Semua Bab 婚姻生活にさようなら、椎名さん: Bab 411 - Bab 420

440 Bab

第411話

暗い林の中、莉奈は承也の腕の中にすっぽりと守られていた。雨水が承也の頬を伝って顎へと集まり、莉奈のマウンテンパーカーへと落ちていく。ぽつり、ぽつり。そのリズムは、早鐘を打つ莉奈の鼓動と重なるようだった。承也は片手で銃を構えながら、もう片方の手で莉奈の後頭部を優しく撫でた。そして、低い声で尋ねる。「怖いか?」「え?」莉奈が見上げると、ちょうど男の顎から雨粒が滴り落ちた。それが莉奈の顔に当たりそうになった瞬間、承也は後頭部に添えていた手を離し、自分の手の甲でさっとその雫を受け止める。「ずいぶん鼓動が速いな」「何を怖がるっていうの?」莉奈は顔を上げ、彼の漆黒の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。「あなたが颯太に負けるんじゃないかってこと?」承也の黒い瞳は、底が見えないほど深い。彼はふっと喉の奥で笑い、不敵に口角を上げた。その笑みに、莉奈は思わず見惚れてしまった。いつだったか、彼の顔にこれとよく似た笑みを見たことがある。少し意地悪で、どこか甘い笑みを。自分が我を忘れて承也を見つめていたことに気づき、莉奈は慌てて視線をそらした。すると承也は突然、莉奈をさらに強く抱き寄せた。驚いた彼女の呼吸が一瞬乱れるのを聞き、承也の喉の奥から、「くくっ」と低い笑い声が漏れる。だがそれはすぐに消え、まるで最初から気のせいだったかのようだった。聞き間違いだったのだろうか。莉奈が戸惑っていると、承也の大きな手が、フードを被った彼女の頭をぽんと軽く叩いた。「ここで待ってろ」今こちらが動かなければ、数十メートル先の木の陰に潜む颯太と風牙も動かないだろう。山頂の銃撃戦の音は徐々にこの一帯へと近づいてきており、上空のヘリもそれに合わせて移動してきている。このまま隠れ続けていれば、いずれ見つかるのは時間の問題だ。もし風牙の増援が先にこの林に入り込めば、莉奈と承也は完全に包囲されてしまう。だが、その焦りは対峙している颯太と風牙にとっても同じはずだった。承也は銃を構え直した。雨足はさらに強まり、南部の春特有の激しい雨が林の木々を叩きつけるように降っている。視界を遮り、銃を握る者の判断力を大きく鈍らせる悪天候だ。だが、承也は五歳の頃から銃に触れてきた男だ。幼少期から、あらゆる模擬戦や実戦さながらの過酷な環境で射撃訓練を積んできた。
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第412話

颯太は鷹のように鋭い目で、向かいにそびえる太い大木を睨みつけた。承也とあの女は、間違いなくその幹の裏側に潜んでいる。銃を抜く早撃ちの速度において、相手が承也である以上、彼の右に出る者は裏社会にもそうはいない。だが、あの手強い承也を一時的にでもこの場に足止めできる機会など、そう滅多にあるものではない。もともと風牙の計画では、莉奈を拉致した後、一日に一つずつ彼女の体の一部を切り取って承也に送りつけ、真綿で首を絞めるように彼を絶望させるつもりだった。しかし今、風牙は考えを変えている。承也との終わりのない追走劇に、これ以上付き合う気は失せていた。正月早々に撃ち込まれたあの一発の銃弾の借りは、今ここで、承也自身の命で確実に返させなければならない。大木の後ろで、承也は莉奈に「ここで隠れてろ」と低く命じると、素早く身を翻して隣の木の陰へと移動した。銃を構え、唐突に林の別の方向へ向けて一発の銃弾を放つ。乾いた銃声が響き渡った。放たれた弾丸は細い糸のような雨脚を裂き、空気を切り裂いて飛んでいく。弾が泥水を跳ね上げる音は、周囲の激しい銃撃音の中に瞬時に飲み込まれた。颯太は、腕の銃創を縛った布の端をギリッと歯で噛み締めた。ちょうどその時、風牙の増援の部下が二名追いついてきた。「颯太さん」「お前たちは左右から回り込め。俺は正面から行く。挟み撃ちだ」承也が囮の発砲をした直後、颯太と二人の部下は、銃声がした方向へ向かって駆け出した。冷たい雨が降り注ぐ中、颯太は標的の大木を見据え、部下たちにハンドサインを送る。三人は息を合わせて一斉に木の裏側へ飛び込み、同時に発砲した。ドーン!ドーン!ドーン!三つの銃声が重なり合う。だが、木の裏側はもぬけの殻だった。承也の姿などどこにもない。出し抜かれた。「あり得ない!」颯太は鋭く舌打ちした。いくら承也の身のこなしが常人離れしていようと、このごくわずかな時間で、しかも自分たちの包囲網から完全に姿を消せるはずがない。ならば、考えられる可能性はただ一つ……その瞬間、頭上から銃声が響いた。その瞬間、颯太は素早く大木の反対側へと身を翻し、銃を上段に構えて樹冠へ向けて猛烈な掃射を浴びせた。しかし一足遅く、二人の部下は正確に急所を撃ち抜かれて絶命し、泥の中へ崩れ落
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第413話

