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帰る頃には、すべてが終わっていた

帰る頃には、すべてが終わっていた

By:  川辺の夕映えCompleted
Language: Japanese
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紛争地特派員として海外に赴任して三年目、私、北原紗月(きたはら さつき)は砲撃による爆発に巻き込まれ、記憶を失った。 重度のPTSDを発症し、その後の二年間を海外の専門医療施設で過ごした。 そして二か月前、ようやく自分が何者なのかを思い出した。 帰国した日、空港には、親友と夫がそろって迎えに来ていた。二人とも、帰国した私以上に泣いていた。 久世直哉(くぜ なおや)は目を真っ赤にしながらも、以前と変わらない優しい口調で言った。 「新しい部屋はもう使えるようにしてある。今日はひとまず、そこで休んでくれ。仕事が片づいたら、夜に顔を出す」 けれど私は、以前暮らしていた家へ戻った。 玄関の扉を開けた瞬間、壁に飾られた結婚写真が目に飛び込んできた。 花嫁は私ではなく、親友の高瀬彩香(たかせ あやか)だった。 背後で、鍵が回る音がした。 仕事に戻ったはずの直哉が、彩香と指を絡めながら入ってくる。 しかも直哉の腕には、息子の久世颯太(くぜ そうた)が抱かれていて、その子はあどけない声で彼を「パパ」と呼んだ。 私はその場に立ち尽くし、息をすることさえ忘れた。 私が行方不明になっていたのは、2年だけだ。 なのに、目の前の子はどう見ても3歳くらいだった。

