All Chapters of 妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています: Chapter 31 - Chapter 40

43 Chapters

32. 呼び出し

昼過ぎの城門は静かだった。静かすぎた。往来はある。商人が通る。荷車が軋む。子供の声も聞こえる。だがどの顔もどこかうつむき、足は速く、目が合わない。水路の噂が広まってから、都はずっとこうだ。笑い声が消え、市の喧騒が薄れ、人々は何かに追われるように家へ帰っていく。楚凌は門の脇に立ち、その顔を一つ一つ見ていた。——お前たちは、何を恐れている。答えは分かっている。蘭珠が寝込んでいた。昨夜から熱が続いている。朝、出がけに顔を見た。青白い顔だった。腹に手を当てたまま、目を閉じていた。医者は「安静に」と言って帰った。周蘭が側についている。自分がいても何もできない。だから門に立っている。立ちながら、考えている。あの女が怖がっているのは熱のせいだけではない。噂のせいだ。かつての夫が何をしたか、それが都中に広まっている。腹の子の父が何をしたか——蘭珠はそれを、熱の中で一人抱えている。俺には何もできない。その事実が、立っているだけの自分の足元に、じわりと沈んでいく。「楚凌殿」声がした。振り返ると、宮城の紋を入れた装束の使者が立っていた。息が乱れている。走ってきたのだろう。その顔が妙に強張っている。「皇太子殿下が、お呼びです」一瞬、息が止まった。「……俺を、か」「はい。至急とのことです」理由は告げられない。使者も知らぬのか、言えぬのか。その目は泳いでいる。楚凌は隣の同僚を見た。同僚が小さく頷いた。その目に浮かぶのは、同情か、それとも覚悟か。「参る」---都の大路を、使者の背を追って歩いた。宮城まではしばらくかかる。なぜ呼ばれたのか。皇太子が門番を呼び出す理由など、まともなものは思い浮かばない。蘭珠を取り戻すつもりか。 あの子を、自分のものにしようとするのか。 それとも——奥歯を噛んだ。大路の両側に店が並んでいる。いつもなら活気に満ちた通りだ。だが今日は客の声が少ない。店の者が軒先に立ち、行き交う人を見ている。その目は暗い。路地の奥で、老婆が何かを囁き、隣の女が黙って頷く。街全体が、息を潜めている。かつて楚凌が守ろうとした街だ。北の戦場で血を流し、そのために剣を振るった。その街が今、こんな顔をしている。足が重い。宮城の外壁が見えてきた。近づくにつれ人影が減り、空気が変わる。使者が近衛に何かを告げ、楚凌は通された。
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33. 揺らぐ意志

扉が閉じられる音が、重く響いた。その余韻がいつまでも耳の奥に残り、楚凌は一歩進みながら、室内に満ちる空気を確かめるように静かに息を吸った。広い執務室だった。窓は開いている。だが風はほとんど入らない。夏の熱が淀み、動かない空気が、この場の緊張そのもののように張りついている。机の向こうに、景炎が立っていた。数日ぶりに見るその姿は、外見だけなら変わらない。だが楚凌の目には、どこか歪んで映った。顔色は悪く、目の下には影が落ちている。それでも背筋は崩れていない。その不自然な整い方が、むしろ無理をしていることを際立たせていた。「……来たか」低い声だった。楚凌は膝をつく。「お呼びと伺い、参上いたしました」言葉は整っている。だが、その奥にあるものまでは整えきれていない。沈黙が落ちた。景炎はゆっくりと、値踏みするように楚凌を見下ろす。「門番の仕事はどうだ」唐突だった。「……職務を果たしております」「そうか」わずかに口元が歪む。「後悔しているのではないか。将軍から門番に落とされるなど、そうそうあることではない。門番の仕事など、退屈で仕方がないだろう」軽い調子だった。だが、その軽さは刃のように薄い。楚凌は顔を上げない。「殿下の命に従うまでです」「随分と従順だな」景炎が一歩、歩み寄る。靴音が静かに響く。その一歩ごとに、かつての主従の距離が別の形に変わっていくようだった。「かつては、もう少し歯向かう男だったと思っていたが」「私は以前と変わらず、瑞華国に忠誠を誓っております」わずかに言葉を整える。「俺にではなく、国に忠誠を誓っているか」景炎の声が低く沈む。「ならば……俺がこの国に仇なす存在となれば、俺を殺すのか?」空気が止まった。楚凌は答えない。答えを持たぬわけではない。だが、その答えはここで口にすべきものではないと知っていた。沈黙が落ちる。景炎はその沈黙を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。「……都の様子はどうだ」楚凌は、ゆっくりと顔を上げる。視線が正面からぶつかる。「殿下は、ご自身が民にどう思われているとお考えですか」静かな声で返す。一瞬で空気が張り詰める。景炎の目が細くなる。「質問をしているのは俺だ」「承知しております」視線を逸らさない。「ですが、その問いの答えは、殿下ご自身がすでにご存じの
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34. 閉ざされた部屋

