Masuk
「伊吹ー!遅刻するぞー!」
聞き慣れた声が外からして、
私は布団の中で顔をしかめた。
カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しい。
時計を見る。
七時四十二分。
「……え?」
次の瞬間、私は飛び起きた。
「やばいっ!!」
今日から高校二年生。
新学期初日。
絶対に遅刻しないようにしようと思っていたのに。
慌てて制服に袖を通し、鏡の前で髪を梳かす。
ぴょこんと跳ねた寝癖が直らない。
「もう!」
水で押さえても元気よく跳ね返ってくる。
仕方なく前髪だけ整え、鞄を肩に掛けると
勢いよく部屋を飛び出した。
階段を駆け下りて、
「お母さん!行ってきます!」
「朝ご飯は!?」
「時間ないー!」
玄関を飛び出すと、そこには呆れた顔の鳴沢陸が立っていた。
「また寝坊かよ。」
「おはよ!陸!今日だけだよ!」
「昨日も言ってたそれ。」
「…それは忘れて。」
「伊吹、今日から二年生だぞ。」
「知ってる!」
「ならもう少し余裕持て。」
「無理!」
陸は大きくため息をついた。
陸とは家が隣同士で幼稚園の頃からずっと一緒。
兄妹のように育ってきたのだ。
今さら取り繕う必要もない。
寝坊した日も、
忘れ物をした日も、
寝癖をつけていた日も、
全部知っている。
「ほら、行くぞ。」
「うん!」
ぶっきらぼうだけど、いつも家まで迎えにきてくれて
なんだかんだ優しいんだよね。
私たちはいつもの通学路を歩き始めた。
春風が心地いい。
桜並木の花びらが風に乗ってふわりと舞い、
制服の肩に落ちた。
新しいクラス。
新しい一年。
少しだけわくわくする。
「そういえば。」
陸が歩きながら口を開いた。
「またクラス替えで騒ぐんだろ。」
「だって緊張するじゃん!」
「どうせ誰かとは一緒になる。」
「でも四人とも同じクラスがいい!」
その言葉に陸は少しだけ笑った。
「伊吹は欲張りだな。」
「いいじゃん。」
そんな話をしていると、
「あ、おはよー!」
前から聞こえた声に顔を上げる。
そこにいたのは東堂湊だった。
湊はサッカー部所属の誰からも好かれる人気者だ。
今日も肩にサッカーバッグをかけて、
爽やかな笑顔でこちらに向けて笑う湊は
朝日に照らされて美しく見えた。
「おはよ、伊吹。」
「おはよ!」
「また寝坊?」
「なんで二人ともそれ聞くの!」
「だって分かりやすいんだもん伊吹。」
湊は声を上げて笑った。
その笑顔につられて、私も笑う。
昔から変わらない。
湊はいつだってそうだった。
私が泣いている時も。
失敗して落ち込んでいる時も。
いつも隣で笑ってくれた。
「今年も同じクラスだといいな。」
私がそう言うと、
「だな。」
湊は少しだけ優しく目を細めた。
その笑顔を見ていると、不思議と安心する。
その時だった。
「お前ら朝からうるさい。」
後ろから聞こえた低い声。
振り返ると久我玲央がいた。
「玲央!」
「おはよう。」
「おはよう!」
玲央は成績優秀で冷静沈着。
口数は少ないけど仲間思いなんだよね。
昔は宿題を忘れた時、
勉強が分からなかった時に
なんだかんだ助けてくれる。
こうして四人が揃った。
幼稚園からずっと変わらないメンバー。
私たちの当たり前。
学校が見えてくる。
昇降口にはたくさんの生徒が集まっていた。
みんなクラス替えの結果を見ている。
「ねぇ、どうしよう。もし誰とも被らなかったら。」
と不安気にみんなに伝えると、
「そんな顔するなよ。」
と言う湊。
「伊吹は絶対騒ぐ。」
と言う玲央。
「もう!陸と同じこと言うな!」
と玲央の肩をたたいた。
「見に行くぞ。」
陸が言った。
「うん!」
私は少しだけ緊張しながら掲示板へ向かう。
どうか。
どうか今年も――。
「あった!」
思わず声が出た。
私の名前の近くには、
東堂湊。
鳴沢陸。
久我玲央。
三人の名前が並んでいた。
「また一緒じゃん!」
「すご。」
陸が笑う。
「腐れ縁だな。」
玲央も珍しく口元を緩めた。
そして。
「よかった。」
湊が小さくそう言って笑う。
その笑顔を見た瞬間。
なぜか胸が少しだけ高なった。
でも、その理由なんて考えもしなかった。
春だから。
新学期だから。
きっと、それだけ。
この時の私はまだ知らない。
この一年で、
変わらないと思っていた私たち四人の日常が、
少しずつ形を変えていくことを。
