登入「澪、本当に離れるつもりなの?結婚式まで、もうあと2週間しかないのよ。あなた……」 「うん。もう決めたの」 村上澪(むらかみ みお)の眉間のしわは少しずつ解け、その瞳はまるで凪いだ湖のように静まり返っていた。 「由理恵、その時の私の『死体』と死亡診断書、あなたに頼めるかしら」 澪は19歳の時、小山陸(こやま りく)と付き合い始めた。 25歳で大学院を卒業する際、彼のプロポーズを受け入れた。 だが、結婚式の当日、彼女は彼の前から姿を消した。 後になって、陸は自暴自棄になり、何度も命を絶とうとしたと聞いた。 しかし、澪はただ冷淡に言い放った。「私に、何の関係があるというの?」
查看更多数ヶ月後、大輔は別の町でビジネスを立ち上げ、成功を収めた。小山グループの本社は完全に解体され、新しい若き実業家が社長の座に就いた。彼に取り入ろうとする取り巻きの女性たちが、ひっきりなしに群がった。しかし彼は冷徹で、誰も寄せ付けなかった。接待の席で、酒が回り始めた頃、秘書が恐る恐る聞いた。「社長、もうお歳ですし、お傍にいたいという女性も多いのに、どうして目もくれないのですか?」大輔は怒りはしなかった。スマホの画面に映る、真剣な表情でコーヒーを淹れる1人の女性を指差した。「見てくれ、美しいだろう?」「はい、とても美しいです!」大輔は画面を見つめて微笑んだ。「彼女が心の中にいる以上、他の誰かを招き入れる余地はない。彼女の励ましがなければ、僕は一生あの小さな町に留まり、今の自分はなかったはずだ。若いうちに挑戦すべきだと教えてくれたのは彼女だし、ここは僕の行くべき場所じゃないとも言った。成功した姿を見せて、自分もやれるんだと証明したいだけなんだ。今年の正月は、あの町に戻る予定だ。面会だろうが会議だろうが、全部断っておいてくれ。聞こえたか?」秘書は頭を下げた。再びこの町を訪れたとき、澪はカフェの3店舗目をオープンさせていた。独特の内装と味わいが店の評判を呼び、澪はいくつかの賞をもらっていた。2人が再会した時、言葉を交わさずとも全ては通じ合っているようだった。遠くから目が合い、2人で笑みを浮かべた。一方、新しくオープンした花屋が、カフェへの納花をすべて請け負うことになった。開店の日、届けられた花々はどれも瑞々しく咲き誇り、店内にはほのかな芳しい香りが満ちていた。店員によると、オーナーは体が不自由で直接は来られないのだという。毎日一番新鮮な花を届けるから、長く付き合えば料金も安くすると言うのだ。澪は深く考えずに承諾した。元日の朝、花屋から露を湛えた鮮やかな花が届いた。大輔が丁寧な手つきで花を生けた。「この時期にこれだけ立派な花が送れるなんて、本当に丁寧な花屋だな。今度店を訪ねて、客になってやろう」澪は言った。「そうね。オーナーが体が不自由なのに頑張って商売をしていて、尊敬するわ」澪はチューリップを一輪取り出し、香りを嗅いだ。不思議なことに、彼女の一番好きな花がチューリップ
遠くの夜空から、微かにプロペラの音が聞こえてきた。次々と飛び立ったドローンの群れが、漆黒の空を彩り始める。頭の中にあった「もう一度、抱きしめたい」という言葉は、結局最後まで口にできなかった。ドローンが一斉にフォーメーションを変え、夜空に巨大な光の紋章を描き出す。息を呑むほどに幻想的な光景だった。「覚えてるか?あの年の正月、2人で一緒に見たよな。ドローンのパフォーマンスもあったし」「僕たち……」陸の声が、ふっと途切れた。あの日、澪は彼とドローンのパフォーマンスを見ながら、スマホに送られてきたメッセージを見ていた。そこには綾が送った、二人のいかがわしい写真と動画があったのだ。晴れやかな気持ちで正月を迎える余裕など、澪にあるはずがなかった。ただ、自分の前で取り繕うために、必死で平穏を装っていたに過ぎないのだ。あふれそうな涙を懸命に堪えていたが、無神経な自分は、彼女のそんな助けを求める孤独に気づくことはなかった。ドローンのパフォーマンスが終わると、澪が、口を開いた。「すみません、何のことですか?ドローンとか……私には何の話かさっぱりわかりません。聞いたこともありません。人違いますよ。あなたのことは知りません。外は寒いから、もう帰りください」そう言って、澪は振り返るとドアを閉めようとした。「澪!」陸は諦めきれなかった。ここまで来る間に、彼はありとあらゆる可能性を考えてきた。会えない可能性や、謝罪を受け入れてもらえない可能性。怒られ、罵倒されることだって想定していた。だが、彼女がそもそも自分という存在をなかったことにしたいのだとは、夢にも思わなかった。結局、彼は謝罪の機会さえ得られなかったということだ。そこへ、大輔が現れた。彼は陸にちらりと視線を向け、次に澪を見た。「澪さん、みつきがミルクを飲んで、ママに会いたがってるよ。行こうか」澪は「ええ」と答え、その手に自然に寄り添った。心臓を鈍器で殴られたような衝撃に、陸は言葉を失った。思わず眉間にしわが寄った。胸の奥に重苦しさが広がり、息さえできなくなりそうだ。2人が手をつないで階段を上がっていく背中が、次第に見えなくなっていく。陸はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて未練を残しながら立ち去った。ホテルに戻って