内殿の空気は、静かに淀んでいた。窓は開かれている。それでも風はほとんど入らず、焚かれた香の甘さだけが、ゆるやかに室内に満ちている。外の気配は確かにあるのに、ここだけが薄い膜に隔てられているように、どこか現実から切り離されていた。雪瓔は、その香煙を目で追っていた。細く立ちのぼった煙は、途中でほどけるように揺れ、やがて形を失っていく。その曖昧な輪郭を眺めながら、指先で茶碗の縁をなぞる。わずかに残る温もりが、逆にこの部屋の停滞を際立たせていた。外に、人の気配が多い。足音は抑えられている。だが消えてはいない。 控える者の数が増えていることは、耳よりも先に、空気の重さとして肌に伝わってくる。「……今日は、騒がしいわね」何気ない声だった。だがその一言に、側に控えていた女がわずかに顔を上げる。「様子を見てまいりましょうか」「ええ、お願い」柔らかく微笑む。命じる声ではない。それでも、拒む余地はない。女は静かに一礼し、扉へ向かった。 手をかける。開かない。もう一度、わずかに力を込める。 それでも、動かない。「どうしたの?」雪瓔は座ったまま、視線だけを向けた。女が振り返る。「……外から、止められております」その言葉が落ちた瞬間、空気がわずかに変わった。雪瓔は立ち上がる。ゆっくりと歩く。 衣の裾が床をかすめる音だけが、静かに響いた。扉の前に立ち、指先でその縁に触れる。確かに、外から押さえられている。鍵ではない。人の手で閉ざされている、確かな感触だった。(……ああ)理解は、驚きよりも先に来た。「誰の命かしら」声は穏やかだったが、その奥にはかすかな冷えが混じっている。扉の向こうで、気配が動く。しばらくして、女の声が返る。「皇太子殿下のご命令にございます」雪瓔のまつげが、わずかに揺れた。だがそれだけだった。「そう」短く返す。その声に乱れはない。呼吸も、変わらない。「では、女官長もいらしているのね」少し間を置いてから、別の声が返った。「……いかにも」年嵩の女の声。抑えられているが、硬さが隠しきれていない。雪瓔は、わずかに目を細める。「顔を見せていただける?」静かに問う。だが扉は開かない。代わりに、すぐ外まで気配が近づいた。「ここからで失礼いたします」その声音には、はっきりとした距離があった。
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35. 血の記憶