承也は、泥まみれの地面に落ちていた一丁の銃を拾い上げた。冷たい雨に濡れたその銃からは、手の温もりなど微塵も感じられなかった。承也の銃を握る指先の関節が白く浮き上がり、極度の緊張と怒りから微かに震えていた。一目見て分かった。これは自分が護身用として莉奈に預けた銃だ。先ほど彼女は、この銃で承也の死角を援護した。素早く、正確で、一切の迷いがない見事な射撃だった。それこそが、黒瀬トレーナーとして承也が手取り足取り教え込んだ腕前だった。見る者が見れば、莉奈が我が身の危険も顧みず承也を守ろうとしていたことは一目で分かる。たとえあの程度の雑兵数人、承也一人で瞬殺できたとしても、莉奈が自分を守るために発砲した瞬間、彼の胸の奥では激しい感情が狂ったように弾け飛んでいた。だからこそ承也は、今すぐ莉奈の顔が見たかった。彼女を「叱りつけ」、あんな目立つ真似をするのがどれほど危険なことだったのか、自分の命の重さを本当に分かっているのかと、強く抱きしめて問いただしたかったのだ。だが今、彼女の姿はどこにもなかった。「奈奈……」呼吸が喉の奥で詰まり、承也の底知れぬ黒瞳の奥に、陰惨で冷酷な血の色がみるみるうちに広がっていく。「社長!」悠斗の援護に向かった者たちを除き、承也のそばには三人の部下が残っていた。彼らもまた、承也が泥の中から拾い上げた銃を見て、それがどれほど大切な女性に預けた品だったのかを瞬時に悟った。部下たちの顔色は一気に険しくなり、すぐさま散開して莉奈の痕跡を探し始める。承也は顔を上げた。深淵のような黒い目が、荒草の生い茂る林の中を鋭く舐め回すように観察する。通り雨は次第に弱まりつつあった。雨水が下草を叩く音が途切れ途切れに響き、林の中には少しずつ白い夜霧が立ち込めてきている。地面の雑草は、不自然に踏み倒されているだけだった。人間が強引に引きずられた跡も、激しく抵抗して争った形跡もない。「……力ずくで攫われたわけじゃない」銃を握る承也の手にゆっくりと力がこもり、その端正な顔には氷の霜が張りついたような恐ろしい冷酷さが浮かんでいた。……三分前。承也が大木の陰で颯太と二人の部下に挟み撃ちにされそうになった時、莉奈はほとんど反射的に動いていた。承也が囮の銃弾を放ったのとほぼ同時に、彼女も飛び出して引き金を引
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第414話

