ログイン瑞華国の皇太子妃・蘭珠は、夫である皇太子・景炎に深く愛され、身ごもった命と共に幸せな未来を信じていた。 しかし、戦から帰還した景炎は“傾国の美女”雪瓔を連れ帰り、彼女の言葉を信じて蘭珠の不貞を疑う。 妊娠中にもかかわらず追放された蘭珠は、皇太子の命で将軍職を剥奪された武将・楚凌の妻とされ、都の東門で慎ましい暮らしを始めることに。 貧しくも誠実な日々の中で、無骨な楚凌の静かな優しさに救われていく蘭珠。 一方、景炎は次第に自らの過ちに気づき始め―― 奪われた愛と、守られる愛。その行方は。 月曜日/週4 更新
もっと見る正殿の広間は、一瞬だけ静まり返った。血と煤にまみれた楚凌の姿を前に、誰もが言葉を失っている。背中の衣は焼け焦げ、肩からは血が滴っていた。火傷と斬り傷、その両方を負いながらも、楚凌は背筋を伸ばしたまま景炎を見据えている。景炎は静かに楚凌を見つめた。「……生きていたか」短い言葉だった。だが、その一言には安堵と、自責と、さまざまな感情が滲んでいた。楚凌は深く頭を垂れる。「ご心配をおかけしました」「蘭珠は」景炎は、それ以上堪えられなかった。皇太子としてではない。一人の男として、口を開いていた。楚凌は一瞬だけ目を伏せる。「紙問屋の屋敷へ避難しております。医師も診ておりますので、命に別状はございません」景炎は小さく息を吐いた。その吐息は誰にも気づかれないほど静かだったが、張り詰めていた肩からわずかに力が抜ける。生きている。その一言だけで十分だった。だが、その安堵は長く続かなかった。すぐに景炎の表情は引き締まり、皇太子の顔へ戻る。「報告を」楚凌は頷こうとした。その瞬間、足元がわずかによろめく。「楚凌殿!」侍医が慌てて駆け寄る。「まず傷の手当てを! このままでは――」楚凌は首を横へ振った。「後で構いません」「しかし!」「今を逃せば、さらに多くの血が流れます」その一言で、侍医は言葉を失った。肩から流れた血が床へ落ちる。それでも楚凌は気にも留めず、広げられた王都の地図へ歩み寄った。武官たちが自然と道を開ける。誰も命じていない。だが、その背中には、人を従わせるだけのものがあった。楚凌は地図の一点を指差した。「こちらです」細い路地が複雑に入り組む、西側の一角だった。「水路沿いで、不審な集団を発見しました」景炎は黙って耳を傾ける。「町人に紛れておりましたが、動きが不自然でした。互いに距離を取りながらも、目配せだけで意思を通じ合わせていたのです」「黄色い布か」景炎が低く問う。「はい」楚凌は頷いた。「腕に黄色い布を巻いていました。同じ布を巻いた者同士で連絡を取り合い、放火を繰り返しております」正殿がざわつく。武官の一人が声を上げた。「では、やはり城下の火事は!」「すべて計画の内です」楚凌は静かに答える。「狼煙を上げ、民を混乱させ、門へ押し寄せさせる。そして、その隙に景衡王爺軍を王都へ招き入
正殿は、すでに戦場だった。広間の中央には大きな地図が広げられ、その周囲を武官と文官たちが慌ただしく行き交っている。伝令が駆け込み、怒号が飛び、火急文書が次々と机へ積み上げられていく。誰もが声を張り上げているのに、不思議と空気は重かった。焦りが、場そのものへ染み込んでいる。「南側倉庫の火勢、未だ収まらず!」「西門付近で暴徒化した民が兵と衝突しております!」「北側へ送った伝令が戻りません! 城壁上の兵とも連絡が取れぬと――!」報告が飛び交う。その中心に、景炎は立っていた。机へ両手をつき、広げられた地図を見下ろしている。顔色は悪い。目の下には深い影が落ち、唇の色も薄くなっていた。だが、その目だけはまだ死んでいない。「北側城門の兵を増やせ。王都の門は閉じたまま維持しろ。民は外へ出すな」景炎が低く命じる。すぐに武官の一人が顔を強張らせた。「ですが殿下、このまま王都の門を閉ざせば、火を恐れた民がさらに暴れます!」「開ければ景衡軍が雪崩れ込む」短く言い切る。その声音には、迷いがなかった。武官は言葉を呑み込む。周囲にいた者たちも、顔を見合わせながら沈黙した。景炎は視線を地図へ落としたまま、さらに続ける。「城下の火災は囮だ。混乱を広げ、門を開かせるためのものだろう。