香は、まだ残っていた。先ほどと同じ煙が、同じように揺れているはずなのに、雪瓔の目にはそれがまったく別のものに見えていた。甘さは変わらない。だが、その奥にあったはずの、意識をほどき、思考の輪郭を曖昧にしていくあの柔らかな侵食だけが、きれいに抜け落ちている。効かない。それだけで、十分だった。雪瓔はゆっくりと息を吐く。焦りはない。ただ、これまで積み重ねてきた手順を一つひとつ剥がし、新しい配置へ組み替えていく、そのための時間を静かに測っていた。「……潮が引いた、ということね」小さく呟く。敗北ではない。ただ、場が変わっただけだ。指先で茶碗を持ち上げ、口元へ運ぶ。わずかに傾けると、舌に触れたのは先ほどまでとは違う、はっきりとした苦みだった。(慣れたのね)景炎はもともと強い男だ。精神の芯が太い。だからこそ急には壊れない。時間をかけ、層を剥ぐように侵していく必要があった。香を焚き、言葉を重ね、疑いと不安を種にして思考の隙間へ滑り込む。そうして少しずつ、少しずつ境界を曖昧にしていく――その手順を、雪瓔は一度も誤らなかった。だからこそ、ここまで来られた。(……でも、ここまでね)雪瓔は茶碗を静かに置く。音は立たない。だが、そのわずかな動きの中には、確かな区切りがあった。長く続いた支配が終わり、別の手段へ切り替わる、その境目のような静かな断絶が。ゆっくりと目を閉じる。浮かび上がるのは、煙ではない。赤だ。流れる血ではなく、刻まれていく血。刃が入る。肉が裂ける。声が上がる。それでも止まらない。止めない。雪瓔の喉の奥に、遠い昔の鉄の匂いが蘇る。血と汗と土が混じり合った、あの辺境の空気だった。(……凌遅)その言葉は音にはならず、冷たい感触だけが胸の奥に沈んでいく。雪瓔の一族は、北の辺境に生きていた。豊かではなかったが、貧しくもなかった。寒さに耐え、痩せた土地に根を張り、小さな火を囲みながら静かに生きていた。冬は長く厳しかったが、それでも家族は笑い、歌い、春が来れば草を摘み、香を作った。ただ一つ、違っていたのは――術を持っていたこと。香を調合し、草を煎じ、飲ませる。人の心を緩め、境界を曖昧にする。それだけのことだった。だが、それは支配する者たちにとって、許しがたいものだった。異端。排すべきもの。だから――滅ぼされた。雪瓔は
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36. 断たれる血

日が傾き始めていた。西日が宮城の高い壁に斜めに差し込み、長い回廊へ赤みを帯びた影を落としている。夕刻にはまだ早いはずなのに、昼の熱気は少しずつ色を変え、宮中全体を不穏な静けさが包み込んでいた。宮城の奥は、その時間になっても薄暗く、重苦しい。厚い壁に囲まれた回廊は熱を逃がさず、外では風が吹いているはずなのに、ここだけ空気が澱んでいた。遠くから微かな水音が聞こえるが、その静寂がかえって不気味さを増している。楚凌は景炎の半歩後ろを歩いていた。先導する近衛は無言のまま、足音だけが長い回廊に響き渡る。行き先はもう、楚凌にもはっきりと分かっていた。雪瓔のいる内殿だ。景炎は一言も発しなかったが、その背中には明らかな張り詰めがあった。怒りでも警戒でもなく、より深い、自分自身を疑う者のような硬さだった。やがて近衛が立ち止まり、重い扉の前に到着した。左右には女官長と宦官が控えている。女官長は景炎の姿を見ると、深く膝を折った。「殿下」「変わりは?」短い問いかけに、女官長は一瞬視線を伏せた。「……誰も外へは出ておりません。ただ、先ほど宿下がりの女が一人……」その言葉に、景炎の目が鋭く細まる。その瞬間、楚凌の胸が嫌な音を立てた。理由のない胸騒ぎだった。全身の血がざわつき、背筋を冷たい指でなぞられるような不快感が広がる。蘭珠の顔が脳裏に浮かんだ。熱に浮かされた青白い顔、腹に添えられていた手、何も言わずに自分を送り出した静かな横顔——。――考えすぎだ。楚凌は奥歯を強く噛みしめた。今の蘭珠のそばには周蘭がいる。医者も呼んだ。屋敷には見張りも置いている。何も起きるはずがない。ただの胸騒ぎだ。そう自分に言い聞かせ、ゆっくり息を吐いた。「開けろ」景炎の声が低く落ち、扉が重々しく開かれた。甘い香りが、ゆるやかに流れ出てきた。楚凌は眉を寄せた。以前より、はるかに濃い。肺の奥にまとわりつくような、湿った甘さだった。長く吸い込んでいると、意識の輪郭がぼやけていくような危険な気配がある。雪瓔は部屋の中央に座っていた。白い衣を纏い、長い黒髪を肩へ流した姿は、絵巻から抜け出した仙女のようだった。しかしその瞳だけは違った。深い水底のように冷えきり、感情を一切映さない。「……ずいぶんと物々しいのね」雪瓔が小さく微笑んだ。「罪人にでも会いに来たようだわ」景炎は答えなかった。
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37. 血の代償

