All Chapters of 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ: Chapter 991 - Chapter 1000

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第991話

「正修、電話よ」奈穂はベルベットの掛け布団をめくった。指先がベッドの縁の冷たさをかすめる。昨夜、正修がぴたりと閉め切った重厚なカーテンが朝の光を完全に遮り、寝室には息苦しいほど淀んだ空気が満ちていた。ベッドサイドテーブルの上でスマートフォンが激しく震えている。薄暗がりの中、暗赤色の着信画面は、まるで脈打つ血まみれの臓器のようだった。正修は手を伸ばし、彼女の肩越しにスマートフォンを取る。「俺だ」寝起き特有のかすれた声。しかし相手の第一声を聞いた瞬間、その背筋がぴんと張り詰めた。奈穂は彼のうなじを見つめる。そこには細い引っかき傷が一本残っていた。昨夜、不安に駆られた自分が無意識につけてしまったものだ。薄暗い室内では、その傷跡のある肌だけが冷たく白く張り詰めて見えた。「……第三工区で事故が起きた?」正修は低く繰り返す。一語一語が、歯の隙間から押し出される氷の欠片のようだった。奈穂は静かに身じろぎした。胃の奥から酸っぱいものがこみ上げてくる。長年、極度の緊張にさらされ続けた代償だった。彼女は裸足のままウールのカーペットに降り立つと、電話の内容には耳を傾けず、そのまま洗面所に向かった。冷水を顔に浴びる。刺すような冷たさが毛穴から骨の髄へと染み込んでいく。それでも胸の奥にまとわりつく、あの嫌悪感だけはどうしても洗い流せなかった。その時、スマートフォンの画面が光る。匿名アドレスから届いたメールだった。差出人名は、たった二文字。――ニナ。奈穂は添付ファイルを開いた。映っていたのは一本の動画だった。薄暗い地下室のような場所。濁った照明の下で、北斗は奈穂の写真を固く握りしめ、充血した目で震える指先を額縁の上に這わせながら、何かを呟いている。その表情は、狂気すれすれと言えるほど歪んだ深い愛情に満ちていた。しかし次の瞬間、画面が切り替わる。同じく北斗だった。彼は一通の書類に署名している。向かいの男は影の中に姿を隠していた。先ほどまでの執着など跡形もない。その目には欲望に染まった赤い血走りだけが宿り、大量のチップを床にぶちまけながら、陰湿な声で言い放つ。「九条グループの現場監督を一人二人潰せばいい。遺族が騒ぎ出せば、世論なんて簡単に九条正修をあの椅子から引きずり下ろせる」そ
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第992話

正修は資料にざっと目を通した。タブレットを握る手の甲には青筋が浮かび上がり、張り詰めた弓弦のように緊張している。「取締役連中も、もう黙ってはいられないらしい」正修は画面を閉じると、少しの感情も滲ませない口調で言った。「俺が『私情を公事に持ち込んだ』と判断して、緊急取締役会の招集を要求している」「私も行くわ」奈穂はそっと彼の袖口に手を添えた。薄いシャツ越しに、張り詰めた筋肉がわずかに震えているのが伝わってくる。……重厚な無垢材の扉が開く。その先に並んでいたのは、冷淡で、損得勘定に長け、まるで裁きを下すかのような視線を向ける顔ぶれだった。「社長。医療産業は今年の我がグループにとって最重要事業です」左側に座る取締役が金縁眼鏡を押し上げながら、指先でデスクを規則正しく叩く。鈍い音が会議室に響いた。「社長の『私事』が原因で株価が乱高下している。この損失は、一体誰が責任を取るおつもりですか?」「私事?」正修は議長席の椅子を引いた。背筋をまっすぐ伸ばして腰を下ろす姿は、決して折れることのない一本の柱のようだった。「皆さんがおっしゃるのが、誰かが意図的に安全事故を起こし、九条グループの信用を貶めようとしている件なら、それは九条グループ法務部が扱うべき立派な公事でしょう」「そんな詭弁で我々をごまかせると思わないことだ」別の取締役が鼻で笑い、視線を奈穂に向けた。「水戸さん。現場で騒ぎを起こした職長は、以前、伊集院グループに勤めていたそうですね。となれば、水戸さんが持ち込んだ過去の因縁が九条グループにまで飛び火した――そう疑われても仕方がないのでは?」奈穂は傍聴席に静かに座っていた。悪意に満ちた無数の視線が、針のように肌に突き刺さる。それでも彼女は弁解しなかった。ただ静かに、左手のプロポーズ指輪を指先で回す。シャンデリアの光を受けたダイヤモンドが、冷たく、容赦のない輝きを放っていた。「皆様」奈穂が口を開く。決して大きくはない声だった。だが、その一言で騒然としていた会議室は水を打ったように静まり返る。「伊集院北斗は現在、国外逃亡被疑者です。もし皆様が、九条グループのセキュリティ体制では、一匹の野良犬同然の男の侵入すら防げないとお考えなら、責任を問われるべきなのは九条社長だけではありません。この場にい
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第993話

