Semua Bab 婚姻生活にさようなら、椎名さん: Bab 421 - Bab 430

440 Bab

第421話

莉奈の顔には、土泥の汚れがわずかに付着していた。暗い林の中ではそんな細かなところまでは見えなかったが、ここまで近づいて初めて気づいた。承也は無意識に手を伸ばし、その汚れを拭い去ってやろうとした。だが、莉奈はサッと顔を背けてそれを避けた。「あなたがここで足止めさえしなければ、私は今ごろとっくに山を下りていたわ」承也の手は虚しく空を切った。宙で止まった指先が、微かにこわばる。それでも彼は瞬き一つせず莉奈を見つめ、決して引き下がろうとはしなかった。「俺が連れて帰る……必ず後から行くと言ったはずだ」莉奈のそばでその言葉を聞いた直哉は、怪訝そうに眉をひそめた。――承也の声に、どこか哀願するような、すがるような響きが混じっている。自分の気のせいだろうか。あの冷血な男が、力ずくで引き留めるのが駄目だと分かると、今度は情に訴えかけようとでもいうのか。幸い、莉奈はその手にはまったく乗らなかった。「直哉や時哉さんたちと一緒なら、十分に安全よ。それに、美月さんがまだ生きているかどうかは知らないけど、ここで私なんかに構っている暇があるなら、彼女を探しに行ったらどうなの?」莉奈はただ、承也の執着を逸らしたかっただけだった。だがその言葉を聞いた瞬間、承也の顔色が氷のように沈み込んだ。直哉の名を何度も口にするだけでなく、今度はあんな女のことまで持ち出すのか。「あんな女ごとき、君の口から何度も名前を出される価値さえない」承也は言い終えるよりも早く、さらに一歩前に踏み出した。ほとんど莉奈の鼻先が触れ合うほどの距離まで詰め寄り、地を這うような声で断言する。「俺はただの一度だって、あいつのことを気にかけたことなどない」直哉は素早く二人の間に割って入り、莉奈を自分の背後へかばい込んだ。「今さら口が回るようになったところで、遅せえんだよ。そんな言い訳、誰が信じるか。さっさと消えろ」その直哉の体は、莉奈を強引に連れ戻そうと伸ばされた承也の手を完全に遮る形になった。直哉が莉奈を背後へ引き寄せ、男として女を守る姿勢を明確に誇示した瞬間、承也の目は極限まで鋭く冷え切った。「……どけ」銃声が響いた。誰が先に引き金を引いたのかは分からなかった。林の暗がりの中で、美月は直哉にかばわれる莉奈の背中を、死人のような目でじっと見つめ
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第422話

直哉は、全身の血の気が一気に引くのを感じた。激しく揺れる瞳で叫ぶ。「美月、彼女を離せ!」「離せ、ですって?」美月は不気味に笑った。その顔には小枝で引っかかれた無数の傷が走り、流れ出た血が蒼白な頬を伝って顎先に集まっている。彼女が顔を歪めて笑うと、乾きかけた血の膜に細かなひびが走った。その姿は、あまりにも常軌を逸していた。やがて美月の顔から笑みがスッと消え去る。「この女が死んだら、その時は自然に離してあげるわ」一方、時哉の部下と対峙していた承也は、乱戦の最中も常に莉奈の動向に気を配っていた。莉奈たちのすぐそばに爆弾が投げ込まれた瞬間、彼は時哉の牽制を強引に振り切り、全速力でこちらへ駆けつけてきていた。だが、一足遅かった。莉奈は美月に羽交い締めにされ、そのこめかみに銃口を突きつけられている。夜山の寒さと極度の体力消耗により、莉奈の顔からはすっかり血の気が失せていた。透き通るほどに青白く、今にもふっと消え入ってしまいそうなほど脆く見えた。承也の顔は絶対零度の氷に覆われたように冷え切り、銃のグリップを握り締める指の関節がきしむ音を立てた。どれほど万全を期したつもりでも、戦場では必ず想定外の死角が生まれる。美月が爆発の隙を突いてここまで執念深く追ってくるとは、承也も予測しきれなかった。「……承也」凄まじい殺気を放ちながら駆けつけてきた承也の姿を捉え、美月の顔に狂気に満ちた、どこか優しい笑みが浮かんだ。莉奈に危険が迫れば、彼は誰を敵に回してでも最速で駆けつける。そんなことは、美月にはとうの昔から分かっていた。本当は、彼がずっと以前から莉奈を愛していることなど気づいていたのだ。ただ、承也自身がその感情を頑なに認めようとしなかったから、美月も自分に言い聞かせてきた。「承也は莉奈を愛してなどいない」と。親世代から続く深い恨みが二人の間には横たわっている。承也は向井家の人間を骨の髄まで憎悪しており、莉奈への愛情などとうに完全に消え失せたはずだと信じ込んでいた。けれど、違った。承也は今でも、狂おしいほど莉奈を愛していた。それどころか、以前よりもずっと深く、手放せないほどに愛してしまっていたのだ。承也がこちらへ一歩踏み出そうとした瞬間、美月は莉奈の首を強く締め上げながら後退した。「止まって!」裏返った金
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第423話

