した声で命じた。

「出せ」

ボディガードがすぐ鍵へ手を伸ばす。

澪はすでに力を失っていた。支えられて檻の外へ出された途端、膝が崩れ落ちそうになる。

恒一が手を差し伸べた。

だが、その指先が触れた瞬間、澪は反射的に身を引く。

ほんのわずか、恒一の眉が寄った。

青ざめた彼女の顔を見つめ、低く問う。

「ここまでやられて、なぜ呼ばなかった?」

澪は睫毛を伏せたまま、答えない。

――呼んで、どうなるというの。

この家で、いったい誰が彼女の声に耳を貸すというのか。

沈黙が落ちる。

その沈黙に、恒一の瞳にかすかな苛立ちがよぎった。

「病院へ連れていけ」

執事にそう命じる。

病院は消毒薬の匂いが鼻を刺す。

澪はベッドに横たわり、医師が傷を処置する微かな音を聞きながら、痛みに指先を震わせていた。

やがて病室の扉が静かに開く。

恒一だった。

上着はすでに脱ぎ、シャツ姿のまま。襟元がわずかに乱れ、鎖骨には生々しい赤い痕が残っている。

澪の視線が一瞬、そこに留まる。

すぐに、逸らした。

――キスマーク。

見慣れすぎるほどに。

この数年、恒一の傍らに女の影が絶えることはなかった。だがその誰もが、澪の亡き姉・白石青葉(しらいし あおば)の面影を色濃く宿していた。

青葉を忘れられないから、代わりを探し続ける。

いま最も近い「代わり」は鳥谷愛花(とりたに あいか)。あまりにも似ているせいか、恒一はひと月のうち二十八日を愛花のもとで過ごしている。

けれど。

妻である澪は――その「代わり」にすら数えられていなかった。

澪は、実家から遠ざけられた私生児だった。幼いころから、重い病を抱えた母・沢村美智子(さわむら みちこ)と寄り添うように生きてきた。

青葉は姉だが、その歩んできた道は澪とはまるで違う。

青葉は生まれながらにして何不自由なく育ち、由緒ある名家の御曹司・恒一と恋に落ち、宝物のように大切にされてきた。

だが六年前、青葉は難産の末に命を落とす。生まれて間もない勇太を残して。

生まれたばかりの勇太の世話をする女が必要だった。

澪の実父・白石隆志(しらいし たかし)は、恒一という願ってもない婿を手放したくなかった。美智子の治療費を盾に、六年という契約を澪に突きつけ、鷹宮家へと嫁がせた。

――恒一と勇太の世話をしろ、と。

澪は、逆らえなかった。

その六年、恒一は澪を顧みることもなく、外では青葉に似た女を次々と抱いた。

勇太は澪を憎み、鷹宮家から追い出そうとあらゆる手を尽くした。

二千日を超える歳月を重ねても、彼らが彼女を受け入れることはなかった。

意識がはっきりしたころ、恒一が口を開いた。

淡々とした声で告げる。

「猫が死んだのは、お前の世話が行き届かなかったせいだ。勇太は気が立っているだけだ。少しは我慢しろ」

さらに言葉を重ねる。

「お前の母親は、退院してから体調が思わしくない。認知症の兆しもある。個室の療養施設を手配しておいた。今回の件は、それで終わりにする」

その口調はあまりに平静で、まるで取引条件を並べているかのようだった。

澪は、ふっと笑った。

しばらくしてから、ゆっくりと視線を上げる。声は驚くほど落ち着いていた。「結構です。最初に決めたはずでしょう。私は勇太の世話をするために、六年だけここにいると。残りは半月。半月たてば、私は出ていきます」

