Masuk大佐に言葉の意味が伝わっているのかは定かじゃないが、今だけは気圧されている場合ではない。
「この度、薬学博士号を持った王妃様の協力を経てこの薬を再現するに至った。古の屈強な兵士達が、小鳥の様に囀る様になると言う“墓前の
“墓前の鳥薬”
古文書の中で最も古い記録のある自白剤の一つで、生きている時は滅多に鳴かぬのに、死ぬ前になると美しい声で謳う
その薬によって自白した兵士はその後、殺されると言う意味も含めて。
「人を陥れ国を侵し、仲間を殺した挙句、このような有様になったお前をモリガン伯爵は見限ると仰せだ」
そう言ったオルタナの言葉に、大佐はピタリと動きを止め押し黙る。
隣で黙って見下していた王妃が、静かに口を開いた。
「お前が謳わないのならば
そんな話をしている内に、ゴトンと大きな音を立てて馬車が止まる。 馬車は荒廃した河岸に停められ、決壊した河の周りには瓦礫や流木が散乱している。 緩くU字を描く河の畔は、荒ぶった河の水が濁流となって押し寄せただろう傷跡がありありと残されていた。 それは古く乾いた形跡ではなく、じっとりとした湿度を持って新しい爪痕をまざまざと見せつけて来る。 全く手付かずのままにされているその場所には流された民家が壊れた玩具のように崩れ、住んでいる人の気配は感じられない。 だが、辛うじて根を保っている折れた古木の傍に佇む人影に気付いて、オルタナは目を見張る。 白いローブを着たその小さな人影が誰なのか、目を凝らさなくても分かる。 婆ちゃん――――! 会いたくてたまらなかった。 なのに、いざ目の前に姿が見えるとどうして良いのか分らない。 ガチャリと馬車の扉が開かれ、降りるように促される。 オルタナは馬車の踏み台を踏む足が、震えている様でグッと片手を握りしめた。「何と酷い……」 河岸の状況を見た大公妃が扇子で隠した口元で一言そう呟いた。「先日の嵐でまた一部決壊しまして。もう手が付けられぬ状況なのです」「民に影響はなかったのですか?」「この辺りに住む者はもうおりませんし、予言は区民にも伝えてありましたから、人的被害はありません」 大公妃の問いにケルメスがドヤ顔でそう答える。 予言――? ケルメスにも祖母の様な自然の理に精通する知識があるのだろうか。 サリバン家の別荘でアラベルの話を聞いた時、ケルメスはバカではありませんと、ウケイが言っていた。 夜葡萄や原初のΩの事を知っているならある程度、古文書が読めるのかもしれない。 おもむろに傍にいた護衛が「ドーラ! こちらへ来なさい!」と声を張る。 木陰に
ネロ区の関所の手前にある広場には大公家の紋章の付いた荘厳な馬車と、ケルメスが用意すると言っていた小隊規模の護衛が騒然と並んでいた。 街の人達は広場の外から物見遊山で野次馬となって見物している。「遅いので何事かあったのかと心配しておりましたよ」 物々しい護衛を背後に従えたケルメスが、馬上から何食わぬ顔でそう言って笑った。 自国の王妃が目の前にいると言うのに、下馬する事もせずにまともに挨拶もしない。 これがケルメスの本心を表していると言っても過言じゃない。 この幼く敏い王妃を認めていないのだ。「お二人共、お気をつけて。特にオルタナ様」「えっ? 僕っ⁉」「自覚のない無鉄砲さは、自覚のあるお転婆より危険です」 馬車内に残るエルダーは、真剣な顔でそう言った。 確かに、王妃は子供である事やあざとさを自覚して使っている。 でもオルタナは自分が無鉄砲だと思った事は一度もなかった故に、エルダーのその言葉に心底驚いてしまった。 先に降りたオルタナは王妃の手を取りエスコートする。 王妃が降りた途端に野次馬の民達が騒めくのを感じた。 王妃はそれを物ともせず、ケルメスの言葉を無視して馬車内で待っている大公妃に声を掛けた。「お待たせして申し訳ございません、マダム・キャンベル」「いいえ、王妃様。早くお乗りになって下さいませ」 扇子で顔を半分隠した大公妃の言葉を聞いて、大公妃の馬車の御者が扉を開けてくれた。「お足元にお気を付けください」「ありがとうございます……」 無視されても平然とした顔をしているケルメスは、大公妃の馬車の出発と共に引き連れて来た護衛を並走させネロ区の関所を通過する。