だが、そんな探り合いはどうでもよかった。今、廷治は承也が戻ってくる前に、何としても莉奈をここから連れ出さなければならない。彼は手の中の銃を固く握り締め、承也たちに気付かれないよう、完全に木陰の暗がりへと身を潜めた。この辺りにはヘリのサーチライトの光がそれなりに届いている。廷治は装着していた暗視ゴーグルを頭上へ跳ね上げ、莉奈を真っ直ぐに見据えた。その人の良さそうな顔には、これまでにないほど険しく真剣な表情が浮かんでいた。「この機会に、東安市を離れたいとは思いませんか?」莉奈は息を呑んだ。心臓が一気に早鐘を打ち始める。――東安市を離れる。心の奥底に深く根を張り、ずっと押し殺してきたその思いを突然引きずり出され、莉奈は一瞬、頭が真っ白になった。我に返った彼女は、承也たちが交戦している林の奥へと顔を向けた。その時、廷治の手の甲にある小さな引っかき傷が目に入る。それは昨日、莉奈が黒瀬トレーナーのために食事を作りに行った時、横で手伝おうとした廷治がエビの尻尾で突いてしまった傷だった。――本物の廷治さんだ。廷治はすばやく周囲を一瞥し、声を潜めて急かした。「向井さん、迷っている時間はありません」彼が、莉奈が「承也への未練」で迷っているのだと思ったその時。莉奈は手の中の銃をギュッと握り締めた。冷え切った金属のグリップには、まだあの人の大きな掌の温度が残っているような気がした。彼女はぐっと眉を寄せ、胸の中で激しく揺れ動いた未練を無理やり心の底へ押し沈めると、廷治に向かって静かに頷いた。「……行きましょう」「はい」二つの人影が、大木の裏側から素早く動き出した。その直後、黒い拳銃が、先ほどまで二人が隠れていた場所の泥の中へ音もなく投げ捨てられた。その時、轟音が響いた。次の瞬間、二人の背後で強烈な爆発が起きたのだ。廷治の顔色が変わり、莉奈の腕を強く引いて自分の脇へとかばい込む。「向井さん、危ない!」林の中に、大木がへし折れ、無数の石や土砂が飛び散る爆音が響き渡った。爆発は二人の三時の方向から聞こえてきた。それは、まさに先ほどまで莉奈が承也に命じられて隠れていた場所だった。莉奈の目が大きく見開かれた。揺れる光と煙の中で、彼女の顔から一気に血の気が引いていくのが分かった。爆発の白煙がまだ晴れき
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第415話

莉奈の問いかけるような視線を受け止めながら、直哉は彼女の被っているフードの縁を何気なく直してやり、静かに口を開いた。「お前を東安市から連れ出すのは、今日急に思いついたことじゃない。ずっと前から、逃がしてやりたかった」莉奈は小さく息を呑んだ。直哉の表情から一瞬だけ笑みが消える。彼は顔を背け、周囲の警戒を怠らないよう廷治へ目配せをした。それから、直哉は暗視ゴーグルを莉奈の目にかけ直してやった。生まれつき人を惑わせるような甘い眼差しで彼女を見つめ、その奥に深い憂いの色を帯びていた。「三年前、俺が無理やりにでもお前をこの厄介な場所から連れ出しておくべきだったんだ」そうしていれば、莉奈は承也のそばで心身をすり減らすような三年間を過ごすことはなかった。東安市を離れ、好きなことをして、彼女らしく生きられたはずなのだ。幸い、彼女はもう完全に目を覚ましている。まだ、遅すぎることはない。莉奈と直哉は幼稚園の頃からの幼馴染みだ。彼がここまで冗談抜きで真剣な顔をするのは珍しい。それに、自分の知らないところで彼がそこまで深く考えてくれていたとは、思いもしなかった。「……一度も、そんなこと言ってくれなかったじゃない」「お前だって俺に隠し事をしてただろ。俺だけが秘密を持っちゃいけないって法でもあるのか?」直哉の脳裏には、以前莉奈がフライト情報を使って彼を騙した出来事が蘇っていた。あの時、Jさんの到着があと少しでも遅れていれば、莉奈は尚南の手に落ちてひどい目に遭わされていたかもしれないのだ。その時の恐怖と苛立ちを思い出したのか、直哉は莉奈を一瞥し、どこか歯痒そうに舌打ちした。「お前が知らないことなんて、山ほどあるよ」莉奈は眉を寄せ、まだ何か隠しているのね、とジト目で彼を睨む。「他に何を隠してるの?」「隠してることを、どうしてわざわざ教えなきゃいけないんだよ」直哉はまともに答えず、莉奈の肩を軽く押して下山を促した。だが、その肩に触れた掌に、普段の服越しとは違う硬い感触が伝わってきた。以前、山奥でのロケ撮影の経験がある直哉には、それが何なのかすぐに分かった。防弾ベストだ。直哉の目つきが微かに鋭くなる。「……この防弾ベスト、承也が着せたのか?」それだけではない。莉奈が着ているマウンテンパーカーも明らかにサイズが大きすぎる
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第416話