一瞬、恒一が言葉を失う。だがすぐに眉をひそめ、不快さを隠そうともせず言い放つ。

「何をそんなに意地を張っている。くだらない駆け引きに付き合っている暇はない。その話は聞かなかったことにする。療養施設はすでに手配した。これで終わりだ」

そう言い捨てると、恒一は大股で部屋を出ていった。その背中は振り返ることもなく、ひどく遠かった。

閉まった扉を見つめながら、澪はゆっくりと目を閉じる。

彼女は意地を張っているわけでも、駆け引きをしているわけでもない。

六年の約束は、六年で終わる。それ以上でも、それ以下でもない。

今度こそ、本当に去る。

――二度と、戻らない。

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commentaires

橘ありす
橘ありす
この父子マジで頭おかしいよね!いくら騙されてたとしても虐げ方が酷すぎるよ、そして報復もヤバすぎる、理不尽に容赦ないとこ父子でソックリ 関わりたくないわ
2026-03-09 23:55:41
3
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ノンスケ
ノンスケ
よくわからない親子だったなぁ。特に父親。愛してるのはなくなった妻だけ。と言いつつ、妻の妹を娶って子どもの世話をさせ。妻の代わりに夜の相手をさせ、妻という名を与えても心は与えない。愛人を作っても隠すこともなく。冷たく接する。子どもも愛人の諫言に騙されて妻を傷つける。そのくせ去られたら追ってくるなんて。あれだけのことをしておいて、戻ってこいなんてよく言えるわ。
2026-03-09 02:59:32
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松坂 美枝
松坂 美枝
悪魔のような父子が「なんでママ戻らないんだろ」と疑問に思う文を読むたびお前らも檻に入れられたり脚折られたらわかるわいと突っ込まずにはいられなかった この距離感で今後もやっていくんだな
2026-03-08 11:10:34
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eurynome.v.j.3618
eurynome.v.j.3618
気持ち悪すぎる。この手の父子共々執着しまくる話の中でも個人的には1.2を争う気持ち悪さ。そして息子の歪み加減もこの手の話の中で最悪かも知れん。ガキのくせに親父の権力を我が物顔で振り回しまくり、偉そうに親父の部下やボディガードを顎で使ういやらさ。元はいい子だったのに途中からクズ女が色々吹き込んでこうなったって事だが、それにしても酷いな。
2026-03-08 14:00:45
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第1話
六年ものあいだ育ててきたはずの子どもが、彼女を自らの手で、犬だらけの檻の中へ突き落とした。一夜が明けたころには、鷹宮澪(たかみや みお)の身体は十数か所を噛み裂かれ、息も絶え絶えのまま、檻の隅にもたれかかっていた。激痛に肺が締めつけられ、まともに息を吸うことすらできない。檻の外では、鷹宮勇太(たかみや ゆうた)が段差の上に立ち、彼女を見下ろしていた。鷹宮恒一(たかみや こういち)と瓜二つの黒い瞳には、凍りつくような嫌悪が浮かんでいた。「痛いか?」幼い声は、その年齢には不釣り合いなほど鋭かった。「ママの猫を死なせたとき、こんな日が来るなんて思わなかったでしょ。この家に来ただけで、ママの代わりになれると思わないで。僕が大きくなったら、絶対お前をこの家から追い出すからな!」喉を締めつけられるような苦しさの中で、澪はかすれた声を絞り出した。「猫は……寿命で死んだだけよ。私がやったんじゃない……」「嘘つけ!」勇太が檻を思いきり蹴りつける。金属の格子が大きく震え、その衝撃に怯えた犬たちは、かえって凶暴さを増し、彼女へと襲いかかった。澪は反射的に身を引く。背中が氷のように冷たい檻の壁にぶつかり、もう後ろへ下がることはできなかった。見かねた使用人が慌てて割って入る。「坊っちゃん、どうかお怒りをお鎮めくださいませ。確認いたしましたところ、あの猫は寿命によるものでございます。奥様の責ではございません」「黙れ!」勇太は振り向きざま怒鳴りつけた。「たとえ寿命でも、あいつの世話が足りなかっただけだ!」