馬から降りる前に、オルタナはその顔を見て呆気にとられた。「公爵様の命により、こちらに来られるのをお待ちしておりました」「え? ちょ、うそっ……スーラン⁉」 関所の護衛兵の制服を着て軍帽を目深に被っていた若い男は、スーランだった。 あの、スーランがまるで貴族の様な喋り方で、紳士の様に片手を差し出し馬から降ろしてくれようとしている。「降りて下さい、オルタナ様。時間がありません」 エルダーにそう言われて、呆然としたまま馬から降りる。 スーランはそれを片手を取って支えてくれた。「公爵様が、オミクレーより手前で有事があるといけないと」「それでスーランが関所の護衛兵になって待っててくれたの?」「なるほど。お前がオブライアンに預けられたと言う男ですね。ヴィー兄様はこうなる事も予測済みだったか」「エルダー様、初めまして。スーランと申します。サリバン公爵は夜会で番の発表をした後なので大事はないかも知れないが、事故を装うならオミクレーに入る直前だろうと仰っていました」「他人に見られるリスクが少なく、あの下り坂を利用すれば殺せる……か」「はい。予定時刻に関所を通らない様な事があれば、すぐに駆け付けられるように手配して下さいました」 オルタナは別人のようなスーランをポカンと口を開けてマジマジと見た。「あぁ! 人間にするって言われてた方の……」 急に思い出した様に王妃がそう言って、手を合わせた。「え? 何それ、ラティ……」「何かヴィンスが人間辞めさせる方と、人間にする方の悪ガキがいるって言ってたのよ。貴方が“人間にされた方”ね」
「何か妙案がおありですか? オルタナ様」「うん、いやまぁ……多分」「多分?」「いや大丈夫だと思うけど……後で怒られたらごめんね、エルダー」「怒られるとは? 誰にです?」「え、分かんない。街の人とか?」 そう言ったオルタナの言葉に、エルダーは流石に眉を顰め首を傾げる。 クラノスには王妃の手紙を持って麓の街まで走って貰う事にした。「オミクレーの関所には駐在している護衛兵がいるはずです。彼らは国軍在籍のはずですから、彼らにこの手紙を渡して下さい」「はい、ラチア王妃。必ず!」「貴方の境遇はとても辛い物だったと思います。貴方が追い詰められてしまったのは今の国政にも問題があると、私も真摯に受け止めます。ですが、クラノス。罪を犯そうとした自分を恥じるなら、私に貴方の誠意を見せてちょうだい」「寛大なお言葉に、感謝致します。王妃陛下」 片膝をついて礼を尽くしたクラノスは、意を決したように身を翻し走り出した。 多分きっと、クラノスが裏切る事はないだろう。 それでも、王妃の護衛をクラノスに任せる程信頼出来るわけでもない。 四人の中で一番足が速そうなエルダーに行って貰うのが最善策だったかもしれないけれど――。「それでオルティ、私達はどうするの?」「こっちが動けないなら、迎えに来て貰えばいい」「どういう意味です? オルタナ様」「エルダー、あの林道に生えている木はね、竈の木と言ってよく燃えるんだ」「はぁ……それが?」「あぁ! なるほど、そう言う事ね? オルティ」「ラティも手伝ってくれる?」「勿論よ! 行くわよ、エルダー」「……」 まだよく理解でき
クラノスは困惑した顔をして、冷や汗を滝のように流している。「クラノス、どちらにせよ王族殺しは極刑です。貴方は嵌められた。こちらに協力すれば、情状酌量が見込めるかもしれません」「た、助けて貰えるのですか……?」「許すのは僕ではありませんが……何故、こんな事を? 王族殺しに加担すれば、極刑に値する事は子供でも分かる事です」 そう言ったオルタナの向かいに立つクラノスは、オルタナの視線ではなく肩越しに遠くへと視線を投げた。 オルタナはその視線の先を追いかけて、大聖堂より少し手前の辺りから濛々と立ち上る煙に目を見張った。「今日も誰かがあの煙になって天に昇っている……俺の息子もいつか……」「息子さんがどうかしたんですか?」「この仕事をやれば、薬が貰えるはずでした。息子は助かる……」 クラノスはそう言って、これまでの経緯を話してくれた。 あの教会の妙な病に掛かっている息子が、もう手に負えない状態になっており、心痛の余り妻も臥せってしまった、と。 困り果てていた所に、大司教からこの話を持ち掛けられたらしい。「不完全で弱い体を持った息子を助けてやりたければ、対価を払う必要があると言われました……」「息子さんは今どちらに?」「家でぼーっとしてるか、家の周りをグルグルと徘徊してまるで獣みたいに……庶民にしちゃ賢くてよく働く子で……自慢の息子だったのに……」 そう言ったクラノスは膝から崩れ落ちる様にして地べたに座り込んだ。