道中、美月の髪は枝に引っかかってひどく乱れ、雨に濡れて血の気のない顔にべったりと張りついていた。彼女の前方の道を陰湿ににらみつけ、林の中を這い進むその姿は、命を奪いにきた怨霊のようだった。今の彼女の頭には、たった一つのことしかなかった。莉奈を見つけ出す。承也を見つけ出す。枝から滴った雨水を顔から荒々しく拭い去り、さらに進もうとしたその時。背後で、小枝が踏み折られる微かな音がした。美月は瞬時に銃を構え、勢いよく振り返った。だが、林の奥から姿を現した見覚えのある二つの人影を見て、その動きがピタリと止まる。三人の視線が交錯し、周囲の空気までが凍りついたようだった。「……まだ生きていたのか」風牙の喉から、冷たく嘲るような声が漏れた。バトゥというあの狂人の血を引いているだけあって、実にしぶとい。あれほどの爆発で崖下へ転落しても死なないとは、さすがの風牙も予想していなかった。だが、生きているならそれでいい。風牙がわざわざ彼女を助け出そうとしたのは、彼女から極めて重要な情報を引き出すためだ。美月が死んでいれば、今夜払った多大な犠牲がすべて無駄になるところだった。風牙は、血で真っ赤に染まった美月のズボンを一瞥した。重傷を負っているのは明らかだ。彼は目で颯太に合図を送り、彼女を背負うよう命じた。先ほど颯太が爆弾を使ったとはいえ、承也と悠斗をそう長く足止めできるはずがない。おそらく、すでにこちらの痕跡を追ってきている頃だろう。美月が反応する間もなく、颯太は彼女の腰を乱暴に抱え上げ、米俵のように肩へと担ぎ上げた。颯太は片手で彼女を固定し、「黒崎様、急ぎましょう」と短く促した。「急ぐ……?」美月は二人の様子がどこかおかしいことに気がついた。「あなたたち、何か別の脱出ルートでも残しているの?」風牙は彼女を一瞥すらせず、ただ颯太に手を振って先を急がせた。颯太は美月を担いだまま、黙って風牙の背中を追う。頭を下にされた状態で担がれた美月は、頭に血が上り、悪鬼のように青白かった顔が徐々に赤く染まっていった。「山に残した部下たちを全員見捨てて、自分たちだけで逃げるつもり?別の迎えでもあるっていうの!?」それでも、風牙は一切答えなかった。美月は焦った。このまま風牙に連れ去られるわけにはいかない。今夜ここへ来るまで
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第417話

その声が聞こえた瞬間、直哉たち一行はほとんど同時に振り返った。ただ莉奈だけが、背を向けたままその場に立ち尽くしていた。両脚に鉛を流し込まれたように、指先ひとつ動かすことができない。地獄の底から響くような、骨の髄まで聞き慣れた男の声。全身の血の気が引き、心臓が早鐘のように鳴り響いた。張り詰めた緊張感で息が詰まる。――この声。彼はもう、ここまで追いついてきたのだ。「彼女がどこへ行こうと、お前には関係ないだろう」直哉はとっさに莉奈を自分の背後へかばい、その手を握った。思った通り、莉奈の指先は氷のように冷え切っていた。直哉は莉奈をさらに自分の後ろへと隠し、顔を上げて向かい立つ男へ冷ややかな視線を投げつけた。「偽の婚姻届で彼女を縛り付けていた男に、引き止める資格なんてあるのか?」莉奈たちを護衛するボディガードたちが、林から姿を現した三人の男へ向けて一斉に銃口を突きつけた。中央に立つ廷治は、「偽の婚姻届」という言葉が出た瞬間、承也の顔色が氷点下まで冷え切るのをはっきりと見て取った。「俺と彼女のことに、君が口を出す資格はない」承也の声は、氷のように冷徹だった。山へ入る前から、承也は佐伯家が救出部隊をこちらへ向かわせていることを掴んでいた。この世界で、莉奈が自分から進んでついて行く男など、直哉以外に思い浮かばない。今、こうして二人が一緒にいる光景を目の当たりにし、その推測は疑いようのない事実となった。暗い林の中で莉奈の姿を見失った時に一瞬にして湧き上がった恐怖と焦燥は、直哉が彼女を大事そうにかばい、その手を握りしめているのを見た瞬間、どす黒く抑えがたい独占欲へとすり替わっていた。――この世で彼女を守れるのは、俺だけだ。直哉は鼻で笑った。「俺は彼女の身内だ。どう口を出そうが俺の勝手だろ。お前にとやかく言われる筋合いはない」莉奈をかばいながら、直哉は承也の傍らに立つ数人の男たちを鋭く観察していた。見覚えのない者もいれば、以前、莉奈が海で拉致された後、承也が彼女を強引に島へ連れ去った時に見た顔も混じっている。見知らぬ顔までいるとなると、この数人は、ずっと影から承也を護衛していた精鋭なのだろう。今夜、承也は莉奈を救うために手持ちの精鋭をすべて投入したというわけか。気配を消し、音もなくここまで追ってこられ
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第418話