そして再び、檻の中の澪を睨みつける。「まだ出すな。徹底的に思い知らせろ」低いうなり声が迫り、澪はそっと目を閉じた。爪が食い込むほど、拳を強く握りしめる。――もう、六年。この家で、彼女はいまだに居場所すらなかった。どれほどの時間が過ぎたのか。遠くにあったはずの足音が次第に近づき、やがて扉の向こうから、低く冷え切った声が落ちてきた――「勇太、何をしている」入口に立っていたのは恒一だった。隙のないスーツ姿に、冷えた眼差し。血に染まった澪へ視線を走らせた瞬間、その瞳がわずかに細まる。だが次の瞬間には、感情を押し殺した声で命じた。「出せ」ボディガードがすぐ鍵へ手を伸ばす。澪はすでに力を失っていた。支えら
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第2話
病院で静養していた数日のあいだ、恒一も勇太も、澪の傷に目を向けることはなかった。それでも澪は、愛花のインスタに毎日投稿される三人の写真を目にしてしまう。写真には、レストランで端正にスーツを着こなした恒一が立ち、その脚に甘えるように勇太が寄り添っている。白いロングドレス姿の愛花は、恒一の隣でやわらかな笑みを浮かべていた。三人は揃ってカメラを見つめている。――まるで、本物の家族写真のように。添えられた言葉は、【大切な人と囲む食卓。それだけで、十分に幸せだ】澪は一瞥しただけで、静かに画面を閉じた。もう出ていく。そこにあるすべては、これからは自分の人生には関わらない。退院の日。澪はひとりで手続きを済ませ、まだ癒えきらない脚を引きずりながら、ゆっくりと鷹宮家へ戻った。屋敷の中はひっそりとしている。恒一も勇太もいない。澪は何も言わず自室へ入り、荷物をまとめ始めた。とはいえ、まとめるほどの物もない。着替えが数枚と、わずかな日用品だけだ。引き出しを開け、いちばん奥の底から小さな木箱を取り出す。中には、この数年こっそり貯めてきた金と、必要な書類が収められていた。――あと半月。あと半月で、ここを完全に離れられる。ちょうど荷物を半分ほどまとめたところで、不意に部屋の扉が開いた。入口に立っていた勇太が、冷えた目で澪を見つめる。苛立ちを隠さない声で言った。「何してるんだよ」澪は指先の動きを止め、顔を上げることもなく、淡々と答える。「整理しているだけよ」勇太は眉をひそめるが、澪が何をしているかなど興味もない様子で、ただ命じた。「もうすぐ梅雨だ。パパが言ってた。ママの物を全部片づけろ。カビさせるな」澪は指先をわずかに握り込み、低く答える。「……わかった」勇太は背を向けかけたが、ふと思い出したように振り返り、付け加えた。「それと、もうすぐ僕の誕生日だ。前みたいに準備しとけ」澪は目を伏せ、かすかに頷く。「うん」勇太は鼻で笑った。その従順な態度が退屈だと言わんばかりに、そのまま立ち去る。澪は三日をかけて、盛大なパーティーの準備を整えた。開宴まであと三十分。澪はドレスに着替えようとクローゼットを開ける。だが――そこにあるはずのドレスは、どれも無残に切り裂かれ、ぼろぼ
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第3話
それを聞いた瞬間、恒一の表情がすっと冷えた。澪を見下ろし、これまでに見せたことのない冷たい目で告げる。「澪。お前は従順で、聞き分けがよくて、欲を出さない女だと思っていた。……全部、演技だったのか。青葉に取って代われる人間なんて、この世にいない。嫁いできた時点で、わかっていたはずだ」澪は口を開いた。けれど、喉が張りついたまま、声にならない。そのとき――愛花が静かに歩み寄ってきた。淡い水色のロングドレス。ゆるやかに巻いた長い髪。控えめで清楚な化粧立ち。その姿は、青葉にあまりにもよく似ている。周囲の客が、すぐにざわめき出した。「……似てる」「鳥谷さん、その格好……青葉さんそっくりだ」ひそひそとした声が広がる中、恒一の視線が一瞬だけ揺れる。勇太の目が赤くなる。次の瞬間、泣きながら愛花に駆け寄り、強く抱きついた。「愛花お姉さんが僕のママならよかったのに!僕、この人イヤだ!」愛花は勇太をやさしく抱きしめ、そっと頭を撫でた。恒一は、しばらく愛花を見つめたまま動かなかった。やがて我に返ったように歩み寄ると、迷いなく彼女を抱き寄せる。その眼差しには、隠しようのない愛情が宿っていた。澪はプールの縁に力なく身を預け、胸の奥が冷え切っていくのを感じた。