送信完了を告げる電子音が、静まり返った車内に小さく響いた。奈穂は勢いよくハンドルを切る。タイヤが地下駐車場のコンクリートを激しく擦り、耳をつんざくような金属音を響かせた。バックミラーの中では、柱の陰に潜んでいた黒い影が素早く身を引く。まるで陽の光を嫌う巨大な甲虫のようだった。彼女は振り返らない。視線は出口から差し込む一筋の光だけを捉えたまま、アクセルを限界まで踏み込む。車が地下駐車場を飛び出し、真昼の強烈な陽射しに包まれた瞬間――奈穂はようやく、自分のうなじが冷たい汗でびっしょり濡れていることに気づいた。冷や汗が背骨を伝い、ニットワンピースの内側に滑り落ちる。その冷たさに、肌が細かく粟立った。助手席のスマートフォンが激しく震え始める。奈穂は反射的にそれを掴み、こわばった指先で通話ボタンをスライドした。「今どこだ?」正修の声は鉄塊のように重かった。電話の向こうでは、二郎が慌ただしくキーボードを叩く音がかすかに聞こえる。「地下駐車場を出たところよ」奈穂は舌先を噛んだ。口の中に鉄臭い血の味が広がり、込み上げる吐き気を無理やり押さえ込む。「写真は見た?」「ああ」正修は少しの間、黙り込んだ。その沈黙の向こうで、金属製ライターの「カチッ」という乾いた音が鳴った。続いて、蓋を何度も開閉する擦れる音。――彼は焦っている。奈穂はそう悟った。「家に戻るか、会社に来るか。二つに一つだ。移動中は絶対に電話を切るな。横村がもう君のドライブレコーダーにアクセスしている」「会社に行くわ」奈穂は道路標識に視線を向ける。アクセルを踏む右足に力がこもり、手の甲には青筋が浮かび始めていた。「第三工区の件はまだ炎上してる。家でただ待ってるなんてできないもの」……九条グループ本社、六十八階。奈穂が扉を開けると、室内の冷房は強く効いていた。冷気が細かな刃物のように毛穴から肌に入り込んでくる。正修は巨大なマホガニーの執務デスクの後ろに立ち、タブレットの画面を何度も拡大していた。映し出されているのは、あのぼやけたスクリーンショットだった。奈穂は彼の隣に歩み寄る。その途端、胃が再びきりきりと痛み始めた。デスクの上に置かれていた、すっかり冷めた苦いコーヒーを手に取り、一気に飲み干す。
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第994話