承也のいわゆる「声明」とは、単なる嘘に過ぎなかったのだ。「莉奈の命を助けたいんでしょう?なら今すぐ、私の目の前でSNSに公式の声明を出しなさい。莉奈とは近いうちに離婚する、あの女にはもう一片の感情も残っていないって!」だが、向かいに立つ承也が口を開くより先に、人質にされている莉奈がふいに低く笑い声を漏らした。「美月、あなたって本当に滑稽ね」「黙りなさい!」美月は憎悪を剥き出しにして莉奈の言葉を遮った。それでも、莉奈の冷ややかな声は続いた。「承也と私の婚姻届は偽造されたものよ。私と彼は、最初から夫婦でも何でもない……離婚なんて言葉、一体どこから出てくるっていうの?」莉奈の唇に浮かんだ自嘲の笑みを見て、承也の底知れぬ黒い瞳が彼女の横顔を痛ましげに見つめた。銃を握る右手がギリッとこわばる。莉奈の額に押し当てられた銃口は小刻みに震え、擦り剥けた皮膚を何度もえぐっていた。だが、莉奈は痛みなどまったく感じていないかのようだった。彼女の意識はすべて背後の美月に集中しており、どうにかしてこの窮地を脱する突破口を探っていた。美月は荒い息を吐きながら、向かいの承也へ叫んだ。「今の話、本当なの!?」承也の漆黒の瞳は、一切の感情を排したように冷え切っていた。「……ああ、本当だ」美月は突然、狂ったように高笑いを上げた。腹の底から笑い声を上げながら、同時にボロボロと大粒の涙を流し続ける。もし以前の自分がこの事実を知ったなら、きっと自分が世界で一番幸せな女だと歓喜していただろう。だが、今は違う。承也が莉奈に抱いている狂おしいほどの感情を、彼女はすでに見せつけられてしまった。何があっても断ち切れないその絶対的な愛は、自分がこれからの人生のすべてを懸けたところで、決して手に入らないものだった。承也はどれほど莉奈を愛していれば、彼女を繋ぎ止めるためだけに「偽の結婚」という大芝居まで打つというのか。「どうして彼は、そこまであなたを愛しているのよ!」美月は銃口を莉奈のこめかみからずらし、太い血管が通る首の頸動脈へと直接押し当てた。承也は咄嗟に銃を構え直し、美月の眉間へ真っ直ぐに銃口を向けた。氷のように冷え切った顔が極限まで張り詰める。彼の脳裏には、無菌室のベッドで弱々しく横たわる小槌の姿がよぎっていた。小槌はまだ、美月とい
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第424話