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Chapter 1

第1話

紛争地特派員として海外に赴任して三年目、私、北原紗月(きたはら さつき)は砲撃による爆発に巻き込まれ、記憶を失った。

重度のPTSDを発症し、その後の二年間を海外の専門医療施設で過ごした。

そして二か月前、ようやく自分が何者なのかを思い出した。

帰国した日、空港には、親友と夫がそろって迎えに来ていた。二人とも、帰国した私以上に泣いていた。

久世直哉(くぜ なおや)は目を真っ赤にしながらも、以前と変わらない優しい口調で言った。

「新しい部屋はもう使えるようにしてある。今日はひとまず、そこで休んでくれ。仕事が片づいたら、夜に顔を出す」

けれど私は、以前暮らしていた家へ戻った。

玄関の扉を開けた瞬間、壁に飾られた結婚写真が目に飛び込んできた。

花嫁は私ではなく、親友の高瀬彩香(たかせ あやか)だった。

背後で、鍵が回る音がした。

仕事に戻ったはずの直哉が、彩香と指を絡めながら入ってくる。

しかも直哉の腕には、息子の久世颯太(くぜ そうた)が抱かれていて、その子はあどけない声で彼を「パパ」と呼んだ。

私はその場に立ち尽くし、息をすることさえ忘れた。

私が行方不明になっていたのは、2年だけだ。

なのに、目の前の子はどう見ても3歳くらいだった。

直哉と彩香も、私の姿を見て明らかに動揺していた。

彩香の笑顔が凍りつき、直哉は弾かれたように彼女の手を放した。

彼は慌てて子どもを彩香に預けると、うろたえた声で言った。

「紗月、どうしてここに?」

私は家族のように並ぶ三人を睨みつけたまま、何も答えなかった。

彩香は子どもを強く抱きしめ、みるみる目を潤ませた。

「紗月、お願い、話を聞いて。あなたが思っているようなことじゃないの……」

「なら、これはどういうこと?」

私は震える指で、壁に飾られた結婚写真を指さした。

「直哉、彩香と結婚したなら、どうして何も言ってくれなかったの?」

直哉は私を抱きしめようと歩み寄ってきたが、途中で足を止めた。

「紗月、これには事情がある。あのときは、誰もが君は亡くなったと思っていた。だから俺たちは……」

「私が行方不明になってから、まだ二年しか経っていないのに、この子はもう3歳なんでしょう?二人は、私がいなくなる前から関係があったのね?」

震える声で彼の言葉を遮った。

直哉が再婚していたこと以上に、私には耐えられないことがあった。

彼は私と結婚している間から、不倫していたのだ。

しかも、その相手は私の親友だった。

問い詰められた直哉も彩香も、何も言い返せなかった。

彩香は泣きながら、何度も「ごめんなさい」と繰り返した。

直哉は、ただ黙り込んでいた。

私は改めて、かつて自分の家だった場所を見回した。

リビングには子どものおもちゃがあふれ、ソファもカーテンもすっかり替わっていた。

壁には、3人で撮った家族写真が飾られている。

彩香は子どもを抱き、直哉の胸に寄り添って幸せそうに笑っていた。

その笑顔が刃のように、深く目に突き刺さった。

どれほど時間がたったのか。

やがて直哉が口を開いた。

「紗月、もう済んだことだ。君が生きて帰ってきてくれた。それだけで、俺たちは本当にうれしいんだ」

「私はあなたの妻だったのよ。それなのに今では、まるで私のほうが二人の仲を邪魔する女みたいじゃない。そんなことを、過ぎたことにできると思う?」

私が言い終えた途端、子どもが怯えて泣きだした。

彩香は慌ててあやし始めた。

直哉は子どもに目をやると、眉をひそめた。

「紗月、君には本当に申し訳ないと思っている。だが彩香と子どもに罪はない。ここで声を荒らげるのはやめてくれ」

この家は、私たちが結婚したときに新居として用意したものだった。

そこに別の女と子どもを住まわせた挙げ句、彼は私を追い出そうとしている。

「出ていかない!ここは私の家よ!」

けれど直哉は私の手首をつかみ、そのまま玄関の外まで引きずっていった。

「紗月、落ち着け!話は明日にしよう。これ以上、子どもを怖がらせるな」

扉が大きな音を立てて閉まった。

しばらくすると、家の中から子どもの楽しそうな笑い声が聞こえてきた。

直哉が「パパが抱っこしてあげる」と優しくあやし、彩香は甘えた声で彼を「あなた」と呼んでいる。

あの三人は、幸せな家族だった。

そして私は、突然押しかけて騒ぎを起こした、頭のおかしい女でしかなかった。