鷹宮家に嫁いで六年。彼らに尽くして六年。勇太にあんなふうに抱きつかれたことはない。恒一に、あんな目で見られたこともない。彼らの心に、澪が入り込めたことは一度もなかった。それなのに愛花は――青葉に似た顔をしている、ただそれだけで。澪が夢にまで見たものを、あっさり手にしてしまう。肩に掛けられたスーツの上着を強く握りしめ、澪は乾いた笑みを浮かべた。いい。これも、もうすぐ終わる。宴が終わったあとの雨の夜、彼らはそのまま帰路についた。澪は着替えを済ませ、助手席に座ると、何も言わず窓の外を見つめていた。後部座席では、愛花が勇太にやさしく話しかけている。ときおり返される恒一の低い声は、どこか甘やかすようにやわらかかった。そのやわらかさが、澪に向けられたことは一度もない。――まるで、本当の家族だ。澪は視線を落とし、無意識に左手の薬指へ触れる。結婚指輪を指先でそっとなぞる。六年。けれど、この指輪に意
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第4話
目を覚ましたとき、病室は静まり返っていた。人の気配がなく、その静けさがかえって胸をざわつかせる。澪の右脚は分厚いギプスで固定されている。わずかに動かしただけで鋭い痛みが走り、冷や汗がにじんだ。看護師が薬を替えに来たとき、ぽつりと口にした。「鳥谷という方も、あなたと同じ事故で入院されているんですけど……ご主人とお子さんがずっと付き添っていらして。あなたはこんなにお怪我も重くて、命も危なかったのに……ご家族はどうされたんですか?」澪は少し間を置いてから、静かに答えた。「今おっしゃったのが、私の夫と子どもです」看護師は気まずそうに視線を落とし、慌てて処置を終えると足早に部屋を出ていった。窓の外はよく晴れている。白いシーツに陽射しが落ちているのに、澪の身体は芯から冷えたままだった。夕方。病室の扉が突然、乱暴に蹴り開けられた。恒一が荒い気配をまとって入ってくる。そのまま澪の顎をつかみ、強引に顔を上げさせた。「今回の事故……お前が仕組んだのか」澪の瞳が大きく揺れる。「愛花の顔に、傷が残りかけたのを知っているか?」指先に力がこもる。目の奥に、抑えきれない怒りが浮かぶ。「あいつの顔が台無しになったら、青葉に似ていなくなるだろう」澪は苦しげに咳き込む。「違う……私じゃない。何もしていない。それに……一番ひどい怪我をしたのは、私でしょう」だが恒一は聞く耳を持たない。彼女の腕をつかみ、無理やりベッドから引きずり下ろす。「来い。愛花に謝れ」その声には温度がなかった。「私、悪くない」澪がなおも首を横に振るのを見て、恒一の怒りが爆発した。「いい。謝らないなら、それでいい。あいつの顔を傷つけたらどうなるか、身をもって教えてやる。お前、昔バレエをやってたよな。……来い。こいつの脚を一本、折ってやれ」言い終わると同時に、ボディガードがバットを手に病室へ入ってきた。澪の全身から血の気が引く。「や……やめて……」逃げようと身をよじるが、二人の男に両肩を押さえつけられ、ベッドへ縫い止められる。次の瞬間――バットが右脚のギプスに、容赦なく振り下ろされた。――バキッ。骨が折れる音が、はっきりと耳に届いた。激痛が一気に突き抜け、意識が白く飛ぶ。その刹那、澪の脳裏に浮かんだの
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第5話
「ええ。本気です」澪の声は小さい。それでも、一語一語がはっきりと届いた。恒一の目がわずかに沈む。何かを言いかけた、その瞬間――隆志が割って入った。顔いっぱいに作り笑いを張りつけ、腰を折るようにして言う。「鷹宮社長、どうか澪の言葉を真に受けないでください。あれは一時の意地でして……社長と勇太くんから離れられるはずがありません」さらに調子を合わせる。「最近、社長が鳥谷さんと親しくされているのを見て、少し嫉妬しただけです。少し宥めてやれば、出ていくなどと言うはずがありません」それを聞いた恒一の目から、張りつめた色がわずかに消えた。視線を澪へ戻し、低く言った。「やっぱりな。今回の騒ぎも、愛花のことが原因か」澪が反論しようと唇を開く。だが恒一は、その隙を与えない。「ここを出たら、お前には何も残らない。約束する。少し大人しくしていれば、愛花が表に出ることはない。お前の立場も今まで通りだ。それで満足だろう」澪は掌に爪を食い込ませる。その瞬間、隆志が机を叩き、怒鳴った。