美月は地面に倒れ込む寸前まで、莉奈の腕を片手で執拗に握りしめていた。爪が肉に深く食い込み、まるで莉奈の腕をそのまま握り潰そうとしているかのようだった。胸を撃ち抜かれ、膝から泥の地面へ崩れ落ちてもなお、その手は離れなかった。莉奈は美月の体の重みに引きずられ、後方へ大きくよろめいた。両脚からすっかり力が抜け落ち、体を支えきれずに泥濘へと倒れ込みそうになる。その直前、一つの黒い影が猛烈な速度でこちらへ駆け込んできた。莉奈の体は力強くすくい上げられ、硬く冷たい胸板にピタリと押しつけられた。林の中で承也が防寒用のマウンテンパーカーをすべて莉奈に着せてくれたため、彼自身の薄い服は冷たい雨で芯まで冷え切っていた。承也は莉奈の腕を掴んだままの美月の亡骸を、無慈悲に蹴り払った。ボディガードが即座に前に出て状態を確認し、美月に息がないことを確認する。承也は拳銃を握ったままの右手で莉奈の後頭部をしっかりと抱え込み、彼女が振り返って美月の死体を見ないように視界を遮った。だが莉奈は両目を真っ赤に血走らせ、震える声で懇願した。「……はっきりと聞きたかったのに。いったいどういうことなのか、最後までちゃんと聞きたかったのに!」体中から這い出してくるような得体の知れない悪寒が、莉奈の全身の震えを止めなかった。――子供?美月が自分を殺そうとして毒を盛ったのなら、どうして母体である自分は無事で、お腹の子供だけが死んでしまったのだろう。まだ胎児が小さすぎて、薬の影響をダイレクトに受けてしまったからなのだろうか。いや、違う。美月が言おうとしていたのは、そういう意味ではなかったはずだ。さっき彼女は、子供が身代わり……と言いかけた。「何の」身代わりだと言ったのだろう。莉奈は頭が割れるほど痛かった。必死に記憶を掘り起こそうとしても、美月の言葉の真意がどうしても理解できなかった。承也は腕の中で魂を抜かれた操り人形のようになっている莉奈を見下ろし、極めて低く、なだめるような声を出した。「……山を下りるぞ」だが次の瞬間、腕の中の莉奈が狂乱したように暴れ出し、承也の強い拘束を振りほどこうと激しく身をよじった。焦点の合わない虚ろな瞳で、抜け殻のようになった莉奈がうわ言のようにつぶやき続ける。「美月が言っていたのは、どういう意味なの?私の子供が…
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第425話

莉奈は紙のように青白い顔のまま、虚ろな声で問い返した。「そうなの……?」先ほどのように、狂乱して承也を振りほどこうとはもうしなかった。直哉はそんな莉奈の痛ましい姿を見て、胸が締めつけられるように痛んだ。今の彼女が承也の胸にもたれかかっていることなど、もう少しも気にならなかった。莉奈が正気を取り戻してくれるなら、それでよかった。直哉は彼女をなだめるように、低く穏やかな声で答えた。「ああ、もちろんそうだ。美月は心の底から捻じ曲がった女だ。あんな出鱈目を言ったのは、死ぬ間際にわざとお前を苦しめるためだろう。どうして真に受ける必要がある?」言い終えると、直哉は顔を上げて承也を鋭く一瞥した。承也はただ無言で、腕の中の莉奈を見下ろしている。けれど直哉は、承也が美月へ向けて引き金を引いたあの瞬間、彼の目から一滴の熱い涙がこぼれ落ちた光景を、どうしても忘れられなかった。あの冷酷な男が流したその涙は、直哉の胸を激しく揺さぶった。美月が言い残した言葉には、いったいどれほどの残酷な真実が隠されているというのか。一方で時哉は、直哉が先ほどから腹部を庇うように押さえているのを見て、わずかに眉を寄せた。あの様子では、急に走ったせいで銃創の古傷が完全に開いてしまったのだろう。時哉は足早に直哉のそばへ向かった。承也は莉奈をさらに強く抱き寄せ、そのまま彼女を抱き上げようとした。「まずは山を下りるぞ」その時、傍らに控えていたボディガードのポケットで、衛星電話が短く震えた。ボディガードが承也を見た。「社長、悠斗さんからの緊急連絡です」承也が電話を受け取ると、普段は波一つ立たない悠斗の声に、押し殺しきれない苛立ちと怒りが滲んでいた。「社長、風牙と颯太に逃げられました……向こうの尾根に、別の迎えのヘリが用意されていました」風牙ほどの男が逃げ道を用意していないはずがない。承也はそれ自体には、さほど驚かなかった。頭上の山頂付近では、風牙が差し向けた数機のヘリが撤退するように飛び去っていく音が聞こえている。承也の顎が硬くこわばった。一見すれば、承也の部下が勝利を収めたように見える。だがこの状況には、どこか薄気味の悪い違和感があった。今回、風牙が美月と尚南を奪還するという強硬手段に出たことは、彼が承也と完全に真っ向から敵対すると
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第426話