夏祭りまであと三日。私は自分の部屋で大きなため息をついた。「決まらない……。」ベッドの上には何着かの浴衣が並んでいる。白地に花柄。淡い水色。紺色の浴衣。どれも可愛い。でも。どれを着ればいいのか分からなかった。「そんなに悩む?」部屋のドアから顔を覗かせた母が笑う。「だって久しぶりだもん。」高校生になってから浴衣を着る機会はほとんどなかった。だから余計に悩む。「誰か気になる人でもいるの?」「いない!」即答だった。母は楽しそうに笑う。絶対信じていない。「これとか似合いそうだけど。」母が手に取ったのは淡い水色の浴衣だった。小さな白い花が散りばめられている。「うーん……。」鏡の前で合わせてみる。悪くない。むしろ結構好きかもしれない。「それにしようかな。」「決まりね。」母が満足そうに頷いた。その時。スマホが震える。画面にはグループLINEの通知。【夏祭り集合どうする?】送ったのは陸だった。すぐに返信が続く。【駅前でいいんじゃね?】湊。【賛成。】玲央。相変わらず短い。思わず笑ってしまう。【じゃあ17時で!】送信すると、【了解】【おう】【分かった】すぐに返信が返ってきた。昔から変わらない。こういうところは本当に安心する。だけど、スマホを見ながら思う。今年は少し違う。湊と話すと緊張するし。陸は最近変なことばっかり言うし。玲央は何か知っているみたいだし。なんだか不思議だった。母が部屋を出て行った後、私はもう一度鏡の前に立った。淡い水色の浴衣。帯は白色。髪型はどうしよう。下ろしたままでもいいのかな。それとも少しだけ結ぶ?「……分かんない。」結局スマホで「浴衣 ヘアアレンジ」と検索する。可愛い髪型がたくさん出てきて私は驚いた。「こんなの自分でできるわけないじゃん。」思わず笑ってしまった。その時だった。スマホがもう一度震えている。【そういえば伊吹、またりんご飴途中で俺に渡すなよ。】陸だった。私は思わず吹き出す。【今年は最後までたべるもん!】すぐに返信する。すると、【昨年も同じこと言って結局残してたじゃんか。】玲央。【そうだな。それで陸がたべてたもんな。】湊。「なんでみんな覚えてるの!」私は思わず声が出てしまった。【今年は絶対た
終業式まであと数日になった。今日も教室はすっかり夏休みムードだった。授業中も、休み時間も。みんなの話題は夏休みの予定ばかり。「海行きたい!」「一緒に旅行行こうよ!」「花火大会あるよな!」そんな楽しそうな声が飛び交う中。私は窓際の席でぼんやり空を見ていた。真っ青な空。入道雲。夏だなぁ。私は一人のんびりとそんなことを考えていた。完全に夏が来ている。外がとてつもなく暑いんだ。「伊吹。」急に名前を呼ばれて、私は驚いて後ろを振り向く。私の名前を呼んだのは湊だった。「なに?」「今度の夏祭りさ。」「うん。」「お前行くだろ?」あまりにも当然みたいに言うから、おもしろくなって思わず笑ってしまう。「うん、行くと思う。」「思うじゃなくて行くんでしょ。」「なんで決定なのよ。」「だって伊吹毎年行ってるじゃん。」確かにその通りだ。小さい頃から毎年一緒に、だった。家族ぐるみで仲良しだし、友達として、幼なじみとして、ずっと参加してきたのだ。「今年も行こうぜ。」湊が笑った。その笑顔に、なぜか少しだけ胸が高鳴った。「……うん。そういえば、夏祭りっていつだったっけ?」私が首を傾げる。「八月一日でしょ。」湊がすぐに答えた。「え、なんで覚えてるの?」「毎年同じ日だからじゃん。」「そうだったっけ。私毎年忘れてるかも。」「うん、伊吹は毎年日にち聞いてくるよね。」私は思わず笑った。「伊吹の記憶力終わってるな。」湊も笑いながら私にそう言う。私はムッとして「そんなことないもん!」と言うと「いやいや事実じゃん。」と返されてしまい、私はがっくりしていた。すると、「お前ら勝手に決めるな。」後ろから声がした。声の主は陸だった。「俺も行く。」「お前には誰も聞いてないし。」「聞かれなくても行く。」「うるせぇな。」二人が睨み合う。あーあ、また喧嘩。いつものことだけど。なのに、最近は少し違って見える。「玲央は?」私が聞く。すると、読んでいた本から顔を上げて玲央が言った。「行く。」「即答!?」「毎年行ってるし。」確かにその通りだった。結局今年も四人で行くらしい。「んー、屋台何たべよっかな。」私が昨年の屋台を思い出しながら悩んでいると、「焼きそばだろ。」湊が即答した。「毎年