「澪!お前は俺の娘だ。俺の言うことを聞け!」怒声の直後、隆志はすぐに笑みを取り戻す。ブリーフケースから契約書を取り出し、両手で差し出した。「鷹宮社長、こちらの案件も……ご署名をお願いできればと」恒一は契約書に目を通す。そして一瞬だけ澪を見やり、何も言わずにペンを取った。さらりと署名する。「もう騒ぐな」それだけを残し、背を向けて出ていった。病室の扉が閉まって間もなく、勇太が勢いよく入ってくる。小さな身体で入口に立ちながら、目にははっきりと敵意が宿っていた。「全部聞いた!パパはお前を家に置くって言ったけど、僕は認めない!」澪はその顔を見つめる。ふと、三歳になる前の勇太を思い出した。柔らかい声で「ママ」と呼び、抱っこをせがんで両手を伸ばしてきたあの頃を。けれど、いつからか――澪は本当の母ではない。それどころか、母を殺したのだと、誰かが吹き込んだ。それを境に、すべてが変わった。「愛花お姉さんはお前より優しくて、ちゃんとしてる!僕のことも大事にしてくれる!」勇太は歯を食いしばり、震える声で叫ぶ。「僕は、愛花お姉さんがパパと結婚してくれたほうがいい!お前みたいな人殺しはいらない!」澪は目を閉じ、かすれた声で言った。
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第6話
再び目を覚ますと、澪は病床に横たわっていた。分厚い毛布が掛けられているのに、寒気だけが骨の奥に残っている。いくら包まれても、抜けていかない。「起きたか」すぐそばから、恒一の声が落ちた。澪がゆっくり顔を向けると、恒一はベッド脇に腰を下ろしている。整ったスーツ姿。だが襟元から、うっすらと赤い痕がのぞいていた。――また、キスマーク。澪は視線を逸らす。「何しに来たの」かすれた声で問う。恒一が眉を寄せる。「お前、また勇太の癇に障ることをしたのか?」澪は口元をわずかに歪めた。笑みというより、皮肉だった。「私が、勇太の癇に障ることを?前のことはもういい。ここ数日、犬の餌みたいに檻へ放り込まれて、プールに突き落とされて、服まで剥がされた」澪は顔を上げ、恒一の目を真っ直ぐ見据える。「これでも私が悪いというんですか?」恒一の表情が硬くなる。「お前が何かしたんだろう」澪は小さく息を漏らした。「じゃあ、霊安室の件は?私が何もしていなくても、勇太は理由を作って私を追い出そうとする」しばらく沈黙してから、淡々と言う。「お願いだから伝えて。もうああいうことはやめてほしい。私たちの契約は、もうすぐ終わる。期限が来たら、私は黙って出ていく」その言葉に、恒一の顔色が一段と沈んだ。「澪。またその話か。何度言わせる」苛立ちを隠さない。「わかった。勇太には俺から言っておく。これ以上お前を追い出そうとするなってな。これからは揉めるな。お前も、出ていくなんて二度と言うな。鬱陶しい」澪は黙って彼を見つめ、ふっと笑った。「わかった。もう言わない」どうせ――あと七日で、すべて終わるのだから。澪が反論しないのを見て、恒一の表情がわずかに和らいだ。「傷を治せ。余計なことはするな」それだけ言い残し、恒一は出ていく。背中は、相変わらず遠い。澪は閉まった扉を見つめ、静かに目を閉じた。――あと七日。七日耐えれば、すべて終わる。翌日、恒一に連れられて勇太が病室に現れた。勇太は頬をこわばらせ、渋々といった様子でベッド脇に立つ。目にあるのは隠そうともしない嫌悪だった。恒一が低く命じる。「謝れ。それから、ちゃんと世話しろ」勇太は唇を尖らせながらも、お粥の椀を手に取る。ひと匙すくい、ぎこちなく澪の口元へ差し出した。「……
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第7話
恒一の顔色がさっと変わり、鋭く怒鳴った。「勇太!」叱責の言葉が続く前に、勇太の目がみるみる赤くなる。「こいつが嘘ついてる!パパ、言われた通り、もう追い出そうとしてない!信じないなら、胃を洗って調べればいいじゃん!そしたら本当かどうか分かるよ!」恒一はわずかに黙り込んだ。そして、思案の末に頷いた。澪はそのまま処置室へ連れていかれた。だが誰も知らない。勇太がこっそり、胃洗浄に使う薬液へ刺激性の液体を混ぜていたことを。処置が始まる。喉から胃へ、焼けつくような痛みが一気に広がった。澪は思わず身体を丸める。冷や汗が流れ、病衣がぐっしょりと濡れる。吐いても、吐いても終わらない。胃の中が空になっても、奥からこみ上げる痛みだけが消えなかった。