直哉が飛び出すよりも早く、ひとつの黒い影が人間離れした速度で莉奈へと飛びかかっていた。ドカーン!ドカーン!ドカーン!莉奈の耳に届いたのは、鼓膜を突き破るような爆発音だけだった。地面も山も激しく揺れる中、彼女の体は恐ろしい衝撃波で弾き飛ばされ、そのまま深い闇の中へと意識を失った。……爆発後の山肌は、むき出しの岩と新しく掘り返された土が入り乱れ、惨憺たる有様になっていた。濃い硝煙と土の匂いが、冷え切った大気の中に充満している。上空ではヘリコプターがホバリングしていた。東の空はすでに白み始めており、青白い月光は徐々に薄れつつある。だが山の上は立ち込める土煙のせいで視界が悪く、気温も極端に低かった。悠斗は片腕から血を流しながら、岩だらけの斜面に膝をついていた。両手でバールのような工具を必死に握りしめ、数人のボディガードたちと力を合わせて、承也と莉奈を押し潰している巨大な岩をこじ開けようとしている。鈍い摩擦音を立てて、岩が工具で少し持ち上がった。悠斗の叫び声が、張りつめた夜明け前の山に響き渡る。「社長!!」承也はうつ伏せで倒れていた。全身で何かを覆い隠して守るような姿勢のまま、背中をわずかに丸めている。だが悠斗の声がすぐそばで響いても、承也はピクリとも動かなかった。――まずい。悠斗は声を荒らげて命じた。「急いで引き上げろ!」全員が、承也の倒れている陥没した穴の中へ飛び降りた。重い岩をどかし、承也の体を仰向けに引き起こした瞬間、誰もが息を呑んだ。承也は目を固く閉じたまま意識を失っていた。すっかり血の気が失せたその顔は、月光よりも白く冷え切っていた。悠斗の手が一瞬ピタリと止まる。いつも冷静沈着な彼の顔が、たちまち恐怖に強張った。彼は震える手を伸ばし、すぐに承也の首筋へ二本指を当てた……微かだが、脈はまだある。「今すぐ社長をヘリに運べ!」承也の体がわずかに丸まっていたのは、その太い腕の中に莉奈の体をしっかりと抱き込み、爆風や瓦礫から完璧に守り抜いていたからだった。仰向けにされても、意識がないはずなのに、彼女を抱きしめる彼の腕の力は少しも緩むことはなかった。屈強な大の男が数人がかりで引き剥がそうとしても、承也の腕は莉奈から離れず、結局彼らは二人を抱き合わせたまままとめてヘリへ運び込むしかなかっ
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第427話

真央は、心底安堵したように長く息をついた。「よかった……本当によかった」悠斗の顔には、相変わらず一片の感情も浮かんでいなかった。ただ冷ややかに視線を上げ、救急治療室の重い扉を一度だけ見つめた。――奥様のほうは、まだいい。問題は、社長の方だ。しばらくして、廊下の奥のエレベーターの扉が再び開いた。浩平が血相を変えて足早にやってくる。「悠斗、承也と莉奈の容態はどうなってる!?」昨夜から今朝にかけて、浩平はずっと小児用の集中治療室に詰めていた。夜半過ぎから小槌の容態が急変し、彼は一歩もベッドのそばから離れることができなかったのだ。だが、浩平は承也ではない。泣き叫ぶ小槌をどうやってあやしても、少しも泣き止んではくれなかった。最後に追い詰められた浩平はスマホを取り出し、以前承也が送ってきた音声メッセージを探し出して再生した。スピーカー越しに承也の低い声を聞いて、ようやくその小さな子供は安心したように少しずつ泣き止んでくれたのだ。ただ、その音声の内容が、浩平にとっては死にたくなるほど恥ずかしい代物だった。――「優秀な男性機能専門の医者を何人か探してやる。使い物にならないのは、恥ずかしいことじゃない」静まり返った集中治療室には、いつも小槌の世話をしてくれている若い看護師たちが勢揃いしていた。しかも小槌は、一度聞いただけでは満足せず、その音声を何度も繰り返し再生させ続けたのだ。悠斗は浩平の疲労困憊した顔を見て、小槌の状態も決して芳しくはないのだと察した。「奥様の傷はそれほど重くありません……ですが、社長はまだ大掛かりな救命処置の最中です」浩平は眉を深く寄せ、重苦しい眼差しで救急治療室の扉を見つめた。昨夜、承也が自分に小槌を託してきた時点で、浩平は事態が相当厄介なのだと直感していた。だが、まさかここまで最悪の状況に陥るとは。ようやくベッドで眠りについた小槌の小さな寝顔を思い出すと、浩平の胸は締めつけられるように痛んだ。あの家族三人は、どうしてここまで過酷な運命に苦しめられなければならないのか。浩平は慌てて本題を切り出した。「それで、桜井は?」美月の生死を心配しているわけではない。彼が気にしているのは、あの女の骨髄で、可愛い甥の命を救えるかどうか、ただそれだけだった。あんな毒婦の血肉を、純真で可愛
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第428話