七月になった。教室の窓から吹き込む風は、もう完全に夏の匂いだった。うちの学校のクーラーは職員室で設定されているから自分たちで温度調節できない。それが厄介なのだ。「暑い……。暑すぎる…。」私はそう言いながら机に突っ伏した。「お前はそれしか言えないのか。」隣にいた玲央が呆れたように言う。「こんなに暑いんだから仕方ないよ。」「伊吹の言う通り、確かに暑い。」珍しく湊が同意した。「ほら!」と私は玲央に鼻で笑った。「お前が正しいわけじゃない。」「は!?なんでよ!」私たちが言い合いをしていると、「二人とも仲いいな!」「さすが幼なじみ!」教室に笑い声が広がった。夏休み目前でクラスのみんなが浮かれていた。授業中も、休み時間も、話題は夏休みの予定ばかり。「海行きたいな!」「俺さ旅行行くんだ!」「バイト増やす予定!」あちこちから声が聞こえる。私も楽しみにしていた。今年の夏は、なんだか特別な気がする。理由は分からないけれど、とてもわくわくするんだ。何の予定作ろうかな。海、プール、旅行、夏祭り、花火…いっぱいやりたいことがあって迷うなぁ。でも今年も幼なじみ四人でいろんな思い出を作るんだ。そう決めて私は授業に集中し直した。昼休みになって私は購買へ向かっていた。今日は購買で人気の焼きそばパンを買うと決めていたから売り切れる前にと急いでいた。すると、廊下の向こうに湊が見えた。よく見ると数人の女子たちに囲まれている。「東堂くん連絡先教えて!」「ずるい!私とも交換して!」「今日一緒にお昼どう?」「今日部活終わり一緒に帰りませんか?」たくさん声をかけられている。当の本人は苦笑いをしていて、彼女たちに何も答える気がなさそうだった。人気者だから珍しくない。いつものこと。いつも囲まれているから。……いつものことなのに。胸の奥が少しだけもやもやした。何だろう、この気持ちは。そう思ってぼーっとしていると、「何見てんだ?」後ろから陸の声がして私は振り向く。「陸…」「湊か?」「別に。」当てられて私は慌てて前を向く。陸はちらりと湊を見る。そして小さくため息をついた。「ふーん。」それだけ言う。最近の陸は少し変だ。優しいのは昔からだけど。なんというか、距離が近いような。よく
「今日プールだって。」朝のホームルーム前。教室はいつも以上に騒がしかった。「最悪なんだけどー。」「日焼けするー!」女子たちの悲鳴が飛び交う。その中で私は机に突っ伏した。「眠い。」「お前それ年中言ってるな。」湊が笑う。「事実だから。」「威張るな。」そんなやり取りをしているうちに四限目。ついにプールの時間がやってきた。女子更衣室で着替えていると、「伊吹、スタイルいいよね!」と仲良しのクラスメイトに話しかけられた。「全然!最近食べ過ぎて太ってきたもん。」とお腹のお肉を少しつまむと、「絶対東堂くん、見てるって!」「こりゃ、スタイル良くて可愛いもんな。」とたくさん褒めてくれるクラスメイトたち。湊の名前が出てきてドキッとした。「え!?絶対見ないでしょ!」と私は言いながら少し頬が熱くなるのを感じた。更衣室から出ると、グラウンドとは違う眩しさが広がっていた。青い空。きらきら光る水面。夏が近い。そう感じる景色だった。「伊吹ー!」友達に呼ばれ手を振る。その時、「お前泳げる?」後ろから声がした。振り向くと陸だった。「普通に泳げるし。」「嘘つけ。」「なんで!?」「昨年溺れかけてた。」「あれは足つっただけ!」陸は呆れた顔をする。その様子に周りが笑った。悔しい。でも反論できない。確かに昨年は少しだけ大変だった。足がつって動けなくなってしまって溺れそうになった私。あの時はみんなに迷惑をかけたんだよな。今年は気をつけないと、と私は気合いを入れた。授業が始まり、自由練習の時間になった。私はゆっくり泳ぎ始める。すると。隣のレーンから湊が現れた。「お。」「びっくりした!」「泳げてるじゃん。」「だから言ったでしょ。」「昨年よりな。」「余計なお世話。」湊は楽しそうに笑う。そのまま軽々と前へ進んでいく。速い。さすがサッカー部。私は思わず見とれてしまった。「見すぎ。」不意に聞こえた声。振り向くと玲央だった。「見てない!」「分かりやすすぎ、お前。」と即答した。そんなに分かりやすい?最近みんな同じことを言う。なんなんだ。本当に。「伊吹!あっちでビート板で競争しよう!」と端のレーンにいたクラスメイトに誘われて私はビート板を持って移動した。「よーい、どん!