楚凌は、踵を返していた。景炎が止める間もなかった。その背中はもはや臣下のものではなく、火の気配を嗅ぎ取った獣のように、ただ蘭珠のもとへ駆け出そうとする男の姿だった。景炎には、それが痛いほど分かった。胸の奥に、焼けるような痛みが走る。 自分も行きたい——蘭珠の元へ。あの女の顔を、この目で確かめたい。腹の子を守るために。だが、皇太子である景炎の足は、すぐには動かなかった。近衛たちが雪崩れ込むように室内へ入り、楚凌と入れ替わる。多くの目が自分に向けられている今、たった一人の女のために宮城を飛び出すことなど許されない。「殿下……!」誰かの声が遠く聞こえた。蘭珠。 脳裏に浮かぶのは、かつての彼女の控えめな微笑みだった。怒る自分に黙って寄り添い、手を重ねてくれた女。あれほど慕い、あれほど信じていたのに——。それを、自分は雪瓔の言葉を信じて、疑い、追い出してしまった。もしそれがすべて嘘だったなら。もし蘭珠の子が自分の血を引く子だったなら……。景炎の胸に、重い後悔が沈み込む。それはすぐに、煮えたぎる怒りへと変わった。「……蘭珠に、何をした?」声は低く、抑えていた。雪瓔は薄く笑った。楚凌が出て行った扉を一瞬だけ見つめ、それからゆっくりと視線を景炎に戻す。その表情には焦りなど微塵もなく、むしろ望んだ場所に辿り着いたような静けさがあった。「火を放ったのよ」景炎の呼吸が止まる。「蘭珠も、あなたの子も、火の中で死ぬわ。あなたはもう子を残せない身でしょう? ならば、あの子さえ消えれば……あなたの血は完全に絶たれる」血が頭の奥で煮え立つような激しい怒りが、景炎を襲った。視界が赤く染まる。 蘭珠を追い出した。民の信頼を失った。弟に裏切られ、国は揺らぎ、皇帝への道すら崩れ始めている。病に伏せる父帝の後を継ぐはずの自分が、暴君と恐れられている。このまま皇位を継いで、本当に国を治められるのか——。重く冷たい恐怖が、景炎の肩にのしかかった。逃げたいという衝動が、一瞬だけ胸をよぎる。だが、景炎はそれを振り払った。「この女を捕らえろ。牢へ繋げ。弟の謀反、蒼隼国との繋がり、すべてを吐かせろ。ほかにも裏切り者がいるなら、一人残らず洗い出せ」近衛たちが動いたその瞬間——「私を殺してちょうだい」雪瓔が静かに言った。景炎の足が止まる。彼女は逃げもせず、取
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38. 放火

――時は、少し遡る。夕暮れの光が、門番屋敷の庭へ長く差し込んでいた。西日を受けた石畳は赤く染まり、昼間の熱をまだじっと抱え込んでいる。遠くでは、都へ戻る人々の話し声がかすかに聞こえていた。けれど、この小さな屋敷の中だけは妙に静かだった。周蘭は、もう帰っている。今日は何度も「本当に一人で大丈夫ですか」と確認された。だが蘭珠は笑って送り出した。熱も朝よりは落ち着いていたし、楚凌もすぐ戻ると言っていたからだ。そう。戻るはずだった。蘭珠は、縁へ片手をつきながらゆっくり腰を下ろす。腹が重い。子が育つたび、自分の身体ではないように動きが鈍くなる。立ち上がるだけでも時間がかかった。ふと、腹へ手を当てる。まだ小さく、だが確かに命がそこにある。景炎の子。そう思うたび、胸の奥に痛みが走った。あの人は、今何をしているのだろう。水路の噂を聞いてから、蘭珠は景炎の顔をまともに思い出せなくなっていた。かつて自分を優しく見つめてくれた男と、女子供を凌遅刑にかけたと囁かれる皇太子の姿が、どうしても重ならない。考え込んでいた、そのときだった。門を叩く音がした。蘭珠は顔を上げる。こんな時間に訪ねてくる者は珍しい。「……はい」ゆっくり立ち上がり、腹を支えながら玄関へ向かう。戸を開けると、そこに立っていたのは若い女だった。見覚えはない。宮中の女官にも見えるが、衣は地味で、表情も乏しい。「蘭珠様」女は静かに頭を下げた。「雪瓔様の使いで参りました」その名を聞いた瞬間、蘭珠の背筋に冷たいものが走る。だが、追い返すことはできなかった。雪瓔が何を考えているのか知りたい気持ちもあったし、何より、この時期にわざわざ使者を寄越した理由が気になった。「……入りなさい」女は無言で一礼し、屋敷へ入ってくる。戸が閉まる。その瞬間、蘭珠はわずかな後悔を覚えた。静かすぎる。女はほとんど足音を立てない。視線も合わない。ただ、命じられた通りに動いているだけのような、不自然な静けさがあった。蘭珠は警戒しながら距離を取る。「雪瓔様が、何か?」女はぼんやりした顔のまま答えた。「お手紙を預かっています」そう言って、懐へ手を入れる。蘭珠は反射的に身構えた。次の瞬間、女の手から現れたのは紙ではなかった。刃物だった。「……っ!」蘭珠は息を呑み、後ろへ下がろうと
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39. 妻と子を守るのは夫の役目です

