ログイン親友の相沢美香(あいざわ みか)が、元彼とよりを戻したと打ち明けてきた。 私は、ろくでもない元彼とよりを戻すなんてどうかしている、と散々責めた。けれど、美香は困ったように笑った。 「どうしても切れない縁って、あるのかもね。奈緒ちゃんに理解してほしいわけじゃないの。ただ、私を怒らないでほしい」 当時の私は、その言葉に込められた意味に気づかなかった。私があの元彼にいつまでも腹を立てているのを、美香が気にしているのだと思った。 彼女の困り切った顔を見ていると、これ以上責める気にはなれなかった。私は美香を抱きしめた。 「美香、自分を犠牲にするようなことだけは、しないでね」 それから1年後。生理痛がひどくて婦人科を受診した日、私は美香が産科の診察室から出てくるところを偶然見かけた。 声をかけようとしたとき、1人の男がすぐに駆け寄り、美香の体を支えた。体調を気遣うように、彼女の顔をのぞき込んでいた。 気づいたときには、私は廊下の角へ身を隠していた。全身の震えが止まらなかった。 その男は、結婚してもうすぐ3年になる私の夫、久世智哉(くぜ ともや)だった。
もっと見る離婚調停では、離婚に加え、財産分与と慰謝料についても合意が成立した。智哉は多くの財産を手放した。一方、経営が悪化していた会社も、ほどなくして破産手続きに入った。離婚調停が成立した日は、よく晴れていた。家庭裁判所を出ると、階段の下に智哉が立っていた。身なりも構わず、すっかり落ちぶれていた。私は足を止めることなく、そのまま通り過ぎた。車のドアを開けようとしたとき、スマホが鳴った。知らない番号から、長いメッセージが届いていた。【奈緒ちゃん、私はこの街を離れます。智哉も、奈緒ちゃんもいない場所へ行きます】【智哉が『近いうちに家庭裁判所へ行く』と言っていました。離婚が成立すれば、ようやく人目を気にせず一緒にいられると、嬉しそうに笑っていたの】【でも、智哉の顔を見ていたら、空港で私を見つめた奈緒ちゃんの、深く傷ついた目を思い出しました】【私には、できません】【奈緒ちゃんを傷つけて成り立った恋を、このまま幸せだと思うことはできません】【智哉に抱きしめられるたび、気持ち悪いと思いました。自分がまた罪を重ねているように感じたの】【罪悪感のせいで、私は子どもも、智哉との関係も失いました】【奈緒ちゃん、ごめんなさい。生まれ変わることがあっても、今度は2人に近づきません。二度と、奈緒ちゃんの人生を邪魔しません】【これからの奈緒ちゃんに、たくさんの幸せがありますように。これからも、奈緒ちゃんらしくいてね】最後まで読み終えたとき、こらえていた涙が静かに流れた。返信はしなかった。メッセージを削除し、その番号も着信拒否にした。その後、智哉は美香を必死に捜したという。行き先を知る人がいないか、手当たり次第に聞いて回っていた。智哉は、美香を選ぶために両親へ逆らい、結婚を壊し、仕事まで失った。それでも最後には、美香にも去られた。2人の関係は、最初からあまりにも多くの嘘と罪悪感を抱えていた。その上に幸せな生活を築くことなど、できなかったのだ。けれど、それはもう私の人生とは関係がない。ヨーロッパ旅行の最後の週、パリで以前、仕事で関わったことのある外資系企業の役員と偶然再会した。私が退職したと知ると、役員はヨーロッパ本社のプロジェクト責任者へ応募しないかと熱心に勧めてくれた。せっかくの機会だからと、面接を受けた。こ
その夜、私は市内中心部にある自分名義のマンションへ戻った。シャワーを浴び終えたころ、インターホンが鳴った。モニターには、やつれた智哉の顔が映っていた。私はカーディガンを羽織って、玄関を開けて、ドアの前に立つ智哉を無言で見返した。「奈緒、今日の空港での言い方は、あまりにもひどい」智哉は一度呼吸を整えた。妙に落ち着いた声だったが、私を責めているのは明らかだった。「美香は本当に、お前を一番の親友だと思ってる。それなのに、どうしてあそこまで追い詰めるんだ」「私がひどい?」私は眉を上げた。「こんな時間に来て、美香のために私を責めるつもり?」「俺を恨んでるのは、分かってる」智哉は力なく笑った。疲れきった目をしていた。「離婚届にはサインした。俺は両親から縁を切られ、会社も破産寸前だ。昔、俺は両親に逆らえず、美香を諦めてお前と結婚した。今度は両親に逆らったせいで、家族も会社も失いかけている。今の俺には、美香しかいない」智哉は私から目をそらさなかった。「でも、美香は病気なんだ。空港から病院へ運ばれて、目を覚ましてからは何も食べず、俺とも話そうとしない。医者には、重いうつ状態だと言われた。このままでは立ち直れない」「それで?」「病院へ行って、美香に会ってほしい」智哉の声は懇願するようでありながら、どこか当然の要求をしているようにも聞こえた。「美香を許すと言ってくれ。お前はもう大丈夫だから、美香も自分を責めなくていいと、そう言ってほしいんだ。美香が立ち直れたら、サインした離婚届をすぐに渡す。俺は美香を連れて、この街から離れる。二度とお前の前には現れない」私は黙って聞いていた。理解しがたい理屈に、また吐き気がした。これが智哉という人なのだ。自分はすべてを捨てて愛を選んだ悲劇の主人公だと、そう思っている。美香は罪悪感から病気になったから、優しくて傷つきやすい被害者だと思っている。そして実際に裏切られた私は、2人の愛を成就させるために、寛大な許しを与えなければならないらしい。「智哉」私は彼の目を見て、言葉を区切り、はっきりと尋ねた。「あなたたち2人の恋は、そんなに立派なものだとでも思ってるの?自分たちがしたことに向き合うこともできないのに、傷つけた相手へ罪悪感を消してくれと頼む。美香が本