避難経路を限定しろ。民衆の流れを一方向へ絞れ。兵を分散させるな」静かな声音だった。静かすぎるほどに。だが、その静けさが逆に場を支えていた。武官たちは慌ただしく散っていく。景炎は、その背を見送りながら小さく息を吐いた。肺が重い。香が、まだ身体へ残っている気がした。雪瓔を斬った瞬間の感触が、今も掌にこびりついて離れない。血。柔らかな肉を裂く感覚。そして。――子を斬ったわね。あの声。景炎は一瞬だけ目を閉じた。頭の奥が鈍く痛む。雪瓔の言葉が、今も耳の奥へ残っている。もう子はできない。毒が身体へ染み込み、血脈は絶たれたのだと。ならば。蘭珠の腹にいる子だけが、自分の子になる。景炎の喉が、かすかに動く。どうして、信じなかった。あれほど真っ直ぐに自分を慕っていた女を。薬に侵され、思考を歪められていたとはいえ、どうして最後まで蘭珠の言葉を聞こうとしなかったのか。楚凌と何もないのだと、涙を堪えながら訴えていたあの女の顔を思い出すたび、胃の奥が焼けるように痛
宮城へ近づくにつれ、空気が変わっていった。都の街路にはまだ火事の騒ぎが残っている。桶を抱えて走る者、戸を閉める者、空を見上げながら不安げに囁き合う者。人々は混乱していたが、それでもなお、“日常の延長”として振る舞おうとしていた。だが宮城だけは違う。高い城壁の向こう側から、すでに戦の気配が漏れ出していた。怒号。警鐘。駆け回る兵の足音。普段なら厳格な静けさに包まれているはずの宮門は、今や崩れかけた堤のように騒然としている。楚凌は、その石段を一気に駆け上がった。背中が痛む。火傷した皮膚へ汗が染み込み、走るたび焼けるような熱が広がる。だが、その痛みがかえって意識を研ぎ澄ませていた。門兵たちが一斉にこちらを振り向く。その顔へ、驚きが広がる。「楚凌将軍――」反射的に出た呼び名だった。男は慌てて言い直す。「……楚凌殿!」楚凌は何も答えない。だが、その呼び名を否定もしなかった。宮門をくぐった瞬間、混乱の熱気が一気に押し寄せてくる。兵が走っている。伝令が叫んでいる。泣きながら奥へ逃げていく宮女たちの衣が、慌ただしく視界を横切った。遠くでは黒煙が立ち昇り、火の粉が夜風へ舞っている。火は、すでに宮城内部へ回っていた。「何が起きている」楚凌は近くを走っていた兵の腕を掴む。兵は息を乱したまま答えた。「南側の倉庫が燃えております! それに、宮中へ賊が紛れ込んだと――」「黄色い布か」兵の目が見開かれる。「な、なぜそれを……」やはりそうだ。楚凌の胸の奥で、嫌な予感が確信へ変わる。反乱は、もう宮中へ入り込んでいる。その時だった。奥から怒号が響いた。「違う! 南門を閉じろ!」別方向では、別の声が飛ぶ。「北門の兵が足りません!」「伝令が戻りません!」命令が錯綜していた。誰もが動いている。だが、その動きが繋がっていない。楚凌は周囲を見回した。兵たちの顔には焦りが浮かんでいる。何を優先すべきか分からなくなっているのだ。その光景を見た瞬間、身体が勝手に動いていた。「西側通路へ兵を回せ! 火が広がれば内殿まで燃えるぞ!」低い声が回廊へ響く。場が、一瞬静まった。楚凌自身、その瞬間まで自分が命令を発したことに気づいていなかった。だが兵たちは反射的に動いた。「はっ!」「西側へ回れ!」「急げ!」人が一斉に走り出す
水路の空気が、ぴたりと止まった。夜風さえ息を潜めたようだった。楚凌は物陰に身を伏せたまま、ゆっくりと呼吸を殺す。男たちの気配が変わっている。先ほどまで反乱の成功を語っていた緩みが消え、獣のような鋭さが滲み始めていた。「今、音がしたな」低い声だった。複数の足音が、水路沿いの石畳を踏みしめる。こちらへ近づいてくる。楚凌は静かに腰の剣へ手をかけた。背中が痛む。火傷した皮膚が汗で引き攣り、衣が擦れるだけで熱が走る。だが、その痛みが逆に意識を研ぎ澄ませていた。(ここで斬り合えば、宮城へ知らせる前に足止めされる)それが最悪だった。今、最優先すべきは反乱の報告だ。景炎へ知らせなければならない。宮城が落ちれば、それで終わる。男たちの一人が、こちらへ近づいてくる。黄色い布が夜目にも浮いて見えた。「……誰かいるのか?」