体育祭が終わって一週間。学校はすっかりいつもの日常を取り戻していた。「プールが始まるらしいよ!」「今年もついに来たかー!」「夏休み、噂によると宿題多いらしいよ。」「俺、三者面談で成績が親にばれるのやばい!」とクラスメイトたちはいつも通りにぎやかだ。だけど、私は。どこか少しだけ違う。いつもの感じとは。「暑い……。」私は机に突っ伏した。六月も終わりに近付いている。窓の外からは蝉の鳴き声が聞こえていた。「まだ六月だぞ。」隣の席から湊がにつぶやく。「六月だから暑いんだよ。」「意味分からん。」「湊にだけは言われたくない。」サッカー部の湊は毎日外を走り回っている。だから暑さの耐性が違うのだ。「そういえば。」湊が言った。「あと一か月くらいで夏休みか。」「そうだね、早いね。」私が答える。高校二年生になったと思ったら、体育祭が終わってしまってもう夏が来る。時間が経つのは本当に早い。ただ、夏は好きだから夏休みは本当に楽しみなんだ。「夏休み何する?」「寝る。」「それは終わってる。」「最高じゃん。」二人で笑う。その何気ない時間が心地良かった。最近ね。湊と話すと少しだけ緊張する。理由は分からない。分かりたくない。でも、以前とは何かが違った。「伊吹。」名前を呼ばれる。振り向くと陸だった。「ん?」「これ。」机の上に置かれたのは紙パックのジュース。「え?」「購買で見つけたんだ。」それだけ言って席へ戻ろうとする。「何で私の好きなイチゴオレ?」「たまたま。お前がよく飲んでるから。好きだろ?」「うん!好き!ありがと!」私が笑うと、陸は少しだけ顔を逸らした。「別に。」陸、私がイチゴオレ好きなの覚えててくれたんだ。なんか嬉しいな。私はウキウキしながらイチゴオレを開けた。その様子を見ていた玲央が小さくため息をつく。「たまたま、ね。」少し笑っていた。「何が?」私が玲央に聞き返す。玲央は首を横に振った。「独り言だから。」意味が分からない。最近みんな変だ。そう思った。昼休み。屋上でお弁当を食べながら空を見上げる。真っ青な空。白い雲。まぶしいくらいの太陽。夏が近付いているなあ。すると。隣に座っていた湊が言った。「今年の夏も楽しみだな。」その言葉に、なぜか胸
陸サイド体育祭が終わって数日。教室の後ろには、体育祭の写真が貼られている。「筋肉痛やばい!」と騒いでるやつもいるけど、学校はいつもの日常を取り戻していた。だけど、俺の日常だけは少し違っていた。「陸ー。」教室のドアの前で伊吹が俺に手を振る。「帰るよー!」「うるさい。」そう返しながらも立ち上がる。昔から変わらない。いつものやり取り。なのに、最近は妙に落ち着かなかった。「玲央も行く?」「行く。」三人で廊下を歩く。その途中。前から湊がやって来た。「悪い、待たせた。」「遅い。」「先生に捕まった。」そう言って伊吹の隣に並ぶ。自然だった。あまりにも自然で。まるでそれが当たり前みたいに。「そういえばさ!」伊吹が楽しそうに話し始める。「パン食い競争の時の写真見た!?私の顔、超ひどいの!」「見たよ。あれは超面白かった。さすがカメラマンさん!」湊が笑う。「もう!」そう言って伊吹も笑う。その光景を見た瞬間。胸の奥がざわついた。何だ、これは。理由なんて分からない。分かりたくもない。だけど、気付けば視線が二人を追っていた。帰り道。玲央と二人になる。伊吹は先に帰り、湊はサッカー部へ向かった。青空が広がっている、真っ昼間の通学路。今日は午後は授業がないから早く帰れるんだ。蝉がうるさいくらいに鳴いていた。コンビニの前で止まって、「ちょっと悪い、飲み物買ってくる。」と言って玲央は中に入っていった。俺はぼーっとしていた。空を見て、まぶしい太陽を見て、しばらくすると、玲央がコンビニから出てきた。片手にジュースを持っている。「待たせた。…何ぼーっとしてるんだ?」と俺を見た玲央が不思議そうに声をかけた。しばらく沈黙が続く。俺は何度も口を開きかけては閉じた。言うつもりなんてなかった。言葉にしたら、認めることになる気がしたから。それなのに。胸の奥で溜まり続けていた気持ちは、もう押し込めておけなかった。まるで口だけが勝手に本当の気持ちを伝えようとしているみたいだった。そして、「なあ。」俺から口を開いた。「ん?」玲央は前を向いたまま返事をする。「最近さ。」俺は頭をかいた。言葉がうまく出てこない。だけど、このまま黙っている方が苦しかった。「伊吹が湊と話してると。