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二十四話:血に溺れた影

Autor: 渡瀬藍兵
last update Fecha de publicación: 2025-05-23 19:00:22

 バスを降りてから数分ほど歩いただろうか。緩やかな傾斜の山道を進んでいくと、木々の合間から、それはゆっくりと姿を現し始めた。

「こ、これは……」

 ——風鳴トンネル。

 風が内部を通り抜ける際に発する音が、まるで何かの鳴き声のように聞こえることから、地元でそう呼ばれるようになったという。

 だが今では、まったく別の意味で「鳴く」のだと囁かれている。風の音に混じって聞こえてくるのは——どこか悲しげな、誰かを呼ぶような、女の泣き声なのだと。

 巨大な獣が口を開いている。

 そんな比喩が、悠斗の脳裏に浮かんだ。静寂に沈むトンネルの入口は、何かを待ち受けているような、あるいは何かを呑み込もうとしているような不穏さを纏っていた。入口の脇に貼られた「立入禁止」の看板は赤錆に侵され、その警告はもう何年も前から誰にも顧みられていない。

 壁面には苔が這い、生き物の皮膚のようにしっとりと湿っている。入口の上部に掲げられた「風鳴トンネル」の銘板は、文字の一部が剥がれ落ち、かろうじて読み取れる程度だった。

 足元の道が妙に濡れていた。雨が降った様子はないのに、いくつもの水たまりが点在している。まるでトンネルそのものが何かを滲ませているかのような——不自然な湿り気だった。

「……み、美琴は……本当にこんな場所に、一人きりで来たの……?」

「ええ。もう、この場所の見た目からお分かりになると思いますけど……」

「うん……本当に、いかにも何かが出そうな雰囲気だよね……」

「ふふ、実際にいらっしゃいますからね」

 美琴は静かに、けれどはっきりとした口調でそう言った。

「それにしても……なんだろう……」

「どうしました?」

「このトンネル、すごく不気味だ……でも、それだけじゃない。……寂しさみたいなものも、感じる……」

「えっ……?」

 美琴が一瞬、驚いたように目を見開いた。だがすぐにいつもの表情に戻り、何かを噛み締めるように小さく頷く。

「……とりあえず、行きましょうか」

「そうだね……」

 二人はトンネルの入口へ足を踏み入れた。

 その瞬間——まるで見えない壁を通り抜けたかのように、悠斗の背筋を冷たいものが這い上がる。単なる気温の変化ではない。もっと本能的な、得体の知れないものの気配を肌で感じ取るような、そういう種類の冷たさだった。

「……先輩。こちらの場所の情報は調べておられましたよね?」

「うん。翔太から、君がこの場所で目撃されたって聞いた時に、軽く調べておいたんだ」

「……たしか、女性の霊が時々現れるとか。そんな情報だったかな」

「……そうですね。そういった情報が、一般的には知られているようです」​​​​​​​​​​​​​​​​

 美琴の声は、いつもと変わらず穏やかだった。けれども、どこか含みを持たせるような、そんな響きが混じっているようにも感じられる。

 トンネルの奥から、時折風が吹き抜けてくる。低く、長く引き延ばされた音。それは風の唸りなのか、それとも——。

 悠斗は無意識のうちに、美琴の横顔を見つめていた。彼女は懐中電灯を手に、トンネルの闇の奥へ視線を据えている。

「……こちらのトンネルには、先ほどお話しした、茶色いコートを着た女性が現れるとお伝えしましたよね?」

「うん」

「その情報の他に、交通事故がよく起きた……という話はご存知ですか?」

「……交通事故か。そういえば、確かにそんなこと書いてあったかもしれない」

「ええ。私が調べた限りでは、この場所では過去に、トラックによる交通事故が頻繁に発生していたようなのです。なぜトラックばかりが事故を起こしていたのか、その理由まではまだ分かっておりませんが……おそらく何かしらの関係があると考えるべきでしょうね」

 歩きながらそんな話を交わしていた、その時だった。

 足元から、霧が這い上がってきた。

「急に霧が……!」

 地面そのものが息を吐き出しているかのように——静かに、しかし確実に、白い靄が二人の周囲を包み込んでいく。冷たい湿気が肌にまとわりつき、悠斗は思わず身を縮めた。視界が白く滲み、数メートル先の壁すら曖昧に溶けていく。

 懐中電灯の光が霧に拡散され、輪郭を失っていった。

「……もしかすると、この場に留まっている方が姿を見せる前触れかもしれません」

「……!」

「……大丈夫ですか?」

「う、うん。僕がついて行くって言ったんだ。平気だよ」

 膨れ上がる恐怖を必死に押し殺しながら、悠斗は自分自身に言い聞かせるようにそう口にした。本当は足が震えそうになっている。それでも——踏み出すと決めたのは自分だ。

「無理なさらないでくださいね」

 気遣うような美琴の声。けれどその表情には、恐れも躊躇いも一切浮かんでいなかった。

 その姿を見て、悠斗はふと尋ねていた。

「……美琴は、怖くないの?」

「昔はそのように思っていた時期もありましたが、今は怖いという感情はありませんね」

 迷いのない答えだった。

「それは……どうして?」

「……彼らは私たちと同じく、かつて生きていた人間ですから。ただ、肉体という器を失い、魂だけの存在になってしまった——それだけの違いなんですよ。本質的には、私たちと何も変わらない存在ですから」

(……やっぱり。母さんと似たようなことを言うんだね)

 かつて母も、霊についてこれとよく似た言葉を口にしていた。同じ視点、同じ優しさ——美琴の声は、どこか母のそれと重なり合う。

 だが、そうした追憶に浸る間もなく——トンネルの中央付近で、何かが蠢いた。

 はじめは霧の揺らぎにすぎなかったそれが、徐々に輪郭を帯び、人の形へと変わっていく。

『ごめん……なさい……。ご……めん……なさい……』

 酷く弱々しい、か細い声だった。最後の力を振り絞るように発せられた、今にも消え入りそうな響き。

 トンネルの中央に立つ人影は、両手で顔を覆い隠していた。その身体は血に濡れたように赤黒く染まり、見る者の心を締め付けるような悲壮さを纏っている。

 その姿を目にした瞬間——悠斗の心臓が、激しく跳ね上がった。胸の内側から何かが突き上げてくるような衝撃が、全身を駆け抜ける。​​​​​​​​​​​​​​​​

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