莉奈は夢から覚めようともがいた。だが、もがけばもがくほど見えない網にきつく締めつけられるようで、息がどんどん苦しくなっていった。耳の奥で、どうして車のクラクションが鳴り響いているのだろう。街の喧騒が、ますます騒がしくなっていく。焦りきった自分の声が聞こえた。「運転手さん、急いで!もっと飛ばしてください!料金は上乗せしますから!」心臓が早鐘のように激しく打っていた。――どこへ。自分はこんなに急いで、いったいどこへ向かおうとしているのか。激しい焦燥感に突き動かされるように、莉奈はハッと目を開けた。ぐるぐると回っていた目の前の景色が、少しずつはっきりとした輪郭を結び始める。莉奈は大きく息を吸い込み、不安に駆られて周囲を見回した。視界に飛び込んできたのは、見知らぬ高級レストランの店内だった。静かなピアノの調べが流れている。店を貸し切っているのか、他の客は一人もおらず、スタッフの姿すら見当たらない。莉奈は自分の胸を強く押さえた。どうしてこんなに息を切らしているのか分からない。まるで、ここまでずっと全速力で走ってきたかのようだった。ふいに、聞き慣れた低い声が耳に落ちた。「海外へ行くんじゃなかったのか」莉奈は声のした方へ視線を向けた。男は、キャンドルの灯るテーブルの奥に座っていた。端正で彫りの深い顔立ちが、揺らめく炎に照らされていっそう濃い陰影を落としている。清冽な目元でありながら、見る者を引きずり込むような色気を漂わせた、魔性の男だ。その顔を見た瞬間、胸を押さえる莉奈の手にさらに力がこもった。心臓が口から飛び出しそうなくらい激しく跳ねている。莉奈は自分の手元を見下ろした。握りしめていたのは一枚の搭乗券。行き先には【F国】と記されている。――これは……五年前だ。莉奈は大学の研究課題を終えたばかりで、気分転換に海外旅行へ行くつもりだったはずだ。そこまでは覚えている。けれど、海外で過ごした半月ほどの記憶は、なぜかずっとぼんやりと霞んでいた。向こうで事故に遭い、頭を強く打ったせいだと言われている。その時も、承也がわざわざ海外まで迎えに来て、国内へ連れ帰ってくれたのだ。承也は静かに立ち上がり、腕時計の時刻に目を落とした。「君の乗る飛行機はもう出たぞ。どうした、行かないのか」莉奈は荒い息を吐きな
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第429話