そのとき突然、激しい耳鳴りに襲われた。

二年前のあの戦場に、引き戻されたような感覚がした。

砲弾が雨のように降り注いでいた。

飛び散った破片が皮膚に食い込み、声も出せないほどの痛みが全身を襲った。

次に目を覚ましたとき、私はすべての記憶を失っていた。

それでも頭の奥では、ずっと同じ声が響いていた。

生きなければならない。

私の帰りを待っている人がいる。

その思いだけを支えに、崩れそうになるたび、何度も自分を奮い立たせた。

来る日も来る日も薬を飲み、点滴を受け、カウンセリングを続けた。

そしてようやく、私はすべてを思い出した。

家族のこと。

幼い頃から一緒に育った恋人のこと。

そして、姉妹同然に育った親友のこと。

医師の制止も聞かず、傷だらけの体を引きずるようにして、十数時間も飛行機に乗り、帰国した。

まさか、こんな現実が待ち受けているとは思いもしなかった。

私は玄関先にうずくまり、長いあいだ泣き続けた。

やがて立ち上がると、涙を拭い、車で北原家の屋敷へ向かった。

家に着くと、母はリビングのソファに座り、本を読んでいた。

その姿を見た途端、再び涙があふれた。

私は母のもとへ駆け寄り、その体を抱きしめた。

「お母さん……ただいま」

声が涙でかすれた。

けれど、次の言葉を口にするより早く、母は私を乱暴に突き放した。

次の瞬間、頬に平手打ちが飛んできた。

「紗月!この親不孝者が、よくもぬけぬけと帰ってこられたわね!」

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第1話
紛争地特派員として海外に赴任して三年目、私、北原紗月(きたはら さつき)は砲撃による爆発に巻き込まれ、記憶を失った。重度のPTSDを発症し、その後の二年間を海外の専門医療施設で過ごした。そして二か月前、ようやく自分が何者なのかを思い出した。帰国した日、空港には、親友と夫がそろって迎えに来ていた。二人とも、帰国した私以上に泣いていた。久世直哉(くぜ なおや)は目を真っ赤にしながらも、以前と変わらない優しい口調で言った。「新しい部屋はもう使えるようにしてある。今日はひとまず、そこで休んでくれ。仕事が片づいたら、夜に顔を出す」けれど私は、以前暮らしていた家へ戻った。玄関の扉を開けた瞬間、壁に飾られた結婚写真が目に飛び込んできた。花嫁は私ではなく、親友の高瀬彩香(たかせ あやか)だった。背後で、鍵が回る音がした。仕事に戻ったはずの直哉が、彩香と指を絡めながら入ってくる。しかも直哉の腕には、息子の久世颯太(くぜ そうた)が抱かれていて、その子はあどけない声で彼を「パパ」と呼んだ。私はその場に立ち尽くし、息をすることさえ忘れた。私が行方不明になっていたのは、2年だけだ。なのに、目の前の子はどう見ても3歳くらいだった。直哉と彩香も、私の姿を見て明らかに動揺していた。彩香の笑顔が凍りつき、直哉は弾かれたように彼女の手を放した。彼は慌てて子どもを彩香に預けると、うろたえた声で言った。「紗月、どうしてここに?」私は家族のように並ぶ三人を睨みつけたまま、何も答えなかった。彩香は子どもを強く抱きしめ、みるみる目を潤ませた。「紗月、お願い、話を聞いて。あなたが思っているようなことじゃないの……」「なら、これはどういうこと?」私は震える指で、壁に飾られた結婚写真を指さした。「直哉、彩香と結婚したなら、どうして何も言ってくれなかったの?」直哉は私を抱きしめようと歩み寄ってきたが、途中で足を止めた。「紗月、これには事情がある。あのときは、誰もが君は亡くなったと思っていた。だから俺たちは……」「私が行方不明になってから、まだ二年しか経っていないのに、この子はもう3歳なんでしょう?二人は、私がいなくなる前から関係があったのね?」震える声で彼の言葉を遮った。直哉が再婚していたこと以上に、私
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第2話