梁が、軋んだ。めき、と嫌な音が頭上で響く。火はもう天井裏まで回っている。熱で空気が歪み、煙が低く垂れ込め、息を吸うだけで肺が焼けるようだった。蘭珠は腹を抱えたまま床へ伏し、崩れ落ちそうな梁を見上げる。死ぬ。そう思った瞬間、不意に、火の向こうで何かが動いた。「蘭珠様!」声だった。低く、掠れているのに、聞き間違えるはずがない。蘭珠は目を見開く。炎の向こうから、楚凌が飛び込んできていた。煙を掻き分けるように進み、倒れた棚を蹴り飛ばし、そのまま蘭珠の前へ膝をつく。蘭珠が何か言うより早く、楚凌はその身体を抱き寄せた。「無事ですか!」「楚凌様……!」ようやく出た声は、涙で震えていた。その瞬間だった。頭上で、さらに大きな音が響く。火の回った梁が、崩れ落ちる。楚凌は咄嗟に蘭珠を庇い、自分の身体を覆いかぶせた。鈍い音。焼けた木材が背へ叩きつけられる。「……っ!」楚凌の喉から低い呻きが漏れる。だが、それでも腕は緩まなかった。蘭珠を抱き込んだまま、楚凌は歯を食いしばるように立ち上がる。「行きます」短く言って、蘭珠を抱き上げた。炎の熱が近い。煙で視界が白く霞む。楚凌は咳き込みながらも迷わず進み、燃え落ちる柱を避け、火の粉を踏み越え、出口へ向かって走った。外気が頬へぶつかった瞬間、蘭珠はようやく息を吸った。冷たい夕風だった。火に焼かれた肺へ流れ込み、咳が止まらなくなる。屋敷は、もう半分以上が燃えていた。赤い炎が屋根を呑み込み、色のついた煙が夕空へ不気味に立ち昇っている。近隣の者たちも異変に気づき始めているのか、遠くで人の叫び声が聞こえた。楚凌はその場へ膝をつき、ようやく蘭珠を地面へ下ろす。「足を……見せてください」息が乱れている。その声で初めて、蘭珠は楚凌の背中が焼けていることに気づいた。衣が焦げている。布の下の皮膚まで焼けているのが、蘭珠にも分かった。「楚凌様……! お背中が……!」蘭珠が震える声を上げると、楚凌は振り返りもせず、乱れた呼吸のまま小さく答えた。「問題ありません」「そんな……!」「妻と子を守るのは、夫の役目です」その言葉に、蘭珠は息を止めた。火の熱も、煙の臭いも、一瞬遠のいた気がした。これまで楚凌は、一度も無理に距離を詰めてこなかった。蘭珠が景炎を忘れきれていないことも、この腹の子
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40. 黄色の布