やがて看護師が検査結果を持って現れ、淡々と告げる。「検査では薬物反応は出ていません」その言葉を聞いた瞬間、恒一の表情に、はっきりとした落胆が浮かんだ。恒一は冷ややかに澪を見下ろす。「澪……お前は本当に嘘ばかりだな。青葉は優しくて、いい子だった。どうしてお前は、全然違うんだ」勇太も横で勢いよく頷く。「そうだよ!こいつ、僕の本当のママには全然かなわない!僕のことまで悪者にして!」恒一は怒りを滲ませたまま勇太を連れて出ていき、最後に吐き捨てるように言った。「自分の立場を考えろ」澪はベッドに力なく倒れ、目尻がじわりと熱を帯びる。それから数日。ようやく、身体の震えと痛みが少しずつ落ち着いていった。退院して、澪が最初に向かったのは美智子のいる療養施設だった。「お母さん。あと二日で、鷹宮家を出られる。ここも離れて、二人で別の場所で暮らそう」美智子はゆっくり息を吐く。「澪……今まで本当にごめんね。お母さんのせいで、たくさん我慢させた。これからは、お母さんが澪と一緒にいる。どこへ行きたい?澪が決めなさい。二人で、自分たちの人生をやり直そう。白石家も鷹宮家も、もう関係ない」その言葉を聞いた瞬間、澪の目が赤くなる。込み上げるものを必死に飲み込みながら、何度も頷いた。家に戻ると、愛花が来ていた。愛花はリビングのソファに腰を下ろし、あどけない笑みを浮かべた。「勇太くん、ピアノのコンクールで賞を取ったんです。それでお祝いしようって。澪さん、気にしませんよね?」「気に
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第8話
食後、恒一は愛花と勇太を連れて花火を見に行った。夜空に大輪が咲き、恒一は愛花の腰に手を回し、勇太はそのそばへ身体を寄せている。幸せをそのまま切り取ったような光景だった。澪は少し離れた場所からそれを見つめ、何も言わず背を向ける。立ち去ろうとした、そのとき――背後から足音が迫った。振り向く間もなく、勇太が火のついた花火を澪へ向けて投げつける。バン!足元で弾ける音。火の粉がズボンの裾に散り、瞬く間に布が焦げ、穴があいた。「見た?パパと愛花お姉さん、すごく幸せそうだろ」勇太は意地悪な笑みを浮かべる。「僕もパパも、お前が嫌いだ。ママを殺したくせに、世話もろくにできないくせに!それでもまだ居座るなら……僕、絶対に許さないからな!僕は、ママ以外なら愛花お姉さんにしか世話してほしくない!」言い終えると同時に、次々と花火を投げつけてくる。ぱん、ぱん、と乾いた破裂音が重なる。服に焦げ穴が増えていく。顔をかばおうと上げた腕に火の粉が当たり、広い範囲が焼けた。鋭い痛みが走り、皮膚が赤くただれる。澪は歯を食いしばり、それでもはっきりと言った。「追い出されなくてもいい。私はすぐに出ていく」勇太が一瞬、言葉に詰まる。だが次の瞬間、恒一がこちらへ歩み寄ってきた。「どうした」勇太は瞬時に表情を変える。悔しそうな顔を作り、声を震わせる。「パパ、澪と花火で遊ぼうとしただけなのに……こいつが不器用で、自分でケガしたんだ!」愛花はすぐに勇太を抱き寄せ、どこも痛くないかを確かめてから、ようやく安堵の息をついた。「澪さん、大人なんですから、自分がケガするのは仕方ありませんけど……勇太くんに当たったら困りますよ?」恒一は眉をひそめる。「次から気をつけろ。勇太に何かあったら困る」澪は、もう何も言わなかった。その場を離れ、ひとりで病院へ向かい、受付を済ませて傷の手当てを受ける。病院で一晩休んだ翌朝、役所から電話が入った。「ご依頼いただいていた離婚手続きが完了いたしました。書類をお受け取りいただけますでしょうか」その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がふっと軽くなる。――ようやく、終わる。澪は役所へ行き、関連書類を受け取った。職員が尋ねる。「もう一通は、どうなさいますか」澪は恒一に電話をかける。だが受話
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第9話