私は頬を押さえ、呆然と顔を上げた。「自分の好きなように生きるって決めたんでしょう?戦地記者になるって言い張ってたじゃない。今さら何をしに帰ってきたの?」私は深く息を吸った。「お母さん、直哉と彩香が結婚して、子どもまでいること、知ってたの?」母は顔色ひとつ変えなかった。「知っているわ。結婚式だって、北原家と久世家で相談して挙げたのよ」「え?」私は目を見開き、耳を疑った。「直哉の妻は私よ。お父さんとお母さんの娘だって私でしょう?それなのに、どうして……」「よくもそんなことが言えたな!」声を聞きつけた父が、険しい顔で飛び出してきた。「海外へ行くなと、あれほど言っただろう!何不自由ない暮らしを捨てて、わざわざ命を落としかねない場所へ行ったのはお前だ。二年前に行方不明になって、俺たちはお前が死んだものと思っていた。母さんが毎日どれだけ泣いていたと思う?生きていたのなら、なぜ一本の連絡もよこさなかった。それなのに帰ってくるなり、俺たちを責め立てるつもりか?」事情を説明しようと口を開きかけた、そのときだった。玄関の呼び鈴が鳴った。直哉と彩香が、子どもを連れて入ってきた。彩香は明るい声で呼びかけた。「お父さん、お母さん、こんばんは」母は途端に笑顔になり、いそいそと迎えに出た。「まあ、彩香。よく来たわね。さあ、早く入りなさい」そう言って彩香の子どもを抱き上げた。「おなかはすいてない?おばあちゃんがおいしいものを作ってあげるからね……」おばあちゃん?目の前の光景に、胸をえぐられるような痛みが走った。彩香は私に気づくと、気まずそうに笑った。「紗月も来てたのね?」「演技はやめて。もう友達でも何でもない。私の夫も家族も居場所も、全部奪えて満足?」母が振り返り、目を真っ赤にして怒鳴った。「紗月、いい加減なことを言うのはやめなさい!家族中をかき回さないと気が済まないの?彩香は小さい頃から私たちが見守ってきた子よ。あなたより素直で気が利いて、ずっと親孝行してくれた。この何年も、私とお父さんのそばにいてくれたのは彩香なの。あなたみたいな恩知らずとは違うわ!」私は直哉を見た。彼は後ろめたそうに目をそらした。あの頃、私の海外派遣には両家とも猛反対していた。そんななか、周囲の
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第3話
彩香の名前を口にした途端、受付の女性はぱっと目を輝かせた。「彩香さんって、本当にすごいんですよ。D国で撮ったあのドキュメンタリー、ものすごくよくできていて!」彼女はパソコンでその作品を開き、私に見せてくれた。画面には、「企画」「監督」として彩香の名前が大きく表示されていた。「ほら、すごいでしょう?私たちも見ながら泣いちゃったんです!」見覚えのある映像が、次々と目の前に流れていく。一枚一枚の写真も、ひとつひとつのインタビューも、すべて私が銃弾と砲撃の飛び交う中で命がけで手に入れたものだった。私が映っている場面だけが切り取られ、代わりに彩香のナレーションがかぶせられている。作品の最初から最後まで、どこにも私の名前はなかった。制作協力企業の一覧では、久世グループが筆頭に記されていた。直哉だ。私のパソコンのパスワードを知っているのは、彼しかいない。私は映像を閉じると、車で久世グループへ向かった。その途中、背後から大型トラックのクラクションが鳴り響いた。耳をつんざくような大音量だった。途端に頭が激しく痛みだし、あの爆発音が耳元でよみがえる。私は思わず耳を塞いだ。次の瞬間、ハンドルが大きくぶれ、車は道路脇のガードレールに衝突した。直哉が駆けつけたとき、ひどく険しい顔をしていた。私を責めようとしたのだろう。けれど、真っ青になった私の顔を見るなり、彼は何も言わずに抱きしめた。「もう大丈夫だ、紗月。俺がいる……」彼の腕の中は、今も昔と変わらず温かかった。涙がこぼれそうになるほど、温かかった。私は勢いよく彼を突き放した。涙が次々と頬を伝っていく。「直哉、どうして私の取材映像を彩香に渡したの?これを撮るために、私が何度も死にかけたことを知っていたでしょう?私にとって、どれだけ大切なものだったかもわかっていたはずよ……」このドキュメンタリーの企画は、2年前から準備を進めていた。少しでもいい映像を撮るために、私はカメラを担ぎ、銃弾と砲撃が飛び交う中を駆け回った。銃弾に体を撃ち抜かれたことも、爆風で吹き飛ばされたこともある。何度も死と紙一重の目に遭った。作品に使われた映像は、すべて私が命を懸けて撮ったものだった。直哉は手を伸ばし、私の目尻にたまった涙をゆっくり拭った。
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第4話