奈穂は、胃の中の酸が今にも込み上げてきそうな感覚に襲われた。彼女はバーカウンターに歩み寄ると、震える指で炭酸水のボトルをひねり開け、一気に何口も流し込む。冷たい雫が顎を伝ってカーペットに落ち、小さな黒い染みを広げた。――九条正景。九条家からその名を抹消され、十数年前に姿を消した「長男」。「もし、本当に彼だとしたら……」奈穂はカウンターに手をついた。力を込めすぎた指の関節が白く染まる。「北斗が復讐のために帰国した、それだけの話じゃ済まないわ。九条グループ第三工区の事故も、遺族による抗議も、それにここ数日で一斉に寝返ったメディアも……どれも手際がよすぎる。正確で、冷静で……あまりにも隙がない」正修は歩み寄ると、彼女の手からひしゃげたペットボトルをそっと取り上げ、そのまま肩を支えながらソファへ座らせた。彼は片膝をついて彼女の前にしゃがみ込む。温かな掌がスカート越しに痙攣する胃のあたりに触れ、円を描くようにゆっくりと揉みほぐしていく。奈穂はソファにもたれ、目を閉じた。しかし脳裏に浮かぶのは、蛇のように陰湿な北斗の眼差しだけだった。「伊集院北斗は、俺たちの目を逸らすために前に押し出された狂犬にすぎない」正修の手が一瞬止まる。その声は、ぞっとするほど冷え切っていた。「本当に盤面を動かしている人間は、闇の中に座ったまま、この狂犬に俺たちを振り回させている」――チン。その時、不意にエレベーターの到着音が響いた。扉が開く。二郎が暗号化されたノートパソコンを抱え、息を切らせながら飛び込んできた。ノックをする余裕さえなかった。その顔色は死人のように青白い。「社長……分かりました」二郎はノートパソコンをデスクに置くと、タッチパッドの上を指が目にも留まらぬ速さで走った。「伊集院北斗は帰国後、西郊外の建設途中で放棄されたビル群に潜伏していました。あそこは旧市街の再開発区域で、防犯カメラの死角になっています。ただ、周辺の通信基地局で奇妙な暗号化通信を検出しました。海外宛てです」「解析は?」奈穂は勢いよく体を起こした。胃を締めつけていた痛みさえ、この報告で吹き飛ぶ。「相手の技術レベルが非常に高く……回収できたのは三秒にも満たない音声だけです」二郎は再生ボタンを押した。激しいノイズが流れる。そ
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第995話

「なら、奴をおびき寄せればいい」正修は立ち上がると執務デスクに歩み寄り、株価変動に関する報告書の束を一息に床に払い落とした。真っ白な紙が宙を舞う。まるで物悲しい雪が降るようだった。奈穂は床一面に散らばった書類を見つめる。すると、さっきまで続いていた胃の痙攣が、不思議なほどぴたりと止まった。彼女はゆっくり立ち上がり、乱れた前髪を指先で整えると、正修の隣に歩み寄る。「北斗は、あの人の駒よ。まずは、その駒を潰すことね」彼女の声には、微かな温度すらなかった。「あの人は北斗が暴れ回る様子を楽しんでいるんでしょう?だったら、その狂犬が今度は飼い主に噛みついたらどうなるかしら」正修は静かに顔を向けた。照明に照らされた奈穂の瞳は、冷たく鋭い光を宿している。彼は手を伸ばし、そっと彼女のうなじを摘まむように撫でた。汗はもう乾いていて、残っているのは軟玉のようにひんやりとした肌の感触だけだった。「あの狂犬は……今も獲物に飛びかかる機会を待っている」正修は囁く。その声は、耳元で危険な呪文を唱えるように低く響いた。「だったら俺たちが用意してやればいい――絶対に断れない餌をな」奈穂は窓の外に視線を向けた。灰色の空の下、街ではネオンが一つ、また一つと灯り始める。その華やかな光の裏側で、闇は静かに街の隅々に染み広がり、蠢き、牙を研いでいた。「第三工区の補償説明会は、明日の夜に設定する」正修は振り返り、二郎に命じる。「関係者に通達しろ。明日は俺が自ら出席する。できるだけ大きな場にしろ。マスコミも、呼べるだけ呼べ」「危険すぎます!」二郎が思わず声を上げる。「もし伊集院北斗が現れたら――」「それでいい」正修は冷笑した。「俺は、あいつを動かしたいんだ」奈穂は正修の手をそっと握る。節くれだったその手は、今にも鞘から抜き放たれる剣のように固く張り詰めていた。彼女はふと、自分の左手に視線を落とす。薬指にはプロポーズ指輪。暗いオフィスの中で、ダイヤモンドだけが眩しく鋭い光を放っていた。伊集院北斗。九条正景。その名は、腐臭を放つ底なし沼のようだった。だが、自分はもう決して退かない。たとえこの先に奈落の底が待っていようとも、闇に潜む穢れた者たちを、一人残らず自分の手で引きずり出し、そのまま地獄に叩き落として
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第996話