以前来た時は、山の上にまで足を運ぶ余裕もなく、いくつもの心残りを抱えたまま帰路についた。今回は一人で登って、澪が歩いた道を辿ってみることにした。足が不自由で、車いすだけが頼りだった。他の人より山登りは過酷だった。頂上に着くと、陸は世界の全てが静まり返ったような気分になった。まるで雲の中に浮かんでいるみたいだ。光が降り注ぎ、陸は車いすで大人しく、太陽の方向を向いた。昔、澪もこうして一人で頂上に登って、果てしない孤独を感じていたのだろうか。下山した頃には、陸はすっかり凍えていた。一人では何かと不自由が多く、歩みはとても遅かった。かつての町に着くと、店の場所がほとんど変わっていた。焦りが込み上げる。澪の店を見つけられないんじゃないか、と怖くなった。記憶を頼りに澪のカフェを覗くと、ずっと恋焦がれていた、あの懐かしい顔が目に入った。よかった。まだこの店はあった。よかった。彼女もまだ、そこにいた。澪は慣れた手つきでコーヒー豆をマシンに詰め、挽いた粉からいい香りが立ち込める。すぐにエスプレッソが出来上がった。次は、ミルクを泡立ててラテアートを描く。昔から、澪は変わらない。起業初期、彼女は何でも飲み込みが早くて、あらゆる仕事や決まりごとを即座にこなした。彼女がコーヒーを好きなのは知っていたけれど、こんな場所でこれほど輝けるなんて考えもしなかった。大都会から小さな町へ。ゼロから一人で始めた店でも、こんなに見事に経営し、ラテアートまで美しく仕上げている。当時、そんな澪の優秀なところに惹かれていたはずなのに。成功してからは、彼女を自分の補佐に専念させ、引き立て役にしてしまっていた。輝いていた彼女の姿を、決して忘れてはいけなかったんだ。陸は店の入り口からずっと、彼女を見つめていた。客が増えていき、澪は目が回るほどの忙しさだった。すると、大輔が急ぎ足で階段を降りてきた。「澪さん、フクがまたどこか行っちゃったぞ。あのバカ犬!もう頭にくる!」澪が白目をむいて言い返す。「ひどい言い方ね、自分だって同じでしょう?」「代わるよ、あとはやっといて。ゆっくり休んでこい」大輔が澪を端へ寄せる。「みつき、さっき寝かしつけた。いい子だった」澪は「へぇ、寝かしつけもできるの?すごいじゃない!
陸は、ひどく長い夢を見ていたような気分だった。夢の中で彼は、澪に告白したあの夏に戻っていた。大学の寮の前。陸は澪のために何本ものキャンドルを並べ、その温かな明かりの中で聞いた。「澪、大好きだよ。僕と付き合ってくれないか?」周りのひやかしの声の中、澪がやってきた。キャンドルの灯りが、彼女の頬を赤く照らしている。恥ずかしがり屋の澪は、彼の胸元に隠れるようにして言った。「もう、恥ずかしいことしないでよ」陸はからかうように尋ねる。「で、結局返事はどうなんだ?」「……いいよ」澪の声は小さかった。でも陸にとっては、これまで聞いたどんな音よりも愛おしい言葉だった。2人で強く抱き合った、人生で一番幸せな瞬間。力を込めて抱きしめたのは、離したらまた消えてしまう気がしたからだ。……「手術は成功しましたが……命は助かっても、腰から下は複雑骨折です。もう二度と自分の足で歩くのは難しいでしょう」「そんな、私の息子が……」耳元で騒がしい声がする。陸が目を覚ますと、病院の匂いが鼻をついた。そばにいた絢香が、目を腫らして泣いている。頭の中はまだあの夏の記憶から抜け出せそうになかった。だが現実は残酷で、何もかも失い、健康な体さえ奪われてしまったのだ。「陸、青木一家は警察が捕まえたし、事故の犯人も逮捕されたわ。あの連中には、相応の報いを受けさせないと!」陸は皮肉な笑みを浮かべた。それからうなだれ、自分の足をじっと見た。「結局、僕が払うべき代償だったっていうわけだ」絢香はむせび泣く。「陸、そんなこと言わないで。ちゃんと治療を受ければまた歩けるかもしれないし、あなたならまた一からやり直せるはずよ。人生には浮き沈みがあるものよ。気にしちゃダメ」陸は目を潤ませた。「ありがとう、母さん。でも今の僕じゃ、もう澪には釣り合わないんだ。もう澪を追い求めるなんてことはしないよ。安心して」絢香は声にならないほど泣いた。陸は顔を横に向け、涙を必死にこらえた。あの交通事故の時、いっそ死んでいればどれほど楽だったかと考えたこともあった。死んでしまえば、生きているよりはずっと楽だったはずだ。その後、陸は長い入院生活を送ることになった。綾が治療費の支払いを拒絶したというニュースを聞いても、