直哉から何度も電話がかかってきたが、私は一度も出なかった。両親からも動画を削除しろとメッセージが届いたが、すべて無視した。一時間もしないうちに、トレンドの上位十件が彩香の名前で埋め尽くされた。だが、その流れはすぐに変わった。久世グループが声明を発表し、私は現在も治療中で精神状態が不安定なため、発信内容の信頼性には疑問があると主張したのだ。その直後、北原グループも記者会見を開いた。両親は自ら会見に出席し、私が海外の精神科病院に入院していた際の診療記録を公開した。しかも、都合のいい箇所だけを抜き出し、私が精神を病み、彩香を陥れるために虚偽の情報を流していると訴えた。会見の席で、母は涙を流しながら語った。「本当に親不孝な娘です。私たちは二年間も捜し続けたのに、生きていたくせに一度も連絡をよこさなかった。それが帰ってくるなり、嘘を広めて騒ぎを起こすなんて……どうして北原家に、こんな娘が生まれてしまったのでしょう……」その隣には、目を赤くした彩香が座っていた。「紗月は、私にとって一番大切な友人です。病気だとは知りませんでした。だから、私は彼女を責めるつもりはありません……」ネット上の反応は、一瞬にして覆った。【なんだ、精神を病んでるのか。だったら話なんて信用できない】【北原家も気の毒だな。こんな娘を持つなんて】【高瀬彩香がかわいそう。頭のおかしい女に執着されて……】私が投稿した動画のコメント欄には、たちまち数万件もの誹謗中傷が押し寄せた。「狂ってる」「死ね」「病人」――そんな言葉で画面が埋め尽くされていく。スマホを置いた直後、大勢の男たちがなだれ込んできた。北原家の者たちだった。「お嬢様、奥様のご意向で家にお迎えに上がりました」家?今の私に、帰る家などどこにあるというのだろう。私は手当たり次第に物を投げつけ、出ていけと怒鳴った。それでも最後には無理やり拘束され、車に押し込まれて北原家へ連れ戻された。私は3階の寝室に閉じ込められた。階下から、母と彩香の話し声が聞こえてくる。「彩香、怖がらなくていいのよ。私があなたを守るから」「ありがとう、お母さん。でも私、紗月のことが心配で……」「あの子は自業自得よ!あのとき私たちの言うことを聞かず、無理に海外へ行ったのが悪いんで
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第5話
1階の庭は無数の明かりに照らされ、昼間のような明るさだった。その中央では、直哉と彩香がグラスを手に、招待客へ挨拶をしていた。「今日は、俺と彩香の結婚記念日にお越しいただき、ありがとうございます」直哉は彩香の手を取り、愛おしむようにその甲へ口づけた。「彩香、ずっと俺のそばにいてくれてありがとう。こんなにかわいい息子を授けてくれたことにも、心から感謝している」彩香は目に涙を浮かべ、会場からは割れんばかりの拍手が沸き起こった。直哉はまだ笑みを浮かべたまま、乾杯のグラスを掲げた。だが、それが半ばまで上がった、その瞬間だった。ドンッという凄まじい音とともに、白い人影が上から落ちてきた。あまりにも突然で、何の前触れもなかった。直哉の手からグラスが滑り落ち、足元で粉々に砕けた。彩香は悲鳴を上げ、両手で口を覆った。会場は一瞬にして混乱に陥った。叫ぶ者、駆け回る者、泣き出す者。そんな中、直哉だけは、その場に立ち尽くしていた。目を見開き、両手が激しく震えていた。「紗月……」次の瞬間、直哉は人の群れをかき分け、全速力で駆け寄った。その場に膝をつき、血に染まった彼女の顔へ恐る恐る手を伸ばす。けれど、触れることすら怖いのか、その指先は宙で止まった。知らせを受けた北原夫妻も、慌てて駆けつけてきた。顔を血に染めた紗月を目にした瞬間、母は腰を抜かし、その場に崩れ落ちた。目を見開き、何度も首を振る。「そんなはずない……紗月が、こんなことをするはずがないわ!この子は紗月じゃない!紗月じゃないわ!」母は声を張り上げて否定し続け、そのまま地面に膝をついて泣き崩れた。ほどなくして、救急車が到着した。紗月が救急車へ運び込まれたときも、花火はまだ夜空に上がり続けていた。その光景を見て、直哉の脳裏に、パーティーが始まったばかりの頃の紗月の姿がよみがえった。彼女は花火を止めてほしいと、必死に訴えていた。あのときすでに、明らかに様子がおかしかった。顔には恐怖が張りつき、まともに言葉を続けることすらできていなかった。それなのに、彼は演技だと決めつけた。彼女がPTSDを患っていることは知っていた。ただ、それほど深刻だとは思っていなかった。花火の音を砲撃と錯覚し、自ら命を絶とうとするほ
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第6話