「絶対に治るとは言えませんが、貴方の目の前にいるのは魔女ドーラの孫ですし、つい先日サリバン公爵の番になりました。後ろに控えてらっしゃる王妃様は薬学博士号を持った天才で、王に次ぐ権力をお持ちです。貴方を剣で脅している彼は特務警護団の一員で、彼もサリバン公爵の義弟です」「……へ?」「つまり、どちらに付く方が有利か、分かりますよね?」「ゆ、許して貰えるのですか?」「どうでしょう……ラチア様、いかがですか?」「良いわよ。オルティが良いなら」「良かったですね、クラノス。お許しが出ました」 そう言ったオルタナに、すかさず突っ込んだのはエルダーだった。「オルタナ様、この男を無罪放免にするおつもりですか?」「違うよ、エルダー。クラノスには僕達の味方になって貰うんだよ」「信用できません」「信用なんてしないよ」 そう言ったオルタナは
「つっ……」「沁みますか? 少し我慢して下さい」「すみません、ありがとうございます……」「転倒した馬車の様子を見に行きたいのですが、一緒に来て貰えますか?」「えぇ、私で良ければ……」 エルダーに王妃を任せて、クラノスを伴い馬車へと急ぐ。 転倒した馬車はカラカラと車輪が空回り、息絶え絶えになった馬が二頭、藻掻く様に足を震わせ重なり合って倒れていた。「急に馬が暴走したんですね?」「えぇ……手綱を引いても全く落ち着かず……」 オルタナはその馬車の周りを一周し、まだバタバタと足を震わせている馬に気を付けて、その様子をじっくりと観察した。 栗毛の立派な馬の脚には、白い粉末が付いている。「獣の匂い……」「まぁ、馬ですから……」「いや、馬じゃない。違う獣の匂いがする……」 そう言ったオルタナに、クラノスは少し驚いた様に「え?」と聞き返した。「馬と言うのは肉食獣の匂いに敏感で、そういう匂いを察知すると走って逃げようとするんです」「へ、へぇ……それは、知りませんでした……」「ははっ、御者なのに?」「……いやまぁ、知らないわけじゃないですが。ここに獣は出ませんよ」「ラカン軍には野戦築城の際に狼や熊の血を使って獣を狩る術があります」「な、何のお話を……?」「クラノス、馬の脚に付いている粉末を調べればこれが何かはすぐ分かります。この粉末を走行中に馬の行く先へと投げたのは、貴方ですね?
ミレー中尉に至ってはヴィンス・サリバン公爵閣下の番がどうお得なのかを延々と語って来る始末。 結局、番の話は有耶無耶になったが、この日を境にノエルやミレーとも普通に会話出来るようになった。 庭の方から子供の笑い声が聞こえて、オルタナは不思議に思い二階の私室の窓から顔を出す。 広く美しい庭園のガゼボで、ミレーと少女が笑い合っている。 少女は下級貴族の様な質素な装いで、傍には見た事のない中年の髪のない下男らしき男が侍っているが、少女の髪は鴉の濡羽の様な美しい黒髪だ。 あんな黒髪を持つ少女が下級貴族
口に入れた瞬間から、何が入っているのかを考えて、危ないと判断したら吐き出す。 でもそれが遅れれば、体に支障が出る。 どんな薬草で、どういう症状が出るのか。 どの程度なら問題なく食べられる物なのか、常に考えていなければならない。 勿論死ぬほどの量は含まれていないが、祖母はスパルタだったから、吐こうが下そうが、白目をむいて倒れようが容赦なかった。 そうして具合を悪くする度、祖母が作ってくれるのはミルクベリーのスープだった事を思い出す。 母乳に近いと言われる栄養価の高いベリ
ベルの花が鳴く頃、モリガン区の雪も少し解け始める。 雪原から顔を出した青白いベルの花は、リンリンと鳴いて春を告げるのだ。 そんな北の果てに不穏な噂が流れていた。「王都じゃ余計に死人が出たってさ」「ここじゃ当たり前だが、去年は寒かったからねぇ」「何でも王都じゃ病で死んだ者は、教会で死体を燃やすんだと」「罪も犯してないのに病で苦しんだ挙句、体を焼かれるなんて酷い話じゃないか」「王様も教会には強く言えないんだろうさ」「サンノ国から来られた王妃
馬なんて王都の貴族か、国軍くらいしか乗らないものだからだ。「逃げるか……」 オルタナは非常時に備えていつも用意してある荷袋を持って、カウンターの後ろに設えてある子供一人が通れるほどの隠し扉を開けて潜り込む。 その出口を知っているのは、祖母と自分だけだ。 なのに、出た瞬間覆い被さる様な人影に、オルタナは動きを止めた。「あ。出て来た」「は?」 四つん這いになって見上げたその先にあった影は、ローブを被った軍人の物だった