直哉が引き金を引くよりも先に撃ち抜かれるのは目に見えており、莉奈は顔を真っ白にして叫んだ。「銃を下ろして!」彼女は真っ直ぐに承也を見据えた。「部下たちに銃を下ろさせて。直哉に銃口を向けないで」焦った彼女は直哉の背後から飛び出し、彼をかばうように立ちはだかった。その姿を見た瞬間、承也の脳裏に、先ほどの林の中で彼女が我が身の危険も顧みずに発砲し、自分を援護してくれた場面がフラッシュバックした。――そうか。こいつは、俺以外の男も同じように守るのか。「そいつは君を東安市から連れ出そうとしている」承也の漆黒の瞳には、荒れ狂う嵐のような感情が無理やり押し込められていた。「君は、俺から離れるつもりなんだな」彼の喉仏がゆっくりと上下した。低くかすれた声には、苦渋に満ちた色が混じっていた。「……そうなのか?」承也の傍らに控えていたボディガードたちの心が、その悲痛な響きに微かに揺れた。莉奈は知らない。先ほどの林の中で、彼女が風牙に攫われたのではなく「自らの意思で自分から離れた」のだと見抜いた瞬間、承也がどれほど狂ったように彼女を追いかけたかを。部下たちには反応する暇すらなかった。承也は一人で林の奥へと疾走していったのだ。その速度は、特殊部隊出身の彼らでさえ追いつけないほどだった。部下たちには、冷徹なはずの承也が何をそこまで恐れて焦っているのか分からなかった。ただ必死にその後を追った。それでもわずかに距離を縮めるのが精一杯で、承也が不意に足を止めた時、ようやく彼らは追いつくことができた。枝葉の隙間越しに、彼らは山あいの窪地から下山していく一行の姿を確認した。その中に、探していた女性――莉奈の姿があった。部下たちが「前に出て止めますか?」と尋ねた時、承也は短く命じた。「……平らな場所へ出るまで待て」数秒後、部下たちはその命令の真意に気づいた。彼らが進んでいる道は極めて傾斜が急だった。山歩きの経験がない莉奈が、背後からの急襲に驚けば、足を滑らせて滑落しかねない。社長は、ただ彼女が転んで怪我をすることだけを心配して、安全な場所に出るまであえて手を出さなかったのだ。だが今、承也は冷酷な顔で直哉を脅しつけた。「そいつについて行くと言うなら、そいつの脚を撃ち抜いて使い物にならなくしてやる」莉奈は声を張り上げた
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第419話