楚凌は息を止める。あと数歩。その時だった。別の男が低く舌打ちした。「待て」「何だ」「そこ、血の匂いがする」楚凌の目が細くなる。火傷の傷口が開いていた。知らぬ間に滲んだ血が、夜気に混じっていたのだ。「出てこい!」男の声が鋭くなる。同時に、複数の足音が一気に動いた。もう隠れきれない。楚凌は地を蹴った。影の中から飛び出すと同時に、剣を抜く。銀の刃が夜の灯を反射した瞬間、男たちの顔に驚愕が走った。「楚凌将軍……!?」その呼び名に、楚凌の目がわずかに冷える。もう“将軍”ではない。そう思った。だが同時に、身体のどこかがその名へ応えてしまっていた。最初の男が刃を振り下ろす。楚凌は半歩だけ身体をずらし、その勢いを利用するように剣を払った。短い悲鳴と共に男が崩れる。間を置かず、二人目が突っ込んできた。水路脇の狭い道で、多人数に囲まれるのは不利だ。楚凌は壁を背にしながら応戦する。剣戟が夜へ響いた。火傷した背中へ衝撃が走るたび、視界の端が白く染まる。それでも身体は動いた。長年、戦場で叩き込まれた動きは、門番へ落とされても消えてはいない。男の刃を受け流し、そのまま柄で喉を打つ。別の男が横から飛び込む。避けきれない。肩へ浅く刃が走った。血が散る。「殺せ!」怒号が飛ぶ。黄色い布が揺れる。夜の水路は、いつの間にか小さな戦場になっていた。楚凌は歯を食いしばる。(ここで倒れるわけにはいかない)蘭珠
楚凌が東門の見張りへ向かったあと、蘭珠は静まり返った小さな家の中を見渡した。こんなに“やることだらけ”の空間に放り込まれたのは、生まれて初めてだった。「……えっと。まずは、お掃除……かしら」宮中では片づけは侍女の仕事だった。 蘭珠が持つ箒の使い方は、見よう見まねでしかない。それでも、やらなければならない。(楚凌様は……わたくしのために働きに出てくださっている。わたくしも……できることを)意気込んだものの、数刻後。部屋の隅には、掃いたはずの塵が小さな山を作り、桶いっぱいに汲んだ水は床にぶちまけてしまい、洗濯は桶に浸けただけで腕が疲れて動けなくなった。「ど、どうしてこんなに難
景炎が凱旋して三日。蘭珠はまだ、夫とまともに言葉を交わせていなかった。今日はようやく「皇太子妃として景炎へ正式に挨拶する日」。胸が痛むほど緊張していたが、それでも蘭珠は信じていた。(殿下は……きっと、変わらず接してくださるわ)だが、扉が開かれた瞬間、胸の奥に冷たい予感が走る。礼服姿の景炎が入ってきた。その背後に寄り添うように歩む白衣の女――雪瓔。その姿を見ただけで、蘭珠は息を呑んだ。彼女はやはり美しい。だが、美しさ以上に「気配」が異様だった。空気が揺れるような、ひどく静かな圧。蘭珠は彼女と会うのは初めて。しかし、遠くから見ただけで、全身が粟立つような感覚が走った。
景炎が出陣して三十日。蘭珠は毎朝、宮門のほうを見つめる癖がついてしまっていた。勝利の報せは届いた。しかし景炎本人からの文は、最初の一通きりだ。「必ず戻る」と記された、あの短い文を最後に。蘭珠は机に向かい、書きかけの返書をゆっくり丸めた。何度書いても、出す前に胸が疼く。(殿下……どうして何の返事もくださらないの)体を動かさなければ、涙が溢れてしまいそうだった。だから庭に出る。ゆっくりと歩き、朝露の光る芍薬の花を眺める。けれど、心は晴れない。そこへ突然、侍女の梅香が駆け込んできた。「蘭珠様! 急ぎのご報せです!」「景炎の……殿下のお便りかしら!?」期待が一気に胸へせ
夜更けの回廊は冷え切っていた。蘭珠はその中を、ひとり震えながら歩いていた。産むべき子を抱えた腹を、そっと両手で包み込む。景炎が出陣してから、宮中は目に見えて変わった。侍女たちは蘭珠を避けるようになり、妃仲間も距離を置く。理由はわからない。ただ——景炎が書き送ってきた文が、ぱたりと途絶えた。「何かあったの……?」胸の奥で不安が揺れる。あれほど深く求められ、愛され、「必ず戻る」と誓いさえ交わしたのに。蘭珠は壁に手を添え、深く吸い込んだ。冷たい空気が肺を刺し、胸が締め付けられる。そんな彼女のもとへ、小走りの影が近づく。「蘭珠様、戻られましたか……!」若い侍女・梅香が、顔