莉奈はうつむき、手で乱暴に目元の涙を拭った。その時初めて、テーブルの上に並べられた豪華な料理に、まったく手がつけられていないことに気がついた。莉奈はハッと顔を上げ、承也の顔を見つめた。「……すっぽかされたの?」承也が本当は誰ともお見合いなどしていなかったのだと察し、莉奈の口元は思わず緩みそうになった。息を詰めるようにして、彼の答えを待つ。承也は、赤く泣き腫らしながらも星のように輝いている莉奈の瞳を、じっと見下ろしていた。彼の瞳には、熱い炎が燃え盛っているようだった。理性のタガが焼き尽くされたかのように、瞳孔がわずかに収縮する。黒い瞳の奥底には、偏執狂的なまでに重く暗い情欲が沈んでいた。次の瞬間、承也は莉奈の体を一気に自分の腕の中へと引き寄せた。服越しでもはっきりと分かる広い掌の熱が、莉奈の腰と背中を焦がすように熱い。男の喉仏が上下し、抑えきれない掠れた声がこぼれ落ちる。「考えを飛ばしすぎだ……さっきの言葉を、もう一度言え」漆黒の瞳の奥で燃える烈火のような執着に、莉奈は魂まで震え上がるのを感じた。頭の中で、祝福の花火が弾けたようだった。誰もいない静かなレストランに、二人の声が重なり合って響いた。「承也、私と付き合って」「莉奈、俺と付き合え」ぽちゃん、と小さな音がした。水面に投げ込まれた小石が、静かに波紋を広げていく。莉奈と承也が抱き合う姿は、その波に揺られながら幻のように消えていった。……次に視界が晴れた時、そこは三日月型の美しい湖のほとりだった。風に巻き上げられた莉奈の長い髪が、何度も彼女の視界を遮る。莉奈は腰をかがめ、足元に咲いていた青紫色の小さな花を摘んだ。緑の茎はしなやかで、髪を後ろで束ねるのにちょうど使えそうだった。けれど、承也が背後からその花を取り上げると、そのまま莉奈を自分の腕の中へすっぽりと囲い込んだ。普段は冷たい拳銃や万年筆を握っているその大きな手が、不器用に莉奈の長い髪をまとめようとしている。「……こう結べばいいのか?」「下手くそね。罰として、これからは毎日私の髪を結んでよね」莉奈が笑うと、承也の広い掌が彼女の顔を包み込んだ。承也が意地悪く笑って何かをからかうと、莉奈は照れ隠しの怒りに任せて彼を花畑の中へ押し倒し、子犬のように軽く噛みつく真似をしてじゃれつい
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第430話

土砂降りの雨の中、莉奈は絶望的な声で叫んだ。「どうして私の両親を死に追いやったの!?教えてよ!承也、教えて!彼らは、私にとって世界で一番大切な人だったのに……あなたが殺したのよ!」雨に打たれて立つ男の顔は、血の気を洗い流されたように白く、冷酷だった。薄い唇が、感情の欠落した声で微かに動く。「自業自得だ」温度のないその言葉が、雷のように莉奈の胸を容赦なく貫いた。莉奈はよろめきながら大きく後退した。何かを言い返そうと口を開いたが、激しい感情の波に呼吸が詰まり、視界が何度も暗く明滅する。彼女の胸元では、青いサファイアのブローチだけが、雨の中でも鮮烈な光を放っていた。それは承也がオークションで競り落とした逸品のブルーサファイアだった。莉奈が事故で昏睡して眠っていた半月ものあいだ、承也が寝る間も惜しんで自らの手で少しずつ磨き、丁寧に仕上げたものだった。多忙を極める椎名家の当主が、莉奈のためだけにそこまでしていたのだ。だが、あの美しい花の海でのプロポーズなど、今となってはあまりにも皮肉で残酷だった。この半月間の甘い日々は、すべてが滑稽な夢だったのだ。彼女と結婚しようとしていた男が、彼女の両親を死に追いやった張本人だったなんて。莉奈はそのブローチを引きちぎるように外し、一片の未練もなく三日月湖の底へと投げ捨てた。冷たい雨が、震え続ける莉奈の体を容赦なく打ち据えた。「あなた、よくも何もなかったみたいな顔をして私のそばにいられたわね!承也、あなたは本当に……恐ろしい人だわ!」事故で失念していた光景が、走馬灯のように莉奈の脳裏を巡っていく。どの場面にも、息が止まるほどの絶望と痛みが満ちていた。胸を引き裂くような彼女の絶叫は、雨風に吹かれ、血の泡を含んだ獣の嗚咽のように響いた。「私は絶対にあなたとは結婚しない!死んだって無理よ!これまでの一分一秒全部が、あなたを知ってしまったことを後悔させるわ。あなたとなんて、出会うべきじゃなかった。愛するべきじゃなかった!どうして私のことまで、一緒に死に追いやらなかったのよ!!」痛い……莉奈は果てしない闇の底へと沈んでいった。自分が泣き叫び、喉を枯らしている声が聞こえる。押し寄せる感情は巨大な津波のようで、現実の彼女の体を硬直させ、激しく痙攣させていた。ピーーーーーー。
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