暗がりから姿を現したその男は、直哉の兄、佐伯時哉だった。直哉と同じように、実用的な登山服と登山靴を身につけている。冷たい夜霧がその端正な顔立ちを濡らしているせいか、普段の温和な印象とは違う、研ぎ澄まされた冷気を纏っていた。しかし承也は、時哉の出現に少しも驚かなかった。承也も、傍らにいる部下たちも、林の周囲に別の一隊が潜伏していることなどとうに察知していたのだ。それが佐伯家の人間に違いないということも。そうでなければ、直哉が承也の目の前であれほど挑発的な態度をとれるはずがない。もっとも、承也には分かっていた。たとえ林に伏兵などいなくとも、直哉は自分の目の前で莉奈の涙を拭い、その手を握っただろうと。直哉の歯を食いしばるような笑みの奥に、どす黒く抑えきれない独占欲が見え透いていたからだ。一人の男が、一人の女へ向ける生々しい執着。それはずっと以前から、承也がとうに見抜いていたものだった。直哉は感謝すべきだ。莉奈が彼に対し、ただの一度も男女の情を抱いたことがないという事実に。さもなければ、直哉はとうにこの世から消されている。今の承也の目には、一抹の揺らぎもなかった。底知れぬ漆黒の瞳は、直哉が莉奈の左手をがっちりと握っている、その一点だけを死の淵から見つめるように射抜いている。背筋を貫くような、冷酷で鋭い視線。「手を離して」莉奈は低く直哉を咎め、顔を上げて警告するように彼を睨んだ。「承也は、本当に撃つよ」莉奈は誰よりも、承也の狂気を知っている。目的のためなら場所も相手も選ばない。かつて美月を守るために自分へ銃を向けた男だ。当然、直哉のことも撃つ。だが直哉は動じることなく、むしろ彼女の手をさらに強く握りしめた。「撃たせればいい。この腕一本吹き飛ばされようが、お前をここから連れ出せるなら安い代償だ」直哉の指が莉奈の小さな手を包み込むその動きが、承也の目にはスローモーションのように遅く映った。承也の銃の引き金にかけられた人差し指の関節が、限界まで白くこわばる。「直哉、あなたまで頭がおかしくなったの?」莉奈は焦燥に駆られた。向かいに立つ承也から発せられる凍えるような殺気を、肌が粟立つほどはっきりと感じ取っていたからだ。直哉は叫びたかった。俺はとっくにおかしくなっている、と。莉奈があの男と結婚した日から、ずっと狂
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第420話

暗い山道を、承也は直哉と莉奈のほうへ向かって大股で歩みを進めた。厚い登山靴の底が砂利を踏みしめる、重く絶え間ない足音が響く。銃を握りしめた指の隙間から血が滴り、無骨な石の上へ赤く点々と落ちていった。周囲には互いに銃を構え合うボディガードたちが立ち並び、一触即発の空気が張り詰めている。半月が山肌の上に高くかかり、山頂上空を旋回する武装ヘリは今もなお激しい戦闘を繰り広げていた。だが、戦況は明らかだった。風牙の部下は完全に劣勢に立たされている。今夜の死闘は、もう間もなく終わりを告げようとしているように見えた。莉奈はその緊迫した隙を突き、直哉の手を強引に振りほどいて彼を自分の背後へ押しやった。赤く泣き腫らした目で承也をキッと見据える。先ほど彼は、本気で直哉を撃ち殺そうとしていたのだ。「いったい何がしたいの!?」直哉は莉奈に押し下げられても、再び前に出ようとした。莉奈の腕を掴み、背後へかばおうとしたが、その手に触れた瞬間、服越しに彼女の細い腕の筋肉が硬くこわばり、微かに震えているのを感じ取った。直哉の動きがピタリと止まる。二十年来の付き合いがもたらす阿吽の呼吸が、彼に無言で告げていた。――今は、俺が口を挟んではいけない。直哉は静かに莉奈の腕から手を離した。それでも決して後退することはなく、彼女のすぐ隣に不動の姿勢で立ち続けた。「……こっちへ来い」承也は、地を這うような低い声で莉奈に命じた。その深く沈んだ瞳は底が見えず、一条の月光さえ通さない漆黒に染まっていた。周囲の人間などまるで眼中にない。ただ一歩近づくたびに、その眼差しは莉奈の存在だけを執拗に捕らえて離さなかった。声は静かに抑えられているのに、聞く者の骨の髄まで冷え上がらせるような圧迫感がある。体に降り注ぐ月光までが、ひどく冷たいものに感じられた。なぜか、そんな彼を見つめていると、莉奈の脳裏には崖から落ちた後の光景が次々とフラッシュバックした。生死の狭間で、必ず後からついて行くと約束してくれたこと。自分は薄着になり、ためらうことなく防弾ベストと上着を脱いで着せてくれたこと。文句一つ言わず、自分を背負って泥濘を歩き続けた、あの広く温かい背中。莉奈は胸に込み上げてくる、胸を掻き毟りたくなるような痛みを必死に押し殺した。「あなたのそばに戻って、またあ
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