再び目を覚ましたとき、鼻をついたのは、どこか懐かしい消毒薬の匂いだった。私は手の甲に刺さっていた点滴の針を引き抜き、必死にベッドから降りようとした。頭を抱えたまま、喉が張り裂けるほど叫び続ける。次の瞬間、誰かに強く抱きしめられた。「紗月、俺はここにいる。もう大丈夫だ。大丈夫だから……」少しずつ意識がはっきりしてきた。ここは精神科病院ではない。普通の病院だった。直哉は私の背中を優しくさすりながら、根気強くなだめ続けた。私がどれだけ彼を叩いても、決して腕を離さなかった。やがて私は少しずつ落ち着きを取り戻し、周囲を見回した。母がベッドの足元に立っていた。泣き腫らした目は、ひどく赤くなっている。「紗月、お母さんが悪かったわ」声はすっかりかすれていた。「記憶を失っていたなんて知らなかった。あんなに大きなけがをして、ずっと苦しんでいたことも……」父も苦痛に満ちた表情で口を開いた。「紗月、これまでのことは全部、俺たちが悪かった。腕のいい医者を探して、できる限りの治療を受けさせる。きっとよくなるから」私は顔を背け、反対側を向いたまま、長いあいだ黙っていた。直哉はすぐに水を用意し、少しずつ私の口元へ運んだ。私は彼の手から半分ほど飲むと、再びベッドに横になった。顔には何の感情も浮かんでいなかった。直哉はコップを置き、もう一度私の手を握った。「紗月、君があんな目に遭っていたなんて知らなかった。病気がそこまで深刻だとも思っていなかった。本当にすまない。俺は、君が芝居をしているんだと……」私は目を閉じたまま、何も答えなかった。「必ず償う。最高の医者を探して、できる限りの治療を受けさせる。欲しいものがあるなら、何でも用意する」その言葉を聞いて、私はわずかに口元をゆがめた。嘲るような笑みだった。「なら、彩香と離婚して。私が望むのは、それだけ」「それはできない」直哉は即座に拒んだ。「それ以外なら、何でも言うことを聞く。紗月、子どもに罪はない。俺には、彩香と子どもに対する責任があるんだ」彼は私の手を強く握りしめ、必死な目で見つめた。「紗月、信じてくれ。俺と彩香が関係を持ったのは、あの一度だけだ。まさか子どもができるとは思っていなかった……」「一度でも、裏切りは裏切りよ」
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第7話
退院の日、直哉は朝早くから迎えに来ていた。荷物をまとめ終えたところで、彼のスマホが鳴った。電話の向こうから、彩香の声が聞こえてくる。「直哉、今日は颯太の誕生日なの。パパに会いたいって泣いてるから、少しだけ帰ってきてくれない?」直哉は眠っている私をちらりと見て、声を潜めた。「少し一人で遊ばせておいてくれ。すぐに戻る」そう言って、彼は病室を出ていった。扉が閉まった瞬間、私は目を開けた。本当はとっくに目を覚ましていた。ただ、彼と顔を合わせたくなかっただけだ。私はボディガードたちに、少し外の空気を吸いたいからついてこないでほしいと告げた。それからタクシーを拾い、新しい家へ戻った。必要なものをすべてまとめると、最も早く出発する便を予約し、そのまま空港へ向かった。搭乗口を通る直前、スマホが震えた。画面を見ると、直哉からメッセージが届いていた。【紗月、病院で待っていてくれ。すぐ迎えに行く】私は返信せず、そのまま電源を切った。飛行機が離陸すると、窓の外の街が少しずつ小さくなっていった。眼下に広がる雲海を見つめながら、私は両手で顔を覆った。そのときになって、ようやく涙がこぼれ落ちた。それはまるで、声のない別れだった。直哉とは、幼い頃からずっと一緒に育ってきた。彩香は父の親友の娘で、幼くして両親を亡くし、北原家に引き取られていた。18歳のとき、私は夢を追うため、誰にも相談せず、志望校をメディア系の大学に変更した。母は怒りのあまり倒れかけ、父は親子の縁を切るとまで言った。そんな中、私の味方をしてくれたのは、彩香と直哉だけだった。直哉は海外の大学への進学を諦め、私と同じ北央市の大学へ進んだ。そして皆の前で私の手を取り、堂々と言い切った。「俺は紗月と一緒に北央市へ行く。紗月がいるところに、俺もいる」彩香も、私と同じ大学を受験した。私が一番の親友だから、これからもずっと一緒にいたいと言ってくれた。その後、私が海外へ派遣されるようになってからも、出発のたびに二人は空港まで見送りに来てくれた。直哉は、やりたいことがあるなら迷わずやればいい、自分はいつでも私の味方だと言ってくれた。彩香も、いつも私を励ましてくれた。「紗月なら絶対にできる。私はいつだって応援してるから」二
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第8話