紙問屋の屋敷は、夜になるほど慌ただしさを増していった。火事の噂を聞きつけた奉公人たちが走り回り、表では水や薬湯が運ばれている。奥では医者が呼ばれ、蘭珠の足の傷を丁寧に洗い、煙を吸った影響がないか脈を診ていた。楚凌は、その様子を少し離れた場所から見守っていた。蘭珠は何度も「ご迷惑をおかけします」と頭を下げていたが、芳玉も、その母である奥方も、嫌な顔ひとつ見せない。むしろ奥方は、涙ぐむ蘭珠の手を取って静かに言った。「蘭珠様は、うちの娘へ縁を運んでくださいました。今度は、こちらがお返しする番です」「ですが……」「どうか、今はお身体を第一にお考えください」芳玉も隣で大きく頷く。「そうです。こんな時に遠慮されるほうが困ります」その言葉に、蘭珠はとうとう堪えきれなくなったように目元を押さえた。「……ありがとうございます」震える声だった。楚凌は、その姿を見てようやく胸の奥の力が少し抜けるのを感じた。助かった。蘭珠も、子も。それだけで十分なはずだった。――だが。楚凌の胸の奥では、別の感覚が消えずに残っていた。火事の時に見た煙。ただの炎ではなかった。赤紫の色を帯びた、不自然な煙だった。まるで遠くへ何かを知らせるための狼煙のように、夕空へ真っ直ぐ立ち昇っていた光景が、どうしても頭から離れない。(……嫌な感じがする)戦場へ出る前の感覚に似ていた。何かが起きる。まだ見えていないだけで、すでに始まっている。楚凌は、廊下の柱へ寄りかかりながら静かに目を伏せる。蘭珠の側を離れたくはなかった。足には傷がある。煙も吸っている。今夜は熱が出てもおかしくない。だが。(門番の役目もある)それに、あの煙が気になる。迷っていると、不意に柔らかな声がした。「楚凌様」顔を上げる。蘭珠がこちらを見ていた。薬湯を飲まされたのか、唇が少し濡れている。顔色はまだ悪い。それでも先ほどよりは落ち着いて見えた。「……どうしました」近づくと、蘭珠は小さく微笑んだ。「あなたのお役目を、果たしてください」その言葉に、楚凌は息を止める。蘭珠は、自分の不安を押し隠すように微笑んでいた。「私は大丈夫です。皆さんが助けてくださいますから」「ですが――」「楚凌様」蘭珠は静かに首を振る。「あなたは、誰かを守るために立つ方です」その言葉が、胸へ深く落ち
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41. 将軍の影

水路の空気が、ぴたりと止まった。夜風さえ息を潜めたようだった。楚凌は物陰に身を伏せたまま、ゆっくりと呼吸を殺す。男たちの気配が変わっている。先ほどまで反乱の成功を語っていた緩みが消え、獣のような鋭さが滲み始めていた。「今、音がしたな」低い声だった。複数の足音が、水路沿いの石畳を踏みしめる。こちらへ近づいてくる。楚凌は静かに腰の剣へ手をかけた。背中が痛む。火傷した皮膚が汗で引き攣り、衣が擦れるだけで熱が走る。だが、その痛みが逆に意識を研ぎ澄ませていた。(ここで斬り合えば、宮城へ知らせる前に足止めされる)それが最悪だった。今、最優先すべきは反乱の報告だ。景炎へ知らせなければならない。宮城が落ちれば、それで終わる。男たちの一人が、こちらへ近づいてくる。黄色い布が夜目にも浮いて見えた。「……誰かいるのか?」楚凌は息を止める。あと数歩。その時だった。別の男が低く舌打ちした。「待て」「何だ」「そこ、血の匂いがする」楚凌の目が細くなる。火傷の傷口が開いていた。知らぬ間に滲んだ血が、夜気に混じっていたのだ。「出てこい!」男の声が鋭くなる。同時に、複数の足音が一気に動いた。もう隠れきれない。楚凌は地を蹴った。影の中から飛び出すと同時に、剣を抜く。銀の刃が夜の灯を反射した瞬間、男たちの顔に驚愕が走った。「楚凌将軍……!?」その呼び名に、楚凌の目がわずかに冷える。もう“将軍”ではない。そう思った。だが同時に、身体のどこかがその名へ応えてしまっていた。最初の男が刃を振り下ろす。楚凌は半歩だけ身体をずらし、その勢いを利用するように剣を払った。短い悲鳴と共に男が崩れる。間を置かず、二人目が突っ込んできた。水路脇の狭い道で、多人数に囲まれるのは不利だ。楚凌は壁を背にしながら応戦する。剣戟が夜へ響いた。火傷した背中へ衝撃が走るたび、視界の端が白く染まる。それでも身体は動いた。長年、戦場で叩き込まれた動きは、門番へ落とされても消えてはいない。男の刃を受け流し、そのまま柄で喉を打つ。別の男が横から飛び込む。避けきれない。肩へ浅く刃が走った。血が散る。「殺せ!」怒号が飛ぶ。黄色い布が揺れる。夜の水路は、いつの間にか小さな戦場になっていた。楚凌は歯を食いしばる。(ここで倒れるわけにはいかない)蘭珠
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