「……は?」恒一の思考が、一瞬止まった。何を言われたのか理解できず、その場に立ち尽くす。「澪が、俺と離婚する?そんなはずがない……」信じられない、という声が漏れた。だが次の瞬間、恒一は鼻で笑う。「わかった。また澪のくだらない小細工だろ。本当に役所の人間か?それとも澪に頼まれたのか?言ったはずだ。愛花がいようが、澪の立場は変わらない。なのに何を騒いでる?澪は今、あんたのそばにいるんだろ。電話を代われ。俺が直接話す」胸の奥で、得体の知れない焦りがうごめく。澪の声が聞こえた瞬間に、言い負かしてやるつもりだった。職員は何度も番号を確認し、間違いがないと確かめてから、慎重に答える。「鷹宮さま、私は役所の職員でございます。白石さまに頼まれた者ではございません。白石さまはすでにお帰りになっております。白見原市役所にて離婚の関連書類をお預かりしておりますので、お受け取りにお越しください。事実かどうかは、直接ご確認いただければおわかりになります」恒一が言い返すより先に、勇太が弾んだ声を上げた。「うん!今すぐ行こう!」興奮した様子で恒一の手を揺らす。「ねえパパ、早く行こう!あいつ、ほんとにいなくなるんだよね?愛花お姉さんに教えなきゃ!」さっきまで車に乗るのを渋っていた勇太が、今は弾むように後部座席へ飛び乗った。勢いよくドアを閉めると、運転手を急かすように声を上げる。恒一の目の奥で、感情がかすかに揺らいだ。しかし、引き止める言葉は喉の奥に引っかかったまま、出てこない。思考はまとまらず、ただ混乱だけが広がっていく。書類を自分の目で見るまでは、澪が本気で去るなど信じられなかった。――澪は、俺を、そして勇太を、愛していたはずじゃなかったのか。どうして離れられる?今度は、何を求めている?答えが出ないまま、車は役所の前で静かに停まった。職員が何度も本人確認を行ったあと、出来たばかりの離婚の関連書類を恒一に差し出す。紙面に押された公印が、逃げ場のない現実を突きつけてくる。恒一はその場で動けなくなった。手の中の書類が、鉛のように重い。勇太も、ぼんやりとそれを見つめる。胸の奥にぽっかり穴が開いたような、言いようのない違和感が広がった。それでも勇太は無理に口角を上げ、恒一の手から書類を奪うように受け取ると、
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第10話
恒一は運転手に勇太を愛花のもとへ送らせると、自身はそのまま役所へ引き返した。「澪が離婚の関連書類をこちらに預けたとき、何か言伝はありませんでしたか。どこへ行くとか、俺が探しに行けるような手がかりは残していないんですか」職員は複雑な表情を浮かべながら、どこか値踏みするような視線を向ける。「白石さまは何もおっしゃいませんでした。もう離婚されたのですし、よりを戻したいなどと思われるはずもありません。役所を出られるときも、笑っていらっしゃいましたよ。晴れやかな様子で……本気で区切りをつけるおつもりに見えました。お二人の電話のやり取りも、少し耳に入りましたが……外に新しい方がいらっしゃるのに、どうして無理に引き留めようとなさるんです?お金に困っているようにも見えませんし、女性が一人いなくなったところで、お困りにはならないでしょう」恒一は薄い唇をきつく結んだ。胸の内で、いくつもの思考がせめぎ合う。確かに、女に困ることはない。望めば、近づいてくる女はいくらでもいる。だが、恒一が愛したのは青葉ただ一人だ。愛花ですら、青葉に似た顔立ちだからそばに置いているに過ぎない。それなのに――澪のことになると、自分が何を思っているのか、恒一自身うまく掴めなかった。澪は青葉とはほとんど似ていない。どちらかといえば、美智子に似た華やかな顔立ちだ。気の強さの裏に、まだどこかあどけなさを残している。六年前、澪が両家の事情を受け入れて嫁いできたとき、恒一は彼女を「子を育てるための存在」としか見ていなかった。勇太は生まれて間もなく、難産の影響で身体が弱かった。澪は必死に学び、懸命に世話をしてきた。恒一が澪をそばに置いたのは、ただ一つ――勇太に母親が必要だったからだ。だが、どれだけ冷たく振る舞っても、心まで石になれたわけではない。澪は恒一と勇太のために身を削り、この家に溶け込もうとしてきた。恒一もまた、いつの間にか澪の存在に慣れ、彼女の差し出す優しさに慣れ、心の片隅にわずかな居場所を与えていた。もし愛花が現れなければ――二人はどこにでもいる夫婦のように、淡々と、それなりの穏やかさの中で歳を重ねていたのかもしれない。それでも恒一は青葉を忘れられず、だからこそ愛花を手放さなかった。だが澪も、それを理解していたはずではないか。これまで耐えて
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