記者仲間が、こちらでの生活に必要なものをすべて整えてくれていた。ひとまず身の回りを落ち着かせると、私はすぐに新しいチームへ顔を出した。そこには見覚えのある顔が何人もいた。かつてD国で、私と肩を並べて働いた仲間たちだった。同僚たちは私を力いっぱい抱きしめ、英語で「おかえり」と言ってくれた。ここへ来て最初に取りかかったのは、新しい企画ではなかった。何より先に、さらに確かな証拠を示し、自分の潔白を証明しなければならなかった。一人のカメラマンが、USBメモリを差し出してくれた。中には、私がD国で働いていた頃のオフショットが収められていた。自分では気にも留めていなかった日々の姿を、仲間たちが何気なく記録してくれていたのだ。必要なら、いつでも証言すると全員が言ってくれた。私はUSBメモリを受け取り、礼を言った。一週間後、ある国際報道局の公式アカウントが声明を発表し、私がD国で取材していた際の未編集映像を公開した。映像の中で、私は廃墟となった建物の屋上に立ち、現地からリポートしていた。背後では炎が空を赤く染め、銃声と砲撃音が絶え間なく響き、その衝撃でカメラが何度も大きく揺れていた。それでも私は微動だにせず、はっきりと力強い声で状況を伝えていた。背後に砲弾が着弾しても、瞬きひとつしなかった。ほかにも、普段の仕事ぶりを収めた映像が数多く残っていた。どのように取材を進め、どのように写真を撮り、どのように企画書を書いていたのか。その一つひとつが、克明に記録されていた。D国で共に働いていた同僚たちは全員、その動画を拡散し、私のために声を上げてくれた。同時に、私は集めた証拠をすべてまとめ、放送倫理審査委員会と関係機関へ提出した。二日後、彩香は停職処分となり、正式な調査が始まった。国内外のSNSや掲示板は、たちまち騒然となった。【じゃあ、高瀬彩香は本当に人の作品を盗んでたってこと?】【国際報道局が公式に証拠を出したんだぞ。もう言い逃れできないだろ】【でも、前の会見は何だったんだ?実の両親まで、北原紗月は精神を病んでるって言ってたよな?】【娘婿と養女を守るために、実の娘を切り捨てたんだろ。名家って、本当に恐ろしいな】私はコメント欄を閉じ、自分の動画に「いいね」を一つ押した。電話は相変わ
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第9話
直哉はしばらくためらった末、ようやく手を離した。「紗月、彩香と離婚すれば、俺を許してくれるのか?」私は何も答えず、背を向けて歩き出した。彼はいまだにわかっていない。離婚しようがしまいが、私はもう二度と振り返らない。直哉が去って間もなく、今度は両親がやって来た。二人は私のマンションの玄関先で、10分近くもインターホンを鳴らし続けた。ようやく私が扉を開けると、母は飛びつくように私を抱きしめ、声を上げて泣きだした。「紗月、お願いだからお母さんと一緒に帰って。これからは、あなたが何をしたいと言っても、もう反対しないから……」父も隣で言葉を重ねた。「紗月、俺たちは本当に心配しているんだ。お前が一人で海外にいると思うと、気が気じゃない」私は身じろぎもせず、母がひとしきり泣くのを待ってから、そっとその体を押し離した。「紗月、一緒に帰りましょう。お願いよ。私たちの娘は、あなただけなの」「会見で私の診療記録を公表して、みんなの前で親不孝な娘だと言い、精神がおかしいと決めつけたときは、私が自分たちの娘だということを忘れていたの?」そう言った途端、両親の顔から血の気が引いた。母はまた泣きだした。「紗月、ごめんなさい。本当にごめんなさい……」父が手を伸ばして私を引き止めようとしたが、私はそのまま扉を閉めた。扉の向こうでは、母が必死に扉を叩きながら、引き裂かれるような声で私の名前を呼び続けていた。私はノイズキャンセリングイヤホンをつけ、パソコンの前に座って仕事を再開した。キーボードを強く叩いているうちに、また涙がこぼれた。これから先、私にはもう帰る家がない。そして、あの人たちにも娘はいない。それから半年後、私たちのチームが新たに企画したドキュメンタリーが公開された。私は以前撮影した素材をあらためて構成し直し、さらに仲間たちといくつもの国を回って新たな映像を撮影した。そうしてようやく、その作品を完成させた。今度こそ、監督の欄には私の名前があった。公開されるやいなや、ドキュメンタリーは各国の視聴者から高い評価を受け、国内での上映も連日満席となった。その一方で、国内では直哉と彩香の離婚騒動が世間をにぎわせていた。直哉は彩香との離婚を求め、颯太の親権も自分が持つと主張した。彩香はそ
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