「社内専用ネットワークでそのまま送れ。暗号化は不要だ」正修の声がオフィスに響く。その語尾は氷のように冷たかった。彼は指先にわずかに力を込め、刷り上がったばかりの株式譲渡契約書の草案を奈穂の前に押し出す。紙の端が重厚なマホガニーのデスクを擦り、鋭い摩擦音を残してデスクの縁で止まった。奈穂は手を伸ばし、書類を押さえた。書類を挟んだクリアファイルはひんやりと冷たい。彼女の視線は太字で記された一行――【未公開株式5%譲渡(案)】――に釘付けになる。これは単なる数枚の書類ではない。九条グループの命綱、その半分にも等しいものだった。彼女はデスクに手をついて立ち上がる。しかしその瞬間、胃の奥から馴染みのある痛みが再び込み上げる。長期間にわたる極度の緊張のせいで、体はすっかり過敏になっていた。奈穂は唇をきつく結び、右手で肋骨の下を強く押さえ込む。指の関節は力が入りすぎて白くなっていた。「このタイミングで未公開株を売れば、取締役会の古狸どもは、あなたが完全に動揺していると思うでしょう」彼女は乾いた声でそう言う。「少しくらい狂って見せなければ、水底に潜んでいる奴らは手を伸ばしてこない」正修はネクタイを乱暴に緩め、襟元の一番上のボタンを手際よく外した。そのまま執務デスクを回り込み、奈穂の隣に立つ。乾いて温かな掌が、彼女の肩に静かに置かれた。薄いブラウス越しにもその温もりは伝わってくる。だが、その熱では、奈穂の鼻先に滲む冷や汗を消すことはできなかった。彼女は脇に置かれていた、すっかり冷めたブラックコーヒーを口に運ぶ。「第三工区の補償説明会は明日でしょ?このタイミングで株を動かせば、九条グループの資金繰りが破綻したって世間に知らせるようなものだわ」「それこそが狙いだ」正修は身を屈め、彼女と視線の高さを合わせる。目の下には濃い疲労の色が滲み、眼球には赤い血管が浮かんでいた。それでも、その瞳だけは異様なまでに冷静だった。「餌はもう撒いた。あとは――あの蛇が寒さに耐えきれず、西ヨーロッパの古城から這い出してくるのを待つだけだ」正修は指先に力を込め、奈穂の白いうなじを軽くつまむ。薄く硬くなった指先が肌をなぞり、その感触に彼女の背筋が一瞬だけ固まった。奈穂は顔をそらし、パソコンの画面に視線を移す。そこには「ブル
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第997話

「それは九条正景の金よ」奈穂の声がオフィスにかすかに反響する。喉はひどく乾き、声は掠れていた。「奴が欲しいのは金だけじゃない。水戸家の株式もだ」正修はデスクの引き出しを開け、年季の入ったネフライトの指輪を取り出して奈穂の手のひらに載せた。「今日の午後、祖父が人を通じて届けさせたものだ。祖父の意思ははっきりしている。九条家の因縁に、決着をつけろということだ」奈穂は指輪を受け取る。氷のように冷たいネフライトの感触が掌に食い込み、鈍い痛みを残した。「株式譲渡契約には、本人による対面署名を義務づける条項を追加しておいた」正修はスーツのボタンを留める。その所作には一分の隙もない。「明日の夜の説明会が期限だ。あの5%の株を手に入れたいなら、奴はあの闇の中から姿を現し、自分の足で京市まで来て、この契約書に署名するしかない」奈穂はデスクにもたれ、静かに目を閉じた。胃の奥では再び酸っぱいものがせり上がってくる。まるで今にも崩れ落ちそうな瓦礫の真ん中に、一人取り残されているような感覚だった。「北斗は?」「西郊外の建設途中で放棄されたビルで雷管を買い込んだ。それに、国境方面に向かう長距離バスのチケットも二枚予約している」正修は窓の外に目を向ける。その瞳から冷静さは消え、代わりに凄絶な殺気が宿っていた。奈穂は目を開け、バッグの中から匿名で送られてきた写真を取り出した。背景はひどく暗い。写っているのは、一人の男の横顔だけ。黒いロングコートをまとい、背筋を真っすぐ伸ばしたその姿には、生まれついたような陰鬱さが漂っている。陰影に縁取られたその横顔は、正修とどこか面影が重なって見えた。「彼は『ブルーホエール計画』の餌に食いついた」奈穂はスマートフォンを差し出す。激しく打ち鳴らす自分の鼓動が耳の奥まで響き、こめかみが鈍く疼いていた。正修は写真を一瞥する。その瞳の奥で、危険な光が静かに揺らめいた。「挑発しているんだ」声は低く、底冷えするほど静かだった。「俺が完全に追い詰められたと思っているからこそ、防犯カメラの死角ぎりぎりをわざと歩いて見せた。遊びたいというなら――付き合ってやる。もっと大きなゲームでな」奈穂は窓際まで歩み寄る。鉛色の空の下、街ではネオンが一つ、また一つと灯り始めていた。株価の揺らぎとともに
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第998話