1か月後。2つのスーツケースと、旅先の陽射しに焼けた肌で、私は帰国した。誰にも知らせず、離婚の手続だけを済ませたら、そのままパリへ向かうつもりだった。けれど、智哉と美香はなぜか私の帰国便を知っていた。到着ロビーへ出た瞬間、出迎えの人たちの最前列にいる2人の姿が目に入った。わずか1か月なのに、2人とも、一瞬誰だか分からないほど変わっていた。智哉はひと回り痩せ、無精ひげを伸ばしていた。疲れきった顔に、以前の余裕はない。美香はさらに痩せていた。大きなコートに包まれた体は今にも倒れそうで、顔色も悪く、目にも生気がなかった。私を見つけた瞬間、智哉の目が明るくなった。けれど、それも一瞬だった。美香はふらつきながら、出迎えの人たちの間を縫うようにして、まっすぐ私のところへ来た。私が反応する間もなく、美香は突然、その場に崩れ落ちるようにひざまずいた。「奈緒ちゃん!」美香は泣き叫びながら私の脚へしがみついた。「やっと帰ってきてくれたね……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい!」人の多い到着ロビーで、美香が泣き叫ぶと、周囲の人々が一斉に振り向いた。足を止めた人たちが、私たちの周りへ集まってきた。「私、取り返しのつかないことをした。奈緒ちゃんをこんなに傷つけるなんて……」美香は顔を上げ、声を詰まらせながら訴えた。「毎日、自分がしたことに苦しんでる。目を閉じると、大学生のころ、奈緒ちゃんが朝ごはんを買ってくれたことを思い出すの。もう生きていけない……お願い、許して。奈緒ちゃんが怒らなければ、私はどうなってもいい!」事情を知らない人たちが、小声で話し始めた。その視線が一斉に私へ向く。かつて誰よりも大切にしていた親友が、壊れそうな姿で、私の前で泣いている。胸が、細かなガラス片で少しずつ傷つけられるようだった。演技ではないことは分かった。美香は本当に、罪悪感に追い詰められているのだろう。だからといって、私を裏切った事実が消えるわけではない。そこへ智哉が人垣をかき分けてきた。美香を見下ろす顔には、苦しそうな表情が浮かんでいた。やがて智哉は、すがるような目を私へ向けた。「奈緒」智哉の声はかすれていた。「この1か月、どこにいたんだ。ずっと捜してた。美香は流産してから体調が戻らない。毎日自分を責め、夜も
映像に映っていたのは、かつて心から愛した夫と、何より大切にしていた親友だった。2人とも、初めから誰かを傷つけようとしていたわけではない。ただ、弱くて、自分勝手で、互いへの思いに溺れていただけだ。美香が私へ罪悪感を抱いているのはきっと本当なのだろう。智哉が美香を深く愛していることも、あの映像を見れば疑いようがなかった。2人は、罪悪感と互いへの思いの間でもがきながら、互いを傷つけ続けた。そのうえ、自分たちの関係に私まで巻き込んだ。母から電話がかかってきた。声には疲れがにじんでいたが、それ以上に私を心配しているのが伝わってきた。「奈緒、映像は見た?さっき病院から連絡があって、美香は流産したそうよ。智哉さんは、今は病院に付き添っているの。少し面倒なことになったけれど、奈緒はどうしたい?」私はコーヒーをひと口飲んだ。苦みが喉を通り、頭が少しずつさえていく。「お母さん、智哉にはサインしてもらう。本人が応じるなら協議離婚で、応じないなら離婚調停を申し立てる。美香がどうなろうと、この結婚を続けるつもりはない。2人がどれほど苦しんでいても、それは自分たちで選んだ結果よ。私を裏切った人たちのところへ、戻る気はない」母は、迷いのない声で言った。「それでいいのよ」その声は穏やかで、私の背中をしっかり支えてくれた。「奈緒はしばらく、そちらでゆっくりしなさい。ここのことは、父さんと母さんに任せて。何があっても、私たちが支えるから」電話を切った途端、こらえていた涙がスマホの画面へ落ちた。私はスマホを握りしめ、遠く離れた場所から届いた両親の言葉を、何度も心の中で繰り返した。よかった。私には、まだ帰る場所がある。あの2人に裏切られても、私の世界までなくなったわけではない。私は母に頼み、会社へ退職届を送ってもらった。美香との思い出が詰まった職場には、もう戻りたくなかった。私の生活から、彼女の存在を完全に切り離す必要があった。それから1か月、ヨーロッパを旅した。最初に訪れたのはアイスランドだった。黒い砂浜で冷たい海風を受けながら、孤独にそびえる玄武岩の崖を眺めた。次はスイス。アルプスの麓にある小さな町で、毎朝、牛の鈴の音で目を覚ました。その次はプラハの広場へ行き、ベンチに座って鳥に餌をやった。何かを急いで決めるの