マイバッハは滑るように車列に合流した。そのとき、ドリンクホルダーに置かれたスマートフォンが突然震え始める。静まり返った車内に響く振動音が、妙に神経を逆撫でした。奈穂は画面に表示された、登録のない海外の電話番号を見つめる。無意識のうちに、深緑色のワンピース越しに太腿を掻く。爪が布地を引っかき、かすかな抵抗が指先に伝わった。こんな海外番号で電話をかけてくる相手など、北斗か、あるいは完全に正気を失ったニナくらいしかいない。奈穂は五秒ほど画面を見つめ続けたあと、ようやく通話ボタンをスライドさせた。受話器を耳に当てるより早く、ニナの喉を引き裂くような嗄れ声が耳をつんざいた。「水戸奈穂……あははっ!あんたの勝ちよ!完全にあんたの勝ち!」声には濃い煙草の臭いまで混じっているようだった。そして、砕け散った理性だけが残る狂気。「北斗は畜生よ!あいつ、あんたの写真を抱えて血を流しながら自傷して、それでも画面に向かってあんたの名前を呼び続けてる……!奈穂、あいつはあんたを殺すつもりよ!明日の説明会で、大勢の前であんたも九条正修も道連れにする気なの!」奈穂の指先に力が入る。スマートフォンを握る手の関節が白く浮かび上がった。返事はしない。ただ、窓の外を流れていく広告看板をじっと見つめる。胃の奥では、あの焼けつくような痙攣がまたゆっくりとせり上がってきた。狂犬に執拗につけ狙われるような、このまとわりつく感覚。それだけで、生理的な嫌悪感が込み上げる。「この電話は、自分がどれだけ惨めか聞かせたいの?それとも取引でもしたいわけ?」奈穂の声は淡々としていた。冷たく、人を寄せつけない響きだった。「ニナ、あなたの愚痴を聞いてる暇はないの」「私はあいつを殺したい!」電話の向こうでニナが激しく咳き込む。肺まで吐き出しそうな咳だった。「私はあいつのために親も捨てて、半年も地下室に隠れてた!それなのに帰国したら、あいつは私に一度も目を向けなかった!私が想う人を手に入れられないなら、あいつにだって思い通りになんかさせない!夜七時、東郊埠頭。来てみる度胸はある?」奈穂が顔を横に向ける。隣の正修も漏れ聞こえた会話をすべて聞いていたらしい。その瞳は闇のように深く、長い指が彼女の手首をそっと包む。掌は少し熱かった。――行
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第999話

奈穂は後部座席で掌を開いた。そこには超小型のUSBメモリと、蝋で封印されたSDカードが一枚。ルームランプの光を受け、どちらも氷のような冷たい光を放っていた。彼女はウェットティッシュを一枚取り出し、無表情のまま指先を丁寧に拭いていく。皮膚がほんのり赤くなるまで拭き続けて、ようやく手を止めた。USBメモリを車載システムに接続すると、画面いっぱいに暗号化されたファイルが次々と表示される。ニナが録音していた音声が車内に流れ始めた。周囲が騒がしかったため、背景には重い何かが壁に叩きつけられるような鈍い衝撃音まで微かに混じっている。「……西郊の建設中断ビルの奥にある古い冷蔵倉庫。防犯カメラもないし、普段は誰も近寄らない。北斗はずっとそこに潜んでる……」録音の中のニナの声は震えていた。「そばにいる四人のボディガードも、あいつの部下じゃない。九条正景が付けた監視役よ。ボディガードなんて名目だけ。本当は逃がさないために見張ってるの……」奈穂は本革のシートに体を預け、左手薬指のダイヤモンドリングを親指で何度もなぞる。――九条正景。その名前は、払い落とそうとしてもまとわりつく暗雲のようだった。「明日のストライキは、ただの口実にすぎない」録音は続く。恐怖で裏返ったニナの声が車内に響く。「第三工区を担当する第三者検査機関はもう買収されてる。偽造した品質検査報告書まで用意してあるの。明日の説明会で九条グループが廃材の鉄筋を違法使用したって告発して、それだけじゃなく、中核医療機器の性能データまで改ざんしていたって騒ぎ立てるつもりよ……あれは完全に息の根を止めるための一手。九条グループを二度と立ち上がれなくする気なの」奈穂は小さく鼻で笑った。あまりにも周到で、あまりにも容赦がない。北斗の頭で、ここまで幾重にも仕掛けられた策を思いつくはずがない。十数年もの間、闇の中で研ぎ澄まされてきた正景という毒刃。その一撃に違いなかった。だが、それ以上に彼女の瞳を冷たくしたのは、フォルダの中で赤く表示された一つのファイルだった。――【水戸グループ株式インセンティブ制度・改訂版】北斗という狂人は、水戸グループの内部資料までバックアップしていた。九条家を潰すだけでは飽き足らない。混乱に乗じて水戸家まで違法資金調
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第1000話

マイバッハは静かに九条グループの本社ビルの正面玄関に滑り込んだ。ドアが開く。隙間から吹き込んだ冷たい風が、無数の針のように肌を刺した。奈穂が車を降りる。ハイヒールの先が冷え切ったコンクリートに触れた瞬間、体が思わず小さく震えた。遠くでフラッシュが激しく瞬く。白い閃光が網膜を焼きつけ、その陰には貪欲で冷えきった視線がいくつも潜んでいた。正修が手を伸ばし、彼女の腰にそっと添える。掌はしっかりと腰を支え、その熱が薄いシルクのワンピース越しに伝わってきた。背中を這っていた冷気が、その温もりによって無理やり押し返される。「行こう」低く囁く声が耳元をかすめた。奈穂はブリーフケースを強く握り締める。爪が革に食い込み、深い三日月形の跡を残した。二人は人気のないエントランスホールを横切る。ハイヒールが大理石を打つ乾いた音だけが、静まり返った空間に幾重にも反響していく。やがてエレベーターの扉が静かに閉まり、外からの視線は完全に遮断された。数字がゆっくりと上昇する。――68階。扉が開く。奈穂は迷いなく一歩を踏み出し、社長室の重厚なマホガニーの扉を押し開けた。「ニナから預かった証拠を整理したわ。これが北斗の計画、その全容よ」そう言って、埠頭の湿り気をまだ残したUSBメモリを執務デスクに放る。金属製の筐体がデスクにぶつかり、鈍い音を響かせた。奈穂は右手で肋骨の下を強く押さえる。錆びた刃物で胃を何度もかき回されるような痛みが再び襲い、額には冷や汗が滲んだ。奥歯を食いしばる。口の中に鉄錆のような血の味が広がった。正修は何も言わない。席に着くと、長い指でキーボードを高速に叩き始めた。ディスプレイの冷たい光が眼鏡に映り込み、その奥で燃え上がる殺意を覆い隠している。「北斗は西郊の旧冷蔵倉庫に雷管を隠してる。それだけじゃない。第三工区の検査員まで買収して、完全に偽造した品質検査報告書を用意していた。明日の説明会で九条グループが廃材の鉄筋を違法使用したと告発するつもりよ」奈穂は掠れた声で、一気に言葉を吐き出した。正修は画面に流れ続ける極秘通信の履歴を見つめたまま、低く言った。「九条グループだけじゃない。水戸グループまで踏み台にする気だ。水戸グループが違法な資金調達を行ったという偽の株主名
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